...
小さな違和感が形を持ったのはその朝だった。
「筋肉痛とか、だっせ! だっせ!」
筋肉痛に悶えるぼくをご機嫌で食堂へ引いていったのはついものの数十分前だ。
なのに、
「どこいくんだよ! きいてねー!」
ぼくが制服ではなく私服に着替えるのを見たネコが、途端に顔色を変えたのだ。
きょうは二週間に一回の、寮に来てからはじめての、心療内科の診察日だった。
病院はまだ神奈川から変えていなくて、学校を休んで寮医さんといくことになっていた。
学校を休むのだから、ルームメイトにはたしかに伝えておくべきだった。
ごめん。きょう、病院なんだ。
メンタルの意味がわからなくとも、クリニックの意味はわかってくれるだろう。心療内科の診察券を見せる。
けど、診察券を見たネコはますます険しい表情になって、毛を逆立てた猫みたいだ。いまにも飛びかかって…
いや、
「こんなもん! いらない!」
実際、飛びかかってきた。
ゴッ、
「…っ、」
鈍い音がして、文字通り目の前に火花が散る。
「コータは! オレと! ガッコいくんだろ!」
ぼくの制服をハンガーからひっぺがしてお腹にのっかってくる。
ちょ、まって、まって!
「だっせ! んだよ、このふく!」
着替えさせたいのか、無理やりオクスフォードシャツのボタンを引っ張ってくる。
いやいや、ボタンちぎれちゃうから、
「浩太くん、そろそろいくよ。準備でき…あら?」
あ、あ〜…
控えめなノックとともに寮医の…谷川先生が顔を覗かせて、
「あらあら〜」
愉快そうに笑った。
「ごめね〜、浩太くん。びっくりしちゃった?」
小さく首をふる。
「さっすが、浩太くん!」
えぇ?
「慣れたものね〜」
ええぇ?
結局、泣きじゃくって聞かないネコは、通りがかった天さんと雪さんに預けてきた。
「大丈夫だよ、すぐ帰る」
天さんがそうネコを抱っこするとなんとか泣きやんでバイバイをしてくれたけど…
なんとなく天さんのニコニコ笑う目に違う意味が込められているようで引っかかる。
大丈夫かなぁ…
「あ、ネコちゃんは大丈夫よ!」
ぼくは上の空で、小さく頷いた。
ネコがなんだってぼくにそこまで執着するのかが謎だった。
ぼく…いや、たまたまぼくで、執着しているのはルームメイトなのかもしれないけど。
ルームメイト…
幼い頃に、とか、
入学してぼくと会うまでに、とか、
ネコになにがあったかは、知らない。
きっと、知る必要も、ない。
ぼくが知るべきは小山先生が教えてくれた。それで十分だ。
伸ばされた手を、解かない。
手を…
胸中に不安がじわり、湧いてくる。
「大丈夫よ」
谷川先生が、それを見透かしたように繰り返す。
「浩太くんは、いまはじぶんの身体のこと考えてね」
もう頷くこともできず、下田駅で買った小さなみかんを掌で転がしながら、車窓を流れてゆくいつかも見た海を、ぼんやりと、眺めていた。
三時間かけて、診察はものの三十分だった。けどそれもきょうで最後。
診察はリモートで、薬は下田駅前の薬局でだしてもらえるようになった。
もう次、いつぼくは神奈川に来るんだろう。
谷川先生と二人、片瀬江ノ島駅に戻りながらそう、海の向こうのシーキャンドルを眺める。
つい先月までいつもこの道を歩きあの灯台を眺めていたのに、もう随分とむかしのように感じられた。
「あら、クラゲ! 駅にクラゲがいるじゃない!」
「なんだか竜宮城? みたいな駅だね〜。ウミガメ? 水族館とコラボなの?」
用事が片付いてスッキリしたのか、谷川先生は最近新しくなった片瀬江ノ島の駅にはしゃいでいる。
「彼氏と来たけど、こんなだったかしら〜」
彼氏。
先生、彼氏いたんだ…
谷川先生はきっともう四十台に違いない。女性に失礼かもしれないけど。あ、いや、彼氏って旦那さん…?
「三十年前だけどね!」
三十年⁉︎
いやいや、むかしすぎる…
「ネコちゃんにお土産買っていこう? て、お店ないね」
そうなのだ。
栄えているのは江ノ電江ノ島駅から江ノ島までの小さな通りで、片瀬江ノ島駅の周りにはコンビニ一軒、ファーストフードのお店一軒、新しくなった駅舎にくっついている某セブンイレブン、しかない。
「さっき通った水族館で買えばよかったのか! 失敗した!」
結局コンビニでお土産を物色して、ついでに、
「なんか美味しそうじゃない⁉︎」
となりのファーストフード店で
「うわ、マックの倍だね!」
ちょっとリッチなバーガーセットを買い込み、
「いざ! 下田! 下田、遠いな〜!」
片瀬江ノ島駅の改札を抜ける。
平日、午後のはやいこの時間は人はまばらだ。
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