第十六章 首なし騎士(デュラハン)

 ぱたり、と。アオイは本を閉じた。


 今日はなんだか、いつもより月が高く空に昇って。煌々きらきらと山の裂け目から降り注ぐ光が窓を染める。綺麗――だけど影ができるくらいに眩しくてせっかく寝かしつけたチビ共が起きてしまわないか心配だった。


「すぅ、すぅ」

 

 本を脇に置いて、私は膝元で気持ちよさそうに眠る弟の寝顔を上からぬっと覗いて指で髪をいた。洗い立ての髪は月の光を吸って小金色に輝いていて、触れた爪の先を嗅いでみるとどうしてか、太陽の匂いがほんのりとした。


 今は夜なのに、どうしてなのだろう。


 寝返りを打つ妹のつむじ、いびきをかく弟のもみあげ、服の袖がべろんとめくれ出た弟のへそを嗅ぐとやっぱり同じ匂いがする。


「……アオイのにおいは」


 気になって気になって、がじがじ頭を掻いた指先を鼻に近付けてみる。


 爪の先に古くなった頭皮が挟まった自分の指は、ローストしたじゃがいもみたいな匂い。みんなのよりも焦げ臭くって、それでいて――生っぽいというか。イメージは土から掘り出した野菜だった。


 でも、どうしてか。癖になって顔から手を離せない。


 同じものを食べて家に戻ってからは弟と妹を洗ったのと同じシャンプーで身体を流した。それから寝静まるまでみんなの側を離れなかった。なのに、この、気持ちの違いはなんなのか。


 明日、パパにいてみよう。


「――……いっけない」


 弟達の寝姿に夢中になってまた忘れていた。


 屋敷から借りっぱなしだった読み聞かせの絵本は、今日絶対に返すとパパと約束したものだ。


 この国で本が読める場所は、山の中心にある領主の屋敷でだけ。けれどチビ達が寝る前にご本を読んでほしいとせがんでくるから、領主の許しを得て貴重な本を屋敷から持ち出していた。


 外に出していいのは、絵本だけだった。外の世界の危険な情報から子ども達を守るためそれ以外は厳重に管理されパパは私や弟達を書斎に入れることさえ許さなかった。


 無理を言ってせっかく貸してもらったのに。


 絵本の表紙に描かれていたのはある一人の騎士。綺麗な甲冑に立派な剣を構えている。


 弟も妹も、兄も姉も――私も、この騎士が小さい頃から大好きだった。凶暴なモンスターから弱い人を助けて世界中を放浪する物語の主人公が。


「アオイもよく、おにいちゃんに読んでもらったな」


 絵本を読んで育ったこの国の子ども達は、誰しも旅人に憧れて育った。外にあるのは冒険の数々、待ち受ける苦難を乗り越えて仲間と辿り着く素晴らしい物語。


 外の世界に夢を抱いて山を出た兄や姉の後を、いつかアオイも……。


 と。いけないいけない、本を返しにいかないと。


 窓から中に伸びる月明かりでおおよその時間は量れる。


 この時間は奴隷オーガが強暴になるから“屋敷には絶対に近付くな”とパパに言われてたけど、途中でアカガミと合流すれば、きっと、だいじょうぶだよね?


「…………アオイねぇ」


 本を脇に挟んで出ようとした私の袖を、むにゃむにゃと瞼を擦りながら弟の一人が掴んできた。


「……おしっこぉ」


 一週間前に六歳になった弟の手を急いでいた私は少々強引に剥がした。


「もうおにいちゃんなんだから一人で行けるでしょ?」

「おねえちゃんはぁ……?」

「すぐもどるから。終わったら、ちゃんとちんちんふるんだよ?」


 まだ眠そうな弟を一階のトイレまで案内して私は家を出た。


 まずはアカガミを探さないと、と。私は街の端にある火の見やぐらに走った。そこからは街を一望することができる。この明るさならすぐに見つけられるだろう。


 小さい時から、アカガミは夜な夜な街を出歩くクセがあった。布団からふらっと消えた、かと思うと朝になって帰ってきている。弟達ができて絵本を読む機会が増え私が寝るのが遅くなると、ふらふら立ち上がって出て行くアカガミと何回か遭遇した夜もあった。


