第三十五章 獲得

 最強の生物にも弱点はある。他の生物を屠りその血肉を糧にするような獰猛な種であろうと。


 食物連鎖とは、進化で見出した、他種族を殺す方法にどれだけ優れているかを明確にした自然界の序列だが。


 生存競争で優位になろうとすれば、自ずと生物は武器を手に入れようとする。競争者の生死を意のままにする最強の『武器』だ。


 鋭利な牙爪。

 運動量の生む高熱に耐え切る筋肉。


 全く以て哀れだと、真央は常々思う。生物が躍起になる進化のメカニズムは、柔軟とはかけ離れていた。


「人間は、食物連鎖の頂点に君臨すると言っても過言ではないくらい、地上で最も優れた進化を遂げましたが、その進化のせいで、弱点だらけになったんですぅ。たとえば」


 人類の祖先。真央の元いた世界では樹上に暮らす夜行性の猿だった。


 食糧不足、天敵の獣に住処を追われた。どの定説が正しく謝りであったにしろ。

 住み慣れた世界を放棄し未知の領域に移る種族の賭けは、数万年と地球では一つの季節にも満たない年月の間に、二度と起こらない繁栄を天地にもたらすこととなる。


 夜の闇から天敵と餌を窺い探すだけだった猿の目が、今や足蹴にされた狩人の慟哭を刻々と視えるくらいの進化を遂げた。


 だが、代償を伴わない進化はない。これまで獲得した優位性の放棄が引き金となって起こる変質は逆に――衰退こそ目的だとむしろ言えた。


 矢は放たれた。本体はともかく娘の細腕が射抜いた、たかが手製の木弓だ。鍛え抜かれた冒険者なら毒に侵されていようと針を身体から除くように容易い。


「……もう、死んでいます」

「ああ、そぅですか。片足で立つにもいい加減疲れていたんですぅ」


 エイルに踵を返す真央の背後に迫るように、苦悶のまま制止した冒険者のむくろがうつ伏せに斃れ落ちた。潰れた眼球を庇う指の間。伝ってゆく血は紫の腐敗が始まっていた。


 夜行から昼行性に進化した人類の識色能力を処理するのは脳と二つの肉球だ。中枢の一部である網膜神経と繋がった眼球を新鮮な血液を循環させた毛細血管が、睡眠時も維持していた。


 網膜に達した鏃の毒が脳に廻る速度は、人の体感を超えるだろう。即死の瞬間は服毒で脳が膨張し、自分が何者であったかも忘れてしまう。


 今真央達が足を着けるべき地面を全身で舐めているこれは、仲間を騙し討たれた事への復讐も片目に毒で融解する礫を突っ込まれた被虐への抵抗。


 これを認識できる冒険者――人間としての尊厳を覚えた自我が消去した、生物として限りなく進化した木偶人形である。


「解放か復讐か。貴様の目的がどうであれ、パーティが瓦解した今……我々は雇用条件を果たした。帰らせてもらおう」


 血が流れるのを目の当たりにしたエイルの態勢が整うまでの時間稼ぎに、シノは冒険者が一時的に放棄した武具の収集場から扱えそうなそれを拝借した。


 鍛造の呪いはやはり、鍛えた本人または縁者のみに武器を向けた時だけ発動するらしい。


 そうとわかれば、敵意を向けてくる相手に、矢の消費を勿体ぶる必要も真央はなかった。


「その顔、目を隠していたので、最初は気が付きませんでした。『新界教』の第五師団長をトロルの巣で殺した、逃亡中の転生者でしょうおう?」


 真央の微笑に、エイルは動いてしまった。これで、シノまでも危険に曝す事に。


「ついてますぅ。教会の手配書にあった本人と、こんな場所でこんな時に出逢えた」


 これまでの不幸が幸運で一度に還ってきたような真央が、弓の狙いを変えた。


「私を、ゴンドーの街に連れ戻すんですか……?」

「さて、どうしましょう。家を失った私も街には戻りづらいですし。かといってぇ、この出逢いは私にとって、好機だと思うんです」


 真央に武器を収める気はない。


「エイルはわたしの陰から顔を出して、絶対に奴を見るんじゃないぞ」


 奴隷は丸盾で弓をエイルから弾くつもりだ。

岩削種ドワーフ〉が手ずから設計した防御力は獣用の戦法では砕けないのは判っている。しかし軽装備の冒険者用に造られた盾の防御範囲は装備した者の胸部を守れる最低限の大きさしかない。


