第十七章 オーガの少女
シノの大願は、ほぼ成就した。なし崩し的とはいえ街はあの特異なトロルに壊滅され死体が溢れている。生き残った子ども達は、領主とここを放棄するしかない。
角のない
住民であり我が子を外敵に根絶やしにされて、自暴自棄になっているのか。先刻交わした会話からそのような素振りはなかったが。
これも、彼の企みか。奴隷が気付いていない魔術でも使って動向を観察しているのかもしれない。
でも、そうでない――とすれば。捕えてから今日までずっとあれほど辱めておきながら、興味がなくなったと。殺された子ども達と替えの利く奴隷とでは命が釣り合わないのは判るが、一夜を共にした相手を、こうもあっさり捨てるような、そんな真似。
いや、違う。
シノは前提を改めた。
どれだけ姿形が似通っていようが、シノは魔物だ。剛力で、角を生やし、戦を信仰する怪物だった。だからこそ、身寄りのない幼子を実の我が子同然に愛する聖母のようなあの男は、敗残者である魔物を調伏させ、身も心も屈服させようとした。
夜な夜なかかる男の体重に、愛などなかったのだ。
まあ今となってはそれも
それは、神罰か。魔物と一緒にいた少女を匿ったばかりにその魔物に滅ぼされるというこの世界に生きる者にとって最も屈辱的な罰があの炎なのか。
だとすれば、なるほど。――忌まわしい神もなかなか粋な事をするじゃあないか。
名実共に自由となって、
ざく。
ざく。
そんな音が耳に木霊し振り返る。
「エイル殿」
岩陰に身を潜めたシノが呟く。がエイルは手を止めようとしなかった。
振り上げたエイルの手には、シノの視界を通じ見つけた岩の欠片が握られていた。その黒々しく光る岩の切っ先を片方の掌に突き刺す。
ざく。ざく。ざく。
手の甲を貫通した岩の甲から魔力を含有した血液、断裂した筋線維と骨の破片が零れてくる。
「…………」
岩を引き抜いたエイルは傷口をしばしの間観察していた。やがてスキルが自動的に発動し手中に残留した岩の破片を吐き出しながら傷を治癒する。岩に付着した細菌も死滅し化膿もなかった。古傷もなく、手は綺麗なものだった。
だから。またエイルは手頃な岩を見つけて突き刺す。
――どうして、なんで?
治癒に付随し消えてゆく痛みにエイルは訴えた。
「うっ、うぁあああ……!」
呻くような奇声にエイルの喉は震えた。沸き上がる痛みからではなかった。涙が頬を伝う前にスキルが痛覚を消してしまう。
と言っても、目を失った日から涙腺はとっくに枯れていたが。
傷が癒えるその度、掌の感触が鮮明になる。あの頃のまま。
再生を繰り返せば繰り返すだけ、朧気に欠けた記憶に色が戻り、可視化も可能な罪悪感が甦った。
慰めたくて、シノは言った。
「トロルは生きている」
「わかっています! あの人は、今も、生きています。判るんです、私には」
閉ざされたエイルの眼差しの端のヨトゥン=ハイのステータスは消えていなかった。一度は減衰したHPがみるみると上昇してゆく。穴の底まで落ちて負った致命傷が回復していると、彼を生かす本人はすぐ自覚した。
「奴もきっと、エイル殿を責めたりなどしない」
頭がなくなっても敵の本陣に奇襲をかけ、エイルを助けにこようとするような奴だ。エイルの手で殺されても彼女を恨んだりしない。仄暗い地の底からどう這い上がろうと、再生した頭で算段を巡らせている頃合いであろう。
「じゃあ一体、だれが
岩を突き刺したままエイルはシノに問うた。
これなら回復しないと心が踊ったのに、修復する肉は圧迫した岩を砕き、破片を吐き出す。
あの状況で最も危険だった命はシノを始めとした
あれが最善策だった。それを証拠に、シノは今もこうして生きているじゃないか。ヨトゥン=ハイだってまた助けに来てくれる。裏切ったと思われているなら一生懸命説得しよう。時間を掛けて説明すればきっと信じてくれる。
そう、エイルは思えてしまう。不安定で感情に任せた怒りと不安は、論理的で結果に基づいた合理性に凪いでいく。
スキルは、怒りと不安さえ――“回復すべき傷”と判断しエイルから取り去ってしまった。
「エイル殿」
涙を流す事のできないエイルに、シノは頬を寄せた。額を熱を帯びたエイルの額にこつりと合わせて言う。
「
しかしそのシノの〈角〉は今ではアカガミのもの。隷属の印ではエイルの気持ちを汲んでやることはできない。
「でも私、シノさんの嫌いな……」
「ああ。エイル殿――其方は人だ。君がどれだけわたしに優しくしても、
と口では侮っていてもエイルから離れようとシノはしない。
その理由を、きょとんとするエイルに告白する。
「だけど、エイル殿となら……心を通わせてもいいと思う。セツナの許に赴こうとしたわたしを、たったひとりで、追い掛けてくれた君となら」
苦しいというかつての気持ちすら忘れてしまっていた何度目かの夜に、それを思い出させてくれた人がいた。死んでいた感情に火を灯し空笑いしていた鬼を泣かせた少女がいた。
「そう慌てるな、エイル殿が平穏以外の感情を忘れても、このわたしが君の代わりに怒ろう。涙を流せない君に代わって、このシノが大いに泣いてやる。ついさっき――どうやって泣くか、思い出したばかりだからな」
――“わたしに、君の怒りを、悲しみを……頂戴な?”