 外にいる時の記憶は、アカガミ本人にはないらしい。いくら聞いてもとぼけるばかりで。でも、はだしの裏についた泥でどこに行ったか私にはすぐにわかった。


 パパは。“ほっとけ”と言った。勝手なことばかりする息子にきっと愛想が尽きたんだ。


「いないなあ」


 櫓のてっぺんに登って街の路地裏まで隅々にまで目を凝らしたがアカガミの痕跡を見つけることはどうしてもできなかった。


 光のカーテンがそよぐ山の下の街――寝静まった私達の故郷の夜は本当に穏やかだった。


 ……でも、なんでかな。


“こんな平和も今日でおわっちゃう”って。ここからだと思ってしまう。


「会えるよ、きっと。明日になったらアカガミと。……あの子とも」


 ぐっぱぐっぱと開いたり閉じたりできる両手を眺めるアオイは街に来たあのお客さんを思い出した。手を動かせてこうして櫓のハシゴが登れたのも、エイルが傷を治してくれたおかげだった。


 あの子は、パパとアカガミが、外の世界から連れてきた。絵本の中の世界から。


 緊張して今日はあんましお話できなかったけど、……明日になったら。この夜が終わったら外の世界についていろいろと聞いてみよう。きっと、一日じゃ足りないような冒険をたくさんして、ここまで辿り着いてきたんだろう。うん、そうにちがいない……。


 いつまで、ここにいるのかな。どうしてここに来たのかな。


「アオイも……いっしょに」


 ――なんてね。


「そうだよ。行けるよ! アカガミだっているし、アオイ達も今日まで訓練いっぱいしてきた。今日は苦戦しちゃったけど、魔物ぐらいべつに、たとえば――〈トロル〉とか」


 巨人はみんなのろまでバカだって聞いているし。エイルの回復力とアカガミがいれば外の世界でだって私達は生きていける。


「いちばんの強敵は。…………パパか」


 月のほかに今日は星も見れるくらい晴れている。


「――あれ、あそこ……?」


 パパを説得できるよう星にお願いしようとして、避けた山肌から覗いた夜空を見上げてみたら。


 裂け目の縁には外で降り積もった雪が融けて、それが土砂を洗い流してできた鍾乳石が垂れ下がっていた。円錐型の巨岩は家よりも巨大で、土砂崩れに巻き込まれた針葉樹が張り出ている。


 針鼠の毛のように鍾乳石からせり出したの幹に“それ”が張り付いているのを、私は見た。ちろちろと岩を這い回る影は、遠見からだと蟷螂カマキリに似ていた。

 

 ここからの距離、岩の尺度から――豆粒みたく小さくとも、それは、アオイを見下ろすほどの身丈があった。


「…………あ」


 火の見櫓から身を乗り出す私は、血を吐くように呟いた。


 忙しなく動いていた影が両手に携えた“鎌”を、それはまるで抱き締めるのと同じ動作で鍾乳洞の根に突き立てた。ガキンと金属と鉱物が散る火花が夜風に運ばれて、私の頬を焦がす。


 天井から切り離され重力に乗って落下する鍾乳石。落ちる時間がやけにゆったりとえたのは私の網膜がそう体感したせいだと思ったけど、鍾乳石は一直線には進まず先端は大気の膜に取られ錐もみ状態となっていた。


 先端が平面に接触した衝撃は、山の至る場所で轟いた。塵芥の風に空間はズタズタに引き裂かれ音速の“つき”に鼓膜は破れんばかりに震えた。


 巨人が鉄槌を振り下ろしたみたいな光景だった。けどハンマーなら、よ。


 外から現れたアレは――足だ。


 駆け付けると、大きな巨人の大きな足に、アオイの家族は踏み潰されていた。


「うお、なんだこれ!? 岩が落ちてきたのか」

「みんな起こして、人手が足りない!」


 水をかき混ぜたみたいに粉々になった瓦礫の前は飛び起きてきた子ども達で溢れ返っていた。中にいた兄弟姉妹をなんとか助け出そうと鍾乳石と住居の瓦礫を分けようとしていた。あそこまでないまぜになってしまったら、もう……どうすることも叶わない。


「~~~~! ~~!! ~~~~!」


 叫んだ。岩の下敷きになった弟を。隙間に挟まっているであろう妹の名を。でも、舌がうまく動かない。


 発音はできているのに、聞こえてくるのはぜんぶ意味のない――獣めいた絶叫だった。ところがまわりのだれもアオイに見向きもしようとしない。ひょっとしたら私は、舌も喉も本当は麻痺していたんだろう。


 でも、耳、あと目は。世界を捉え続けようと機能した全ての五感は。


 塵が舞った瓦礫の中から出てきた凄まじい殺気を逃さなかった。


『………………』


 影が隆起する音は、私の叫び声よりもずっと短くて静かだった。なのにみんな動きを止めて見上げる。


 私達によく似た外見みため。腕が二本あって二本の足で地面に立って。


 でも相対あいたいした私達は、これが――人間じゃないって。私達とは外から中身、絶対に違うって頷き合う。


 来訪者は実に禍々しい姿で私達を威嚇した。身体のあちこちから破れた皮膚から見える筋肉は脈動を繰り返しながら血を撒き散らす。胴の上に頭らしきものが付いてないから、てっきりそういう魔物なのかと思ったが。上半身に乗せた千切れた肉の塊は喉仏がちゃんとあって、首をどこかにおっことしたんだとわかった。鍾乳石の下敷きになった時かもっと前から知らないけど。


