【🏝完結🏝】Sky

...

　「遠いところから、大変だったね。お疲れ様」

　ぼくを迎えてくれた男性…生活指導の小山先生はそう、ぼくを応接室に案内してくれた。

　まだ若い。

　きっとまだ二十台じゃないだろうか。

　ぼくより少し、目線が低い。

　丸みを帯びた目元のせいか幼く見えて、高校生です、とかいってもたぶんバレない。にっこり笑った顔が柔らかくて、柔和って、絵にしたらきっとこんな感じだ。

　生活指導の先生がこんなで、ナメられたりしないんだろうか。

　逗子総合高校の、神奈川県にある母体校の生徒たちの噂は聴こうとしなくたって耳に入ってきた。

　タバコ、飲酒、万引き、恐喝、放火、暴走、暴力暴行…

　『関わりを持たないように』

　そう、ことあるごとに学校から注意されていた。

　そんな学校が転学先にここを勧めてくるなんて、思わなかったけど。

　「お茶、入れてくるね」

「……、」

　小さく頷くと、先生はまたにっこり笑って部屋をでていった。

　面談は苦手だ。

　なんども学校に呼びだされた数ヶ月前がフラッシュバックして苦しくなる。あわてて頓服薬を飲む。

　「……っ、」

　情けなくて涙が、

　コンコン

　？

　音がして窓を向くと、

　え、

　サーフトランクス一枚になったネコ少年が、庭につづく硝子戸からこちらを覗いていた。

　白い柵の内側、小さな庭には、砂を落とす簡易シャワーとサーフボードロッカーが設置されている。

　シャワーを浴びたのかさっきにも増して頭からびしょ濡れになったネコ少年は、さも楽しそうに笑いながら、硝子戸を開けて！　開けて！　と、身振りで訴えてきた。

　えぇー…

　開けてもいいのかな、これ。

　戸惑っていると、

　「あ！　ネコ！」

小山先生がお茶と、やたら盛られたお菓子の器をトレーにのせて戻ったきた。

　「あ〜、あ〜、もぅ〜」

トレーをテーブルにおくと、あわてて硝子戸を開ける。

　「ネコ、はやく着替えて！　ひろみ先生が調理室で待ってるよ！」

「だって、オレもコータとおはなしする！」

「きょうは、クッキーつくる練習する約束したんでしょ？」

「あしたにする！」

「そんなことしたら、ひろみ先生、泣いちゃうなぁ。もう、玉子だって用意して待ってるのになぁ〜」

　先生がいうと、少年は口を尖らせてしまった。けど、小山先生は黙っている。

　しばらくそうしていたけど、やがてネコ少年は肩をすくめるといって退けた。

　「オンナをなかせるのはオトコのすることじゃねぇな」

　え、オトコ？　それ、キミのこと？

　「そうだな、男のすることじゃない」

小山先生もしたり顔で頷いている。

　えぇ？

　なにこのやりとり。というか、先生と約束したならいかないといけないだろう。違うのか。

　そもそも、ぼくと「おはなし」ってなんなのか。

　「コータ、」

オトナノオトコの顔をつくってみせて、少年が腰に手をあてる。

「オレ、ちょっとオンナ、またせてるから、いってくる。」

「……、」

「ぜったい、いなくなるなよ！　そこで、まってろよ！　いいな！　やくそくだからな！」

　え？　ここで？　この部屋で？

　ぼくの返事なんか聞くこともなく、少年はマンガなら『ビュンッ』なんて効果音がしそうな勢いで去っていってしまった。

　え、えぇぇぇえ⁉︎

　「あは、ごめんね」

　固まっているぼくに、カラカラカラ、と、硝子戸を閉めながら小山先生が眉を八の字にしてまた笑った。

「……、」

「浩太くんが来てくれて、嬉しいみたいで」

「……、」

「あとで、クッキー、もらえると思うよ。きょう、お母さんに渡すクッキーをね、つくる練習をするんだって。来週、三者面談週間でさ」

