...
*
ネコをベットの奥に寝かす。ほんとは上の段がネコなんだけど、担いで梯子を昇る勇気はない。
どうしようか…
はしゃぎまわって疲れちゃったんだろうけど、これからお風呂とご飯の時間だ。
あれほど、遅くなるとドーナツがなくなるだのきょうは人気のハヤシライスだの、食堂やら浴室やらぼくを引っ張りまわして熱弁していたのはネコだってのに…
グルルル…
あ、
神奈川をでてから、石舟庵のお菓子しか食べてないんだった…
シャワーも浴びたい、ご飯食べてきょうはもう、休みたい…
寮母さんに相談しにいこう、
と、
「ネコ? どうした〜?」
ドアの向こうから太い声がした。
びっくりして跳び上がる。
いやいや、せめてノックとかにしてほしい!
「ネコ? 風呂だぞ…あれ、」
古い木のドアを開けると、
「……っ、」
真っ黒に日焼けした、体格のいい青年が、お風呂道具を手に立っていた。
驚いたのはお互い様で、しばらく声もでない。
だれ? 先輩? いや、体育の先生か? 刈り上げだし、厳ついし、パパっぽい落ち着き…て、
「あ、もしかして、」
不安げに見上げるぼくを、青年は落ち着いた目で窺ってくる。この目はやっぱりパパの目だ。やっぱり先生だろうか。
「新しく来た子だよね。ごめん、名前聞いたのになぁ。」
なんて、人好きのする笑顔で頭をかいている。大柄で厳つい人を、ぼくはどうしても好きになれなかったけれど、この人はきっと優しい。そんな笑顔だった。
「あ、コータくん! そうだよね。よろしく、オレは三年のタカシ。天、て書いて、天、な?」
三年生!
先生じゃなかった!
三年生にもなるとこんな落ち着いた雰囲気を醸しだせるようになるのか…そうなのか…
オトナノオトコってやつの、なんていうか余裕がある。かっこいいな、なんて、素直に思う。お風呂セットをぶら下げていても。
「で、ネコは? あ、眠ちゃったか。さっきシャワー浴びてたし、いいか。コータくんは、風呂いくよね。そのまま飯もいこう。あ、大丈夫、ネコは朝まで起きない…でしょう」
ベッドを確認するように覗き込んでそう頷く。
「うん、いこっか」
あ、
ぼくはあわてて、まだ開けていなかったキャリーからお風呂セットと着替えを抱えると、部屋をでた。
「だいたいすっぽかすことはないんだけど、」
浴場に向かう階段を昇りながら、チラッ、チラッ、と、つい天さんのとなりについて歩くやはり三年生だろう青年に目がいってしまう。
真っ黒でよくしゃべる天さんとはまったく別で、ぼくがいうのもなんだけどもやしみたいに白くて(紹介された名前だって『雪』だったから驚きだ)ヒョロリと華奢で、さっきからひとこともはなさない。ただ、雪の名前の通りメガネの奥の目は氷みたいで、まったく感情が読めなかった。
「きょうは、コータが来るって、はしゃぎまわってたからな、仕方がないな」
「……、」
小さくため息をつく。ぼくのなににそんなに期待していたんだろうか、彼は…
男子浴場は食堂、談話室と一緒に四階にまとめられていた。
古くても清潔な脱衣所から硝子戸越しに内湯があり、何人か、生徒がすでに身体を洗っている。そのさらに向こうにはなんと小さな釣り船を模した露天湯があり、ウッドデッキと小さなパームツリーがやはり寮とも日本ともかけ離れた印象をつくっていた。
寮、て、こんな楽しいものなのか? これならネコも、きっとあんな赤字で手紙を戻すような親と暮らすより…
あれ?
ふと、そういえば、ぼくが来るまで、あの部屋はネコひとりだった? そんな疑問がわいた。だれか一緒にいたがりなら、人数割が半端だったとしてもネコをだれかと同室にしたはずじゃないだろうか…天さんに訊いたらわかるかもしれない。
と、
「…ドーナツ、」
はっ!
ぼくは目を見張った。
しゃべった! 雪さん、しゃべった!
見た目通りの澄んだ、けどすごい小さな声で。
「あ、そうだ、そうだよ。楽しみにしてたよな」
天さんが雪さんの頭をなで…ようとして額をコツ、と、ぶつけてニヨニヨ、と笑う。
え、なんか距離感おかしいんじゃないだろうか。
ルームメイト…、クラスメイト…、あれ?
天さんの人柄までなんだか醸しだすものが変わった気がする。当の雪さんは顔色一つ変えていないけれども。
「コータ、」
じっ、と見ていた視線をあわてて逸らす。こちらを向いた天さんは、もうパパの顔に戻っていた。
「部屋戻るとき、ハヤシライス、弁当にしてもらうのとドーナツ、一応、持っていってやれる?」
小さく頷く。
「それと…あ、そうだ。あした、海にいくよね。ネコ、楽しみにしてたわ」
あ、それだ。ぼく、泳いだことなくて…、
そういおうとして、こんどこそ、ぼくはことばを失くした。
「じゃ、朝食後に、海に集合な?」
首まで固まって、頷くことすらできなかった。
盛り上がった胸筋逞しい天さんの、シャツで隠れていた、けど夏になれば確実に海で晒されるだろう左胸。
左肩と胸の間、心臓の少し上。
黒く掘られた剣の向こう、静かに口を噤むライオンの目が、ぼくをじっと
見つめていた。
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