第二十章 サンサーラ

 故郷を旅立って、今日で一年。


 しかし目標の品は未だ発見には至っていない。


 時間を浪費した。探索方法を誤ったのではなかろうか。“今日この瞬間まで自分が無為に生きてきた”という事実は疲れた身体には毒で、自身の存在の意義さえ疑い始めていた。


 どうもこの山の大気には、精神を蝕む作用があるらしいと、男は厚い岩盤の裂け目を見上げた。この辺りの鉱物には魔力を芳醇に含んでいるのは観測していたが、魔法にも魔術にも才能を見い出す事のできなかった男の考察にはなんの価値もなかった。


 ここに来るまでボロボロになった外套の内側の所持品を、側にあった岩に身体を預けながら男は確かめた。


 生家であった屋敷から盗んできた携帯食は一週間で底をいた。それからは道中の林で見つけた木の実から安全な種類を選んで腹を満たした。だが貴族出身の男の舌はすぐ肉の味を恋しがり、二度、三度と街に下りては盗みを働いた。


 その報いか、この山には食べれられそうなものはなかった。むしろ、男の方がこの山の先住者にとっての食料だった。今も物陰からの視線を感じる。男が弱れば弱るほど、接近してくる強暴な気配はその数を増した。


 この仕打ち――やはり報いなのか。見知った相手と関係を断ち、社会を棄てた世捨て人となって放浪の道を進んだ結果、裁く者がいなくなった。だから神が直々に手を下したとでもいうのか。


 水筒に残った一杯の水、喉を潤すには少ないが、苦痛を増すには十分な量だった。


 男は、思う。洞窟から臨む遠い雨空を前に。


 ここまで、よくやった方だ。

 魔法学校の図書館で見つけた〈鬼人オーガ〉に関する論文は、ほとんどが出鱈目だった。生態に関しては概ね正しい、しかし生活圏と照らし合わせると齟齬がある。現在の地理情報を参照してもそこに魔物が棲息していたとは生物学的にあり得なかった。


 生態が正しいのを前提に、本来の生息域を独学で調べると、赴いた現地にも魔物に関する書記があった。それを頼りにまた別の場所へ。


 そうやって芋蔓いもづる式に検証を重ね、集落があったとされる山にとうとう辿り着いた。


 順風満帆な旅であったといえば、嘘になる。長男でありながら家督を継げないので両親や妹からは見放されていたが、高貴な出という生まれ持った称号を振りかざし息子がなにをやっていたのかというと、絶滅した古代の魔族の探索、なんて、他の貴族から笑われるどころか、今後の家柄の存続も危ぶまれる事だったので、ついにその称号も剥奪され、野に捨てられた。


 今思えば、滅んだ魔物なんて男にはどうでもよかった。高貴な家柄ばかりを気にし周囲の目に怯えるような両親、そんな二人の遺伝子に従うように才能の研鑽に耽る一方で、病弱な兄を非才と馬鹿にする劣等感の塊のような妹、親の身分、親の財力――なんの努力もしていない癖に偉そうな学校の同輩。


 そんな連中に、証明してやりたかった。


「――“どうだ、俺もここまでやれるぞ”って」


 伸ばした腕、拳を握るジェスチャーを男はした。


 論文の誤りを発見し、誰も足を踏み入れた事のない領域に到達した。


 だが男の周りには、悔しそうなクラスメイトの顔も、病弱な身体に鞭を打って来た息子を褒める両親もいない。彼の声を聴くのは、無口な岩塊のみ……。


 やがて、雨が降ってきた。


 洞穴に入る前に熱病にかかったらしく、男の身体は溶岩のような熱に肉体と精神を蝕まれていた。


 そして――この雨。


 さあ、ここが諦めの付け所だ。


 もう……いいじゃないか、充分にやった。屋敷と学校を馬車で往復する日々、一人で旅なんてできないと馭者にも馬鹿にされてきた自分が、未開の地で死ぬんだ。とんでもない偉業である。


 どの道、この身体では応急処置の薬草を取りに下山できなかった。


 奇跡――なんて言葉、自分には似合わない。


 そっと目を閉じてみると、遠くの音がよく聞こえてきた。雨音に交じって空気の微かな震えがする。


 ……。


 それは石ころが岩肌を転がる音にどことなく似ていた。


 ここで男が――セツナ=グレートフィールドが目を開けていなければ、みすぼらしい彼の骸は岩と同化していただろう。


 到着した当初は蓄積した疲労と熱痛で気付かなかったが、一休みして、判った。


 岩ばかりと思った景色に、人工物と思しき構造体が紛れていた。岩をくり抜いたような意匠は〈岩削種ドワーフ〉を連想されるが、形式美にばかりこだわる亜人と違い実用的で簡素な造りだった。だから見逃した。