『kjhgthjjhyhhy!!!!』


 身体に空いた穴には、どれもに前歯も奥歯もあって血を吐き散らしながら悲鳴を上げてきた。貫通した穴には舌がないからなんと言ったか私達には解読不能だった。


「くさ」


 まわりにいた一人が鼻を押さえた。


 私も嗅いだ。土煙と子どもの血に混じって周辺に漂う――巨人トロルの醜悪な臭い。


「あぎゅ……かア゛」


 トロルの太い腕が瓦礫から弟のくびを引っ張り上げた。奇跡的に無傷で生き残ったアオイの弟。意識もちゃんとあって、五本の指に絞められる苦しさに目が涙を溜め震えていた。


 ゴキリと骨が分かれる音がして見ると、トロルの腕に掴まれた弟はだらんと手足を垂らした状態で空を仰いでいた。死んだことに今も気付かず父の名を呟く口、見開いた目から黒い血は涙といっしょにだばだばと溢れて止まらず。


 それから私達は、殺された。蹂躙でも虐殺でもなく。ただ


 握り潰された弟を取り戻そうと放たれた火球はトロルに見事命中した。目も耳も、鼻もないのだから避けようにも避けられない。当然だ。


 身体に張り付いた炎を掃おうとし、トロルは手に持った小さな亡骸をてた。人形みたいでいて、べちゃりと零れた弟は、実に、なまっぽかった。とっくに死んでいたのに。


 二発目の魔法を打とうと男の子が構えた肘から先の両腕が、空中にすっ飛んだのが見えた。


 残骸を踏み潰しながら距離を詰めたトロル。


 松明よりもよく燃える身体から伸びた斧。それはもう見事な意匠デザイン。見た目だけでなく外の世界の武器は威力も想像を超えていた。岩石も絶つ斧に、子どもの骨なんて枝みたいなもので、拮抗できるわけがなかった。


「ぎゃああああああああ!」


 切り落とされた手の先で発動した魔法は渦を巻いていた。それが脳と寸断されたものだからコントロールを失い術者の全身は焼かれた。敵を滅ぼそうとして自ら発現させた炎によって。


 すん。


 匂いが鼻をくすぐった。今日、みんなで食べたあの蛇を焼いた時にいだのと同じ。


 香ばしい匂いにおなかは鳴らなかった。ごはんを食べたばかりでまだすいてないから。


 側でだれかが吐く苦しそうな声がした。私も気分は最悪だった。目はまわるし頭も痛い。


 家族を――人を食べたことがアオイにはまだない。だから同じにおいでもこんなにもちがう。


 のあたり。あたたかい。くさい。おねしょはとっくに卒業したのに。


「みんな……」


 みんな、みんな死んだ。潰された。斬られた。蹴られた。踏まれた。逃げようとしても追い付かれた。


 火が効かないのは、トロルが肌が熱を察知したから。だから水なら当たると魔法で集めた水滴を斬撃に変ると命中。斧を腕ごと棄てさせることができた。


 でも、魔法を使った女の子は『ざまあみろ!』と叫んだ喉を横から飛んできた、その斧で切られた。斬られた箇所からずるずると再生した腕には皮膚こそない。でも筋肉があって動かせたから宙に舞った斧をもう一度取るのは腕を生やすほどにはむずかしくなかった。


「ほ、本かえさなくちゃ、いけないの。パパに……おこられちゃう」


 

 アオイは子どもだ。見たことがあるのは薄暗い洞窟だけ。聞いたことがあるのは水が岩を打つ音だけ。なにも知らない無知な子どもだった。


 けれど、ね――わかっちゃうよ? 目の前のこの怪物に、命乞いは通用しないって。目がないから私が泣いてるのも見えないし耳がないから声も届かない。


「えrrffぎいkじ! ゅyftgyhh!」

「えへへ、なに言ってるか、わかんないよ……!」


 これまで洞窟でどんな魔物に遭っても、それがどんなに小さくて弱くてもアオイは笑わなかった。この世界には私達のように神さまにつくられた存在とは別に創造された恐ろしい怪物がいるとパパに聞かされて、うそだ、そんなのいないと笑う他の兄弟姉妹の中でも、私だけは、唇を噛んで舌を噛みしめ、笑わなかった。


 魔物に傷つけられた腕が動かなくなったあの日から――魔物とはどういうモノか私だけが気付いたから。


 そんな私が、魔物を前にしはじめて笑った。大声で笑った。どんな魔物よりも子ども達が笑って馬鹿にした魔物――のろまでくさい巨人トロルを前に。


そんな私がこうやって笑えたのは、……あの子が魔法をかけてくれたから。


「もう、やだ」


 もう出て行く兄と姉を見送るのはいやだ。外から来たお客様を笑顔で迎えるのもいやだ。


 今度こそあの子と明日、山を出るためにも、今夜ここで本を返さないとなの……!


