第十九章 不変
この世には――唯変わらないものが、二つ存在する。それは水が
不変で、劇的で、それでいて隣人よりも我々のすぐ“そこ”にある概念。天地創造と世界の創生――神々がその末端、最後に付け足した文言。
“この世に活きる
“それ故に、他の生命を
この世界で命を奪わずに生きてきける生命は存在しない。肉食動物は『
命を奪う行為を罪と言うのなら、生を持つ全てのモノが大量殺戮者に当たる。
けれど、この世で、殺人以外に罪を犯す生き物がたった一種のみだけ――
そのうちの『一匹』が、暗い地の底で這いつくばりながら呻いた。
傷ついた身体はとっくに再生し血も止まっている。骨折した手足と胴も問題なく駆動した。切断された頸椎から頭が新たに生えたお陰か前より考えがすっきりまとまる。
それ故に――ヨトゥン=ハイは、少女に憤怒した。
エイル=フライデイにこの洞窟に突き落とされた。思い起こされる記憶は
だというのに、…………それなのに、エイルは!
「あ ア アァァァアアアアアアアアアアアアアアア!」
血反吐をぶち撒いたようなヨトゥン=ハイの咆哮に洞窟は夜泣きの如く震えた。
裏切られた。エイルに――
やはり人は。――側に落ちていた岩を殴り割るヨトゥン=ハイ。挽き肉になろうが腕は一瞬で再生する。
エイルの力によって癒されたのが一層腹立たしく、ヨトゥン=ハイは手当たり次第に目についた物を壊した。
やはり、人は罪深い。どんな生物よりも。
生きるためにと、騙し、企み、そして裏切る。
しかしいつから欺かれていた。旅をしていた時か? 村にいた時か?
もしかして……
だとしたら、それはとんでもない裏切り行為である。トロルの子どもを助けたフリをして村に潜入し立場が危うくなると旅に同行した。怯えた素振りをして誘導し、どこまでも付いてきて、安全だと判った途端――。
なんとおぞまじい。あそこまで
――ゆるさない――ゆるされない――。
最悪にもというか不幸中の幸いというか、大山に張り巡らされた洞窟は長く深かった。〈
だがそれまでに肉体は回復し、ばかりか原生の魔物と戦いさらに力を増す。その過程で、彼女に近付いていると実感する度に、憎悪は刻み込まれるであろう。
なんということはない。いつもやってきたことだ。スキルで再生されれば、再生の止まるまで斧を振るい続けよう。一晩中、三日三晩――季節が巡りめくその
「おれ は えいるを ころ――――!」
決意表明しようとしたヨトゥン=ハイ。彼の生え変わった頭に。
残響は、轟いた。
『たすけて! ――おにいちゃん!』
「…………“と”…………」
ヨトゥン=ハイが掲げた
エイルの声ではなかった。ヨトゥン=ハイに助けを
だが、あの
幼くも、エイルには出せない芯の太い慟哭。
もう夢で何度聞いたかも判らない“声”にヨトゥン=ハイは膝を折った。逃げる兎を追うようにやってきた追憶に怒りがさめざめと鎮まり、やっと冷静さを取り戻した時には、空虚な心にエイルへの陳謝と自己に対する強烈な嫌悪が満たされた。
エイルは、ヨトゥン=ハイの疑った通り裏切ったのかもしれない。あの状況で、エイルは自らの意志に従い闇底に手を伸ばした。脅されたのでも何らかの精神支配を受けたのでもなく。
なら。何が少女をそこまで駆り立てた。結果を見ればエイルのした事は大変な裏切り行為である。
ならば仮に、エイルがヨトゥン=ハイを突き落とさなければ、どうなっていた? ――襲撃者を庇い罷免を訴えれば。ヨトゥン=ハイに向けられていた、エイルを
あの時のエイルは、ギリギリまで迷っていた。突発的にヨトゥン=ハイを突き落とす最後の最後の……最後の瞬間まで。
生きたい。死にたくない――強烈な生への衝動がエイルを駆り立てた。如何に超常のスキルを保有していようと本能は遺伝子に刻み込まれている。
トロルに育てられた――“彼”もまた。
エイルをあそこまで追い詰めたのはあの領主に少年、姫を自称したあの〈
だが、これらの事態は全て、ヨトゥン=ハイがもっとしっかりしていれば起こりはしなかった。赤髪の少年の来訪も〈
だと……いうのに。再会したエイルを救出しようともしなかった。離れないと誓ったのに。『裏切られた』と一方的に決め付け錯乱し、今もひとり怯えている彼女を手に掛けようと思った。
騙し、企み、裏切る。
醜悪と揶揄されているが戦いを好まないトロル――その生態から激しく逸脱していた。
「これ では まるで ――!」
言い淀んだ口に
これが、エイルを助けるのに最も有効な道筋だった。今ヨトゥン=ハイがすべきは怒ることではない。
破壊ではない。
今、彼のいちばんにすべきは――――
――“穴を掘ること”だ。
ここからエイルのいる場所までを穴で貫通する。
岩盤に腕を弾かれようが、湧き出た鉄砲水に打たれようが魔物と鉢合わせようがヨトゥン=ハイの“衝動”の妨げにはとても足りなかった。