 これだけでも〈鬼人オーガ〉は高い知能を具えていた証明になる。野戦ばかりを行ってきたというこれまでの論文が根本からひっくり返る事態だった。


 一つひとつの住居を見回り、いくつかの新発見があった。


 家具の材料は山の麓にあった針葉樹、屋根付きの住居と独特の生活圏が風化を一時的に留めていた。食器類は陶器。台所と思しき場所には水瓶みずがめがあって、魚の骨らしきものが見つかった。そして、瓶の内側についた白い跡。山で採れた食料を塩漬けにして一時的に保管するための道具らしい。


 箪笥たんすに収納されていた衣服は獣の皮をなめした物の他、絹を編んだのも数点あった。そしてそのデザインは、輸入品である〈獣人種ライカンスロープ〉の服と共通する点もあった。


 亜人とは異なる文化に、他種族との交流の証拠。だがこれほどの知識と種族同士の繋がりは今もって発見されていない。論文を出鱈目に書かざるを得なかったのにも頷ける。なんにせよ――『新界教』にこれを知られれば〈獣人種ライカンスロープ〉は根絶やしにされる。


 散策した家々の入口の地面には焦げたような跡があった。炭化の痕跡は石壁や窓枠にも、強烈な炎が焚かれた証拠である。


 そして、黒焦げた炭よりも、血痕が多い。白亜の岩を紅く染める血塊には、そこに宿る当時の犠牲者の怨念が叫びとなって聞こえるようだった。その反面、死体はどこにもなく、住居内部には一切と言っていいほど手は出されていない。


 つまり炎は、たおれた死体を抹消するためのみに使用された。


 そうまでして、この集落を襲った者、あるいは組織は――〈鬼人オーガ〉を消し去りたかったのか、切り刻むだけでは飽き足らず、肉体を燃やし、よしんば魂さえ輪廻の環に乗せないようとしたとでもいうのか。


 建物は当時のまま残った保存状態のいいものが大半だった。


 だが、そんな中で唯一、倒壊した住居が一軒だけあった。瓦礫は外側に飛んでいる。事前に爆薬かそれに匹敵する火炎魔法の使い手がいたのなら、他にもこういった建物はあったはず。ともすれば、元の住人が自決したのか、〈鬼人オーガ〉には魔法を使える者も少なからずだがいたのか、そこまでは推測するしかない。


 崩れた建物を見上げていたセツナの額に、石粒が降ってきた。先ほど彼が聞いたあの音の出どころはこの場所で間違いない。


 ――可能性……そんなの決まり切っていた。空耳でなかったとしても、下方で風化した瓦礫が時間を掛け低くなった拍子に上にあった石ころが落ちてきたのかもしれない。


 どちらにしても、偶然だった。


 だが、熱に浮かされたセツナは普段にも増して精神的に不安定な状態だった。他者からの否定に晒されたような人生では、生まれ持った自己肯定感も満足に育たない。一人となった今では評価も批判もされないが、後ろ向きな性格を治す手立てもなかった。


 一心不乱に、瓦礫を退かした。よじ登って、上から順番に。人影が消え何百年も経過した集落には、労働の騒がしさは懐かしい響きだった。


 体力が限界に迫る直前――彼は手を止めた。だが、疲れたわけでは決してなく。


 、なるべく、静かな方がよかった。


 瓦礫と瓦礫との間に挟まれるような恰好で――“彼女”はいた。それはまるで、母胎に収まる胎児のような。


 手足は関節から切断され下顎も吹き飛んでいる。黒く爛れた組織は、岩を退けた事で生じた微かな空気の流れにも破壊されるほど痛んでいた。


 だというのに。“彼女”は縮れて抜け落ちた髪の毛、剥き出しになった頭蓋から零れ落ちる脳髄にたかる虫を残った片腕で捕まえ、顎のない口の奥に突っ込んだ。ごくんという生唾を呑み込む音も聞こえ、この、腐臭とは別に漂う独特のにおい――排泄音に、ようやくその正体が判った。