 外から来たこのトロルにならわかってもらえるような気がした。


「わたし、……あなたとおなじ外のせかい!「――ぼうけんに!」」



 斧がアオイの脳天を叩くまで私は想い続けた。明日を夢に見続けた。


 一つあった私はまっぷたつに切れて口が別々に喋っていた。足がまんなかで一本ずつになりバランスを崩した私は左右にバタリとたおれた。


 これじゃあ歩けない。もうなにも食べられない。切り分けられた頭から脳みそがこぼれてしまったからも……う、……な、……も………………か、んが……。


 あーあ。パパ。


 アオイも、とうとうしんじゃったよ。


☆★☆


 火の見やぐらから射出された矢をヨトゥン=ハイは避けず右の肺臓に受けた。

 櫓には物見とは別に外部からの敵襲に対し反撃が可能な弓の放射台が備え付けられていた。山の上部には飛竜を始めとした飛行能力を有した獣が避けあなから餌を求めて飛んでくる。繁殖の時期になれば鍾乳石に巣を作り、飛竜の数は孔を塞ぐほど増える。


 空を飛ぶ獣は、飛行に掛かる負荷をできるだけ減るよう地上の近縁種とは異なった進化を遂げている。だから長距離を狙う分威力の弱い櫓の弓でも骨を貫通できるのだ。


 地上の生物であるヨトゥン=ハイに当たった弓は貫通こそしなかったが、破れた肺胞から空気を含有した血が溢れた。


 苦しんでいるのか。斧を持った身が微かに傾く。


 実に優れた命中精度だった。高台に据え付けられた弓の扱いを年長者から習得するのは物心がついたのを認められてからだが、打ち込んだ当人にとってはこれが、人生で最も腕の立った瞬間であった。


 ところが。苦痛を許容できるヨトゥン=ハイにとって弓の一本や二本当たったところで命の消滅に恐怖すること足り得なかった。


 櫓に取り憑いて支柱を斧で叩き割りながら、射手よりも高い位置まで踏破する。足を壊され横倒しになる櫓から追ってくるヨトゥン=ハイに少年は果敢に弓を射たが、柱を伝い、跳び回り。そうしてヨトゥン=ハイは、全て躱し切ってみせた。


「ばけものめっ!」


 発射装置を叩き潰され瓦礫と空中に放り出された少年は“身体を四つ”に粉砕してくれたヨトゥン=ハイの情け容赦ない攻撃に涙を浮かべ呪いの言葉を吐き捨てた。


 子どもなら目の前の家族の死に怯えてもよかろう。だが地面にぶち撒かれた内蔵と血の臭いに、一時は背筋を凍らせたものの充血した瞼から涙を拭い去ったばかりか多方面から三次元の攻撃が闖入者には有効と、引き絞った弓を地上に着地したヨトゥン=ハイに放った。中には弓ではなく高度な魔法を編む才覚に恵まれた子、高所ではなく地上で武器を手に吶喊する子も。


 さすがは――セツナの子だ。その強かさは父か、戦況を鑑みない愚かさと表裏一体の勇敢な心は母の血が由来しているのか。


 ヨトゥン=ハイは、その悉くを分け隔てなく破壊した。


 感覚器官のほぼ全てを失ったヨトゥン=ハイに、攻撃を察知する手段は限りなく少ない。ないといってもいい。


 だがたとえ目がなくとも、耳が見えずとも嗅覚がなかろうと。彼には痛みがあった。彼から大切なものを奪ったこの国の全ては――肌を撫でる風さえも敵意を持つ列記とした“攻撃”で。ほんのわずかな振動、空気の流れの違いさえで、予知した攻撃に対応した。全てを感じ取れずともよい。エイルが、治してくれる。


 エイルを奪った奴らが憎い。エイルを隠した奴らが憎い。取り戻そうとした自分の行く手を妨げる奴らが――憎い。


 彼を突き動かす怒りは、脳が生んだ信号ではない。頭は今はない。怒りも悲しみもヨトゥン=ハイは自ら思考できなかった。


 これは、この――“怒り”は。肉片の一つ一つから。内臓の一つ一つから。細胞の一つ一つから生じたモノ。再生と崩壊を繰り返す、ヨトゥン=ハイをヨトゥン=ハイとして構成する全ての物質が思考し合い彼をここまで導いた。


 細胞全体が目の前の敵を逃しはしない。奴らの吐く息が、声が当たると肉が腐りそうだった。だから頭を潰した、喉をなによりまっさきに斬り裂いた。


 彼は、今も叫んでいる。身体全体が斧を振る。


 いかり。たけり。さかり。れ狂い。


。かえせ、かえせかえせかえせかえせかえせかえせ――――――――えいるを、…………かえせぇええええええええ!!!!”


