カ・サ・ン・ド・ラ

寅田大愛(とらただいあ)

1、

 愛は現象である。そのモードに入ると、スイッチがonになると、フィルターがかかると、盲目的に愛の世界に突入してしまう。ただの無機質な現実世界からすべての世界が愛に満ちた、彩り豊かな精神世界に変貌する。あたしはそれを不思議な愛の現象だと捉える。

 あたしの眼はよく見える。絶望的なほど醒めていると思われるくらいよく現実物質的素朴なあまりにもつまらないものがただ転がっているだけの愛のない世界が見える。

 盲目的になって情熱的にだれかを愛する喜びに浸ってみたい。

 そんな気持ちもある。

 ただ、その対象者も見つからなければ、その愛するという技術すら身に着けていないのであった。どうしようもない。

 あたしはベッドにただ横たわって、自分の右手を眺めてみる。暗がりで見えるわずかに曲線を描いたあたしの手は、モルフォ蝶の羽の形のように見える。あたしの手は蝶が羽ばたき、その後花にとまり、羽を休めている状態に見える。紫と青と黒の美しいモルフォ蝶。あたしの右手は暗がりで掲げられたまま、蝶のように休んでいる。

 モルフォ蝶は息を潜めている。羽根を閉じてただじっとしている。そうやって右手を蝶に見立てて一人で遊んでいるあたしを、だれにも愚かだと嗤わせることを、あたしは決して赦さない。

暗がりのなかに沈む深海のようなあたしの部屋で、一人で横たわっている。もうすぐ眠りに堕ちそう。そんな気がしているのに、なかなか眠れない。たふたふと天井近くで水音がする。満ち満ちていて、どうしようもなく重た苦しい海の底にいる気分だ。

 だれもいないのに、あたしはだれかに足の裏を舐められているような気がしている。気味が悪くてくすぐったいのだが、だれもいないのだから、だれかに文句を言うわけにもいかない。耐えるしかない。あたしの足の裏は不快感でいっぱいだ。だれがそんな場所を好んで舐めるだろうか? ここにはあたししかいないのに。

 布団のなかで寝返りを打つ。耳音でだれかがキスをするときのように湿ったリップ音をちゅっと不愉快にも立てて笑っている。死ね。あたしは殺意でいっぱいになる。鼓膜が嫌悪感を示している。痴漢は死罪に値するのだ。だれだかわからないけど、死ねばいいのに。

 あたしはあたしらしく生きていたいだけなのに。

 どうしてそれがあたしには叶わないのだろう。

 どうしてなの?

 人と関わることも望まず、部屋のなかに閉じこもったまま人生が終わっていくだけの暮らしに、なぜあたしはいつまでも耐え忍ばねばならないのだろう? 人生の大半を部屋で過ごしてきた。これからもそうなんだろう。ちっとも楽しくないのに。

 あたしは夢想する。自分が砂漠のなかに横たわっている姿を。力尽きて、倒れてしまい、砂の上に長々と伏し、遠くで砂煙が空に舞い上がっていく様を、あたしはただ無気力に眺めているんだ。砂漠の真ん中で、あたしはきっと骨になるまでずっとそうやって朽ちるまで続けているんだ。そんな気がする。

 あたしは囚人じゃない。あたしはかごのなかの鳥じゃない。

 それでもここからどこへも行くことができない。飛んでいく自由すらない。

 どこにもいかないように、厳重に管理されている。

 赤と白の小花柄のベッドシーツはさらさらした手触りでひんやりしている。

 布団の影が壁まで伸びていて、なにかのシルエットに見える。なんだかわからないけど、山に似ていた。

 近所の山を縦横無尽にはしゃいで転がりまわるように走って遊んでいたころはいつだっただろう? あたしには記憶がない。あたしは、記憶喪失だ。昨日のことも覚えられない。昨日何があったとか思い出すことができない。一瞬後の出来事すら、もう忘れてしまう。きっとあたしには不幸な呪いがかかっているのだろう。

 きっとこの部屋以外、外の世界は全部消滅してしまっているのだ。氷海に、ぽっかりとこの部屋だけがひっそりと浮かんでどうしようもなく浮かんでいるだけなんだ。あたしはやがてすべてが凍りつくだろう。あたしは結晶になる。鉱物のように時間をかけて、ゆっくりと結晶と化す。あたしはこの部屋という狭い空間に閉じ込められた、凍りついてしまった結晶化した鉱物の標本になる。

モルフォ蝶は沈黙している。もしかしたら、死んでいるのかもしれない。








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