 突進する猪の脇を射れる真央に、エイルの隠れた頭は見えているも同然だった。


「奴隷って、みんなが主人を憎んでいるじゃないんですね」

「貴様のパーティと、わたし達主従の絆を同列に並べられるとは失敬な奴だな!」


 発射された弓は、真央の狙い通り、盾の表面を甲高く鳴らし森のどこかへ刺さるか落ちるかした。


 威嚇射撃すれば臆すると思ったのに。


「あなた、主人のために、人を殺したことがあるんですか」


 応答させる暇など与える気がなかった真央は即断し、もっとも、とシノは二射目に備えた。なるほどいい腕をしている。盾を透かしてエイルの眉間が視えているのではなかろうか。


「我々を生かして出すつもりなんて……この森に入る前からなかったくせに。自由になって早々お喋りしたくなったのか」


 エイルのために犯した罪。その罪を奴隷として産み出されたシノの軽い命に代わってエイルが償ってくれた薄汚れた幸福を打ち明け、エイルが血を流さずに済むくらいなら、二人の恥辱に塗れた秘密を語り明かしてやる。


 だが。この人種ニンゲンは頭の中の森では、エイルと奴隷の首なし死体はうじを集らせ腐っていた。


「貴様には久しぶりの自由だろう。どんな心地だ?」

「――と、言われても」


 失礼に感じたシノの意外な問いに真央は肩を竦めた。


「人と話せるのは普通です。人間だから」

「そうか人種ニンゲン。じゃあこの森を出られたら、次になにをやり直したい?」


 ここでそう真面目に切り返されると、そういえば、しばらく食べていなかったのを真央は思い出してしまい涎を垂らす。


「プリンが食べてみたいなぁ! 表面を軽く火でがしたりなんかして」

「――なんだその“ぷりん”というのは。肉? 魚?」


 響きのせいで歯茎に不味そうな噛み応えがしてシノは牙の隙間を舌で拭き取った。

鬼人オーガ〉から継承された知識にも身体に染み込んだ培養液にも、乳製品特有の甘さが柔らかい菓子に関する情報は欠落している。


 エイルも、長くプリンを食べていなかった。生まれ変わる過程で異世界に持ち越せたあの懐かしい風味は口で雲を齧るみたい。思い出せないところで、この身体は死なないけれど。


「プリン、いいですね。私もまた食べてみたいです」

「でも今は、お菓子より欲しい物がありますぅ。それを私にくれるのは、あなた達だけなの。協力して」


 盾を持つ奴隷と位置を入れ替えたエイルが真央に振り返らせようとした眉間に毒矢が刺さった。真央の手応えだと無防備な女性の頭骨なら脛骨を折る威力が放たれた。


 たとえ空中を飛ぶ矢を視れる目があっても、避けない。金澤理恵子と話した三宮真央は彼女を信じて躊躇わなかった。


 罪を被せるのに、二人が五体満足である必要はなかった。街にパーティの生き残りの証言と、切り落とした敵の首さえ届けば真央の生存は仲間の仇を討った美談として認定される。


 紙切れ一枚で書き尽くされ一年と報告書の保存期間は持たない。森の獣に死体を喰わせた方が、安置に伴う衛生状態の確保と墓の準備も省ける。


 街に滞在している、教会第七師団長、トール。

 彼女に腕章を見せれば冒険者と同じ扱いとまではさすがにいかないだろう。


 ましてや、魔物討伐の任務中に死んだアルバート第五師団長はトールが直々に剣の筋を鍛えたことで出世した。


『新界教』最強と一代で謳われた剣士の一番弟子を獲ったとあれば、奴隷に堕ちた元貴族の名を復権する新しい政令が確立される現実も、夢見たっていい。


 そんな真央の理想を打ち砕く、無慈悲な宣言。


『〈超回復フルヒーラー〉が発動しました』


 エイルに囁く女神フレイヤの声に、折れ曲がっていたエイルの首は癒えた。骨がひとりでに繋がれていく。


 頭蓋骨の陥没がなかったことにされていく瞬間瞬間が、真央の目の前にはあった。


「罪を犯した私は、この世界で自由になんて永久になれません。そんな私が、誰かの自由になる方法を持っていたら……。でも、この矢であなたがプリンを食べられるようになるとは、私は、どうしても思えません」


 パーティから肩代わりした真央の傷を癒した慰め程度の初級回復魔法。魔導書を読み齧った子どもでも魔力をほとんど消費しない応急処置にも、血で手元が狂ったエイルは感情がコントロールできないほど魔力を無駄に使っていた。


