...

 夜の海はこわい。


 それは、

 湘南の海も、

 多々戸の海も、変わらなかった。


 海の闇が、

 夜の空の闇が、

 無防備に近づくものを呑み込もうと、

 手を伸ばす。


 陽が落ちた海岸はもう迫る闇に呑み込まれる間際で、ものはその輪郭を失いはじめていた。

 頼りは月の灯りで、

 昇りはじめた月にぼんやり、

 立つ波が白く浮かぶ。


 海岸駐車場のさらに奥、いまは閉じている小さな海の家の横に、ぼんやり白く浮かぶプリウスがあった。


 小山先生っ、


 ヒヤリとする。

 まさか、


 けど、小山先生と男は、車のすぐ横で対峙していた。

 「ふたりではなしがしたくて。こないだは邪魔が入ったからさ」

 男の甘い声。

 虫唾が走るような。

 けどそれに小山先生は応えない。

 男がなにかしでかす前に、レオを探しださないといけない。二人に見つかるのはまずい。小山先生が呼びだしに応じたってことは、小山先生にも考えがあるってことだ、それを邪魔してはいけない。


 大人には大人のやり方がある。


 すぐに小山先生を連れ戻しにいくと思っていたぼくに、天さんはそういったのだ。

 「コータ、こっちからレオを探してほしい。見つけたら、ぜったい、手を離すな」

天さんに見えるように頷く。

 「男が小山先生に手をだしそうになっても、動くな。小山先生にはきっと考えがある。万が一、小山先生の貞操が」


 え、テイソウ…?


 「ほんとうに危なくなったら、そのときはオレがでる」

 テイソウ、て、ことばが生々しくて吐き気がする。けどいまはそんなことをいっている場合じゃないんだ。

 もう一度、しっかり頷く。

 「頼んだ」

そう、天さんは、藪の中へ消えた。

 ぼくも、藪の中で二人の様子を気にしつつ、月灯りを頼りにレオを探す。と、小山先生の背中側、男を正面に見る位置に、


 ……!


 チラリ、

 月灯りに光るもの。

 あの鈍い光に、見覚えがある。


 あの夜、月子さんを闇のなかで見つけたあの日、屋上で見たのと、同じ、鈍い光。


 まずい…


 そっと、レオの背後から近づく。


 レオ、


 そう、レオの肩に手を伸ばしたところで、

 「博士くん、ぼくさぁ、」

男の声が聞こえて、ふり返る。


 ひっ、


 変な声がでそうになる。男が、小柄な小山先生に覆い被さるように抱きついていた。けどその瞬間、


 あっ!


 藪にかがみ込んでいたレオが慣れたように『それ』を構えなおした。


 待って!


 ぼくはその腕をとっさに掴んでいた。

「……っ!」

レオがビクリ、肩を震わせてふり向く。

 けど、ぼくだとわかると、気にしたふうもなく、また向きなおり身を低くかがめて飛びだす体勢に入る。


 レオ! ダメだから!


 必死に腕に掴む手に力を込めるのに、それすらすぐにでもふり払えるとでもいうように、彼は冷静だ。

 ただ、二人の間にでるタイミングを計っている。

 「もう、ぼくに、付き纏うのはやめてください。迷惑です」

抑揚のない、小山先生の声が聞こえてくる。地を這うような声。いつもの小山先生からは想像だにできない。


 その声に、ぼくは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 月灯りの下、忌まわしい男の腕の中で、小山先生は冷静だ。


 いや、冷静な、フリ、だ。

 あの瞳…

 ぼんやりした灯りの中で、

 青白く火を湛えるあの瞳…


 小さな身体で、

 体躯のよいサーファーたちを

 蹴散らして笑う、

 あの瞳。

 あのときと同じ、

 青い炎。

 冷静に見えて、

 その実、触れてはいけない凶暴性を、

 湛えている。


 「冷たいなぁ。ぼくに応えてくれれば、」


 レオが目を細めて、獲物との距離を測っている。


 「こんな田舎から、翠嵐にも湘南にも戻してやることも、」

 男の、ソーセージみたいな指が小山先生の顎にかかる。レオの身体が一瞬反応して、思わず手に力を入れる。天さんも身構えるのがわかる。


 と、そのとき、


 バチンッ


 「か、はっ、」

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