第8話



 ボルトクリッパーとはもっと大きなものかと思っていたが、ペンチ程度の大きさだった。ペンチと違うのは、閉じる部分が平らではなく、鋭利な刃になっているということだ。

 わたしはボルトクリッパーを持ち、刃先でダイヤル錠のワイヤーを挟んだ。そのまま握りしめると、めりめりとワイヤーがきしんだが、切るまでには至らない。

「いててて……」

 格闘してみたが、切断することはできなかった。「情けないですねえ」隣にいる奥野さんがボルトクリッパーを取り上げて握ると、ばちんと音がしてワイヤーは切断された。

「みどりさん、握力いくつですか?」

「覚えてないですね……十六くらいだったかな……」

「子供の数字ですね。少し鍛えたほうがいい。握力が弱いと死亡リスクが上がるんですよ」

「そうなんですか?」

「握力は、全身の体力を反映したものと言われてるんです。指先は単独では鍛えられないので、トータルな健康状態が数字として出てきます」

「でもなあ……筋トレとかしんどくて続かないです」

「また言い訳をする」

 事実を言っているだけなんだけどと思いながら、わたしは切断されたダイヤル錠を見下ろす。一度試しに錠を壊してみたいと言ったら、奥野さんがいらないダイヤル錠とボルトクリッパーを持ってきてくれたのだ。

「かなり簡単に切れるんですね」

「だから、紐が巻いてあるのと同じと言ったでしょう。自転車の錠は、すべて壊すことができます。太いチェーンやU字ロックなどが安全と言われていますが、大型のボルトクリッパーやサンダー、油圧カッターあたりを持ってくれば切断できる。絶対に安全な錠などありません」

「何をしても無駄ということですか」

「いえ。前にセミナーで話した空き巣対策と同じですよ。錠を壊すことはできますが、破壊までの労力を上げることはできます。街中には盗みやすい自転車が山ほど放置されてますから、専門工具が必要となるとハードルが上がります。壊しにくい錠を選ぶ、管理員が常駐している駐輪場を選ぶ、人通りの多いところに停める、盗難防止のアラームをつける……対策を積み上げて、狙われる確率を下げるんです」

「逆に、プロが〈この自転車だけは盗みたい〉と思ったら、盗まれますか?」

「盗まれます。まあ、高級なロードバイクでもない限り、目をつけられることはないと思いますが。笠井満の自転車は、ビアンキのクロスバイクですよね。たぶん七、八万円くらいか……。そのクラスの自転車にダイヤル錠しかしてないのは明らかに不用意なので、狙い目ではあるでしょう。ただ、きちんと対策がされていれば、どうしても欲しいほどのものではない」

 ただ、今回のケースではそもそも、犯人はクロスバイクを盗んだりはしていない。この出っ張りの意味が、いまだに判らない。

 いや、判らないどころではない。状況は昨日から、ますます混迷しているのだ。

 そのとき、携帯電話に、着信があった。浜中さんからだった。

「みどりちゃん。僕の友達の中に、同じ被害にあった人が見つかった」

「ええ、またですか」

「その人も自転車の錠が壊されて、両輪がパンクさせられていたらしい。自転車も、別のスタンドに移されていたって」

「場所はどこですか。あと、自転車と、錠の種類は」

 浜中さんが教えてくれたところによると、越谷駅の隣の、北越谷にある駐輪場だった。自転車はママチャリ、錠はダイヤル錠とリング錠のふたつで、両方とも破壊されなくなっていたそうだ。自転車の持ち主は浜中さんの旧知の友達で、定年して小さな会社を経営しているらしい。

 わたしはお礼を言って、電話を切った。

「これで何件目ですか?」

「四件目です。次々に見つかりますね」

 わたしは机の上に広げた越谷周辺の地図に、赤い丸印をつけた。

 浜中さんのおかげで、あのあとわたしは管理員に話を聞くことができた。赤田真美の顔を知っていたのは、何のことはない、満が〈こいつがきていないか〉と真美の写真を何度も見せたことがあっただけだった。打ち解けてみると話の判る人で、シルバー人材同士での横のつながりから、周辺の駐輪場の管理員も紹介してくれた。

 調べてみると、満と同じようなケースが、ほかに二件起きていたことが判った。

 一件は、半年前。ママチャリのダイヤル錠が破壊され、別のスタンドに移されていたというものだ。両輪はパンクさせられていて、同じ手口だった。

 もうひとつは三ヶ月前、別の駐輪場のクロスバイクだ。八万円ほどのクロスバイクにかけられたダイヤル錠が外され、別のスタンドに移されて両輪がパンクさせられていた。満の手口に似ていて、このときも、売ればもうかるはずのクロスバイクは盗まれていない。

