...

 空まで視線を上げることが叶わないぼくの目に、


 あの子…


 波の向こうから天使が現れた。


 ひらり


 両腕を羽根のように広げて、

 スラリ、伸びた脚がステップを踏む。


 ボードの上で、

 波の上を舞うように滑る。


 波と戯れる。


 胸を張り顔を上げる。

 風を切る。


 この海ではじめて目にしたあの子、あの天使だった。


 全身から、生のエネルギーが溢れる。


 初夏の陽を浴びた満面の笑みから、

 風を受けて光を散らす潮焼けしたおかっぱの髪から、

 日焼けした小麦色の頬から、


 世界中のしあわせをぜっんぶ、ぜんぶ、

 いまこの一瞬にすべてを手にしている。


 そんな人がいるなら、

 いまの彼女がそうに違いない。


 あ、


 波が崩れてしまう前に彼女はボードを返し、また沖へと漕ぎだしていった。

 ボードの上に正座するように座って波をこえてゆく。

 その姿もひどく優美で、ぼくは彼女から目を離せずにいた。




 「あんなふうに、のりたい?」

「……っ!」

 どれだけそうして呆けていたのか、天さんがぼくのすぐ横で、やはり彼女が波にのるのを見ていた。

 「あんなふうに、さ」

 そう、ゆっくり、ぼくに顔を向ける。

 「……、」

 ぼくが小さくをふると、

 「は、は〜。それとも、惚れちゃった?」

 ニヤリ、ネコと同じことをいいだした。ぼくはまた、こんどははっきり首をふった。

 「ありゃ、」


 ぼくは、


 「……っ、」


 ぼくの絞りだす掠れた声に、天さんが身をのりだす。

「なんだ、うん?」

「……、」

 口を開くのに、声がでない。

 代わりに、なにか気管の奥から熱い塊が迫り上がるようだ。


 「っ、」


 息を逃す。


 「コータ?」


 ぼくはもう、


 「…うん、」


 前を見ることも、

 上を向くことも、

 空を仰ぐことも、


 「うん、」


 だれかを想うことも、






 忘れて、しまったんです。


 




 熱い塊が、たまらなくなって目を瞑ると、ポロポロと頬に転がってくる。


 唇をかんで、膝に顔を埋める。


 「…そうか」


 大きな手が、ぼくの頭をその厚い胸板に引きよせる。


 「そうか、」


 幼い子どもを宥めるように抱き込まれて、頭をなでられる。


 「そうか」


 天さんはそれしかいわなかった。


 それだけで、息が詰まるような絶望の気持ちが、あの波のない鵠沼の海のように凪いでゆくようだった。


 そうやってしばらく、


 ドンッ


 と、波の崩れる音と、


 シュワシュワ


 崩れた波が弾ける音を、聞いていた。




 前を見ることも、

 上を向くことも、

 空を仰ぐことも、

 だれかを大切に想うことも、


 ぼくにはもう、

 できなくなっていた。

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