『茜色の罰』
翡翠
茜色の罰
乾いた風が葉を落とし、早めに夜を連れてくる秋。俺が大学へ行くために家から出ると、ちょうど辺りの光は赤く染まっていた。焼けるような夕焼けに、道行く人々は立ち止まる。その風景を閉じ込めようと、スマホを天に向ける学生もいる。そんな中を俺は1人、足早に駅の方へ向かった。
俺にとって夕焼け空は、残しておくべき記念の景色でも、足を止めて見入るほど喜ばしい景色でもない。6年経った今でも、苦くどす黒い鉛のような記憶が、心の中にとぐろを巻いて鎮座している。喧騒の中を縫うようにホームへと歩き、タイミング良く到着した電車に乗る。出入口の近くに空いている席を見つけて、そこで漸く肩の力を抜いた。足元にかかる温風が、全て解かしてくれたら良い、と思った。
6年前、俺は中学2年生だった。滅多に家にいない父親と、俺になど構ってくれない母親と、何も知らない無垢な弟。まるで自分たちなど赤の他人であるかのように、父の頭は仕事と愛人で一杯だった。まるで自分など初めからいなかったかのように、母の頭は弟一色だった。
俺の居場所は、そこには無かった。
そんな孤独感から逃げるように非行に走ったのは、そうすることでしか笑っていられなかったから。そうでもしなければ、押し潰されてしまいそうだったから。だってそこには「仲間」がいた。迎え入れてくれる人がいたのだ。
皆と夜中に街を歩くのは、冒険みたいで楽しかった。補導されそうになって、警察から走って逃げて、捕まって。学校と親に連絡されて、先生には叱られた。母は確か、面倒を起こすなとかなんとか言っていた気がする。けれど、一度も俺の方は見なかった。視界にあったのは、いつだって弟だった。
隠れてお酒を飲むのだって、自分がいち早く大人になれたようで嬉しかった。その大人から押し付けられたルールを破ったことが、なおさら俺たちを得意にさせた。たとえ煙草の匂いを漂わせたまま家に帰っても、母は見向きもしなかった。学校には、バレずに済んだ。
俺が初めてその話を聞いたのは、茹だるような夏の日だった。きっかけは、暑いからアイスが食べたい、なんて他愛のない会話。その日俺は、当時一番仲の良かった三浦って奴と、ただ公園で駄弁っていた。学校をサボっていたことを除けば、ごく普通の光景だったろう。
「3丁目にさ、ボロい商店街あるだろ」
「シャッターだらけの?」
「そうそう。そこの駄菓子屋で貰ってこようぜ」
「貰ってくるって?」
「アイスを」
「そうじゃなくて。配ってんの?」
間が空いて、三浦の顔に笑みが広がる。俺と同じように幼い妹がいて、家で空気のように扱われている三浦とは、話も気も合うのでよく一緒にいた。好きな食べ物も、得意なことも全然違ったけれど、俺は三浦が好きだった。けれど、どうもこの空気だけは好きになれなかった。
「将介お前、そんなわけねぇじゃん」
顔にも声にも、嘲笑が滲む。こういう時の三浦は、なぜか大嫌いだった。
「あの駄菓子屋、店番してんのがヨボヨボの婆ちゃん1人なんだよ。しかもいっつも寝てんの。あんなの、自由に持ってってくださいって言ってるようなもんだろ」
とはいえ、反発する気にもなれなかった。だって、もしこいつに嫌われたりなんかしたら、俺は──
「あーもう、あちぃ……な、行くの? 行かねぇの?」
「……行く」
「へぇ~! 無理してない?」
もちろんそれは、俺を心配しての言葉じゃない。顔に貼り付いたままの笑みが全てだ。
「してねぇよ。行こ」
「ははは! 悪かったって」
痛いほど照りつける太陽を避けるように、2人で日陰を歩いた。10分ほどで目的の店に着いて、出てくるまでには多分30秒もかからなかった。
「な、簡単だろ?」
「うん」
自分でも驚くほどの心拍数を悟られないように、声が上ずらないように。その2文字にすら神経を尖らせた。そんな俺の隣で三浦は、大胆にも店の目の前で袋を開けて食べ始める。俺も同じことしなきゃ、と思った。震える手で袋を破いてかぶりつく。いつもなら嬉しい冷たさも、シャリシャリとした心地好い食感も、何もかもどうでも良くて。好きなはずのソーダの味が分からなかった。ただこの恐怖が三浦にバレないと良い。食べきるまで、あの婆ちゃんが起きないと良い。もうそれしか考えられなかった。俺には味わう余裕なんてなくて、それでも三浦は呑気なものだった。食道で溶けていくシャーベットと一緒に、罪悪感ごと飲み込んでいるような気分だった。
その日の夕飯は、殆ど食べられなかった。
けれど慣れとは恐ろしいもので、そんな調子で三浦と駄菓子屋に寄っては目の前で食べて帰ることを繰り返すうち、あの日覚えた嫌悪感は本当に俺の中から消え去ってしまった。気付けば三浦と共に、それを「スリルのあるゲーム」だと考えるようになっていた。いつバレるか、どっちが先にバレるかと冗談すら言えるようになった。もちろん互いに、誰にもバレるつもりなんかなかった。
こうなってくると、もう三浦に誘われなくても自分から駄菓子屋へ行くようになってしまった。もし婆ちゃんが起きていたら、その日は中止。何せ自分で使える金なんて無かったから。