 もちろん、額に禍々しい魔物の証を生やす“彼女”は、人間ではない。集まってきた虫を食べて崩壊を一時的に防いではいるがじきに肉体は朽ちる。


 意地汚く生き永らえている魔物は、軽蔑の対象だ。


 だが、そんな“彼女”を眺めていると、セツナは自分の事がだんだんと酷く滑稽に思えた。


“彼女”は――懸命に生きようとしている。親族を殺され自分も醜く死を待つだけ、自分の糞尿にまみれ誰の助けも期待できない洞窟で、無駄に苦痛を長引かせてなんになるというのだ。


 それに――ひきかえ。自分は熱病に侵された、それだけの事で死を覚悟し生きる事を諦めた。泥と汗に身体は汚れてはいるが、水を浴びれば落ちる。“彼女”はもうそれだけの事で、肉体を保てないというのに。


 崩れないよう、慎重に“彼女”を抱き上げた。近くで見るとその有様は改められるくらい無惨な状態だった。


 指の感触だけで剥がれる皮膚は男を認知できない。両手とも潰れ脳を飛び出している。生存本能以外、意思なんて残っていないのかもしれない。


 だが、脱いだ外套で天露から守るよう“彼女”をセツナの心は――苦しいほどに絞め付けられていた。目には涙を讃え、叫びたい衝動に喉は震えた。しかし叫べば衝撃で崩れてしまう、せっかく雨から守ったのに涙を落としては意味もない。


 だから……? 今この想いを伝えねば、時間が経ち消えてしまえば二度と告白の機会を失う。


 たった、一言。こうして口にするのは面映ゆいけれど。


 山を震わせた男の告白。


 思いの丈は爆発し――“彼女”の全身に『ばきり』とひびはしった。


「よく、生きていてくれた!」


 この尊い生物ひとを死なせてはならない。持てる知識ので全身全霊に尽くし蘇生の方法を探らねば。


 今日から、今から。


“彼女”のために残りを人生を捧げよう。


 脆い自分が高潔な存在を救う……考えただけで胸の躍る展開だった。


 熱がある事も忘れ走り出す恋に溺れた年若い青年を止められる者は、どこにもいなかった。


☆★☆


 ――どうか、なさいましたか?


 耳をくすぐるような声に男は頭を振ってみせた。


「……君と初めて出逢った日を、思い出していたのですよ」


 そのどこか虚空を見据えたかのようにむ男の手を握り締める“彼女”は、彼の不可解な言葉に苦笑で応える。いつもは物腰の柔かい彼が、こういった冗談を言うのは珍しかったので。


「おかしなことを……。主様がわたくしを助けてくれたのは――のことではありませんか」


 と。


 金属板に覆われた部屋で男の手を握る“彼女”。“彼女”が横たえたベッドも部屋同様の金属製で就寝用には向いてはいなかった。


 しかし、赤熱する灯りに火照るその横顔は幸せに満ちていた。


 涙にとろける視界の先にいた、男。老齢期を超えて相貌に刻まれた皺は千年を耐えた樹の肌のように垂れ下がり、重ねる沁みだらけの手は水気を飛ばした炭のようだった。


「……そうでした……ね」


 老いた声帯から漏れた声は梢の擦れる音、口角を上げるにも息切れを起こす口腔の歯は所々が抜けて無く灰色の歯茎は剥き出しだった。


「私の愛する、あなた様」


 仰向けの姿勢で“彼女”は――最愛のひととその時を待っていた。祭壇のような寝台で長時間眠ると背中は痛くなるし、慰め程度の薄布一枚だと太腿ふとももに冷酷な鉄の温度は直に伝わる。


 しかし愛する男の前で、“彼女”はなかった。


「汗を拭く物を持ってきましょう」

「いいのですか……。あなたは高貴な身分で、わたくしは卑しい農民の娘なのに」

「…………。べつに、かまいませんよ」


 温度が離れてゆくのを惜しみながらも“彼女”は手を引っ込めた。


 杖を突く男を見送る“彼女”の手が載る腹。


 皮、そして肉の張った腹の内に宿る命が――遠ざかる父を呼び留めようとするかのようにうごめいた。


「彼女に新鮮な布を用意してください」

「かしこまりました」


 給仕の装いを纏った少女はスカートの裾を摘まんで動作に会釈を挟むと踵を返し男が来た方角に歩いていった。


 寝台の“彼女”。女中の“彼女”。双子――それよりもまるで映し絵のように体格も顔も瓜二つ。着ている服は男と主従関係にある給仕メイドの方が飾ってはいれど、肉体に宿る魂――記憶情報は喜怒哀楽を表す事のできる薄着の“彼女”が精巧だった。


