第二十七章 鉱の娘
鋭い目を“鷹の目のような”と言う。上空の獲物を旋回しながら窺う猛禽で目つきを喩えた表現だが。
緊張したエイルに尚も迫らんとする見据える瞳孔の奥には、鷹をも撃ち落とさんとする
「ヨトゥン=ハイ……B
たった一回瞼が瞬く、それだけでトールはエイルの装備を完全に網羅した。
神脊山脈は標高の高さだけでなく腸のように張り巡らされた洞窟は兇暴なモンスターの巣窟となっている。
昼も夜も休みなく飢えた生き物が
しかしこの少女は五感の一つを封じられておいて、防寒も食料の備えもせず山を越えたと。軽々しいそのような恰好でいるだけで周囲に自分は熟練の冒険者だと、この見たところEかDが堅い少女は周囲に大
「――まあいい。奴の悪名がとうとう山を越えてこちら側まで広まったと考えても。あるいは……よもや、己の未熟さをまさかこんな形で清算する事となるとはな」
空を懸ける雷光と子ども達の間でも噂されるあのトールが、地面に向かって溜め息をついた。ジョッキを握り締めたまま固まる武骨な冒険者を他所に、エイルだけが無言の感嘆符を呟く。
似ている、……そんな言葉で片付けていい状況ではなかった。しかし的を射る適切な表現が見つからない。ここは酒の匂いに客の装備から立ち込める体臭も凄く集中力を削がれる。
動揺したいのは
山を火の海に変えた奴をシノは兼ねてより警戒していた。あれだけの数の鬼種を一切の光の内に滅却したとあれば、目的は一体一体ではなく、穴に巣食った禁忌の魔物をその『混ざりモノ』と共に世界から消し去る事であろう。
覚醒した総数はスキルを失った今のシノには数えられないが、たまさかどこかで遭遇しても全て滅ぼすまで奴とは出くわさないと高を括った。
だが、こうして相対したからこそ判った事があった。あれほど大規模な魔法の駆使は彼女の強さを純粋に顕した結果だと。
笑える、話はそれ以前だった。数百年間山に閉じ込められた奴隷でも本能で判るのだから、同業者である彼らが畏怖に萎縮してしまうのも道理。
『雷霆』の二つ名、その安直さはどうかと最初こそ思ったが。奴の異質さから目を背けるにはそれしか手はなかった。鎧も察知した後ではカモフラージュにシノは見えてきた。誰が着せたか知らないが。
まともな装備を着ていないと――人には見られない、だから奴の『飼い主』はあんな豪奢な鎧を着せて外を歩かせているのか。確かに積乱雲と茶会していた方がよっぽど心は安らいだ。
この娘は、この世の理に対しあまりにも、礼儀を弁えていなかった。こんな奴にエイルをいつまでも関わらせてはならない。
――エイル……それ以上は、駄目だ! ……くそッ!
悪態を吐いても思考がシノの口を突破しなかった。
「着いたばかりで私はこの街の俗情には疎い。君がヨトゥン=ハイの名を知っているならそこに至った経緯が知りたい」
“君には、この
トールが席を立つだけで酒場全体は軋み
「奴は……この私の『敵』は、今――どこにいる」
屈強な戦士が雌の子犬みたいな悲鳴を上げ持っていたジョッキを放り捨てた。トールの振り撒いた戦意に触れた生物は軒並み幻覚を見せ、ジョッキが内側から膨らむように湾曲し酒が破裂、空間は絶叫、恐怖に押し潰された精神年齢は逆行し始めた。
潤む彼らの瞳。それは母の胸に追い縋ろうとしか細い声で
「……ヨトゥン=ハイさん、は」
引き締まったエイルの口は、獅子が喉を鳴らすようなその囁きを聴けば少しずつ緩んでいった。
エイルとて判っているのだ、彼の騎士はいつか邂逅したあの剣士以上に危険だと。
闇に光が射すが如く静かにやってきた剣士、剣技に雷鳴を混ぜた彼の闘いは自称した神の代行者の名に相応しかった。白砂に輝く剣を怪物の鮮血に染め、ヨトゥン=ハイを一度はエイルの目の前で殺した。
エイルの友達も殺された。彼がバケモノと嘲ったのは、高らかに掲げ見せしめにした年端もいかない少女の首だった。
恐ろしい記憶をエイルに想起させる女騎士はトロルの村を滅ぼしたあの剣士より強くずっと苛烈。そんな彼女とヨトゥン=ハイを
なら、疲れている以外になぜ一体、彼の事を彼女にこんなにも話したいのか。騎士はエイルに逢った事などない。だがエイルは、彼女をどこかで知っていた。