　三者面談？

　「あ、浩太くんはないよ。この連休に帰省できなかった生徒だけ」

　ぼくの不安を見透かしたように笑うと、先生はぼくの斜め向かいの席に座ってお菓子をすすめてきた。

　「これ、有名なこのあたりのお菓子。石舟庵、てとこなんだけど、みかんの。和菓子は大丈夫？」

「……、」

　ぼくがなにもはなせないでいるのを気にしたふうもなく、先生は、でね、とつづける。

　「これが入寮のしおり。きっとネコがぜんぶはなすと思うから読まなくていいよ」

　え、そんなんでいいのか？

　「で、お薬なんだけど、」

「……っ、」

　思わず目線だけを上げる。小山先生はやっぱり優しく笑んでいる。

　「浩太くん、お薬、飲むよね？」

「っ、」

　急に心拍があがる。たったいま薬を飲んだばかりなのに。息が苦しくて、思わず胸を抑える。

　先生はぼくのすぐそばに立つと、背中をさすりながらゆっくりつづける。

　「薬は、寮医の先生が預かることになってるんだ」

　は？

　薬を？

　目を丸くして、視線だけで小山先生を見上げる。

　「大丈夫。いつも飲んでる分は、ちゃんと毎日、手元にあるから安心して？」

　「……っ、」

　無理です。そう空気みたいな声で訴える。唇が震えて、それが全身に広がる。

　薬がないと眠ることも、

　起きることも、

　いまのぼくにはできない。

　いや、起きる必要なんかない。

　むしろ、永眠できない。

　「心配しないで、その日の分はもちろん、前の晩に渡すことになってるから。足りないとか思ったら、すぐ寮医の先生にいってくれればいいし。たまにね、」

　ふと、小山先生の手がとまる。

「……？」

　「薬を、ぜんぶ、飲んじゃう生徒がいてね」

　先生の目は、そう、宙を見ていた。

　『消えてしまおう』

　そう考えていたのを、見透かされたとわかった。そして、

　宙を見つめる先生の瞳はさっきまでの春の暖かさが一転、梅雨の空みたい、いまにも雨が降りそうに沈んでいた。

　あ、

　その目を見て、過去にそうして消えた生徒が少なからずいるんだろうことも、わかった。

　ぼくは小さく、頷くほか、なかった。

「ありがとう」

　小山先生は安心したように斜め向かいに戻ると、柔らかい表情でさらに衝撃的なことをぼくに告げた。

「浩太くんが来てくれて、よかったよ」

　「……？」

「ネコのルームメイト、絶賛募集中だったんだ」

「……、」

「あの低身長でしょ？　ずっと一緒にいてくれる子を探してて。いまは三年生が交代で、」

「……っ」

　ぼくはあわてて首を横にふった。

　小山先生は知らない。

　ぼくはもう、だれのことも想わないと、決めたのだ。いや、そもそも愛がないのだから、そうできないのだ。

　だれかとずっと一緒、なんて、できない。

　愛も

　親切も

　笑顔も

　ごめんなさい、ぼく、

　だれかを幻滅させるなんて、もうまっぴらなんだ。

　ぼく、

　愛が、

　ないんです。

　そう、小山先生の腕を必死な思いで掴んだときだった。

　「あれ？　小野さん？」

　小山先生がスルリとぼくの手を抜けて硝子戸へ駆けよった。

　って、えぇぇぇ、先生！

　ぼくは手で宙を掻きながらふり返って、

　あ！

　木戸から入ってきたあのサーフショプのおばあさんが手にしているのは、

　「……っ、」

恥ずかしくて、もう震えもぐるぐる回る弱虫な思考も、一気に引っ込んでしまった。

　「忘れもん！　お兄ちゃんのじゃんねぇ！」

　ニコニコ笑うおばあさんの手には、チープなイルカのぶら下がったでかいキャリーと、もう片手には真新しいビーチサンダルが掲げられていた。