最終話 Over The White
ようやく講義が終わって、大学の正門をくぐり駅に向かう私たち。
「来るのが遅い!」
と周囲の好奇の視線にさらされ続けて文句を言っている私と、
「しょうがないじゃない、私がいくら『最初のチャイムから90分後に鳴るチャイムは終業を知らせるものである』と言っても記憶に留めておくことができないようだもの」
と、諦めているのか馬鹿にしているのか分からない、いつもの調子で返してくる鈴(間違いなく後者の方が強いだろうと思われるが)。
もうすぐ7時になろうとしているこの時間は、うちの学生たちだけでなく、サラリーマンやOLたちが足早に歩みを進めている。
それを横目に見ながら、ゆっくりと歩いていると、急に鈴が私の名を呼んだ。
それは、いつもと全く変わらない――少しだけ震えていた気がするけど、ごく普通の声色だった。
「ねぇ雪白」
「なぁに、鈴」
だから私も、ごく自然に彼女の方を振り向く。
なんでもない――ごく日常の、いつもの会話が続くと思ったから。
――が、全く予想の斜め上を行く言葉が返ってきたから――
「好きよ、大好き」
「――へ?」
我ながら、なんと間抜けな声を出してしまったことだろう。
聞き間違えかも知れない。
違う意味で言っているのかもしれない。
いろんなことを考えて、とりあえず聞き直してみる。
「……今、熱烈な愛の告白をされた気がするんだけど」
「うふふ、ちゃんと聞こえてるんじゃないの。よかった、もう一度言わなくちゃいけないかと思ってしまったわ」
「……え?」
「あら、冗談だと思ったの?ひどい人」
てっきり冗談だろうと思っていたけど、どうやら本気だったらしい鈴の言葉に、改めて彼女を凝視してしまう。
私を真っ直ぐ見つめる彼女は、相変わらず綺麗な黒を纏っていて、夜に溶け込むような漆黒と白のアクセントが美しく映えていて――
暗くて、よく表情が見えないけど、なぜか、彼女の瞳から目が離せない。
瑞々しく潤う彼女の唇が、歌うように言葉を続けた。
――私の、すぐそばで。
「た、た、高梨鈴さん、ち、近くない!?」
「うふふ、あなたのそんな表情初めて見るわね」
「あ、あなたは、ど、どうしてそんなに平然としているわけ!?」
「どうして、ですって?」
さらに、彼女が一歩近づく。
私と、本当に唇が触れるくらいの距離に、今、彼女がいる。
心が、心臓が……今まで、感じたことがないほど、私を締め付ける気がした。
鈴の言葉が、ゆっくりと響いた。
「……だって、私がこうして、私を隠さずに生きて行こうって思えるようになったのは、あなたのおかげだもの。自分自身を隠し続けて生きるしかなかった私に、自分を隠さずにいてもいいんだって思わせてくれたのは、あなただもの」
「……鈴……」
「覚えてる?私があなたに私のことを打ち明けた時のこと」
そう、それは、あの日私が、鈴の家に強引に押しかけた日。
私が、どうしても鈴に逢いたくて、大声で叫びまくった夜のこと。
あれから私は、鈴の部屋に通されて――
そして、鈴の本当の苦しみを知った。
「……あなたになら、雪白になら、本当の姿をさらして、ありのままの私を知ってほしいと思えた。初めてできた、私の大切な人だったから」
彼女は――
その時に知った、本当の彼女は――
「……生まれつき、髪の毛が全く生えなくて、ずっとそれを隠して生きてきた。人に会うのが怖くて、どんどん追い詰められていって……自分を傷つけることが止められなくなった」
初めて見た、帽子を被っていない、素顔の鈴。
そして、長袖を捲った時に見えた、二の腕に残った無数のリストカットの痕――。
それが、彼女の苦しみだった。
「何度、普通の女の子に生まれたかったと思ったか分からない。何度、私に髪の毛が生えてくれたらと思ったか分からない。何度、どうして私は生まれてきたのかって考えたか分からない。いくら大好きな服で着飾っても、髪の毛だけはウィッグを付けて本当の私を隠していなくちゃいけなかった。そんな現実に絶望して、痛みを感じることで、生きていると感じ始めて――生きていくことが苦痛になった。『死ぬことは安らぎで、解放されることなんだ』って思ってた」
「鈴……」
先天性乏毛症、そして併発した鬱病と闘いながら、彼女は私と接してくれていたのだ。
その苦しみと全く同じ苦しみを共有できるとは、決して言えない。
でも、彼女の苦しみを、一緒に感じたいと強く思った。
だからその時、何も考えずに、感情が口に出てしまったのだ。
私には、その時の私には、鈴は――
とても綺麗で、美しかったから。
「あの時雪白が言ってくれたこと、私は生涯忘れない。ふふふ…初めて会ったわ。素の私を見て『デミー・ムーアって知ってるでしょ?』って言う人なんて」