 ――そんなに乱暴にしないでよ、アカガミたちはもうエイルおねえちゃんでつながった『兄弟なかま』じゃない。


『……にjtjjはやめに』


 今どこからか、ものすごく不快な声がした気がヨトゥン=ハイはした。


アカガミに気がつかなかった。アオイをさいごに殺したのもこういうことでしょ? ――あついもんね」


 アカガミが何を説明したいのかと言うと。


 ヨトゥン=ハイは敵の位置を聴覚に代替し“痛覚”で測定していた。声帯の鳴動にヨトゥン=ハイとアカガミ――音波によって両者の空気は距離の長短、高低を表皮で掴んで斧をほとんど正確に振るった。“ほとんど”という言い回しに精度はおよそ感じられまい。が彼は今、目も耳も脳味噌もないということを考慮すれば、それが如何にバケモノの感覚であったか。


 だが、やはり今の彼に思想も思考もない。脊髄反射で駆動する手足は攻撃というよりかはまさに『反射』そのもので。ほんの些細な環境の変化で混乱をきたしてしまう。


 そうたとえば、肌が捉える感覚いたみの対句。魔力という知覚不能な概念を自然現象に転化し物質を燃焼する効果を与えた。俗に“火炎”とわれる現象から発せられる、熱。


 アオイの恐怖、接近するアカガミの気配。それに比較すれば火の熱など――と言いたいところであったがヨトゥン=ハイはねつで平衡感覚を乱された。


  一足、二足とアカガミはヨトゥン=ハイに迫る。いや、現われ出でた炎から遠ざかる。


 燃焼する物質が炭化すれば火も勢いを失くす。ましてここは空気の薄い、湿度の高い山のはらわた。魔力の火も酸素なくして燃え続けることは自然の法則に反する。蒸発した空気にヨトゥン=ハイの細胞もものすごい勢いで死滅するが、入れ替わり立ち替わり新鮮な細胞が産まれる。


 アカガミも今は同じ。だからその感覚が理解できた。


 炎を背に、熱を背後に気配を覚えた。気迫にぽつぽつと毛穴が拡がり、がたがたとヨトゥン=ハイの全身が震えた。細胞が。赤血球が。白血球が。血漿が。ミトコンドリアが。デオキシリボ核酸が――怒りに喚く。


 憶えているのだ――奪った者を。姿の見えない仇敵の気配を。彼女をれる目を、耳を奪い名を呼ぶ口を奪い抵抗する力を奪い想うこころを彼女自身と持ち去った、痴れ者が――――いた――――!!


「ttyっゆytrrrrっれrghッツッツッ!!!!」


 一番に奴を踏み潰すのは我と足裏の細胞が大地を蹴る。


 抜け駆けするなと腕の細胞が斧を振るう。


 この世に存在した一欠片の痕跡すら残さぬと胸部細胞が唇、骨細胞が乱杭歯を生やし喰らい付こうとした。


 奴のことごとくを悉くみなごろしに……してくれる!!!! 


「――モンスターが人類種にんげんを殺すのは仕方ない。アカガミたちは食物連鎖のいちばん、した、だから。そして“トロルのおにいちゃん”はアカガミをおこっていい理由がから。だから――」


 ――いいんだよ? アオイをころしても。


 月明かりの直中を、一人の少年が踊る。


 浮いているようにも飛んでいるようにも見えた彼の頭から、光る二本の〈角〉がにょきりと隆起してきた。


 薄衣を翻し宙返りする――野原を無邪気に駆ける兎のよう。なんて綺麗で、煌めいて。


 おぞましいのだろう。


「でもね――よ。アカガミはおこるよ、でないと、アオイたちが安心して天国に行けないもん。アオイ、みんな……みえる?」


 両手を広げ、くすりと口許を綻ばせた。


「みんなの命をアカガミが返す。満足したら神さまのところに行ってね」


 具体的には。

 死んだ命の数だけ、ヨトゥン=ハイには死んでもらう。


 獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすとはよく言ったものだ。


 耳長の子ウサギに一筋縄では届かなかった。


「おたがい死には縁がない、♪」


 宙返り、そして微笑スマイル。無邪気に夜を跳ねる姿は星が散るように輝いていた。


 それは果たして比喩ではあった――が跳躍したアカガミの周囲は本当に光が迸っていたのだ。業炎にも蒼雷にも移り移り変わる粒子はやがて実体を伴い、体を成し、共鳴し合い、振動し。………………。


