第十三章 シノとアカガミ

鬼人シノの悲願を叶えるにも、エイルはこの街、というかこの山についての情報を知らなさ過ぎた。


 幸いというか、エイルを街に出すほどグレートフィールドの警戒心は薄い。たかが小娘ひとり、目立った動きをみせたところで対処はいくらでも可能と思わわれている。


 まして彼女をここに連れてきたのは自分の“所有物”。隷属の呪印を施した魔物の安全性とくれば、家電製品よりも保障される。奴隷が何を企んでいるのかも、ある程度は把握しているかもしれない――と、そんなこと、シノにも判っていた。


 己を縛る――主従という関係は、それほどまでにも固く、逃れ難いものなのだ。奴が自らの能力を過信すれば、印を施した奴隷に対する信頼度も増す。


 ならば、と。追随する人の少女の姿が鬼人オーガの眼に映る。


 グレートフィールドが信用しているのは、奴隷契約を確約させシノを調伏した自身の技術だ。そこに、奴隷たるシノ本体を信頼する余地はどこにもない。


 シノが人という種族を信用できず、一族を解放しようと考えてこられた。奴がシノを微塵にも信頼しようとすれば、情に絆され、本当の意味で奴隷になっていただろう。


 だが、この少女は――エイルは。少なくともシノがこれまでさらされてきた鬼人オーガの常識、怪物はこうあれとされてきた価値観とは異なった感情を向けてくる。


「エイル殿、これから街に出るが、その前に一つ……約束ごとを頼まれてはくれないだろうか」


 視覚を共有するにあたって、シノはエイルと取り決めた。


 言わずもがな、タイサイの主となる産業は奴隷売買だ。”と言えば聞こえは悪い。だが、人道主義を謳うこの国の発祥は、かつて、魔族の圧政を自らの手で解放した奴隷が起こした小さな村だった。そのような歴史から人徳をおもんばかる国は――奴隷の所有も売買も固く禁じられている。今まで誰も犯したことがないのに、人身売買に関する法令は、法をまとめ編纂した書物の冒頭に何百年も記されている。


 そう。この国に住む人々は、法を、一度も破っていない。


 彼女は、彼女達は――鬼人オーガ。人に似た姿をしてはいるが、人に非ず、獣だ。


 当然、その扱いも家畜の豚や牛と同じ。だがシノにとってこの街にいる鬼人オーガはかけがえのない家族であり、いずれ救わねばならない同胞だ。


 家族が飼われている光景を、見て欲しいと望む者がいるのか。仮にいたとしてもシノは違う。


 エイルには、この鬼人について何も知らない少女にはだけだは、最後まで何も知らないままでシノはいて欲しかった。


「…………わかりました」

「いいのか?」

「私は、シノさんの目を、ほんの少しの間、借りただけですから」


鬼人オーガを連れた人間に遭遇する度シノが目を伏せるのをエイルは承諾した。


 快諾の間際に見せた苦笑は、シノ以外の鬼人オーガを見られないといううらみの顕れで。


 この国において魔族の扱いがはっきりすれば、シノの心をより深く理解してやれる。


 そうなれば、この、奴隷の少女に自分は何もしてあげられないという無力さが晴れるかもしれないと思ったから。


 踏み入れた石造りの街並みは、シノの視界を通してエイルの脳を刺激した。家屋の根元は苔の生えた地面と融合し、それが、かつてそこにあった岩を削り出しできたものだというのを改めて想起させる。


