我が罪過は炎心で盛る

 小屋で目を剥いた時、ヨトゥン=ハイを襲ったのは強烈な欲望だった。引き絞るように暗闇で覚醒してゆく意識に、睡眠途中に粗く乱された呼吸音が酸素の乏しくなった血管を流れる音を聞く。


 何度か二度寝を試みたがとうとう耐え切れなくなった上半身は跳ね起きた。錆だらけの刃を喉に突っ込んだような渇きはまだ真新しい。


 落ちようとしている茜の光を隙間で捉え、馬小屋を見回した。


「おかあさん……? トール……?」


 乾いた咳が声に雑音となって混じった。


 どうやら寝過ごした。藁の山には母も妹もいなかった。出口に点々と散らばる藁から想像するに、起きたばかりの母は寝惚け眼の妹を追っていったのだろう。


 珍しい事も朝から起きるものだ。いつもなら集落中のトロルが騒いでも起きないあの妹が、真っ先に起きて皆の朝食を準備する母を追い掛けるように仕向けるとは。


 不思議と思えば、他にも思い当たる。今年は初冬から冷え込み、食糧も滅多に採れていなかった。だというのに、今夜はずいぶんと温かい。ボロ着が滲んだ汗に吸いついてきた。


 火も、大袈裟に起こし過ぎだった。ここまで濃い炭の匂いは嗅いだ経験がない。可笑しな咳がさっきから止まらなかった。


 いやに冴えた予感が寝起きのヨトゥン=ハイの脳裏に湧いた。まさか、空腹に負けた男衆が森を下りたのではないのか。


 自分達がねぐらにした奥深い森の廃村の周囲には似たような集落が点在してはいたが、関係を構築する事は村全体のトロルで止めると合意した。食べ物は人の入ってこられない廃村の周辺のみで調達すると。


 住む場所を誤った種族は、神に滅ぼされる。人は神に愛されている。間違えても許される。


 トロルを愛する神なんて、いなかった。


 だからどんなに自分達が飢えても、他種族の恵みを盗まないと決め合った。仲間が森を出るはずがない。


 いい場所を見つけ食べ物を採ってきたのなら、準備の手伝いに向かわなければならない。川で顔を洗うついでに喉の渇きも鎮めたかった。


 だから。この時、ヨトゥン=ハイは小屋の外に出た。不貞腐れながら母を手伝う妹に、手本を見せてやりたかった。


 毎日掴んで手に慣れているはずの扉の取手は、これまで感じた事もない感触だった。金属に皮膚が張り付く前に離した手についた火傷の痕に、激痛の正体は熱さだと知った。


 閉まり切ろうとした、その寸前。扉を押さえる足の先が現れた。


 溶解を目前にした扉を掴もうと、目の前の“それ”の顔色は判別できなかった。外套を被っているのは、洞のようなかおの奥で虹色に輝く二つの光は、ヨトゥン=ハイを見下しながら生々しい音を立て瞬いた。


「なんだこのトロル臭い餓鬼「こいつも目当て? それとも殺してもいい方?」」


 トロルの言葉ではなかったが。。人類種の言語を習得した今ならば……。


 朱は、網膜を焦がすほど眩しかった。左右から嬲るように炎が燃え移る廃屋は悲鳴を上げるような軋みを撒き散らし崩れ、次々と伝播してゆく火の燃焼材となった。


 燃え盛る火は、血の臭いがした。高温に煙る地面では一面血漿がぶくぶくと沸き立って、まだ息のあるトロルを生きたまま湯掻ゆがく。


 血の海に石ころのように転がっていたのは、逃げようと駆けた足、建物の中に隠れようと扉を掴んだ腕、最後に首を落とされておきながら、まだ生きていると勘違いしていたので、細切れに切り刻んだ胴体。