 周囲一帯を灰燼に還した。


 弾幕に呑まれたあらゆるものが破壊の限りを尽くされている中、ヨトゥン=ハイとその足が食い込んだ地上のみが辛うじて存在を保てていた。


 斧を――縦に振るい、横に薙ぎ、斜めに閃かせアカガミからの攻撃をなんとか凌いだものの、宵闇から降りしきる殲撃と剛力に鉄壁、放射に刺突を全ていなすのには腕があと八本ばかり――足りなかった。


「アカガミの攻撃を防いじゃうなんて、見えてないのにじつはとても器用なんだね」


 地上に降りたアカガミは一万の軍の武装に匹敵する武具をたった一人で凌いでみせたヨトゥン=ハイに心底感心しているが、ヨトゥン=ハイがアカガミの一撃に耐えたのは本能に最も近い感覚を刺激されて反応したに過ぎない。


 一つでも攻撃が当たれば、エイルの回復能力でも完全に身体が復元するのは難しかっただろう。


 驚きはしたが、もう武器の雲が空を覆う気配はなかった。


 奴は――ここで終わる。まずはそのエイルを攫おうと考えた悪い頭を勝ち割って脳汁を啜ってくれよう。

 

 死んだ。手応えがあった。確実にアカガミの頭を叩き砕いたはず。


 なのになぜ、アカガミの弾けた脳は斧を白羽取りにし押し返された――!?


「すごゴごーい、ほんんんとーにモトどおりニ、な、ってる。ちょっとシャべりにくいノは、あたまににあたったカらから??」


 飛び散った大脳の一部が芋虫のように這いながら頭蓋の巣に戻っていった。骨密度が元の数値にまで上がり禿げた傷痕からさらさらと髪が生える。飛び出た視神経が眼球を窪孔にめ当てて、アカガミの傷は完治した。


 エイルのスキルは回復だが、実際に感じてみた感想としては、全盛期への“回帰”に近かった。初撃で消費した魔力も溜まった。感知されない疲れまですっきりした気がなんとなくだが腕を回してみるとした。


 自分のスキルの名も、思い出した。この世でたった一つしかない――父が名付け兄弟姉妹が自身の才能に挫折するまで思い詰めた、アカガミの才能スキル


 ならエイルを取り戻したい彼は、どう思うだろう。さらなる怒りか恐怖かおそれか、もしかしたら――案外、羨ましがってなかよくなるキッカケになるかも。


 ぴょん。


 軽やかに跳ねたアカガミはヨトゥン=ハイを片刃の剣で一閃した。前のめりに倒れそうな姿勢を取りつつ鎖骨から対角線上の肋骨まで斜めに分かたれたその肩先から血が噴き出した。


 こんな傷、どうってこと――……とヨトゥン=ハイはいつまでも待ったが傷は塞がるどころかより深さを増し血が噴く。火山が両断され大量の溶岩が地上を呑み込むように。


 エイルの加護がヨトゥン=ハイの傷を完全に塞ぐまでは、アカガミに殺されたのと同じ数――は再生を繰り返さなければならなかった。


 幸い腕の筋肉は動く。


 出鱈目に狙ってくる両手の斧は刀では受けられないので、アカガミは武器に注いだ魔力の流れを操作し形を変えた。ぐにりと脂粘土のような変化の末、生み出された武器は鎖で繋がった三本の――三つの節に分かれた打撃武器。三節棍だ。それを振り回す様子は身体の一部であるのを自覚するかのようで、ヨトゥン=ハイの斧を掴んだ腕は中空に放り上げられた。


 確かに〈特異巨人ヨトゥン=ハイ〉はその名の由縁に最強。だが、こと戦いにおいてアカガミの前に立てる存在はない。


 少年のそのスキルを言語に表すならば――――“無敗”。そして“祝福”。彼がいくさを望むモノと相対した時、その瞬間、敵の命は終わる。戦場に足を踏み込めば彼の肉体と精神は勝利に最も相応しい状態で止まる。


 そして、そんな少年は武器を持って鉄火場にやってこない。無敗の少年に凡骨の鍛えた武器など不要。武器は持ち手の運命を作用させる。この世の完成した武具ではアカガミの決定した未来に障りを与える。アカガミがどのような武器を持つかは、アカガミ自身で決める。