 男が見上げるのは、施設の深部。そこは彼が再現した“彼女”達にも立ち入りを許していない秘密の『園』。


 保存液に満たされたカプセルで当時のまま眠る、最初の“彼女”達。


 胎児よりも小さな身体。


 胴体よりも肥大化した頭部に豆粒のような目。


 首筋から臀部を一周する形に歪に絡み合う肢体。


 ――この施設を完成させてから、二十年。セツナ=グレートフィールドが再現を試み、挫折と苦悩、廃残をさらし続けた証は、厚い硝子ガラスと音のない水底で年老いた彼をいつも静かに迎えた。


「ごほッ、ごほ……!」


 光の侵入も拒み続けた部屋に響く喀血の音。口を押さえた皺だらけの指先にねばりと伝う血。


 病に蝕まれた余命幾ばくもない身体が思い起こすのは、昔の想い出ばかりだった。


 復活を切望した。だが“彼女”の肉体は男の知る基礎の治癒魔法どころか神話級の秘法を以ても再生できないほど腐敗していた。一生で体感する桁違いの年月をずっとあの状態で生き長らえた事で、本来の治癒能力も退化――自然治癒を促すことも叶わなかった。


 とりあえず、保存液に漬けたので細胞の崩壊は防げた。


 現在も施設で製造されているこの液体は、異界から持ち込まれた知識を編纂した書記を基としている。


鬼人オーガ〉に関する文献の誤りを示すのにも、父に習得を強要された異なる世界に関する情報は役に立った。異世界の情報取得の多少で、上流階級の地位は露骨に現れる。もっとも、息子の未来というより一族全体を憂いて父は勉学の機会を与える事を惜しまなかったのだけど。


 そんな父の書斎から、異世界に関する情報を“こちら側”の知識に編纂した書記を盗もうとあの時考えたのは、今に思えば……ささやかな復讐がしたかったのかもしれない。


 四十と、余年。神のもたらした異世界の技術を以てしても“彼女”の復活は、ついに実現しなかった。


 三体の遺体の安置場所の隅にある本棚。そこから手書きに残した研究成果を一部、取り出してふり返る記憶と共に内容を今一度確認した。


 集落には、魔族についての文化の他、彼らの特有な体質についての証拠が見つかった。


 その“概念”は、人型種族が『魂』と呼称する存在。〈鬼人オーガ〉の角は一種の意思疎通の器官であり、彼らの意識はそこで繋がり、やり取りされる。他種族に認知されない、異界の言語で言えば巨大な『ネットワーク』で種族全体の一個の魂なのだ。


 その『ネットワーク』に介入すれば、崩壊途中の“彼女”の肉体から魂を取り出し、『ネットワーク』中にある“回廊”を行き来し無傷の身体に転写するのも理論上は不可能ではなかった。


 だが。


 比較的健康な細胞を採取し、〈鬼人オーガ〉の再生能力を参考にした事で“彼女”の複製体は造れたが、魂の存在は確認できなかった。外見も再現度は低く、養液から取り出すと数秒で死んでしまうほど弱々しかった。


 そして、熱望した外見の完全な再現。


 養液から抱き上げた傷一つない“彼女”の横顔は、辛い挫折の日々を忘れさせた。


 時を同じく――〈鬼人オーガ〉のネットワークのに一区切りがついた。


 ――脳は、電気の信号で動いている――異世界の知識からヒントを見出した男は『素体』となった“彼女オリジナル”の角に電流を流した。


 保存液が蒸発するほどの電流で生命の危機を察知した“彼女”は、ポッドからネットワークに接続自身のポッドと繋がった複製体に意識を移した。


 成功――――そのはずだった。


 転写されたのは『ネットワーク』上に保存されていた誰かも知らぬ記憶。しかもそれは数人を繋ぎ合わせ切ったように欠落と矛盾ばかりでひどく混乱していた。


 電流の威力を調整し、ある程度の試行錯誤を繰り返した事で安定はしたが、簡単な命令を聞くだけの、まるで『肉の人形』だった。待ち望んでいた結果にはほど遠い。


 四十年掛け、唯一やり取りできる複製体の成功例は、寝台の“彼女”たった一人だけ。以前認知度は混乱しているようで、自分と同じ顔に世話されても疑問を持とうとしない。一緒に暮らしそろそろ一年経とうとするのに、老体のセツナの事を“昨日魔族から助けてくれた冒険者”、自分は“村娘”と思っている。