 大人も子どもも醜いまでに太く、とても見るに堪えなかった。


 虚な影は、血の海に呑まれた仲間達に半分魂を口から吐き出し呆けた子どもの胸倉を掴み、切っ先に飛び散ったトロルの血を喉に付けた。


「グラム=スヴェル卿、トロルの生き残りがそっちに!」


 短剣を奪い取ろうと横方から叫びながら突っ込んできたトロルに、影はヨトゥン=ハイを肩に廻すと両腕を騎士の前で吹き飛ばしてみせた。


魔物の絶叫と断面から迸る血を浴びた快感に、影は、笑みを食んだように感じた。


「おにいちゃん……おかあさん、おかあさん……いやぁあああああああああ!!」


 他の騎士達と妹を馬車に乗せようとした、神官の恰好をした男は影を宥めるように言った。


「グラム、スヴェル、その子を離してあげなさい。無益な殺生なしてはならないと教えたでしょう?」

「だからトロルだけをこうして殺したんだろうが「帰ったらちゃんと神様に言えよな」」

「もちろん、……よくやりました」


 眼鏡の位置を指で直したあの男は、トロルの命は奪うのが神にとって有益と。たった今母親を殺され泣き叫んでいた妹を抱き締めながら、笑って言った。


「さあ、皆で帰りましょう。我が家に」


 影はヨトゥン=ハイを炎の中に投げ込むと瞬時に馬車へ転移した。


「たすけて! ――おにいちゃん!」


 遠ざかる馬車から妹は必死に助けを求めた。燃え盛る火に包まれたヨトゥン=ハイの耳には劫火の音だけが聞こえ、妹を攫った馬車がどこに向かったか見えなかった。


『だから、私を見捨てたの?』


 自分を真っ赤に包む炎のすぐ側から見失ったはずの妹の声が、はっきりと聞こえてきた。


『私はおにいちゃんに助けてほしかったのに』


「ちがう! オレは、お前も母さんも助けようと」


『うそつき。おにいちゃんのうそつき。ほんとうは、だれも助けられないのに。弱いくせに、うそをつくから、おかあさんは死んで、私はあっち側に行ったんだ』


 炎の中から現れ子どものヨトゥン=ハイの細首を掴まえた騎士の腕。成長したヨトゥン=ハイの腕をいずれ切り飛ばす妹の腕だった。


「やめっ……トール……!」


 宙に浮かせた足で炎を蹴ったが、どうしても抜け出せない。


 犯してしまった罪から逃れる事など、弱いヨトゥン=ハイにはできやしない。


お前オレが弱いから。今度はエイルが死ぬのも、オレ達のせいだ!!!」


 妹の腕に絞められた首をヨトゥン=ハイは折られた。

 

 燃える記憶から炎を纏い現れた、未来のヨトゥン=ハイ自身によって。


☆★☆


 スキルの発動をさとりエイルが宿に戻ってきた直後は不安定なヨトゥン=ハイだったが、現在は安定していた。


 エイルの入室と間もなく容態が落ち着いた様を目の当たりにしたシノは〈超回復〉の本来の持ち主の接近をヨトゥン=ハイが認識した影響によるものと見立てた。


「わたしも、エイルが側にいないと不安で死んでしまうからな」


 汽笛のような鼻息を噴くシノの組む腕は、ヨトゥン=ハイの看病をしようとしたエイルの二の腕をがっちり固く巻き込んでいた。


 恥部にもなる根拠を披露してまで、ヨトゥン=ハイの脆さを肯定するなんて。仲間意識が芽生えたとエイルを感心させたシノは、後で彼女に褒められるという、最大の喜びを逃していた事に気づかないほどの独占欲を露呈させてしまっていた。


「うあ~、一応言っとくが。公衆の面前で岩男を破壊した後の娘っ子を可愛がる風習は〈岩削種ドワーフ〉にはねぇぜ?」


 呆れるようにからからと笑うイタメリは、部屋のドアに背中を預けている。安宿の壁は薄い。階段から聞こえた悲鳴の声量なら建物中に響いただろう。


 面倒事を起こされては、後々に困るのだ。この三人には解決もできない。


「あの……シノちゃん? ヨトゥン=ハイさんに、水を汲んできてあげたいんだけど」

「宿を出て右の角を曲がれば給水場がある。頭突きの儀カスパ・スタドゥに負けた連中でごった返して汗臭くなる時間だから、急いだ方が、身のためだ」

「階段だが、ひとりで大丈夫?」

「はい」


 部屋に備え付けのかめを持ったエイルを通すと、イタメリはまた入口に陣取った。


「……単に臆病なだけってな。シノこそ、石頭の割には素直にエイルを開放したじゃねえか」


 アイコンタクトを意図的に外したシノは、どこを見るでもなく呟いた。


「束縛は、わたしの趣味じゃない。それだけの事だ」


 酷いつら、まるで袋からぶち撒いた肉に足を取られた後のようだった。


「おっと、さっそく一人目……って暴力女将かよ。客へのクレームってんなら、まず宿代払ったこのおれに」

「あんたに用なんかないよ! ベッドで伸びてるデカい方でもなくて、そっちのお嬢ちゃん! 下に集まってる連中をなんとかしとくれ!?」


 制止も利かず中から様子をイタメリが窺おうとした瞬間を逃さず、隙間を潜り抜けた女将は、イタメリでもヨトゥン=ハイでもなく、シノを指名した。


 酒場を埋め尽くす野太い騒音に頭を押さえた女将の背中から、水汲みから戻ったエイルの苦笑交じりの顔が出てきた。


「みなさん、シノちゃんに用があるみたいで……」


 頭の固さでシノに敗北し、試合会場で意識を取り戻したゴルガダは他に参加者にも声を掛けシノを捜していた。休息がてら立ち寄った給水場に、連れの少女を幸運にも見つけ滞在先が判明した。


「飯でも酒でも、好きなもの驕りたいんだとさ。処理しないと、強制チェックアウトだよ」


 頸を切るジェスチャーをした親指で外を差した女将。退去を真横で宣告されエイルに乞われるような顔を向けられたエイルにシノはげぇ、と舌を出した。


「強者に出逢った〈岩削種〉は地の果てまで追ってくる、血の気の多い連中の気を済ませるのは簡単――食われて呑まれて、讃えられる。連中が、すってんてんになるまで!」


 なあに、あんたは座っていればいい。

 胃袋になるのも、臆病風が吹いたせい――てねっ!