そして結末は、前章の末節に折り返す。
☆★☆
『安全な場所』に運んだといっても霊山はセツナの土地。小石一粒まで彼が支配している。
だがおよそ逃げ場のない窮地でもヨトゥン=ハイは潜伏に自信があった。
図体の大きく俊敏に動けないトロルは“忍ぶ”事に掛けてはどんな種族にも負けない。森、古城――身体が収まり敵の目を欺ける空間さえあればどんな場所でも棲み処にする。
身を隠せないトロルは、たちまち殺される。こうしてヨトゥン=ハイ達が逃げられるが、トロルの敵はセツナのように一人に限られない。
世界のありとあらゆる地域、国家、宗教、団体で〈トロル〉を殺そうと行進する足音に地が揺らいでいた。
唯一、この世で安全の保障されているトロルは、エイル達くらいだった。ヨトゥン=ハイに魔力を感知することはできないので気付いてはいなかったが落ちた洞窟は山の内部でも鉱物に含まれる魔力値が高かった。ヨトゥン=ハイが落ち、エイル達が来てもうずいぶん経っているが、あと数時間はじっとしていてもセツナには見つからない。
魔力を吸い上げ、力に変える事ができるあの〈ツノ〉は、魔力に強く反応する性質があった。それが奇跡的に、このスポット周辺の
揺らぐプラズマの光。炎を取り囲んで座る三人の瞬く瞳を
エイルを救出するまでヨトゥン=ハイは洞窟に棲息する原生生物のほとんどの種を狩った。深度が深く光と熱が浸透しないためか地上に比べると生物の質量は小振りだった。だがその獰猛さは名のある冒険者でも手を焼くだろう。地上の手記にまだ名のない魔物とも遭遇した。
そんな中で、ヨトゥン=ハイの体格と丁度並ぶ生き物がいた。
髭の先は行燈のように光を蓄えており、獲物を呼び寄せられる。
空間の微細な振動を捉えた鯰のような魔物は大口を開けっ広げにし獲物を呑み込まんと突っ込んできた。そうやって目の前にいて、動く物体を手当たり次第に食えるよう口は消化器官の内部が見えるほど開けられるよう進化し、余計な躊躇を挟んで狩りが失敗しないよう知能も極端に低下した。
だが今回は、相手が悪かった。
大口に斧を差し込まれ、食道に続く胃袋をズタズタに切り裂かれても魔物は暴れ躍った。激痛に目を剝こうにも瞼はなく、見開こうとした眼球も豆粒程度の大きさしかない。自分を殺した者の顔を最期まで見る事もないまま、鰓から血を噴き、数秒と経たず――死の舞踊を踊り狂った魔物はある一点を境に大人しくなった。
斧を口の中から引き抜いたヨトゥン=ハイは、前の道中でそうしたように特に遜色もなく死体を放棄した。
その――捨て置いた魔物の骨から肉をこそぎ落とし、積み合わせた骨塚の上で石同士を打つと起きた火で三人は暖を取った。
火の起こし方はシノが教えた。この“
〈
――この“記憶”も、セツナが創り上げた幻なのか、定かではない。今の今まで疑問を疑問と認識してこなかったのだ、唐突に吹き込まれた真実を信じろと言われても受け入れるのはむずかしい。
「……。……。…………」
沈黙が、重たかった。
会話の話題はない訳ではない。どころか、三人とも話したい事がいっぱいだった。けれど会話に導入する糸口が見つからないのだ。
火柱を隔てたヨトゥン=ハイ。エイルを
兜を脱ぎ、無防備になった視界、脳で感じるエイルの気配に彼は――
そんなヨトゥン=ハイの挙動に対し、エイルは、別れた後に紆余曲折あって疑似的ながらも“視力”を手に入れた事を
委縮したヨトゥン=ハイの所作は――エイルに筒抜けだった。エイルも逃亡から落ち着いて謝罪する好機を狙っていたが、相手の動揺を、裏切りに対する非難だと誤認し、切り出そうにも切り出せない。ずるずると引き延ばすに連れて噤んだ口がどんどん固くなった。
互いが、互いに気を遣うあまり――両者の間は絶筆に尽くしがたい
「……君達二人を、安全な場所まで逃がそう」
ずっと考えていたんだが、と。
「安全な場所……って、どこですか」
「決まっていよう――――“わたしのいない場所”だ」
シノは膝を抱えた。呟いた声音は小さな――火の失せた蝋燭から尾を引く白煙のよう。見据えてくる目に水気はない。切れ目の入れた双眸はこことは違う、深い深淵と繋がっていた。
炎の熱が、絶望した彼女には、逆にひどく冷たかった。
気遣ってシノがそんな事を言い出したのではない、とエイルは、言い出す前から判っていた。自分が生まれてきた理由を知って、突き付けられ、他人に心を割けるわけなかった。
突き離されたのではないので、エイルは、シノを置いていくつもりはない。
セツナが
「 」
思案するエイルとヨトゥン=ハイの目が合った。“目が
ヨトゥン=ハイの“誤算”は、〈
どうやらエイルとこの〈
せっかく決意したのに。謝る前に、エイルを、断らねばならない。切迫する状況を完全には把握し得ないがこの〈