「〈岩削種ドワーフ〉から石工の技術を学んだ人間種にんげんが、わたしの先祖に造らせたのだ」


 シノに手を引かれ下り坂を下りるエイルは訊き返した。


「シノさんのご先祖様――〈鬼人オーガ〉って、どんな人達だったんですか?」

「誇り高い方々だったと言い伝えられている。武を重んじ数多の戦を跋扈する無双の戦士だった。だが――」


 シノが呟いた瞬間、エイルの視界が黒に転じた。


 続いて聞こえた、二つの声。


「はやいとこ運んじゃってよね、ほんっと使えない」

「もうしわけ、……ございません」


 弱り切った奴隷を蹴り飛ばす音。木箱が岩肌の地面で大きな音を上げ、坂を転げ落ちる音が遠くに過ぎ去った。


「さっさと拾いに行きなさいよ!」


 自分で蹴飛ばしておいて、飼い主は最後まで荷物を守れなかった奴隷にさらなる制裁を加えた。しなる鞭が鬼人オーガの肌を裂くが、何日も水を飲んでおらず乾いた喉では悲鳴の先も上げられなかった。


「ちょっと、あなた。やめなさい!」


 声からして雌、それも子ども。無抵抗の鬼人オーガを助けようとエイルが思えたのは。


 彼女を痛めつける人類種にんげんもまた、エイルよりも歳の離れた――子どもだったから。


「エイル殿、待ってくれ!」

「でも、あの子……あのままじゃ」

「そんな見えない身体で飛び出したりなんかしてみろ。ここは山のはらわたにある国だ、岩に足を取られ、下手をすればエイル殿が死んでしまう」


 身を潜めた路地の外からは今も鞭の音が聞こえた。破れ、剥かれた肌の内の肉を削ぐ一撃、二撃……。


 やがて鞭の音も止んで、少女の一人ごちた声がした。


「ああ、まーたこわしちゃった。オーガってなんかションベンくさいし、みてるとなんかムカついてくるのよね。パパにまたあたらしいのおねがいしなきゃ。あんたたち、それ、きれいにしといてよね」

『かしこまりました』

「ちょっとまって、そこのオーガ! 死んだオーガみたらきもちわるくなったから、気分転換に、何発かぶたせてよ」

「はい」


 収まったと思った鞭の音が、やり取りの後にまた聞こえてきた。選ばれた鬼人オーガは死んだ鬼人オーガよりも若干体力があったらしく、鞭が身を打つ度に、あぎっ、とか、ぐぇ、だの悲鳴を洩らした。


「これが……鬼人オーガという種族の、今だ」


 どうやらエイルに鬼人オーガの置かれた状況を教えるのに、目は、関係なかったらしい。

 

 こんなことは、この国ではごくありふれた日常の風景だった。“ムカついた”と、明確な理由で殺されたあの鬼人オーガはまだ、他と比べて幸せと言えた。


 理由も聞かされないままに切り刻まれ、踏まれたまま馬に小便をかけられた鬼人オーガが何日も野ざらしにされているのも見た。

 

 その鬼人オーガも、あの鬼人オーガの死体も街の中心に運ばれ適切な手段にのっとって処理される。人類種とは違う方法で。


 人と魔族の関係性の前に打ちのめされたエイルに、彼らの末路を教えたところで益にはならない。形式上でも、外に出たのは、彼女の気分転換を兼ねてなのだから。


「……シノさん……」

「そう、だな。大通りには出るべきではなかった。秘密にしたかったのはわたしなのに……すまない。この路地を少し行った先に休める場所がある。人目もつかないから、そこでゆっくりしていこう」


 開いたシノの視界。今も耳にこびり付いてくる鞭の音に背を向けて入り組んだ裏路地を進もうとするエイルだったが。


 一刻も早くこの場を離れたいという気持ちに嘘はないはずなのに、足が動かない。腱を切られたように。


 路地は一方通行だから迷子になる心配もない。廃棄された生活用品が所狭しと散乱しているがエイルには大した障害にもならない。


 シノのためにも、彼女を連れていかねばならないというのに、何と――不甲斐なかった。子どもが魔族を殺す現場に遭遇したのはエイルにも衝撃だった。だが同族――家族を嬲り殺されたシノの無念さは量ろうとするのも、おこがましかった。


