第7話




 午前六時。わたしは、朝の越谷の街を歩いていた。

 ひとつ、解決していない問題がある。

 真美がストーキングをしているというのは、満の思い込みだった。それは間違いない。

 だが、それならば──駐輪場での出来事は、なんだったのだろう?

 満が怒鳴り込んできたあと、わたしは調査のはじまりを思いだした。駐輪場での不可解な出来事が、気になりはじめている。

 一週間前にきた駐輪場に、わたしはまたやってきた。前回よりも一時間早めたので大丈夫だとは思っていたが、一応、管理員室に人影がないのを確かめる。

 満が自転車を停めていた、「36」のスタンドの前に立つ。

 犯行が行われたのは、恐らく夜だ。朝、満はここに自転車を停め、錠をかけて出勤した。そして二十一時過ぎに帰ってきたときに、悪戯がされているのを見つけた。管理員が帰ったのが仮に十八時だとすると、犯行が行われたのはその三時間の間だ。

 空っぽのスタンドに、自転車が停まっているところをイメージする。

 かかっている錠は、ダイヤル式のワイヤーロックだ。奥野さんに言わせると、紐が巻いてあるのと変わらないほど脆いという。想像の中で、わたしはそれを切断した。

 クロスバイクのハンドルを持ち、「99」まで移動する。駐輪場の隅まで移動させるので、思いのほか距離がある。時計で計ったら、十秒ほどかかった。夜とはいえ、人通りが全くないわけではないだろう。いつ誰かがくるか判らない状況の十秒は、イメージしてみると長く感じた。

 タイヤに錐を突き刺し、パンクさせる。自転車のタイヤは硬く、相当な力で突き刺さないと穴を開けることはできないはずだ。一撃では難しいかもしれない。前輪と後輪を、想像の中で何度か思い切り突き刺す。

 そして、駐輪場をあとにする。

 動きを想像しただけでも、思いのほか重労働だった。用意する道具もそれなりに多いし、工程も複数あるので見つかるリスクも高い。犯行が行われた時間も微妙だ。なぜもっと遅い時間にやらなかったのだろう?

 これは本当に、単なる悪戯なのだろうか?

 ストレス発散のために、自転車に悪戯をして回る人間はいる。錠を破壊し、車体を盗んで売り払う窃盗犯もいる。

 だが、この犯人はそのどちらでもない。犯行の中に、割り切れない出っ張りがあるのだ。これは一体、なんなのだろうか。

〈離せ! 詐欺師集団!〉

 満は事務所での大暴れのあと、警察に逮捕されていまは留置場だ。怒りの理由がなんだったのか聞いてみたかったが、当面はできない。彼の真意が判れば、駐輪場の問題も進展する気がするのだが……。

 そのとき、わたしは、ぽんと肩をたたかれた。

「捕まえたぞ」

 振り返ると、管理員がいた。

 まだ六時半だ。予定外の早さだった。管理員は、策があたったとでもいうように笑い、わたしの肩を摑む。あの揉めごとがあってからずっと、早出してわたしが訪れるのを待ち構えていたのかもしれない。

「ここは私有地だ。お前の立ち入りは禁じるって言ったよな」

「言われましたっけ、そんなこと? 記憶にないんですが……」

「言ったぞ、お前の会社に電話してな。録音も残ってる」

 管理員の手に、力がこもる。老人とはいえ男性なので、かなり痛い。

「やめてください。痛いです」

「こういうときはな、捕まえていいことになってんだよ。私人逮捕って、聞いたことないか?」

「私人逮捕はやりすぎると反対に逮捕罪や暴行罪に問われますよ。駐輪場にいただけの人間の肩を摑むって、このケースだとあなたが逮捕されると思いますけど」

「黙ってろ。警察に判断してもらおう」

 管理員はわたしの肩を摑んだまま、管理員室につれていこうとする。肩の肉が引っ張られ、刺されるように痛んだ。こうなるとは予想外だった。わたしが逮捕されるとは思えないが、警官の中には探偵を忌み嫌う人間も多い。所轄への任意同行くらいは覚悟しないといけないかもしれない。