最近ではない。脳裏に去来する記憶は古く輪郭はぼやけている。あまりに風化し、自分の記憶ではないみたいだった。
息を呑んだエイルの手を塞ごうとしたシノの腕は伸びる。だが、あと少しという所で間に合わなかった。
「……今日は姿を見せないと思えば。『新界教』の騎士サマが朝っぱらから場末の酒場でナンパとはね。寝ぼけてベッドから落ちた拍子に高潔さを失くしちまったのかい?」
居場所を言おうとした言葉は喉の先でつっかえエイルは咽せた。
「もう諦めたと、思っていいのか」
「イタメリ? ……もちろん忘れていないさ。君こそ私を探しに来たという事は、やっと話してくれる気になったか」
「肉味噌の代わりにミスリルが詰まったそん頭でも分かるよぉーに言ってやる。おれがここに朝飯を食いにきたのは、あんたの顔を見ずに飯が食えると思ったからだ。こんな神に見捨てられたような店、来ないだろうと思ったのによ」
胸の前で組んだ腕を解いて後頭部を掻く小さな背にトールは肩を竦め酒場の入口に歩いていった。出るためではない、入口を塞いでいては邪魔な人影を隅にはかせるために。
「付き纏うような行動を君に取ってしまっている事に関しては謝ろう。そんな私を許す慈悲が君にあると信じて――どこに行けば会えるかいい加減教えてはくれないか」
肩に触ろうとした騎士の篭手を、小振りな拳は力強く払い退けた。
「知っていたとしてもテメーに教えるような口はおれは持ってねぇ。腰にぶら下げてるその剣みたいに、打てば言うことを聞かせられると思うなよ? 鉄の熱さも知らんくせに。それともお前に逆らったおれも神の敵か。おれのケツも蹴るか、トロルみたいに」
しゃくった顎から覗いた舌を前にトールは嘆息した。
「留意する、今度は気を付けるとしよう。今日は助言に免じて私の方から去る。今日一日は街で会っても君に声は掛けない。それと……ここの料理は絶品だぞ。特にマッカラが。君も一度食べてみるといい」
背の衣を翻しトールは店を後にした。テーブルのソーセージは食べ掛けでまだ温かったが足取りはどこか忙しない。それでも堂々した威厳は損なわれないのだから凄いとエイルは感心した。
息をつくエイルを振り向きざまに一瞥した騎士に、シノは言いようない危機感を覚えた。しかしそれまで。この邂逅の意味をまだ知らない今この時は、彼女の不安はエイルでも悟るのはむずかしかった。
「あの、あなた……」
「ようやく見つけたらトールがいて焦ったぜ……ああ言っとくが、
と胸を反らし自分を大きく見せれば陰っていた姿は屋根から零れる陽の光に露わになった。
猪かそれに近しい動物の毛皮をなめしたサロペットに酷似したジャケット、下は革製かどうか怪しいが厚手のデザインのその細部は上と同様にやはり男物。だが緩く二つに編んだ髪は固そうではなくむしろ光に照らされ柔らかな肌触りを連想させた。
巻き毛は明るい色。太陽というより、光輪を描く火花の群れ――前髪の最奥から覗く眼は海洋のように深い色合いでいて威圧感があった。
手も足もエイルと比較してもずっと小さい。でもそれは睨まれずとも、子どものそれとは明確に違い太く逞しいと言い換えられた。
「イタメリてめぇ、トール様になんて口の利き方!?」
「女の前で情けねぇ声出してやがったな。この街の冒険者はいつから『服飾屋』に転職したんだい?」
机を叩き砕いて立ち上がった男衆に武具を突き付けられても切っ先を当てたまま頬はカラカラと痛快そうな笑みに膨らんだ。カナリアがさえずるみたいな綺麗な声、それで、やっぱりとエイル。
「〈
「〈岩削種〉はみんなおぎゃあと生まれた時からチビなんだよ。そんな事も知らねえで冒険者とかやってっからよそ者にビビっちまうって覚えとけ」
笑い飛ばした鼻息を吹き掛けられた冒険者の怒りは沸点を超え取り囲んだ〈
隙という意味では得物を一度も握った事のない綺麗な手をした素人よりも読みやすい。
姿勢を低く、腰を微かに浮かせた。大振りの戦斧の刃こぼれの程度から男達は馬力のある大型の魔獣で稼いでいるのだろう。エイルもシノもなぜ〈
「やめとこうぜ。どうせ俺達の剣じゃあイタメリはやれねえんだ。