 殺された少女はシノには守るべき臣民だったが、ここの住民にすれば、どちらも、醜く、そして弱い鬼人オーガである。


 彼らの運命を変える力が自分にはない、だからシノは危険を冒して外の世界に助けを求めようとした。


 エイルに衝撃を与えた今回のやり取りも、この街ではごくありふれた日常の一幕なのだった。


 半分足を引きるようなエイルを路地の奥に案内しようとしたシノ。


 背後からぴたりとくっついてくるその気配は、エイルにも信号を送っていた。


737ナナサンナナ? パパの屋敷にいないと思ったら、こんなところにいた! どこにいくの?」


 声を掛けられ立ち止まったシノの奴隷紋を通じて、シノも感じ取った。


 彼女の恐怖、身も竦むというけれど――骨の髄まで凍るような戦慄。


「……アカガミ、どうして……?」

「ついさっき訓練から戻ってきたんだ、……アカガミが連れてきた“おねえちゃん”をどこに連れていくのかな」


 恐怖のあまり明滅したシノの眼に焼き付く人影。


 戦に身を捧げた屈強な鬼人オーガが涙目になって慄いたそれは、小さな男の子だった。あの鞭を振るっていた少女と比較してもずっと幼い。


「あの時は気絶させたから、これが初めましてだね。……はじめまして、

「名前……?」

「パパに言われたんだ。次会ったら、きちんと挨拶しなさいって。アカガミの名前は、アカガミ。はじめて会った人には、こうするんでしょう?」


 名乗る前に人称で正体を明かしたそのアカガミという少年はエイルに握手を求め、エイルはそれに応じた。


 冷たくもなければ熱くもないその手はどうということない、人の手だった。着ている服はシノと同じ白い浴衣のような造形デザイン。耐久力があるとは望めない服は大通りの少女も着装していた。この国の正装とここまでエイルは推察できるが、だとしたら……。


 屋敷のセツナは、エイルがゴードンの街で見かけたのと大して変わらない貴族衣裳だった。服装の違いは身分を明確するためか、だがもしそうなら。


 シノが話したこの国の思想と、いささか乖離しているようにもエイルは感じた。


 そして、どうしてかこのアカガミという少年をシノは、ひどく恐れていた。


 だというのにそのシノの視界を通して認識できるアカガミは、エイルから見ても、独特の雰囲気であった。まだ発展途上なはずなのに顔の造形は完璧に近く整って、この成長を期待してしまう。煌めく大きな瞳は瑠璃の輝きを放ち、異世界でもエイルが初めてお目にかかる種類だった。


 丁度、そこに山の切れ間から眩い陽の光が降り注ぎ、アカガミの髪が獅子のたてがみのように風になびいた。

 

 無垢な少年の笑みに少女の言霊は声帯から消失し、彼女の周囲の世界を静謐な沈黙が包む。


「そうだ! ――アカガミ、おねえちゃんに返すものがあるんだった。残りはアカガミには運べなかったけど、これだけなら持って帰れたから」


 とアカガミは腰許の紐で縛ったなにかを取り出したが、エイルには身に憶えがない。彼と逢ったのも、今日この路地がはじめてだった。


「はいっ! おねえちゃんの大切なもの……なんでしょう?」

「……………………え」


 それは、やけにずしりと腕にくる手応えだった。


 それも当然、アカガミが渡したものが――。延髄を境に見事な切断面。


 その人の全体の重さの中で、人の頭はおよそ十パーセントと言われる。形状からボーリングの球によく喩えられるらしいが。


 木材と塗料を合わせた人工物より遥かに、脳に骨組織、眼球に毛髪。剥いた歯、それらを合計した頭の重量は――活き活きとエイルに伝わってきた。


「…………ヨトゥン=ハイさん」


 兜を目深に被ったヨトゥン=ハイの頭蓋を抱いたエイル自身の姿がシノの視界に映る。両手は気管からこぼれた血と唾液にどろりと赤にまみれていた。


 遠のく意識の中、倒れるエイルにシノが何かを叫びながら向かってくるのが見えた。気絶する自分自身をまさか他人の目で見る日が来るなんて。


 シャットダウンする意識。それは逆に緊張状態を緩和する結果となって、エイルの記憶――聴覚として保存された映像保管庫を刺激した。


 エイルが思い出したのは――少年と初めて逢った夜の出来事。小屋で寝静まっていた所にやってきた小さな足音は、隣のヨトゥン=ハイに槍の雨を降らせた。槍の束はその人物の掲げた掌から音もなく現出したように聞こえ、抵抗される前にヨトゥン=ハイの四つの関節全てを拘束した。


