第十九章 不変

 この世には――唯変わらないものが、二つ存在する。それは水がかわきを満たすよりも身近にり。風に木の葉がそよぐ回数よりも多い。ずっと当たり前で、かつ尊いところは陽の光が全てをあまねく照らすのに似ていた。


 不変で、劇的で、それでいて隣人よりも我々のすぐ“そこ”にある概念。天地創造と世界の創生――神々がその末端、最後に付け足した文言。


“この世に活きる生命いのちは、いつか死ぬ”――。


“それ故に、他の生命をらえ。殺せ”。


 この世界で命を奪わずに生きてきける生命は存在しない。肉食動物は『いのちを殺し食う』からそう呼ばれる。草を食む草食動物も大人しそうに見え、植物を食べて生きている。物言わぬ草花にも命は芽吹いているのだ。そして、その植物すら……大地に深い根を張り、世界から命を吸い上げている。


 命を奪う行為を罪と言うのなら、生を持つ全てのモノが大量殺戮者に当たる。


 けれど、この世で、殺人以外に罪を犯す生き物がたった一種のみだけ――。生きようとする他種族と違い犯した罪を明晰に自覚しているというのに、罪に対する罪悪感も一片も後悔も抱こうとしない。“これは正しい”、“こすうするしかない“、“これは正義”だとえる口はどんな猛獣よりも複雑に動くが、醜く、目も当てられない。


 そのうちの『一匹』が、暗い地の底で這いつくばりながら呻いた。


 傷ついた身体はとっくに再生し血も止まっている。骨折した手足と胴も問題なく駆動した。切断された頸椎から頭が新たに生えたお陰か前より考えがすっきりまとまる。


 それ故に――ヨトゥン=ハイは、少女に憤怒した。


 エイル=フライデイにこの洞窟に突き落とされた。思い起こされる記憶は滔々とうとうと闇ばかりで。だが、彼女は、目の前にいた。それは自分が彼女を救い出そうと奮闘した何よりの証。


 だというのに、…………それなのに、エイルは!


「あ ア アァァァアアアアアアアアアアアアアアア!」


 血反吐をぶち撒いたようなヨトゥン=ハイの咆哮に洞窟は夜泣きの如く震えた。


 裏切られた。エイルに――人類種にんげんに裏切られた。助けようとしたのに、助けたかったのに……!


 やはり人は。――側に落ちていた岩を殴り割るヨトゥン=ハイ。挽き肉になろうが腕は一瞬で再生する。


 エイルの力によって癒されたのが一層腹立たしく、ヨトゥン=ハイは手当たり次第に目についた物を壊した。


 やはり、人は罪深い。どんな生物よりも。


 生きるためにと、騙し、企み、そして裏切る。


 しかしいつから欺かれていた。旅をしていた時か? 村にいた時か?


 もしかして……。洞窟で初めて遭ったあの時からずっと、片時も離れず、騙され続けていたというのか――? 


 だとしたら、それはとんでもない裏切り行為である。トロルの子どもを助けたフリをして村に潜入し立場が危うくなると旅に同行した。怯えた素振りをして誘導し、どこまでも付いてきて、安全だと判った途端――。


 なんとおぞまじい。あそこまで兇悪きょうあくな生物が他にいようか。


 ――ゆるさない――ゆるされない――。


 最悪にもというか不幸中の幸いというか、大山に張り巡らされた洞窟は長く深かった。〈特異巨人ヨトゥン=ハイ〉がこれまで冒険者と遭遇してきたどんな場所よりも踏破は困難を極めるだろう。


 だがそれまでに肉体は回復し、ばかりか原生の魔物と戦いさらに力を増す。その過程で、彼女に近付いていると実感する度に、憎悪は刻み込まれるであろう。


 なんということはない。いつもやってきたことだ。スキルで再生されれば、再生の止まるまで斧を振るい続けよう。一晩中、三日三晩――季節が巡りめくそのかたわらで。


「おれ は えいるを ころ――――!」


 決意表明しようとしたヨトゥン=ハイ。彼の生え変わった頭に。


 残響は、轟いた。


『たすけて! ――おにいちゃん!』


「…………“と”…………」


 ヨトゥン=ハイが掲げたかいな。そこから斧は滑るかのように滑らかに落ちた。彼が両断したかったのは地面にれる恰好で沈殿する粒子のたば。跪いて命をう彼女に見立て、すとんと斬り伏せようとしたところに、不意打ちに声は響いた。


