2、
姉さんの部屋に食事を持っていくのはもっぱらお母さんの仕事だ。
姉さんはいつも部屋を真っ暗にして、本当に真っ暗にして、地底人みたいに、暗闇のなかで暮らしている。目が慣れてくるのか、灯りをつけることを拒んでいるのか、ぼくにはよくわからないけれど、そういう暮らしをもう20年くらい続けている。きっと元の世界に戻ることは二度とできないんだとぼくは思っている。姉さんは常軌を逸しすぎているからだ。
姉さんが寝ている間に、お母さんは食事を御盆に置いて箪笥の上に置く。
姉さんはお腹がすいたらそれを食べて、そのまま放ったまま眠ってしまう。昼間は眠いらしくて、全然起きない。姉さんは精神病だ。ぼくたち家族は、姉さんの介護を続けていても、もう社会復帰は無理だろうと嘆きながら話し合いをしている。
姉さんってきっと寂しい人間なんだと思うよ。
ぼくはそうお母さんに話しかける。でもただでさえ疲れているお母さんはぼくの話を無視する。
あたしの育て方が悪かったのかしら。
昔お母さんはそう言って嘆いていた。今ではもう疲れ果てていて、姉さんをそこにいてもいない存在みたいに扱っている。姉さんがかわいそうだ。でも、仕方のないことなのかもしれない。姉さんは話ができないから。呼びかけても、返事をしなかったり、よく聞こえない小さな小さな声でぼそぼそと言葉を漏らすだけで、だれともコミュニケーションが成立しないんだから。聞こえないよ、と言うといつも不機嫌そうに黙って、それ以上発言しなくなってしまう。かわいそうな姉さん。
姉さんはぼくのことをどう思っているんだろう? 可愛い弟? それとも?
それを問う勇気のない臆病なぼくをお赦しください神よ。
姉さんは普段はいつも部屋で静かに眠っている。でもときどき夜中とか奇声を上げて叫びながらベッドの上で暴れたりするから、家族はその音に驚いて起きてしまうことがある。姉さんにはきっと他の人には見えないものが見えるのだとぼくにはわかっているけど、お母さんにはきっとよくわかっているのかどうかはぼくは知らない。どうしたの、とお母さんが姉さんの部屋に10年くらい前に駆けつけたことが数回あったけど、お姉さんは体調が悪いと小さく呟いただけだった。それ以上はなかった。お母さんもそれ以上は聞かなかった。お姉さんは奇声を上げて部屋のなかで暴れまわる。物を投げる。物を壊す。壁を殴る。壁を蹴る。服やクッションをはさみで切り裂く。なにをしたって、姉さんは自分の気持ちをうまく表現することができない。だからものに八つ当たりをするのだろう。そんなことをしたって、だれも姉さんの心のなかで起こっていることなんて、理解することなんか不可能だけど。
姉さんは病院に一カ月に一回バスに乗っていく。電車は苦手だが、バスは平気そうだ。一人きりで出かけていく。ぼくはついていかない。家族もついていかない。姉さんはきっとお医者さんに自分の病状をうまくきちんと説明することができていないはずだ。でも入院することは決して、ない。入院したっていつまで経っても治らないことがわかっているからね。発病して長い時間が経過しているから、入院しても完治しないと言われている。病院のなかにいようが、家のなかにいようが、姉さんの病気は治らないのだ。かわいそうに。
姉さんは長い黒髪を後ろで束ねて、いつも着ている真っ黒いトレーナーと紺色のスキニーパンツをはいて出かける。出かけると気分が悪くなるから、あまり外には出かけない。
ぼく?
その話は、また今度。
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