父と娘と母

黒蛙

父と娘と母

「あ、高橋さん、おはようございます。今日もスーツバッチリ決まってますね」

「水上先生、おはようございます」

「早紀ちゃんもおはよう」

「せんせーおはようございます!」

「ん~~ちゃんとご挨拶できて偉いねぇ。それじゃ、お仕事行ってくるよ」

「あい!いってらっしゃい!」


 小さく頭を下げる保育士の水上先生の隣で元気よく手を上げた愛娘の頬に軽く口付けをして、私は仕事へと向かう。


 妻が事故で私達の前から居なくって半年。

 漸く生活が形になってきた。


 私も、妻のフリが上手くなってきたと思う。


 あの日、病院の霊安室で妻の亡骸を呆然と見ているしか無かった私は、その時から妻の姿を借りる事ができるようになった。


 それ以来、私は早紀の前では妻の姿を借りて生活している。


 早紀を保育園に預けると、私は駅の多目的トイレへと急ぐ。

 そこで妻の姿から本来の私の姿へと戻る。

 元来大雑把な性格をしていた妻は所謂女言葉を使うことを嫌い、仕事も私生活も基本的にはパンツスタイルだった。

 お陰で着替える手間が要らないのは助かっている。

 私の姿へと戻ると、もはやなんの感情も沸かなくなった満員電車へと身を投じた。




 昼、自分のデスクで昼食の弁当を広げていると、同じ部署の後輩と先輩が二人して顔を出した。


「高橋、よければ一緒に蕎麦でも……あ」

「あれ、先輩が弁当なんて珍しいですね。今までも持ってきた事なかったのに」

「おい」

「あっ……すみません」


 私の持ってきた弁当箱に後輩が素直な感想を述べる。

 妻は大雑把な性格の割に料理はそこそこ上手かったのだが、朝が弱かったため弁当を作ったことはなく、私もそもそも料理が出来ないので、二人共昼食は外食で済ませていた。


 そんなたった半年前の事が遠い記憶のように感じる。


 私に妻のことを思い出させる事になったからか、後輩が気まずそうにしている。

 妻の死に私が落ち込んでいる時も気にかけてくれていた二人だ。感謝こそすれ、この程度で怒るはずもない。


「子供に作ってやらないとだからな。それに、料理も思ったよりも楽しいもんだ」


 妻に比べればまだまだ良い出来栄えとは言えない弁当を見せながら笑ってみせると、二人は少し困ったようにしつつも笑ってくれた。

 と、唐突に私のスマホが音を立てる。


「はい、高橋です。……えっ!早紀が喧嘩?相手の怪我は……はい……はい……わかりました。すぐ迎えに行きます」


 通話を切ると、先輩が心配そうにこちらを見ていた。


「子供か?」

「はい、すみませんが午後半もらいます」

「課長には俺から言っておくから、早く行ってやりな」

「午後の仕事は俺がやっときますから!」

 二人の優しさに感謝しながら、いそいそと帰る支度を始めた。




 妻の姿で保育園へと到着すると、すでに保育園の外で水上先生と早紀が待っていた。

 早紀は目を真っ赤に腫らし、散々泣いた後なのが手にとるようにわかる。


「お手数おかけしてすみません」

「いえ、こちらこそお仕事中にお呼びだてして申し訳有りません。ほら、早紀ちゃん」


 先生の足にしがみつくようにしていた早紀は、先生に促されると、トトトと駆け足で私の足にしがみついた。


「あちらの親御さんには……」

「貴志くんの親御さんにはこちらから説明しました。理解のある方ですから、大丈夫ですよ」

「そうですか。重ね重ねお手数おかけします」


 そういって頭を下げると、水上先生も軽く頭を下げてその場にしゃがみ込む。


「早紀ちゃん、ばいばい」

「……ばいばい」


 私の足にしがみつきながら、それでも先生に手を振る早紀。

 そのまま早紀の手を引き、自宅へと戻った。

 誰も居ない家へと戻り明かりをつけると、早紀もいくらか落ち着いたのか、俯いたままではあるがそれでも私の足にしがみつくような事はなかった。


「早紀、何があったの?」

「……」

「怒らないから、ママに教えて」


 妻なら一体どうしていただろうか。

 そんな事を考えながら、水上先生と同じ様に早紀に目線を合わせるようにしゃがみ込む。

 早紀はスッと私から視線をそらした。


「……いるもん」

「えっ?」

「さきのママ、いるもん!」


 その言葉に、ドキリと鼓動が強くなった。

 まさか、バレているということなのか?