鬼がそう微笑すると、エイルの身体がかくりと力を失い体重を委ねてきた。全てを救われたような顔できゅっと相手の肩を抱く。
「会って、トロルに謝ろう」
「……はい」
「一緒にここから脱出するんだ」
「みなさんで。シノさん、ヨトゥン=ハイさん…………他の
互いの目的を再確認し合う。
まだシノの力を借りなければ立つ事もままならないエイルだが、荒れていた心は元の、……それ以上の平穏を獲得していた。
果たして二人は、目的の場所を見やる。遠目に眺めた際はそれほど以上の感想をエイルは持てずシノに打ち明けられずにいたけれど、向かい風を受け立ちはだかる建造物は呼吸を忘れてしまいそうになるくらい巨大であった。
「エイル殿、こっちだ」
シノがエイルに案内したのは里の隠し通路。
ドーム状の天蓋から垂れる銀製の外周壁をぐるりと回り込めば、草木の生えないごろごろと岩が転がる荒野があった。エイルにシノが話したのは、ここにはかつて〈
天守閣が壊され、発見された抜け穴を塞がれたが、頂上から地下に塞いだためまだ未発見の通路が残っており、そこから内部に侵入できた。
地下には天然の洞窟が蜘蛛の巣の如く張り巡らされていた。
「じゃあヨトゥン=ハイさんもひょっとして!」
「運がよければ途中で合流できるかもしれないな」
シノを先頭に岩陰の窪みにしゃがめば地下に通じる階段が伸びているのが視え、石段を下れば里の真下まで直線に繋がる通路があった。
「あれ、行き止まり……ですね」
「ちょっと待っていてくれ」
二人の道を厚い岩壁が立ち塞がった。
エイルは動揺したが、シノは道の端に散乱しているいくつかの小岩に視線を下げ、これと当たりをつけた一つを足の裏で踏んだ。すると地鳴りのような音を反響させながら壁に左右を等間隔に分ける亀裂が
「もう少しで里が見える。囚われている仲間を解放しよう」
エイルの手をシノは取った。
洞窟には目
エイルが迷わなかったのは、シノが前で道を示してくれたお陰だった。見つけやすいように思えた外の入口もシノの先祖が施した結界に護られ
「でもシノさん。シノさんは……どうして、迷わなかったんでしょう?」
どういうことだい? ――シノは訊ねた。
眼前に見える上り坂を上がれば城跡に築かれた里の家屋のどこかに出られた。
「いやだって、ここ、シノさんが生まれる前にはもうあった秘密の抜け道なんでしょう? ――
シノが“
城が潰された時に、この国の領主は『隠し通路は全て封鎖した』と信じている。証拠となる建物も壊されたか、あるいは現存している家屋を奴隷に使い回すようしているのがタイサイの現状。証拠を探そうとしないのは、それだけ昔に、この国がそう結論を出したという事実に他ならない。
もし、奴隷が隠し通路の存在をこっそり伝聞していたなら、ここは、目を盗んで逃げるにはもってこいだった。外部から侵入すれば仲間を逃がすことだってむずかしくない。――現に自分達がそうしている。
だがシノを始めとした
「それは鬼の姫であるわたしだけが知っているからだ。監視の目が多いから仲間は逃がせなかった」
「おかしくないですか? ――監視がそこまで強化されていながら、誰が、どうやって、……シノさんにここの存在を教えることができたのでしょう」
洞窟にエイルの疑問が響き渡った。
シノに隠し通路の位置、開錠方法を密告したのは何者か思い出せるかエイルは二度、三度と質問を繰り返す。
「それは、それは、………………あれ? ――おかしいな。わたしはこの場所を確かに知っているのに」
角を切られた際に記憶領域にしょう
侵入の方法を教えた人物の顔、声といった特定に繋がる情報が一切欠落していた。
「……こんな大切な時に、ヘンな事
「いや、わたしの方こそ不安にさせるような真似を見せて済まなかった! ――もうすぐだ」