 その腹に――彼との子を宿しているというのに。


 複製体これは、会いたがっていた“彼女”じゃない。“彼女”の魂はあの腐る身体に囚われたままだ。


 判っていた、判って――病に侵され、もう逢えないと絶望したのに。


 微笑みながら、明日には憶えていない名を耳許で囁かれ、男が正気を取り戻した時には彼の体温は彼女の外と内に移された後だった。


「…………


 焼け落ちた住居を含めセツナは“彼女”の存在に繋がる情報を探った。陽が落ちて夜行性の魔物の目に注意しながら捜索した期間は一月にも及んだが、危険を冒しても“彼女”の正体は判らないままだった。


 それでもいい、……と思って成果が出るまで保留にしていたけれど、関係を持った以上、名もないのも可哀そうだった。


 シノ。セツナが調べた文献に登場する鬼人オーガの姫。史実と大きなズレのある魔族の中でたった一人だけ名の記された人物。


 自分自身も認識できない“彼女”だが、不思議とその名だけは気に入ったようで。以降も、身分の違う姫の名を自分のものと認知し続けた。


 ……いや。。自分をシノだが姫と呼ばないのは、認知機能が混乱しているから。それだけのことだ。


 年甲斐もなく期待に膨らませた胸を撫で下ろすようにセツナは苦笑。


 そして――施設に絶叫が木霊した。


 慌てて『シノ』のいる部屋に戻ったセツナの手から滑り落ちる杖。まさかこの歳になって全力疾走する羽目になるとは。


 扉の開いた先に横たわる『シノ』――光の途絶えた目に灯りを映し半開きの口は魂の抜けた後のようだった。あれほど楽しそうに笑っていたのに、セツナを見ても青ざめた顔に感情は宿らなかった。


 寝台から滴る白濁色の羊水、その水滴を辿るように滴り落ちた血は地面で混ざる。


 数分前まで張っていた腹は――萎んでいた。へそから空気が抜けたかのように腹部は落ち窪んであった。


 無機物めいた上半身、その対となるように開脚した下半身で。


 誕生したばかりの生は、母に存在を知らせようと歯のない口で産声を上げていたのだった。きょろきょろと母親を探す目はまだ光を認識できていない。


 扉の側にもたれ掛かるように放心状態となった給仕メイド。口から垂れる涎を拭こうとする関心もなかった。


 新生児の産声に心が壊れたのは、母だけではなかった。〈鬼人オーガ〉の声帯に交ざる人類種にんげんの血の影響か、望まない妊娠と出産に疑似的な魂が耐えられなかったのかもしれない。


 まだへその緒の繋がった赤子を、セツナは抱き上げた。


 元気な男の子だった。降り注ぐ明かりの下で大声で泣く小振りな頭、目元は鬼人ははに似るが角は生えていない。鼻先なんて妹の小さな頃にそっくりだった。それはきっと、兄譲りであるから。


 間違いない。


 この子は、この世界が創生はじまって最初の――人と魔族の子だ。


「君が、君こそが……愛の結晶なのですね!」


 断じて祝福されない子を天上の神々に見せつけるが如く、セツナは我が子を掲げながら、こんな期待をした。


 調べてみないと判らないが、成長したこの子の肉体に〈鬼人オーガ〉の能力が受け継がれているなら。角がないという事はネットワークには参加できない可能性が大。


 だが、この子の脳が人類種にんげんに近く魔族の適性も少なからず遺伝していれば――の意志を継承できるかもしれない。


 自分が病で死ぬ十年余年、ここが正念場だ。


 数分前まで悲観していた魂に、若い頃の熱が再び戻る気分だった。


 立証もなく前代未聞、仮に成功したとしても全世界を敵に回す行為。


 資金面は問題ない。この施設を建設する資材を調達するのに絶滅した種族を使った新しい『事業』は数十年で周辺諸国を納得させられるだけの信頼を得た。まあ、人魔分離主義を謳う『新界教』の息が掛かっていない領地は数えるしかなく売買取引は命賭けだったが。


 大丈夫、ここまでやれたんだ。今度だって上手くいく。


「なんだって、君は……私達の子なのですから!」


 これからも世界は移ろい、歴史は動く。人々の心は絶えず変化し、文明は滅ぶ。


 だが。


 二人の愛は……いつまでも不滅だった。永遠に。

 

 

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