元々は助力を請われたヨトゥン=ハイが巻き込まれるはずだった、が。〈
『 N:アカガミ
IC:F-2356187
HP:1534
MP:1953853
US:『
AS:未開放 』
あの研究施設で対峙した敵情報がヨトゥン=ハイの視覚の右上に想像される。これまでの人生で“たったの一度だけ”
無論、子どもに後れを取るようなら『
だが、少年の
時には、
この世を創り給うた神は、被造物をよほど
だが、産まれた瞬間から誰の助けも必要としない者は一定の周期で現れる。“神童”とは、神に愛された才能を妬む差別的な意味を含むことがままあるが。
ならあの少年は、授かったその愛を、一体どこまで自覚しているのか――彼は、果たして“どちら”なのだろう。
あのアカガミには一度エイルを
潜伏先が掴まれていない以上――〈
やっと、正常な状態に戻ったというのに、エイルは、今にも死に絶えそうな少女から一歩も離れようとしない。
火中の栗を拾えば、エイルの手が
ヨトゥン=ハイは見たわけではないが――エイルはここに来て深く傷付いた。もう十分すぎるほど。
「トロルも、わたしとエイル殿は共にいるべきではないのを、知っている……」
苦笑しながら、一刻も早く下山を希望するヨトゥン=ハイにシノは頷きを返した。
「今からアカガミの所に戻る。山を下りる時間くらいは、稼がねば、な……。こんなことに巻き込んでしまった、せめてもの責任に」
「――……戻って、シノさんは、どうするんですか」
「わたしとエイル殿じゃあ、住む世界が違ったんだ。エイル殿にもう逢えないのは、そうだな…………やっぱりさびしい、すこしだけ。でも、エイル殿が気に病むことではない――」
わたしは、
「最初から最後まで、つくりものだったんだ」
まるで岩肌を揺るがすほどの――とは、それは
その声に、ヨトゥン=ハイは腰を下ろした小岩から仰向けに転倒しかけていた。戦いに
幾度となく攻撃、防御――千切れて編み直され、チタンのような柔軟性と堅固さに適ったヨトゥン=ハイは、声を張り上げた少女のか細い
――
シノの視点は周囲をきょろきょろと窺って、立ち上がったエイルで固定される。誰が自分に叫んだか最初は判らなかった。
「……エイル、どの……?」
“そうだ、言ったのはこの私だ”とシノに深々と首肯したエイルは言った。
「……わかってます、シノさんに、こんな……こと言える、資格、ないって。私がシノさんといた時間は、アカガミ君、セツナさんにくらべるとずっと少なくて……、でも、だから――――そんな“かなしい”こと、言わないで……!」
焚き火の高熱に当てられたエイルの顔が牡丹と黒百合のような明暗に分かれる。
「いっしょに、屋敷でご飯を食べました。かわいい服を着せ合いました。セツナさんに――――“ひどいこと”されそうになって、傷ついたシノさんに、私も深く傷ついて。いろんなこと、したじゃないですか」
自分が想い人に似せてセツナに造られた複製体だと知らされ、シノは、己が掴み取れる感情の真偽も信じられなくなった。被造された記憶と感覚で夢見に浸るこの心も、ニセモノなら――何の価値もない。
けれど、と。エイルはシノに教える。
シノを知る記憶、想う感情――それは一つではないのだと。
「だから、シノさんは……シノさんの、
いきなりエイルが泣き出すものだから、シノも、傍で話を聞いていたヨトゥン=ハイも宥めようとした。けれどどうあやしても泣き止んではくれない。
一番に伝えたい言葉がしゃくり上げる喉に消され、それが悔しくて涙が止まらない。
ただ、ただエイルは――許せなかったのだ。シノが自分自身の存在を否定するという事が、エイルと共に過ごしたひとときまでなかった事にされるのが。
普段から怒り慣れていないせいで
「……そう、だったな……。エイル殿がいてくれたおかげで、わたしは、わたしを見失わずに済んだ」
――ありがとう、わたしを……“ほんもの”にしてくれて。
感謝の言葉を伝えるのは、今は、これが精いっぱい。
伝え終わるには――生きるしかなかった。
「かつて、エイル殿に頼んだ事があったな――“わたしだけでもたすけてほしい”って。それがどうやら、現実になってしまったらしい。わたしが願うのは、一族全ての救済、それは今も変わらない。……愚かだな」
「ここを出ましょう、
それから数分間、三人は〈
作戦にヨトゥン=ハイが参加する条件は、エイルを危険な目に遭わせない事。最も危険な役回りを彼は自ら志願した。
「そうだ、エイル殿。もし、自由になったら、貴殿にやってほしい事がある」
出発の直前に、シノがエイルの耳元で囁いたその願いとは。
これから来る緊張感を
「なに ?」
「女の子同士の秘密です」
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