基本的に朝メシは抜き。昼は給食を食えるだけ食って、晩は家で食べた。弟のついでに作った母の分の残りが、そのまたついでのように鍋やフライパンに残っている。冷めきったそれを火にかけて皿に装う時、何とも言えない気持ちになる。鍋のまま食べれば洗い物を減らせることに気が付いてから、俺が皿を使うのは1日のうちで給食だけになった。たまたま前日の残りがあったり、珍しく父が帰って来た時には朝メシにありつけた。そういう時は、学校に行かなかった。
そんなわけで、金がなくても生きてはいられた。お菓子の味は、三浦とつるんでいた先輩方が教えてくれた。「出世払いな」なんて笑いながら買ってきてくれたけれど、もしかしたら全部「貰ってきた」ものだったかもしれない。
その日もふらりと商店街に行った。イライラしていて甘いものが食べたかったから、チョコレートを拝借しようと思っていた。婆ちゃんが寝ていることを確認して、店内に入る。いつもの通りさりげなく、最小限の動きでポケットに小さなチョコを忍ばせた。そしてそのまま店を出ようとした、その時だった。
レジの向こうに座ったままの婆ちゃんと、目が合った。
自分の体で手元は婆ちゃんから死角になるようにしてあったし、バレていない自信があった。だけど、いくらなんでもこのまま店を出るのは不自然だろう。幸いにもこの時、直前に自販機の前で拾った10円があった。だからなるべく自然に目を逸らして、縦長のスナック菓子を手に取った。レジに持って行って、ポケットから取り出した10円と共に置いた。けれど、婆ちゃんはそれを手に取ろうとはしなかった。
「ねぇボク、何か悩みでもあるのかい?」
優しい声だった。まるで母が弟に話し掛ける時のような、尖ったところのない声。それが自分に向けられたものだと理解するのに数秒かかった。信じられなくて答えに詰まった。やっと口を開こうとした時、気が付いた。婆ちゃんがどうしてこんなことを訊いてきたのか。
全部、バレていたのだと分かった。
皺だらけの肌の隙間から覗く小さな目に、自分の顔が映るのが見えた。俺がこの店でしてきたことの全てを、見透かされているようで。
気付けば店を飛び出していた。走って、走って、走って、走った。どれだけ早く足を動かしても、どれほど遠くに来ても、どこかで誰かに見られている気がしてならなかった。あの日の公園を抜けて、自分の家があるアパートも通り過ぎた。普段の通学路にぶつかって、中学校の向こうを目指した。とにかく知らない場所に行きたかった。
いい加減疲れきって足を止めたのは、まだ何度か来たことのある場所だった。学校の反対側にある街並みを見渡せる、小高い丘みたいな場所。
そこで見た、痛いほど鮮やかな夕焼け空を、きっと俺は一生忘れられない。
最寄り駅で降りて改札をくぐる。外に出る頃には既に陽も落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。
あれ以来、三浦や先輩方には一度も会っていない。俺が転校したからだ。ちょうど同じ頃に両親が離婚して、俺は父について行った。理由は簡単。そうでないと、高校に進学する金が無かったから。始めは反対していた父に、これが最後と思ってちょっと強引に「お願い」してみた。高校3年間分の学費とアパートの家賃を払ってもらい、それ以外は互いに干渉しないことを条件に、俺は母と弟のもとを離れた。3駅分離れた街で、俺は残りの中学生生活を送った。卒業までは流石に父のところで世話になったけれど、高校入学と同時にそこも出た。それまで何もしてこなかった分入れる高校は限られていたけれど、なんとか市内の夜間部に合格した。昼間に稼いだ金は殆ど食費として消えた。チョコを買う金なんて無かった。食べたいとも思わなかった。高校卒業と共に、父との縁も切った。大学でも、俺は夜間部に通っている。
小さく息を吐く。体を撫でる風の冷たさが、まるであの日のアイスのようだった。
「よ、将介」
「おう。吉川が遅刻じゃないなんて珍しいな」
「オレだって店長に捕まってなきゃ毎日間に合ってんだよ」
「へぇへぇ」
「あ、疑ってんな?」
「ははは、そんなことねぇよ」
遠退いた喧騒が帰って来る。これから帰る学生たちの合間を縫って、教室への道を進む。
「中野と吉川おはよ~」
「おそよう」
「古賀の昼夜はまだ逆転中なわけ?」
「今日の起床時間は4時半」
「活動時間1時間かよ」
「そん時オレまだ働いてたわ」
「中野は?」
「今日は非番」
「起床時間は?」
「今朝の7時だよ。お前と一緒にすんな」
この他愛のない会話の中に、彼らの何気ない日常の中に。今、俺の居場所はある。
鉛の蛇は、俺が責任を持って飼い続ける。そう決めている。あの時言えなかった言葉を、夕陽の下で言える、その日まで。
『茜色の罰』 翡翠 @Hisui__
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