道中でヨトゥン=ハイと再会できなかったために、不安になってシノの気持ちを煽るような質問をしてしまった。ダミーの洞窟のどれかを登ってくると思ったが。
もう大丈夫――エイルはシノについて行った。
「見ろエイル殿、明かりが見えてきた! 我々の到着に気付いて誰かが待機してくれているようだ」
「シノさん、待って――!」
駆け足で出口を目指すシノの手を、エイルはするりと取り損ねた。
出遅れてしまった。が出口に向かわず洞窟の中に身体があっても、シノの目で彼女の間の当たりにした光景を見れた。
「ここが、……シノさんの『故郷』?」
シノという名と鬼のような風体から、日本でいう江戸時代辺りの建築が並ぶ町を想像していた。
が――シノの視界で見る〈
周囲をほのかに照らす橙の光。夜なのに夕陽が見えるのは奇妙と思ったが、これとよく似た光を、エイルは前の世界で見た経験があった。家族で旅行に行った際、高速道路のトンネルで見、そういった設備に関連する職業に就いた父に聞いた――ナトリウム灯にそっくりだった。
シノが故郷と呼んだその場所は。
どこからどう見ても――なんらかを“製造”する巨大な工場だった。
「本当に、ここでシノさんは……産まれたん、ですか……?」
抜け穴があった場所が病院と繋がっているなら話も早かった。入院経験の長いエイルはそういった施設には機械室なり電気を供給する部屋があるのも知っている。けれど、患者が立ち入る事を許されていない部屋も――医療施設は基本は清潔さを謳った内装である。だが匂ってくるのは消毒液ではなく重油のような重苦しい空気。
じじじ、と点滅する灯りの下にある黒光りする空間。
話に聞いていた雰囲気と異なる様にエイルは戸惑いを隠せなかったが、シノは、その比ではなかった。見開かれた瞳は動揺に震え譫言を繰り返す。
「わたしは…………」
何度も見知った光景が恐ろしかった。確かにここで生まれ育ち仲間と言葉を交わしてきた。記憶は今もちゃんと頭蓋骨の中に納められているのに。
エイルに問われると、改めて思い返された思い出がシノは信じられなかった。
この光景を、こんな景色を――どうして“故郷”と思ったのか。同族を救うと言っておきながら……なぜ、共に想起される町の姿に一切の疑問を感じなかったのか。
――
膠着する二人の横で鉄扉が開く音がした。手動ではなく、機械式のがこんと解放される音。エレベーターのような。
「あそこには……」
眩い白の光が放たれる扉の向こうを指すエイル。
「わからない……。……
混濁する意識と進もうとする肉体がちぐはぐになる。
懐かしい――でも、そのさらに先を思い出すようにシノは扉を潜った。
白の光に照らされて初めて判ったことだが。最初に来た部屋は電気と一緒になにかを隣の部屋に送っていたらしい。配線の横を巡るパイプになにが流れているかシノの目では確認できないが。音の感じ、それとタンクに似た鉛色の機械に設けられた覗き窓に満たされた透明さは明らかに液体である。
汲み上げた地下水をここで飲めるようろ過しているのか。
「この先に、同胞が……仲間がいる」
先陣を切ったシノは背後のエイルに呟いたが、洞窟から薄暗い部屋、そこに大量の光を浴びたせいで前方を視認できない。
じんわり――――網膜が光に慣れてくる、くる…………“慣れた”。
と。エイルの意識に別の感情が流れ込んできた。逆流する、これは、“絶叫”だ。エイルの近くで誰かが悲鳴を上げそうになっている。不安に肩を抱く指の感触がエイルにもしてきた。
「シノさん!」
頭を抱え今にも
人との戦に敗れた――“彼女”の悲しき――末路を。
「これ…………シノさん………‥!?」
そう名を呼んだのは現在エイルが介抱している“そのシノ”――ではなかった。
高い天井。息遣いが木霊するように広い。天蓋を支える柱はガラス製、だが天井に届くまでの高さはない。