 エイルの声ではなかった。ヨトゥン=ハイに助けを懇願もとめようとしたのは変わらない。


 だが、あの記憶こえを――彼が


 幼くも、エイルには出せない芯の太い慟哭。


 もう夢で何度聞いたかも判らない“声”にヨトゥン=ハイは膝を折った。逃げる兎を追うようにやってきた追憶に怒りがさめざめと鎮まり、やっと冷静さを取り戻した時には、空虚な心にエイルへの陳謝と自己に対する強烈な嫌悪が満たされた。


 エイルは、ヨトゥン=ハイの疑った通り裏切ったのかもしれない。あの状況で、エイルは自らの意志に従い闇底に手を伸ばした。脅されたのでも何らかの精神支配を受けたのでもなく。


 なら。何が少女をそこまで駆り立てた。結果を見ればエイルのした事は大変な裏切り行為である。


 ならば仮に、エイルがヨトゥン=ハイを突き落とさなければ、どうなっていた? ――襲撃者を庇い罷免を訴えれば。ヨトゥン=ハイに向けられていた、エイルをさらった赤髪の少年の刃は今度はエイルに降り注いでいた。刻まれ、摩擦に流血を焦がす斬撃は再生するとしても、苦痛は脳髄を圧迫する。痛みは――生きるのを諦めてしまうほどの。


 あの時のエイルは、ギリギリまで迷っていた。突発的にヨトゥン=ハイを突き落とす最後の最後の……最後の瞬間まで。


 生きたい。死にたくない――強烈な生への衝動がエイルを駆り立てた。如何に超常のスキルを保有していようと本能は遺伝子に刻み込まれている。


 トロルに育てられた――“彼”もまた。


 エイルをあそこまで追い詰めたのはあの領主に少年、姫を自称したあの〈鬼人オーガ〉。奴が『特異巨人ヨトゥン=ハイ』に助けを乞わねばそもそもエイルが見つかるような事態は避けられたはずだ。


 だが、これらの事態は全て、ヨトゥン=ハイがもっとしっかりしていれば起こりはしなかった。赤髪の少年の来訪も〈鬼人オーガ〉があそこに来た段階で不意打ちは予測できた。斥候に差し向けられた魔犬ワーグを倒し、〈鬼人オーガ〉とは別行動に山を下りてさえいれば。


 だと……いうのに。再会したエイルを救出しようともしなかった。離れないと誓ったのに。『裏切られた』と一方的に決め付け錯乱し、今もひとり怯えている彼女を手に掛けようと思った。


 騙し、企み、裏切る。


 醜悪と揶揄されているが戦いを好まないトロル――その生態から激しく逸脱していた。


「これ では まるで ――!」


 言い淀んだ口にを含めヨトゥン=ハイは斧を振るった。風車が回転するように上半身をしならせ。土砂は金属音に巻き付いて小規模の竜巻を発生させた。


 これが、エイルを助けるのに最も有効な道筋だった。今ヨトゥン=ハイがすべきは怒ることではない。


 破壊ではない。懺悔ざんげではない。


 今、彼のいちばんにすべきは――――


 ――“穴を掘ること”だ。


 ここからエイルのいる場所までを穴で貫通する。編成パーティ状況はエイルの位置は概ね把握する事ができる。彼女のスキルのお陰で疲れる心配もいらなかった。


 岩盤に腕を弾かれようが、湧き出た鉄砲水に打たれようが魔物と鉢合わせようがヨトゥン=ハイの“衝動”の妨げにはとても足りなかった。


 そして結末は、前章の末節に折り返す。


☆★☆


『安全な場所』に運んだといっても霊山はセツナの土地。小石一粒まで彼が支配している。


 だがおよそ逃げ場のない窮地でもヨトゥン=ハイは潜伏に自信があった。


 図体の大きく俊敏に動けないトロルは“忍ぶ”事に掛けてはどんな種族にも負けない。森、古城――身体が収まり敵の目を欺ける空間さえあればどんな場所でも棲み処にする。


 身を隠せないトロルは、たちまち殺される。こうしてヨトゥン=ハイ達が逃げられるが、トロルの敵はセツナのように一人に限られない。


 世界のありとあらゆる地域、国家、宗教、団体で〈トロル〉を殺そうと行進する足音に地が揺らいでいた。


 唯一、この世で安全の保障されているトロルは、エイル達くらいだった。ヨトゥン=ハイに魔力を感知することはできないので気付いてはいなかったが落ちた洞窟は山の内部でも鉱物に含まれる魔力値が高かった。ヨトゥン=ハイが落ち、エイル達が来てもうずいぶん経っているが、あと数時間はじっとしていてもセツナには見つからない。