 そして、エイルが彼の名を叫ぶ直前。


 硬い音が、した。骨を断つような。


 最後――ヨトゥン=ハイの首がねられたと思い意識を失う瞬間、何かを叫んだ気がする。彼の名を二度言ったのか、単に悲鳴を上げたのか。


 あるいは、そんな朧気な記憶さえ――ヨトゥン=ハイは死んだ――彼の生首を前にそう信じた意識が見せた妄想だったのか。


(生きてる、きっと……生きてる)


 根拠はない。首を刎ねられてなおエイルの魔法がヨトゥン=ハイに作用するのか使用者本人にも判らない。頭は全体重のわずか一割しかないが、頭蓋骨に納められた脳には、記憶、感情、ヨトゥン=ハイがヨトゥン=ハイでいる証明――魂という、そのような曖昧な定義を確約する、いわば彼そのもの。


 剣と魔法の異世界なら、頭を切られても再生する見込みは十分あった。


 そう思うと、倒れていく自分の身体がほんの少しだけ、軽くなったようにエイルは思ったのであった。




「――――おおかた、準備は終わったよ。はじめられるかい、アカガミ? 内容はいつもの訓練とそう変わらないが、今回確認すべきことは別にある。普段より、丁寧にやりなさい」

「はい、パパ」


 目覚めかけた思考を、そんなやり取りが打ってきた。


 覚醒しても、エイルの視界は闇の中。


 の――はずなのに。


「倒れた時にできた傷がもう塞がってる。パパ、見てよこれ」

「回復というよりかは細胞の再生に近いな。後で組織をいくつか採取しよう」


 大人と子ども――二人の人間に囲まれた自分の姿が、エイルははっきりと視認できた。いや、それもおかしい。眼球は自分から見て外側を向いている。向かい合わせに自身の姿を認識できるなんてありえない。


 光源魔法の白熱の光に浮かび上がるエイルは、椅子に座っていた。両の手足の関節、額は椅子に取り付けられた半月状の拘束具に縛られ、生温い金属の感触が伝わってきた。呼吸をする度に口に嵌められたくつわが口腔内にひっついたり離れたりして苦しかった。


 岩肌から鍾乳石が垂れ下がって部屋。椅子もそうだが、エイルの両側にはパレットに載った様々な道具が並べられた状態で置かれている。


 なにかの処置室かとエイルは最初こそ思ったが、魔法で傷も病気も治るエイルは今やそのような場所には最も縁遠く、患者にしては――扱いが雑であった。


「本当はお客様に我が領土をお見せしてから始めたかったのですが、アカガミが早くに訓練を終えたので、成績を上げた彼の褒美として、要望どおり予定を繰り上げることにしました。そんな非難するような顔をしないで、シノ」