 アカガミ。朱の髪に蒼穹の瞳を戴きし少年。そんな彼にはやはり神の名こそ相応しい。“アカき血潮を持ち降臨された生カミ”。


 無敵の少年の攻撃に、ヨトゥン=ハイは翻弄された。三節棍の次は斧。不遜にも防御しようとする岩削種ドワーフの斧、岩をも一刀で両断する刀身が欠ける。拮抗する斧を弾き返し今度は槍に転じたアカガミの魔力がヨトゥン=ハイの心臓を貫いた。腕を鉄槌が砕く。鎌が肉を抉る。鉄扇が筋線維を切り刻む。

 

 これこそがアカガミがアカガミたる〈固有ユニークスキル〉――『七戦福滅マハーカーラ』。無限の武器を与えられ猛撃するアカガミを見たセツナが、戦神と福神、どちらの信仰を集める異界の神に因んで命名した。


 だが攻撃を浴びる度にヨトゥン=ハイも進化を重ね、アカガミの駿撃とも言える一方的な攻撃に順応が始まろうとしていた。いなすタイミングが判ってきた。どう斧を振るい防御すれば掴めてきた。


 そうこなくっちゃ――――戦いを純粋に楽しむ不死身の神が、嬉しくなって声を弾ませた。ヨトゥン=ハイのことがもっと知りたい。エイルの絆の深さを知りたい。


 もしかしたら、自分に勝てる――そんな“おにいちゃん”がとうとうできたのかも。


 


「……来てくれた」


 シノの視覚に映るヨトゥン=ハイの抗う姿に胸の内が熱くなるエイルだった。


「これを……あのトロルが、やったのか」


 思わず口を押さえるシノ。まさかこの国で火を見れるとは。子どもの死体を見る日が来ようとは。


「ッ! どうしたエイル殿!?」


 シノが支えようとすると片膝を突くエイルの肩は微かに震えていた。青冷めた表皮からかく汗は冷気を帯び呼吸の拍子も不規則。


「……死体を見たからか、わたしが……!?」


 身近に思い当たる原因といえばそれしかない。防衛本能、種の保存、自己の保身も要因は数えるだけあるが。同族の屍の群れに精神が乱れればそれは至極正常な反応である。


「ヨトゥン=ハイさんは……どうして」

「自制する頭を失い、精神のたがが完全に外れている、といったところだろう。この国の生命を殺し尽くしても奴の怒りはさらに増す――」


 今やトロルは、蟻一匹にさえ憎悪するうらみの塊と化した。


「だが――『七戦福滅マハーカーラ』を発動したあのアカガミと張り合っている。しかもあんな状態で。すごい」

「じゃあこのまま戦えば、アカガミくんも……いずれ」


 催した吐き気を手で喉の奥に押し込もうとしたエイルの一言に、笑みを湛えたシノの周囲の熱に痙攣した頬筋は落ち着きを取り戻した。


「いや、無敵の奴の勝利は揺るがない」


 ぶつかり合う剣戟はシノの鼓膜をつんざく。対等に聞こえるようでヨトゥン=ハイの力は着実に弱っていった。


 アカガミに移植された〈鬼人〉の角が眩しく発光する。エイルの『超回復フルヒーラー』は外部から施術された部位をも全快させるらしい。


 最強のトロルでも、無敵の子に勝てないのか。


七戦福滅マハーカーラ』は周囲から魔力を吸収し別の概念に変換するスキル。つまり、アカガミは生まれつき外部からの反応を許容しやすい体質だということ。魔族の器官を移植し――〈角〉を顕現させたアカガミの体質。


「わたしのせいだ、……ゆるしてくれ」


〈角〉は鬼人オーガが魔力を吸い上げるための触媒。世界に接続し滞留する魔力を感知、吸収の果てに己の力に変えるアンテナだった。魔力を掴む器官が失った鬼人はまさに“無力”、魂を抜かれた人形も同然だった。


 額に触れるシノ。


 自分の〈角〉がアカガミに移植されなければ、トロルにも少しでも勝算の可能性があった。


 そして、どうやら両者の決着がついたようだった。


 追い詰められたヨトゥン=ハイの背後にはアカガミが初撃で放った開戦の合図で空いた大穴があった。岩盤の薄い部分を叩いたことで貫通した穴に一帯の空気、光が深い闇の底に呑まれている。