 そしていま、浜中さんから、四件目の話が出てきたのだ。

「不可解だなあ……」

 地図を見ながら、わたしはつぶやく。

 間違いなく、同一犯の仕業だろう。何者かが明確な意志を持って、同じような悪戯を繰り返している。だが、何のために? 事件の出っ張りは、ますますごつごつとした大きなものになっている。

「宗教的な儀式、なんじゃないですかねえ」

 奥野さんが地図を覗き込んでくる。

「犯人は特殊な信仰を持っていて、あちこちの自転車を同じ手順で壊して回る儀式をやっている。狙われた自転車には、共通点があるのかもしれませんね。車体が赤く塗られていた、とか」

「何の宗教ですか、それ」

「パンクをさせたのは、車輪にたまった邪気をはらうためです。位置を移動したのは、信仰的に悪い場所にあったから。それなら説明がつく」

「本気で言ってます、奥野さん?」

「半分は本気です。宗教とまで行かなくとも、何らかのこだわりにもとづいてやっているんじゃないですか。靴は右足から履く、玄関には円形の鏡を置く、そういうものも信仰といえば信仰です」

「自転車の錠を壊して移動させてパンクさせるなんて、そんな信仰、ありますか?」

「もういいでしょう、みどりさん」

 奥野さんは優しく言って、地図を折り畳む。

「私たちにはやるべき仕事がある。あなたの調査は、もう趣味の領域に入ってます」

「それは、そうかもしれませんけど」

「犯罪の動機なんて、大きく分ければ〈利害〉か〈信仰〉のどちらかです。一連の犯行からは、利益が生まれているようには見えない。他人の信仰について考えてみても、馬鹿を見るだけですよ」

 畳んだ地図を手渡し、奥野さんはノートパソコンを持って立ち上がる。これから打ち合わせのようだ。パソコンを持った右手の甲に、カッターで切りつけられたあとが薄く走っていた。傷つけられたというのに、奥野さんは満に対し怒りや憎しみを含め何の関心も払っていない。お前もそうしろと、傷跡に言われているような気がした。

 ──信仰でも、いいんだけどな。

 おかしな信仰を持っている人がいるのなら、ますます見てみたい。そんな人間は、今後見られないかもしれない。

 ただ、奥野さんの言うことももっともだった。もう学生ではないのだ。本業の時間を削ってまで趣味の活動を続けるわけにはいかない。

 わたしは畳んだ地図を机の中に入れた。

 パソコンを起動し、社内システムにログインする。

 カレンダーを見ると、午後に一件、新しいクライアントとの面談が入っていた。失踪人調査と聞いている。浮気や素行の調査に比べ、失踪人捜しは長期化する傾向があり、地方に飛ばなければいけない可能性もある。

 新たな案件に入れば、たぶんそっちに関心が向く。そのうちに自転車の謎も気にならなくなるだろう。自分の興味など忙しさの中に埋めてしまえばいいと思い、わたしは机に鍵をかけた。

 ふと、カレンダーの中に、奥野さんの予定が見えた。

 いま彼は、防犯相談をやっているようだ。カレンダーの項目に(防)という目印が振ってある。探偵がやる防犯相談という点が売りになっているのか、定期的に家やオフィスのセキュリティをチェックしたい人が面談にやってくる。入社時期は同じなのに、着実に実績を積み重ねている奥野さんが、少しまぶしく思えた。

 わたしも、自分の仕事をしないといけない──そう思った、瞬間だった。

 頭の中で、何かが嚙み合わさった。

 ──奥野さん。

 そうだ。十日ほど前、奥野さんによる防犯の講演を聴いた。冒頭で後ろ手に縛られるという辱めからはじまった講演だった。あのときのことが、心の奥で明滅している。

 何かを思いつきかけている。あのとき、奥野さんは何を話していた?

 奥野さんは、南京錠をピッキングしていた。鍵のぜいじやくせいについて説き、家の防犯について論じていた。

 いや、それだけではない。あのとき奥野さんは、もうひとつのことを話していた──。

 自転車への連続悪戯。浜中さんと交わした会話。そして、唐突に怒鳴り込んできた、笠井満。色々なものが、頭の中で組み合わさっていく。

 ──あ。

 机の上に転がっているデジタル錠に目をやった。四つの数字が、こちらを見ていた。

 ──そうだったのか。

 頭の中のワイヤーロックが、ぱちんと弾ける音がした。

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