 エイルを別の名で呼んだのは、あの領主――セツナ=グレートフィールドだった。


 シノも拘束されているらしく、頭を振ろうとしてつっかえた。


「パパ、最初は何をする?」

「上官の判断を仰ぐのはいい兆候だよ、アカガミ。まずは前回の課題の復習からにしよう。も、確かめたい」


 セツナが言うと、返事をした少年――アカガミは揃った器具の中でも小さなもの、先端が尖った針のようなものを取り出した。


 それを、少年は繊細な手つきで、エイルの人差し指の爪と肉の間に、ゆっくりと刺し入れた。


「~~~~ッ!? ~~~~!!!!」


 爪の根元を直進し指の第一関節まで針の感触が刺し込まれ、一ミリ一ミリ、針が奥に入る度に激痛が喉を攪拌かくはんしエイルは右へ左へ激しく抵抗した。


「拷問技術が前回と比べずいぶんと上達したね」

「シノでたくさん練習したからっ!」


 褒められたことで勢いづいて、アカガミは取り出した三本の針を、中指、薬指、小指の順にエイルに刺していった。


指の先までは拘束できないにも関わらず、アカガミは正確に、まっすぐとエイルの指に針を入れてゆく。


 どれだけ意識が激痛に侵されようと、視界の主はシノだ。シノの意識が明瞭な限りエイルは己の手が針で穴だらけになるのを最後まで見届けた。


「やめろ、やめてくれアカガミ! 鬼人オーガはわたしだ、実験体ならわたしがなる! 彼女を傷付けるのは、どうか、このとおり」


 シノが必死に懇願する声がしたが、悲鳴と痛みで鼓膜は機能不全を起こし膜がかかったみたいに聞こえづらかった。


 尤も、奴隷の要求を人類種にんげんであるセツナもアカガミも聞き入れるつもりはなかったが。


「痛覚の共有は見られないな。種族、あるいは主従だからそうなのか。人通しの編成でも同じ効果が出るかどうかは危険要素ではあるが」

「――パパ、これ見てよ!」

「再生した指が針を押し出している――スキルは意図して発動したものではない?」


固有ユニークスキル〉は、本人が取得しようとする確固たる意志によって宿る魔法とは異なる力だ。自然現象をも改竄する強力な能力だが、取得の経緯から、意識的に発動するというのがこの世界の定義。


 意識を半分失くした状態でも回復が働くというのは、使用者にとっては大きなアドバンテージ、攻撃を受けても傷を修復することができる。


「はっきり言おう――じつに興味深い。今度は、破損した組織がどこまで元に戻るか検証したい、アカガミ、お願いするよ?」


 落ちた針をそのまま放置したアカガミが次に手にしたのは、岩を研いで作ったメス。原料となる鉱物はこの山ではごくありふれた代物だが、研磨すれば刃よりも薄く骨も楽々寸断でき、包丁や剣、やじりなど加工の用途も幅広い。


 黒光りするメスを手にアカガミがエイルの側に近寄り、シノとセツナのやり取りを拾っていた耳を摘まみ上げた。ふにふにした柔らかい指の感触がしたということは、シノが見間違えたのではなかった。


 先ほどと同じ手癖で、摘まんだ耳をアカガミはメスでエイルの頭部から削ぎ落した。例によってエイルは断末魔の悲鳴にもがいたが、アカガミは特に躊躇せず切除したエイルの体組織を液体の張った瓶に納めた。


「ル殿、イルどー……!?」


(あれ――シノさん、なんか、声、へん)


 片耳を失ったせいで、シノの声が断片的にしか聞き取れない。


 脳内に大量のアドレナリンが噴出し痛みは引いていたが、脳内麻薬にエイルの意識は水に浮いたように朦朧と浸っていた。


「まさか、これほどとは」


 内耳――俗にうずまき管と習う――から耳小骨、鼓膜とエイルの耳が側頭部からぶちぶちと生えてくる様にセツナは驚きを隠せない。記憶を保有しない細胞が、固定もしていないのに規則正しく復元されていく。


「なんと、すばらしい」


 歓喜に震えたセツナの声を、エイルは元に揃った両耳で聴いた。


「おねえちゃん、おねえちゃん聞こえる?」


(――アカガミ――?)