 他人の掠り傷に耐えられないエイルが真央に告げる時、流れ出る血と涙は彼女の身に吸収された。


「不死身っ……どうなってるんですかぁ、その身体」


 獲物を捉えた狩人が冷静さを欠けば死ぬ。


 判っていても真央は、興奮を抑え切れなかった。息が荒い。喉がどんどん熱くなる。


 ここが街であれば、エイルの身体には、一体いくらの値が付いただろう。


 真央の視線の先にはシノが。奴隷契約は安価で買い取った配下を分配したスキルで強化する最適な手段である。

 エイルをとらえた『新界教』が、エイルをリーダーとして配下の騎士と編成パーティーを組む。犠牲を肩代わりするだけのスキルとは活用の幅が違う。


 教会に仇なす勢力、存在するだけで罪を問われる魔族にとっては、さぞ地獄となるだろう。


 エイルを引き渡せば、死ぬほどプリンが食える。 


「貴様如き浅ましい欲の塊に、エイルの苦しみは解るまい」

「シノちゃん、私は解るよ。真央さんの気持ち、…………真央って、呼んでもいい?」

「構わないよぉ。だけど、どうして私が、幸せになれないなんて言うの?」 


 シノの優越の笑みがエイルの一言で一転、苦笑を経て悔しさに。共有した視覚に首を傾げる真央がいた。


「この世界は……」


 また、シノの聞いたことのない言葉で真央に笑い掛ける。


「私達が生きたあの優しい世界とは違うんです。この世界の命は……物なんです。人じゃなくて。幸せは、周りが付ける物の値段のことで。壊したり、盗んだりしても、自分の物にはならないんですよ?」


 何もない空っぽの手を広げ、エイルは真央に近づいてゆく。手を広げれば軽い身体はどこへでも行ける。


 だが、価値がないに等しければ、守る力はない。


「馬鹿にしないで。そんなの、家畜同然の値段が付いた私は知っている」 


 逃げるためには手綱を食い千切るしかなかった。救いを求め街へ帰ろうと、人でなくなった真央はまた別の奴隷商に新しい値札を付けられ売り飛ばされる。


 主人に先立たれた中古品、子どもの駄賃でも釣りがくる値段で豚小屋より劣悪な環境に買われるのは目に見えていた。

 

 こんな自分に少しでもマシな価値を付けてくれる場所もあるにはある。


 運がよければ自由になれるらしいが、人間狩りマン・ハントの練習台は七日七晩、魔物が跋扈する森を裸足で走らされる。男は大概、魔獣に喰われ、女は魔獣に嬲られた後で喰われる。


「冒険者に飼われていた方が、私にとっては幸せだった。でも、でも……やっぱり逃げて自由になりたかった。家畜から人間に戻りたい。怖かったし……許せなかった」


 虚しい復讐はなにも生まない、違う。

 復讐は蜜より甘い、甘くなどない。


 たった一度の復讐では足りないくらい、真央の心は壊された。神のいないこの異世界じごくに。


「私、もう地獄に行きたくない。私のしたこと、みんなに黙っていてくれる?」


 どの道逃げ続ける運命、真央の犯した罪を持っていく墓場もエイル達には遺せない。


「真央さんは、もう人を殺さないでください。逃げて逃げて、この世界で自由になって。怒りが収まるまで……この私が憂さ晴らしに付き合います」

「エイル!!」


 真央の放つ毒矢が三本、エイルの子袋に命中した。破裂の衝撃で吐き出される黒い血によろめいた大腿骨だいたいこつとその反対側のくるぶしに矢が。


 シノは堪らず喉を絞り上げた。


「もう、こないでぇ!」


 身を呈し、真央の殺意を受け止めるつもりなのか。


 十字に拡がるエイルは数十本分の矢毒になかから侵された。致死量一本ではスキルで塞がる傷も、受け続けたなら中和に時間が掛かる。


「理恵子は、こんな私を、なんでおこり返さないの?」


 復讐の情動は、手持ちの矢が尽きようと真央の意識を歪め拳を固めたが、エイルはそれごと真央の身を抱擁しようとし、踏み止まった。


 女の子を血で汚してはならない。冷たい手の震えを握り温めるだけにした。


「理恵子だけじゃない。やっぱり私は、私をこんな目に遭わせた世界中の人を、殺したい」


 同じ人種にんげんに飼われ、復習を果たし罪を誰かに背負わせることばかり考えてきたせいだ。かつて真央と呼ばれた少女には確かにあったはずなのに。


 普通の生活ってやつが。


「ねぇ、理恵子って……どうやったら殺せるの?」


 毒で鮮やかに腐った傷口の矢を引き抜き、喉笛に押し当ててきた真央に。


「金澤理恵子は死にました。私は、エイル=フライデイです」


 スキルが全ての矢を払い落とした時。


 女神の神託が下った。


『経験値が一定に達しました。中級スキル〈編成招集パーティー・コール〉――獲得に成功しました。パーティーリーダーの負傷に伴い、所持しているパーティーより〈人種にんげん〉『ヨトゥン=ハイ』を自動召喚しました』


 背後で襟首を掴まれた真央は矢を放した手を地面に跪かせた。


 ――この巨影を、とくと見よ。

 真央の殺した冒険者の剣を振り上げるは、心優しき少女を傷付けんとする者どもに死を叩き落とす、即ち。


 復讐の化身なり。

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