柱のように見えた円筒物は柱ではなく――ガラスでできたカプセルだった。金属の土台には操作するためのコンソールがあって、画面もボタンもついていた。
カプセルを満たす羊水に――
そういったものが――空間の至る場所で等間隔に並んでいた。よく見れば、淡く照る羊水には、幼少のシノ、赤ん坊時代のシノもいた。まるで彼女の過去を保存し漬け込んだかのよう。
『どのシノ』も服を着ていなかった。肌には絹が擦れた跡すらなく。
服を、一度も着たことがないのか。
触れた痕跡すらなければ、このシノは、どうやって壺の中に入れられたのだろう。
「――〈角〉が、ある……!」
「角?」
シノの視界をエイルは追い掛けた。確かに彼女の言う通り、シノと“とてもよく似た少女”達には共通して角が生えていた。赤ん坊のは小指の先程度。身長が伸びるに連れて長くなっている。
「お待ちしていましたよ、エイル様――シノ」
『ッ!?』
声のする方――一段ほど高くなっている部屋の奥をエイルとシノは振り返った。
赤い髪に蒼い瞳。角を生やした少年が柱の陰から姿を現す。
「アカガミくん…………ここはなに、シノさんの故郷じゃないの!?」
口を利けないほど衰弱したシノに代わってエイルが訊ねた。
「もちろん、ここは、シノの
「“造った”?」
「あなた方の世界の技術を少しばかり転用したんです。ここまで仕上げるのに、苦労しました。……ええ。とても、苦労しました」
この世界の文化水準を軽視した光景だと思っていたエイルだが、口を歪めるアカガミを見て納得した。
「わ……わたし、は。鬼人の姫で、一族を、同胞を……解放しようと」
そうシノは己の使命を反芻する。だがここにいる仲間は“同胞”と――似ているという表現どころか紛う事なく自分自身だった。
「どうしてここにいる
山びこように飛び交うエイルの疑問。それにアカガミははてと小首を傾げ。
「
“私の側にも”――。
どこか、それが特別にも聞こえるように囁いたアカガミは隣のカプセルに頬ずりをした。
他よりも際立てて大きく設計されたカプセルは神々しい光を放ち部屋の全てのシノを照らしていた。
「“彼女”はいわば、
カプセルで眠る少女は、どの『シノ』よりも見るも無残な姿だった。全身は炭と見間違えるほどに焼け焦げ片足と片腕が一本ずつ欠損している。下顎は吹き飛ばされ意思の疎通は不可能。欠けた頭蓋骨からは大脳がこぼれていた。
「このような姿ですが、ちゃんと生きています。彼女から切り取った細胞を天井の配管からカプセル内に流して培養します。あとはコンソールで好みの人格をインストールすれば――
実践してみましょう――とアカガミはカプセルの一つの画面を操作した。すると今まで虚ろな瞳で浮いていたシノの目に光が宿り、ガラスを叩いて助けを求めた。
排水しカプセルの側面が開き出てくるとアカガミに呼吸器を引き抜かれた。
「げほ、はぁ……いやぁ、たすけて……わたし、町でお母さんとはぐれて……おかあさん! ここはどこ、おかあさんは!?」
支離滅裂なことを喚き立てながらアカガミに縋る。
シノの声だった。
「プリセットされている人格は色々なバリエーションが楽しめます。母とはぐれた町娘、仲のいい幼馴染にあと――――
泣きじゃくるシノをやってきた奴隷二人に引き渡すアカガミ。連れて行かせるシノはまだなにか訴えていたが、感情のない奴隷は機械的に運ぶ。
――シノが、シノを運んでいた。
「なんだ、なんなのだこれは!!? 貴様はさっきからなにを言っている! 奴らはどうしてわたしと瓜二つの見た目なんだ……わたしの同族は、守るべき仲間をどこにやったッ!?」
「ああ、そうでした。そういう“設定”でしたね、『
深々と頭を下げるアカガミ。
心の底から
オーガの少女――そのうちの一人が涙した。
「
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