大きな鞄を背に負った男、恐らくは回復薬や素材を運搬する役目の仲間に宥められた冒険者は矛を収めると仕事に出ていった。
「親父に感謝するんだな」
「……ふざけろ」
何かは知らないが、命拾いしたらしい。
だというのに、イタメリは舌打ちをした。武器を向けられた時よりもずっと不快そうな顔色だった。
「さて」
すっと表情を切り替えトールのいた椅子に座り足を投げ出すイタメリ。エイルの隣にくると異種族であるとますますシノは思い知らされた。
「ありがとう、助けていただいて」
襟を正し踵を合わせるシノを制するイタメリの手には潰れた
「親睦を深めるにはまだ早いぜ? お互いまだ相手をよく知らないんだ」
「確かに性急であったな。なら、礼は済ませたので貴公に訊ねよう…………呉服屋で最初になぜ我々を見逃した?」
視覚のみを共有したエイルは疎いがシノには確固たる意志を持って背後にエイルを守ろうと間に割り込んだ。
鼻に手をやる。それでイタメリが察したかどうかは微妙だったが伝えたい事は概ね伝わった。頷いた彼女の顔を見ればシノには判る。
外の世界で、この鼻は利き過ぎた。否が応でも情報に反応してしまう。疑り深い生き物でもある人に目立たず紛れるには対策を講じねばならなかった。
「おいおい、いいのか? 物盗りは認めてもこの街じゃ減刑されねぇ。一年は豚と寝る羽目になんぞ」
「獄に入れば我々が会うのはこれで最後だな。そうなれば貴様だけが困るんじゃないか」
「これは。見誤ったぜ、交渉に有利なのはこっちだと思っていたんだがなぁ、……わかったよ。店じゃ聞きそびれたから、あのデカブツにこれを届けにきたんだ」
「ヨトゥン=ハイさんの斧……!?」
「どこに隠し持っていた……?」
「おれは〈
減らず口と胸を叩くイタメリはにわかには信じられないが、懐から机に放ったのは確かにヨトゥン=ハイが落とした斧だった。
「なぜ貴様が」
「触らない方がいい。忠告はしたぜ? 今指一本でも触れたら――奪ったと誤解を招きかねねぇ」
イタメリに首を捻りながらも斧からシノは腕を引っ込めた。
回復師であり武器に敏くもないエイルがヨトゥン=ハイの斧と武具屋で売られているそれと見分けられたのは刀身の傷によって。同種の武器でも二つとない刻印、敵の血を浴びても錆びなかった解読不能な銘が、炉内のような光を放ち斧全体を眩しくさせていた。
美しい、けれど拒絶の意志にエイルは身を引き、起因となっている闖入者にシノは釘を刺した。
「貴様を信用する根拠は」
「騎士に売らなかった――足りない信頼の分はこれから払う。あんちゃん、腕が痛んで今は口もまともに聞けねえんだろ。放置しても治るかもしれない。んだが……痛むぞもっと。そんな状態じゃきっと思い出せないし。で、どうする? おれが行ったら早く起きるが」
騎士の食べ残しを頬張ったイタメリ、その後頭部に女将はげんこつを見舞った。いつもは平手で加減もするが、トールの朝食代を握っているせいで普段より威力は増しており悲鳴を上げた。
「いったぁあ!? この石頭!」
「毎度殴るから固くなるんだ」
なんてイタメリはしおらしく言うが押さえた後頭部に血は一滴も噴いてない。
「残飯漁りに来るんなら食った分は金払いな! あとさっきはトール様の前で好き勝手言ってくれたね、そろそろ出入り禁止にするよ!」
「ひっでー! 毎朝こうして片付けに来てやってんのに、そんな事言うなんて。だからここの飯は人気がないんだ。怒りながら焼くからソーセージもこんな焦げちゃって」
皮をこんがり焼いた飴色のソーセージを口に放り込んげ、はふはふ、などと言いつつ口の中で冷ましたイタメリにさらにもう一発。
「だから食うなっての! ソーセージ返せこのガキゃー!」
「悔しかったら、金を払いたいとおれが思うくらいの料理つくってみろ」
口に肉を咥えたまま、お玉を手に追ってくる女将から逃げるイタメリ。酒場をぴょんぴょんと跳ねる身のこなしは俊敏で、そしてなによりエイルには無邪気に見えて。
これではドワーフというより、狼を挑発しながら野を駆ける元気な野生の子ウサギのようだった。
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