 魔力を吸い上げ、力に変える事ができるあの〈ツノ〉は、魔力に強く反応する性質があった。それが奇跡的に、このスポット周辺の目晦めくらましとなっている。感覚が鋭くなり過ぎた分――位置の特定を却って困難にさせた。


 揺らぐプラズマの光。炎を取り囲んで座る三人の瞬く瞳を赫々かくかくと染める。太陽の届かない深淵で冷酷しか知れなかった岩々の肌を温もりが撫でていった。


 エイルを救出するまでヨトゥン=ハイは洞窟に棲息する原生生物のほとんどの種を狩った。深度が深く光と熱が浸透しないためか地上に比べると生物の質量は小振りだった。だがその獰猛さは名のある冒険者でも手を焼くだろう。地上の手記にまだ名のない魔物とも遭遇した。


 そんな中で、ヨトゥン=ハイの体格と丁度並ぶ生き物がいた。なまずのようにぬるりと湿度の高い皮膚、感覚器官と思しき長い髭で地面を叩き、丸太並に太い頸元くびもとからエラ呼吸のように息を吸い込んで吐く。薄っぺらく節のない腕でびたんびたんと腹ばいに跳ねるその様ときたら、海溝の底を泳ぐ魚そのものだった。


 髭の先は行燈のように光を蓄えており、獲物を呼び寄せられる。

 

 空間の微細な振動を捉えた鯰のような魔物は大口を開けっ広げにし獲物を呑み込まんと突っ込んできた。そうやって目の前にいて、動く物体を手当たり次第に食えるよう口は消化器官の内部が見えるほど開けられるよう進化し、余計な躊躇を挟んで狩りが失敗しないよう知能も極端に低下した。


 だが今回は、相手が悪かった。


 大口に斧を差し込まれ、食道に続く胃袋をズタズタに切り裂かれても魔物は暴れ躍った。激痛に目を剝こうにも瞼はなく、見開こうとした眼球も豆粒程度の大きさしかない。自分を殺した者の顔を最期まで見る事もないまま、鰓から血を噴き、数秒と経たず――死の舞踊を踊り狂った魔物はある一点を境に大人しくなった。


 斧を口の中から引き抜いたヨトゥン=ハイは、前の道中でそうしたように特に遜色もなく死体を放棄した。


 その――捨て置いた魔物の骨から肉をこそぎ落とし、積み合わせた骨塚の上で石同士を打つと起きた火で三人は暖を取った。


 火の起こし方はシノが教えた。この“なまずもどき”は洞窟の食物連鎖の中間を担っている。岩に擬態した身体は肥えている分代謝が激しい事で有名で寒冷の洞窟内でも獲物に喰らい付けるよう、体内には大量の脂肪を蓄える。一塊で小規模の爆発を引き起こす油分の威力は絶大で、エイルとシノが巨蛇を焼いたあのキャンプファイヤーの木にも魔物の油がよく練り込んでいた。


鬼人オーガ〉の伝統的な火起こしなため、シノは、やり方をよく知っていた。


 ――この“記憶”も、セツナが創り上げた幻なのか、定かではない。今の今まで疑問を疑問と認識してこなかったのだ、唐突に吹き込まれた真実を信じろと言われても受け入れるのはむずかしい。


「……。……。…………」


 沈黙が、重たかった。


 会話の話題はない訳ではない。どころか、三人とも話したい事がいっぱいだった。けれど会話に導入する糸口が見つからないのだ。


 火柱を隔てたヨトゥン=ハイ。エイルをめつすがめつとうかがう眼はよそよそしい。瞬きの頻度も速度も恐ろしく速く、そして多い。これではいざという時に動作が遅れかねない。


 兜を脱ぎ、無防備になった視界、脳で感じるエイルの気配に彼は――だった。


 そんなヨトゥン=ハイの挙動に対し、エイルは、別れた後に紆余曲折あって疑似的ながらも“視力”を手に入れた事を


 委縮したヨトゥン=ハイの所作は――エイルに筒抜けだった。エイルも逃亡から落ち着いて謝罪する好機を狙っていたが、相手の動揺を、裏切りに対する非難だと誤認し、切り出そうにも切り出せない。ずるずると引き延ばすに連れて噤んだ口がどんどん固くなった。

 

 互いが、互いに気を遣うあまり――両者の間は絶筆に尽くしがたい意思反発ディスコミュニケーションに支配された。必要な沈黙は時に美しく喩えられもするが、引き分かれていた二人の間に生まれたこの壁は、直接語らうしか破る手立てはない。