「それを世間では、たかりっていうのよ、このニートチビ!」


 飛び降りんばかりの勢いでシノと酒場に直行したイタメリを女将は追う。動機はどうあれ金を積む以上邪険にはできなかった。


「 なに やった ?」


 覚醒で消費した体力が回復し切っていないヨトゥン=ハイが、虚脱感を拭うように額を押さえ訊いてくるのにエイルの指は無意識に口許を掻こうとする。酒場に連れ出され、イタメリに並々と酒の注いだジョッキを掲げるよう強要されたシノの絶望が視覚に響いた。


 乾杯の音頭に爆発する筋肉男達の絶叫、岩山に轟雷が落ちたかのような盛り上がりだった。


 一滴で目を回すアルコール度数の液体を顔面の隅々に受けるとスキルが発動。せめて酔い潰れた方が救いと同情されたシノは、二階でヨトゥン=ハイと語らうエイルの本心は共感できないのが、せめてもの幸運だった。


 ひとまず、瓶の水をヨトゥン=ハイの横たえるベッドの側にあったコップにエイルは注ぎ入れた。森が近い恩恵かとても澄んでいる。


 エイルの善意の満ちた器を握り締めた。血肉に枯渇した水分が補給され顔に色が付いたヨトゥン=ハイは、エイルの濡れた唇の滑る音を拾う。


「……イタメリさんが、斧を遠ざけました。これでヨトゥン=ハイさんの呪いは、ひとまず解呪されたって」


 呉服屋で止めを刺せなかった感覚を思い出した手が硬直、熱はヨトゥン=ハイにまだ留まっていた。


「ドワーフ あの」


 先の会話だけを切り出すなら、エイルと友好関係を結んだようにも見て取れた。背景に脅迫を受けているのか。殺そうとまでした連中を、あの態度で脅し、呪いまで使えるなら予断を許さない。


 不覚にも気を失ったばかりに、エイルに付け入る隙をヨトゥン=ハイは与えてしまった。はたまた、あの懐かしい光景も、精神攻撃の類だったのかもしれない。


 挽回する機会が今はなく、反省になり切れない後悔に喉を潰されたヨトゥン=ハイの俯く顔に。


 一方で同じ沈黙をぶつけていたエイルは、彼とは正反対の不安を弄んでいた。朝もやの屋内で一目見たイタメリを“ドワーフ”とすぐ見抜いた。


 明確な難易度は判らない、だがイタメリ自身に紹介されるまでエイルはあの少女と自分との違いに気が付かなかったのに。


 異種族への知見を広めた……どのように? ――ヨトゥン=ハイの正確な目線を知り得るのは残念ながらできないエイルだが、顔を伏せてしまえば、確実に目は合わせずに済む。


 シノの目を通して、酒盛りに興じるイタメリが視えた。服ははだけ、下品に笑い悶える。その姿は言いようもなく、楽しそうだった。


 もう何百回と繰り返した変わらない日々で、ドワーフの少女はずっと待っていた。シノに便乗したこの馬鹿騒ぎも、真相を知る不安を呑んで食って忘れたいという抵抗なのかもしれない。


 そんなイタメリの覚悟を差し置いて、自分が先にエイルは訊けなかった。


 別の話題を持ち出したエイルの本心は、ヨトゥン=ハイの顔をもう一度見れる口実が、欲しかった。


「ヨトゥン=ハイさん。〈鬼人オーガ〉の里で見た……あの騎士の人って……?」


 覆る事のない過去を詰問するエイル。全身の血管が高熱に逆立つかのようだった。


「“トール”って……だれ、ですか」


 酒場でそう呼ばれていた騎士をヨトゥン=ハイも口走っていたかはエイルの記憶は曖昧だった。


 エイルの声だった。


 エイルの口が、エイルの意志が、とうとう彼女の名を言った。己の罪に追い付かれたヨトゥン=ハイは秘密を告白し始めた。永久に隠したかったが、永遠には隠せない


「彼女の名は、トール。〈人類種にんげん〉に奪われた……オレの双子の妹だ」


「ヨトゥン=ハイさん……!?」


 


「家族を殺された後、本当の両親から言葉を習ったんだ。戦い方も、……どうしたら彼らを……殺せるかも」


 黒に血の雨を降らせたような髪色の青年。深い色を奥にくゆらせる双眸には、冒険者から忌み嫌われる魔物も、憧憬めいた恐ろしい魔物の面影はない。エイルの聞き慣れない声、それは陽光の下で猛々しく燃える、黒い炎のさま


 エイル=フライデイが転生後、初めて垣間見る。


 それこそが、復讐に我を忘れた人間であった。


 に、かつての同胞に向けたあの慈愛はない。


 あるのは自分を含めた全ての人間をその手で殴殺し尽くしたいという憎しみ。だが所詮は、決して癒えない喪失感をただ埋めたいだけという深い絶望だった。


 あの冬の夜から燃え続ける炎熱を分け与えられたエイルに、治癒の奇跡は起きなかった。


 やはりこの罪は、自分だけのもの。告解しても他者には許す事はできない。


 過去へ引き摺り下ろし、共に身も心も焼かれるしかないのだ。

 

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