...

 そして、ぼくに抱きついて離れないネコには、かわいらしいイラストが描かれた瓶の、湘南ゴールドとハチミツのジュース。(ネコも神奈川出身なんだけど、駅員さんにそんなことはわからない)

 「コータ、さむいんじゃねぇの?」

ネコが、朝の蛮行を気にしているのかぼくのシャツを、ボタン一個一個、はまっているか確認してくる。

 飲みほした液薬の小さなチューブに印字された、『劇』の文字一点を見つめたまま、ぼくはまだ震えていた。

 処方される薬の中で一番即効性のあるものを飲んだのに。

 効いてない。まったく効かない。

 震える手で薬を探るのを、谷川先生の手がとめた。

「大丈夫よ。すぐ、効いてくるから、ね?」

 「コータ? さむい?」

ネコの不安が、抱きつく腕から伝わってくる。


 大丈夫だよ。寒くないし。

 大丈夫。


 そういいたいのに、まったく気持ちも口もついていかない。


 情けない…


 「あの、」

警戒心丸出しのネコに苦笑しながら駅員さんが谷川先生の向かいに座った。

「電車で帰るのは危ないでしょう。きょうは、こちらに泊まりますか? 観光案内所に連絡しますよ?」

「ありがとうございます。大丈夫です、もう少し休ませていただければ。はやく、静岡にもど、」

 「くるまだからぁ!」

ネコが、大人たちが跳び上がるような大声で叫んだ。

 「くるまできたからぁ!」

「あら! あら⁉︎ まさか!」

谷川先生の顔が、パッ、と明るくなる。

「ダメじゃない! 天くんでしょ。まったく」

ダメなんていいながら、声が楽しそうだ。

 「え〜と、お迎えが?」

「はい、生徒が迎えにきてくれました」

「はぁ、生徒さんが、」

「そうです! イカした白のレガシィで!」

 谷川先生はぼくの手から空のチューブをひったくるとゴミ箱に放り込み、マンガなら、ドンッ、なんて効果音がつきそうなドヤ顔でソファから立ち上がった。

 「本家から副校長が飛んでくる前に、ズラかるわよっ!」






 その日の夕暮れを、ぼくはだれもいない多々戸の砂浜で、見つめていた。


 ザン ザン ザン


 南から吹く風に騒つく波の音。


 温い風が頬をなでてゆく。


 燃えるような夕焼けが、深い群青色に侵食されてゆく。東の空にはもう、鋭く磨かれた細い月が、凛、と在る。


 となりには、天さん。もうとなりには、抱きついて離れないネコ。

 三人、膝を抱えて、夕焼けを見つめる。


 「疲れちまったかな?」

はは、て、天さんが笑う。ネコはいつの間にかぼくのお腹に頭を預けて寝息を立てていた。

 でかけに見たあの天さんのニコニコは、これだった。はじめから、神奈川まで追いかけてくるつもりだったのだ。

 「あ、これ」

天さんが、ネコが放りだした診察券を投げてよこす。

 まだ薬の中でぼんやりしていて、受け取り損ねたそれは砂に、ポス、と刺さった。

 「はは、悪い。…きれいだなぁ。夕焼け」

 小さく、頷く。天さんの大きくて厳つい手が、垂れたぼくの頭をなでる。


 重くて、温かくて、優しい。


 クイ、と、力が入って、不意に天さんがそのままぼくの頭を上げさせた。


 あれ?


 見上げた空はもう、山の輪郭に夕焼けの名残を残すだけで、澄んだ硝子みたいな夜の色に、あの日見損ねた、無数の星が瞬いていた。


 空、


 「多々戸浜の、空」


 あ、


 「夏の真っ青な空も、見せたいなぁ。コータに」


 真っ青な、


 「なぁ、」


 真っ青な、空を、


 「お前が、」


 ゆるり、天さんが額からぼくの髪をなで上げる。


 「お前が下を向く必要なんか、まったく、」


 天さんの手の重みと、ネコの体温と、心地よくて、目を閉じる。


 「まったく、ねぇよ?」


 朧な意識の中で、ただ温かいなにかが気管の奥のほうから胸へ落ちていく感覚だけは認識できて、ぼくは、小さく頷いた。

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