「……君達二人を、安全な場所まで逃がそう」


 ずっと考えていたんだが、と。男と少女に〈鬼人オーガ〉は苦笑し呟いた。


「安全な場所……って、どこですか」

「決まっていよう――――“わたしのいない場所”だ」


 シノは膝を抱えた。呟いた声音は小さな――火の失せた蝋燭から尾を引く白煙のよう。見据えてくる目に水気はない。切れ目の入れた双眸はこことは違う、深い深淵と繋がっていた。


 炎の熱が、絶望した彼女には、逆にひどく冷たかった。


 気遣ってシノがそんな事を言い出したのではない、とエイルは、言い出す前から判っていた。自分が生まれてきた理由を知って、突き付けられ、他人に心を割けるわけなかった。


 突き離されたのではないので、エイルは、シノを置いていくつもりはない。


 セツナが鬼人シノにいたくご執心である以上、どこまでも追いかけてくるだろう。しかしエイルは気にする素振りを見せない。元から居場所もなく逃げるだけの人生なのだから、手勢が少年(中身はおじさんだが)一人増えたところで別に……。


「      」


 

 思案するエイルとヨトゥン=ハイの目が合った。“目が”というのは、いや、言葉通りの意味だが正しくはない。エイルを『見る』ヨトゥン=ハイを彼女自身は本来認識できない。


 ヨトゥン=ハイの“誤算”は、〈鬼人オーガ〉を敵意の眼差しで見ても目の視えないエイルは気付かれないと安心した事。


 どうやらエイルとこの〈鬼人オーガ〉は、自分のいない間に浅からぬ関係を築いたらしい。同じ環境、同じ境遇を共にした結果、信頼にも似た。


 せっかく決意したのに。謝る前に、エイルを、断らねばならない。切迫する状況を完全には把握し得ないがこの〈鬼人オーガ〉の少女が全ての元凶であるのに間違いはない。

 元々は助力を請われたヨトゥン=ハイが巻き込まれるはずだった、が。〈鬼人オーガ〉と“敵対”する勢力は、何らかの目的でエイルを拉致した。


 『 N:アカガミ


  IC:F-2356187


  HP:1534


  MP:1953853


  US:『七戦福滅マハーカーラ


  AS:未開放 』


 あの研究施設で対峙した敵情報がヨトゥン=ハイの視覚の右上に想像される。これまでの人生で“たったの一度だけ”編成パーティを組んだ経験のあるヨトゥン=ハイは、演算が狂ったとしか思えないその魔力値に息を呑んだ。再生した弾みに頭のネジが外れでもしたか。


 体力HPは、当時子どもだった自分とそう大差ない。トロルと同じ生活水準で暮らしていたから筋肉はそれほどついていたので、非常に癪ではあるが――〈人類種にんげん〉の平均的な体力と比べ高いのは判る。エイルを攫った際の身のこなし――目的を持って訓練された動きだった。


 無論、子どもに後れを取るようなら『特異巨人ヨトゥン=ハイ』など冒険者の間で忌ましく囁かれない。


 だが、少年の魔力MPを見知ったならば、ずば抜けた才能への尊敬と畏怖に呟かれる少年の名はヨトゥン=ハイよりも轟く。


 編成パーティーメンバーは互いの情報の閲覧が許可ゆるされている。閲覧は無制限。基本の能力値ステータスのほか、後天的にどういった魔法、スキルを取得したか任意に開示される。


 時には、単独ひとりでは手に余る敵に立ち向かわねばならない。戦力差を“数”で補いたく、チームワークに頼るなら“詳細パーソナリティ”の隠し事はなしと。


 この世を創り給うた神は、被造物をよほどあなどって力を貸し与えたらしい。


 だが、産まれた瞬間から誰の助けも必要としない者は一定の周期で現れる。“神童”とは、神に愛された才能を妬む差別的な意味を含むことがままあるが。


 ならあの少年は、授かったその愛を、一体どこまで自覚しているのか――彼は、果たして“どちら”なのだろう。


 あのアカガミには一度エイルをかどわかされていた。

 潜伏先が掴まれていない以上――〈鬼人オーガ〉を見捨てるなら今しかない。この山で起きている問題に、トロルと少女の出る幕はなかった。


 やっと、正常な状態に戻ったというのに、エイルは、今にも死に絶えそうな少女から一歩も離れようとしない。


 火中の栗を拾えば、エイルの手が火傷やけどする。


 ヨトゥン=ハイは見たわけではないが――エイルはここに来て深く傷付いた。もう十分すぎるほど。


「トロルも、わたしとエイル殿は共にいるべきではないのを、知っている……」


 苦笑しながら、一刻も早く下山を希望するヨトゥン=ハイにシノは頷きを返した。


「今からアカガミの所に戻る。山を下りる時間くらいは、稼がねば、な……。こんなことに巻き込んでしまった、せめてもの責任に」

「――……戻って、シノさんは、どうするんですか」

「わたしとエイル殿じゃあ、住む世界が違ったんだ。エイル殿にもう逢えないのは、そうだな…………やっぱりさびしい、すこしだけ。でも、エイル殿が気に病むことではない――」


 わたしは、――。


「最初から最後まで、つくりものだったんだ」


 ッ!!