「うん、しっかりと反応してる。やっぱりパパの仮説は正しかったんだ」


 肉体のみならず再生は精神をも正常にしている。気絶もしない。


「えーっとぉ、それじゃあ次は」

「アカガミ! 待ってくれ!」


 シノの目線がアカガミとかち合う。彼が呼び声に反応したからだろう。


「君は以前、鬼人オーガであるわたしを好きと言ってくれただろう? わたしも、アカガミのことがずっと好きだったんだ! あの時は無下な態度を取ってすまなかった。本当にすまなかった! だっだって、鬼人オーガが人の子を愛すなんて、身分違いも甚だしくて――きもちわるいだろう!?」

「…………そんなこと、思ったりしないよ。アカガミは、どんなシノもだいすきだよ。愛してるって、どんなことなのかよくわかんないけど」


 手足を拘束され近付けないシノに代わってアカガミが自分からシノの手に触れた。


「ああ、うれしい、アカガミに触ってもらって、うれしいなぁ!」

「パパが見てるんだから、はずかしいよ」


 照れてふふっと顔を綻ばせるアカガミ。


「それで、アカガミがだいすきなわたしから提案なんだが」

「なぁに?」

「エイル殿は、今日はもう疲れている。休ませてあげてはどうだろう?」

「…………そうだよね! おねえちゃん今日はがんばったんだから、休ませてあげなくちゃだよね?」


 アカガミがエイルの拘束を解こうとシノから手を離した。


 これで、ひとまずは安心――シノは繕った笑みを解いた。


「これが済んだら、休ませてあげよう。今度はじっくり反応を見たいから、737、ちょっと静かにしててね」

「……アカガ――――!?」


 アカガミがシノの背後に手を伸ばしエイルがしたものと同じ口枷をシノに取り付けた。


「これ、737も知ってるでしょう? カバネグライの道管から抽出した毒。猛毒だけど薄めたら強烈な幻覚と媚薬作用をもたらす。数滴でも廃人になっちゃうけど、パパの仮説が正しければ、おねえちゃんはきっと大丈夫だよ!」


 そう言って、朱色に光る注射管の針をエイルの血管にアカガミは刺した。薬物が圧力でエイルの体内にちゅ~と注射され管内の液体が徐々に少なくなってゆく。


「あ。口塞いでたら、効果を確かめられないよね?」


 エイルの口枷を解いたアカガミは膝を折って、彼女の変化をじっくりと観察した。


「おねえちゃん、気分はどう?」

「…………っ、へへ、えへへ」

「アカガミの声、聞こえてる? 自分がだれかわかる? なまえ言える?」

「へへへっへ……ええ……えへへへ」


 その後もアカガミはエイルの意識を確かめようと試みたが、涎をぶくぶくと噴くエイルは声を探すように周囲に反応し、恍惚な笑みを浮かべるだけだった。


 アカガミがエイルに投薬した媚薬は、致死量の五倍の濃度であった。にも関わらずで済んでいる。


「……おねえちゃん」


 エイルが下半身を濡らしたアンモニア臭を指で押さえたアカガミは、ぺろりと舌で成分を分析した。


 湿り気の中に微かな媚薬の味。中毒を脱するためにスキルが利尿作用を促進させた結果だった。


「シノにも中毒を共有している様子は見られない。いけるぞ、アカガミ」


 セツナが指をぱちんと鳴らせば、魔力で編まれた拘束具が霧散し二人は自由になった。


「エイル殿、ああ……そんなっ」

「彼女を風呂に入れた後、寝室に連れていってくれ。? シノ」

「……ああ、やってやる」


 セツナとアカガミが退出した実験室で、シノはひっそりといた。


 二人きりにしても、人類種にんげんは、一切警戒していない。


「ままぁ、ままぁあああああ」


(シノさん、泣いてる? …………あれ、しのって、なんだっけ。ままってだれ。きもちいい、きもちいいのに、なんでないてる?? おなかすいた、すいたってなんだっけ、あえ、だあ……ああ……だあああ)


「エイル殿、こんな姿になって……」


 大の字に手と足をばたつかせるエイル。母を求め甘える彼女は、シノの名前も、自分の存在も忘れていた。


 なにか、大事なものを探して、だれかと旅をしていた気がするけれど。


 とりあえず、おなかがすいたので――おっぱいを吸いたかった。 

 


 

 

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