「おねえちゃん、そんなばしょにいたらあぶないよ」

「エイル殿!?」

「アカガミくん、もうやめてください!」


 アカガミの前にエイルは立ち塞がった。


「ヨトゥン=ハイさんを、殺さないで」

「おにいちゃんは死なないよ。エイルおねえちゃんがいちばん、わかってるでしょ?」


 懇願するエイルにアカガミはむず痒くなった角を掻いた。自分のもののように。


「……えいる……」

「ヨトゥン=ハイさん……」


 エイルが近くに来たことでヨトゥン=ハイの回復速度が一気に増し、脊髄と脳が再生し、再構築された眼球にエイルの姿を認め、冷静になれた。


「おそく なった。ごめん」

「もう大丈夫です。私と一緒に…………。………………」


 ――駄目だった。


 エイルは、ヨトゥン=ハイとは帰れない。


 彼はこの国を攻撃した。我を忘れたと言い訳しても殺された子ども達の魂は帰らない。他の地域はまだ安全だから、逃げれば追手は必ず来る。足のある彼らからは逃げられない。山を下ることさえ。


「えいる ?」

「エイル殿」


 シノが呼んだ。


 感覚を借りるのをセツナに了承してもらえたとはいえ、シノはこの国の奴隷だ。一緒に逃げてもやがて連れ戻される。これまでの対応からエイル、ともすれば虐殺の限りを尽くしたヨトゥン=ハイも領主は処罰しない。この国の秩序は、彼は人間には寛容である。アカガミも治癒能力のあるヨトゥン=ハイを一片の肉片になるまでは攻撃しなかった。敵意はなかった。


 だが――シノは。名実ともに人ではない彼女は、。エイルが、ヨトゥン=ハイが――自分達が逃亡してその罪を全て背負わされる。


「ッ! エイル殿――!! わたしは平気だから、そんな真似しないで。あなたにそんなこと、してほしくない!」


 ヨトゥン=ハイからエイルは一歩身を退いた。行動の意図が読めずヨトゥン=ハイは生えたての頭を捻る。


「うう、ひ……うううううう……!」

「えいる ないて る。だれが なかしたぁああああ!!」


 怒りに再び理性が掻き消える。せっかく生えた頭が沸騰し爆発しそうだった。


「ごめんなさい……ごめんなさい、ヨトゥン=ハイさん!!」


 ………………え ?


 縋ろうとしたエイルを受け止めようとしたヨトゥン=ハイの身体が、宙に浮いた。背中に風を感じバランスを元に戻そうと腰を捻ればますます平衡感覚を失い、闇の底に墜ちていった。


 誰が攻撃した。誰にやられた。――落下しながら直前の記憶を振り返る。


 しかし。それだけ頭を巡らせても思い出すのは。


 ごめんなさいと何度も繰り返しながら自分を突き飛ばす、エイルの泣き顔だけだった。




 裏切った。助けに来た彼を、必死に助けようとした彼を裏切ってしまった。


「シノさん……もう、だいじょうぶ、ですからね……!」


 両手を突き出したままふり向くエイルは、とても満ち足りた笑顔を湛えていた。


「どうして、こんな……」

「え。だって、こうしないとシノさんが、ほかの鬼人オーガ達がどうなるか、わかんないじゃあないですか」


 友を助けた実感に笑いが止まらない。初めて誰かの役に立てた真実に興奮を抑えられない。


「素晴らしい、ああ、実に素晴らしい。私達はあなたを称えましょう。エイル=フライデイ」


 拍手に一同がふり返る。


 エイルの献身に絶賛を贈るセツナが生き残った子ども達を連れてきた。


「それでこそ、それこそ愛の神髄! 人が人たらんとする無償の愛。あなたもそれをお持ちなのですね!」


 エイルを見つめるセツナの白い顔が朱く色付く。歪んだエイルの笑みを恍惚の目でじっくりと観察していた。


「さあ、参りましょう。愛を深め合うのです」


 エイルの手を取ろうとしたセツナの手を、シノが弾き返した。


「だめシノさん! そんなことしたら」


 必死の剣幕で止めるエイルの手をセツナに代わってシノが掴む。


「どうしたのです? そんなに怒って」

「怒るに……決まっているだろう! わたしは全てを奉げた、誇りも身体も。貴様に与えられるモノは全部。なのになぜ、セツナ――貴様はまだ足りないか!?」


 そのまま走り去ったシノの背中が追うなと言っていた。


「追いかける?」

「いいえ、あの子にも考える時間がいるでしょう」


 見上げてくるアカガミの頭をセツナが撫でる。ころころと気持ちよさそうにアカガミは喉を鳴らした。


「みんなの仇を取ってくれてありがとう。鬼の力をとうとうそこまで使いこなしたんだね、えらいよ。さすが自慢の息子だ」

「アカガミはアカガミだよ。パパの自慢の子の」

「そうだね。――――みんな、パパのかわいい子ども達。時が来た」


 一人、一人、忘れないように子ども達の顔を見るセツナ。


「行こう。アカガミ」

「うん!」


 手を取り合うアカガミとセツナ。親子が向かう先は国の枢機――〈鬼人オーガ〉の里。


「大きくなったね。お母さんもきっと喜ぶだろう」


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