 まるで岩肌を揺るがすほどの――とは、それは。堅牢な霊峰の外骨格を振動させるようなアカガミの剣技にヨトゥン=ハイの猛攻、研鑽された肉体が放つ気迫と較べるのも拍子抜けする、声。


 その声に、ヨトゥン=ハイは腰を下ろした小岩から仰向けに転倒しかけていた。戦いにそなえ体幹を支える筋肉は常に鍛えている。上半身で攻撃を受ける支柱の役割を果たすだけでなく、大殿筋、大腿四頭筋は攻勢に転じた際にしなやかな攻撃を繰り出せるバネとして機能する。


 幾度となく攻撃、防御――千切れて編み直され、チタンのような柔軟性と堅固さに適ったヨトゥン=ハイは、声を張り上げた少女のか細いのどに。


 ――た――。


 シノの視点は周囲をきょろきょろと窺って、立ち上がったエイルで固定される。誰が自分に叫んだか最初は判らなかった。


「……エイル、どの……?」


“そうだ、言ったのはこの私だ”とシノに深々と首肯したエイルは言った。


「……わかってます、シノさんに、こんな……こと言える、資格、ないって。私がシノさんといた時間は、アカガミ君、セツナさんにくらべるとずっと少なくて……、でも、だから――――そんな“かなしい”こと、言わないで……!」


 焚き火の高熱に当てられたエイルの顔が牡丹と黒百合のような明暗に分かれる。


「いっしょに、屋敷でご飯を食べました。かわいい服を着せ合いました。セツナさんに――――“ひどいこと”されそうになって、傷ついたシノさんに、私も深く傷ついて。いろんなこと、したじゃないですか」


 自分が想い人に似せてセツナに造られた複製体だと知らされ、シノは、己が掴み取れる感情の真偽も信じられなくなった。被造された記憶と感覚で夢見に浸るこの心も、ニセモノなら――何の価値もない。


 けれど、と。エイルはシノに教える。


 シノを知る記憶、想う感情――それは一つではないのだと。


「だから、シノさんは……シノさんの、こころ、は……ほんもので、私、わたしが…………ぅう、うぁぁぁぁぁああああああああ!!」


 いきなりエイルが泣き出すものだから、シノも、傍で話を聞いていたヨトゥン=ハイも宥めようとした。けれどどうあやしても泣き止んではくれない。


 一番に伝えたい言葉がしゃくり上げる喉に消され、それが悔しくて涙が止まらない。


 ただ、ただエイルは――許せなかったのだ。シノが自分自身の存在を否定するという事が、エイルと共に過ごしたひとときまでなかった事にされるのが。


 普段から怒り慣れていないせいでいかりの感情がかなしみとなって零れ落ちてしまった。


「……そう、だったな……。エイル殿がいてくれたおかげで、わたしは、わたしを見失わずに済んだ」


 ――ありがとう、わたしを……“ほんもの”にしてくれて。


 感謝の言葉を伝えるのは、今は、これが精いっぱい。


 伝え終わるには――生きるしかなかった。


「かつて、エイル殿に頼んだ事があったな――“わたしだけでもたすけてほしい”って。それがどうやら、現実になってしまったらしい。わたしが願うのは、一族全ての救済、それは今も変わらない。……愚かだな」

「ここを出ましょう、!」


 それから数分間、三人は〈鬼人オーガ〉解放計画を立てた。三様の案を上手い具合に組み合わせ、即席だが形にする事は叶った。


 作戦にヨトゥン=ハイが参加する条件は、エイルを危険な目に遭わせない事。最も危険な役回りを彼は自ら志願した。


「そうだ、エイル殿。もし、自由になったら、貴殿にやってほしい事がある」


 出発の直前に、シノがエイルの耳元で囁いたその願いとは。


 これから来る緊張感をほぐす、何とも可愛らしいらしい頼みであった。


「なに ?」

「女の子同士の秘密です」


 

 

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