 また、会社に迷惑をかけてしまう。そのことが、肉体的な痛みより痛かった。終わったはずの調査を勝手に続けていて警察沙汰になるなんて、奥野さんにも呆れられるだろう。今度こそ、見捨てられてしまうかもしれない。

「ちょっと、待ちなさい」

 そのとき、駐輪場の入り口のほうから、声がした。

 管理員がそちらを見る。ひとつの人影が、そこにあった。

「その人を放してあげなさい。そんなに悪いことはしていないだろう」

「なんだお前は?」

「お前とはなんだ。女性に暴力を振るうのはやめなさい。痛がっているだろう」

「いいんだよこいつは。大体、誰なんだよ、あんた。いきなりやってきて」

 人影は、不敵に微笑んだ。

「僕は浜中啓一というものです。この街の市議を、五期務めた人間だ」

 間に合った。

 昨夜のうちに、浜中さんに連絡しておいたのだ。彼は地元に顔が利く。駐輪場にきてもらって、管理員と鉢合わせたら話をつけてくれないか──そうお願いしたら、快諾してくれた。思っていたより管理員の出勤が早かったことは想定外だったが。

「市議? 知らねえよ」管理員はひるまない。

「お偉いさんだかなんだか知らないが、邪魔するなよ。この女が立ち入り禁止のところに入ってきてるんだ」

「彼女は駐輪場にいただけだろう? それが悪いことかね」

「ここは公園じゃないんだ。人の家の庭に勝手に入ってきてるんだから、悪いことなんだよ」

「そうだとしても、あなたには関係ない。ここが庭だとしても、持ち主はあなたじゃない」

「あんたでもないけどな。ここは俺が管理しているんだ。持ち主に頼まれてな」

「その持ち主は、ほりけんという人だろう?」

 反論しようとしていた管理員の口が、止まった。

「健ちゃんは、僕の古くからの友達だよ。彼は正義感の強い男でね、駐輪場でおかしなことが起きてると伝えたら、ぜひ彼女に調査してもらって、真相を解明したいと言っていたよ。ここは、彼の庭だ。持ち主の許可が下りているのに、あなたはこの人を警察に突きだすのかね?」

「あ、いや、それは……」

「君がやりたいのなら、そうするといい。健ちゃんには君がオーナーの意向に歯向かった旨を報告するだけだし、越谷署の署長は僕の古くからの知り合いだ。直々に伺って、事情を説明してくるよ」

 丁寧な口調だが、相手の嫌がるツボを的確に押さえている。管理員の目の中に、恐怖の色が浮かんだ。

 浜中さんはそこで、穏やかな笑みを浮かべた。

「少し、感情的な行き違いがあっただけだ、そうだよね?」

「あ? ああ、ええ……」

「この人は、自転車の悪戯がなぜ起きたのか、調査したいだけなんだ。君の業務や、ほかのお客さんを妨害しているわけでもない。あなたも、管理員という職務に忠実であろうとしただけだろう。互いに、自らの正義を履行しようとした。だが、それを擦り合わせる時間がなく、衝突してしまった。そういうことはあるものだ。どちらも悪くはない」

「まあ、それはそうかもしれないな」

「そう。ただの行き違いだよ。僕からも、お願いだ。あなたの邪魔はしない。彼女に、ここを調べさせてやってもらえないか?」

 浜中さんはそう言って、管理員の肩を軽く叩く。かたくなだった彼の心が、みるみるうちにほどけていくのが見える。

 老練な政治家とはこういうものかと、わたしは舌を巻いた。都合のいい落としどころに無理なく相手を誘導する手口は、わたしにはできないと思った。脅迫して要求をませているのに、そうは思わせない。管理員は、自ら選択したと思っていることだろう。

「そこまで頼まれたんなら、仕方ねえな」

 浜中さんがわたしのほうを見る。僕もなかなかやるだろうという、少年のような笑みを浮かべて。

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