「う……そ、それは……わ、悪かったわよ……」
「あら、違うのよ雪白。そのおかげで私は救われたのだから。ただ雪白が映画マニアなのをすっかり忘れていて、呆気に取られてしまったけど」
「だ、誰がマニアよ!超有名なハリウッド女優でしょうが。知ってるものと思うでしょう、普通?」
「あなたを基準にしないで。海外の映画スターの名前をフルネームで全員言えるのはあなたくらいよ?」
「だって……しょ、しょうがないじゃない!本当にデミー・ムーアみたいで綺麗で凛々しくてカッコよくて、って本当に思ったんだもの!」
「ふふ、そう言えばぽかんとする私に、急いでケータイで検索して画面を見せてきたわよね、どや顔で」
「べ、べつにそんな顔してなかったわよ!」
「目が言ってたわ」
そう。
勇気を出して、本当の自分を私に晒しだしてくれた鈴。
その時の鈴は、本当に映画『G.I.ジェーン』に出演していた彼女の凛々しい姿のようで、綺麗でカッコよくて――
その姿は、女性ながらスキンヘッドにして、軍隊で男性に混じって必死に努力した『ジョーダン・オニール大尉』役を演じたデミー・ムーアの姿に、ちょうど重なって見えたのだった。
だから、そのままそれを口に出してしまったのだった。
……ポカン、としている鈴に、いかにその映画に出演していた時のデミー・ムーアが綺麗でカッコよかったのかを力説した気がする。
「雪白が初めてだったのよ?驚きもせず、気を遣いもせず、憐れみの目で見ることもなく私を見てくれたのは……」
「鈴……」
うずめたままの顔を上げ、鈴が私を見つめた。
「だから雪白、あなたが好き。心から。ねぇ、私の傍にずっといてくれる?」
「……そ、それはもちろん、ずっと一緒にいてあげるし、私もいたいけど……」
「二言はないわよね。うふふ、これで私たちは恋人同士ね」
「は!?ちょ……ん、んん……!」
本気でそっちの意味なの、と聞こうと思ったら、その答えは言葉じゃなくて――
代わりに、これ以上ないというくらい――
「……ん……はぁ……」
「は……ん、んんっ……」
そう、ハリウッド映画なんかで、決まって最後には主人公とヒロインが交わすように、情熱的で熱い口づけという形で返ってきた。
人前だというのに、なんてことをするのだろうかこの娘は!
し、し、しかも、し、舌まで絡ませて!
い、いやいやそれよりも!
「ちょ、ちょっと鈴!!」
「んふふ、足りない?……続きはお家で、ね?」
「じゅ、十分だし続きもしない!」
「あら、じゃあ一応そういう事で、ね」
「なんで一応なのよ!そ、そもそも言いたいことがたくさんあるんだけど!」
「もう、人が見てるから騒がないの。あんまり騒ぐともう一度唇で塞ぐわよ?」
「人前でファーストキスを奪ったのは誰よ!?は、は、初めてだったのに!!お、女同士なのに!!」
「意外と頭が固いのね。雪白、友情はやがて恋に、そして愛に昇華するものなのよ。それに……」
少し間をおいて、私のキスを奪った張本人であるゴスロリ少女は、吐息がかかる距離でこう続けた。
「……雪白も、私のファーストキスを奪ったことになるんだからね」
あまりに衝撃的な出来事が起きたせいで失念していたけど、鈴のその言葉に心がきゅ、っと締めつけられた。
きっと、どこか切なくて、甘くて
『もっとして欲しい』なんて
そんな風に感じたのはきっと気のせいだ。
顔が熱いのは、きっとこんな場所でこんなことをいきなりされたからだ。
そう思い込んだ。無理やり。
「ふふふ、雪白が真っ赤っか」
「あ、あなたのせいでしょう!?」
「でも雪の中にうっすらと朱が色づいているようで…幻想的で綺麗よ、とっても」
「――っ、ひ、卑怯よ、今言うなんて」
「純情なのね雪白。うふふ、ねぇ、夜景が見える綺麗な場所に行きましょう」
「ぜ、絶対ダメ!ちょ、は、話を聞きなさいってば!こら、ひ、引っ張らないでよ!」
アルビノの私を強引に引っ張っていく、ゴスロリの少女。
白と黒の、綺麗な対比。
まるで正反対の私たちは、いつも一緒だった。
そして――それはこれからも変わらないだろう。
――思えば、高校生の頃から、私も惹かれ始めていたのかもしれないな――
そう思ったけど、絶対に本人には言うまい。
調子に乗った鈴に言いくるめられて、抵抗むなしく……
そこまで想像してから、自分の思考が鈴の色に見事に染まっていることに気づく。
――人知れず顔を赤らめていることに、彼女は気づいているだろうか。
彼女の体温を手に感じながら、悟られはしまいか、と心臓が高鳴っていた。
END
白の向こう側 さくら @sakura-miya
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