「たかしくんが、さきのママいないっていうんだもん」


 何を言っているんだ。

 保育園に行く際には必ず妻の姿を借りていたんだ。

 バレているはずがない。

 私は動揺を隠すように、早紀を抱きしめる。


「そうだね、ママはちゃんといるよ」


 私が妻を演じる歪な生活は、もしかしたらもう保たないのかもしれない。

 それでもまだやめるわけにはいかない。

 早紀にはまだ妻が必要なはずだ。

 私よりも妻が、必要なはずだ。

 だからこそ私は妻になったのだから。

 ギュッと力を込めてしまう。

 すると、私の腕の中で少し苦しそうにしている早紀の声が耳元から聞こえてくる。


「パパは、いつもどるの?」


 その言葉に、抱きしめていた腕を解き放ち、早紀を正面から見つめる。


「パパは、もう少し戻れないよ」

「でもね、おうちにかえるとね、ママがいつもかなしそうなかおしてるの」


 そんなはずは無い。早紀を心配させまいと、表情にはことさら気を使っている。

 早紀の前で悲しそうな顔などするはずもない。


「ねぇ、パパ」


 そういう早紀の顔は、悲しそうだった。


「パパはいつ、パパにもどってくれるの?」

「何を……言って……」


 不意に、視界の隅にある妻の形見でもある姿見が視界に入る。


 バカな。早紀の前ではずっと妻の姿を借りていたはずだ。

 そんなはずは無い。


 あの日、妻の亡骸を見たその時から、私は妻の姿を借りることが出来た。

 それからずっと、早紀の前では妻の姿でいたはずだ。


 ……本当にそうなのか?


 いや、違う。正確には、違うはずだ。

 あの日、病院を出た後、早紀を迎えに行った時に言われたんだ。


 【ママは?】と。


 そうだ、その時からだ。

 早紀には妻が必要なのだと、そう確信した時からだ。


 その時から、私は妻の姿を借りていた。


 本当に、借りていたのか?


 ならば何故、妻の姿にも関わらず私のスーツのサイズが合うんだ。

 何故、早紀の連絡を受けたのが私なのに妻が迎えに来たことに水上先生は一切疑問を抱かなかったんだ。

 何故、早紀は私をパパと呼ぶんだ。

 

 何故、妻の形見の姿見には、私の姿が写っているんだ。


「あのね、さき、パパはパパがいい」


 そうだ。そうなんだ。

 私は、妻の姿を借りてなど、居なかった。

 私が妻でなくてはならないと、そう思い込んでいただけだったんだ。


「早紀……すまない、ごめんな」


 もう一度、早紀を強く抱きしめる。

 頬を伝う雫を拭う事も出来ず、ただひたすらに、私は早紀を抱きしめ続けた。



    ※



「早紀、今日の予定は分かっているよな?」

「分かってるー!夕方にお墓参りでしょ?ちゃんと部活休んでくるからー」


 いそいそとお気に入りのスニーカーに足を通しながら、私はお父さんに返事する。

 今日はお母さんの13回忌。

 お母さんが死んだのはホント小さい頃だったからその時の事は全然覚えてないけど、お父さんはあまり話したがらないから、私も聞かない。


 それに、私は寂しくないから。


「それじゃいってきまーす」

「あぁ、行ってらっしゃい」


 トントン、と靴先を叩いて踵を入れると、玄関の扉を開く。

 そして、もう一人に小さな声で挨拶する。


「いってきます。お母さん」


『いってらっしゃい、早紀』

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父と娘と母 黒蛙 @kurokawazu

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