第十二章 霊山郷

 セツナに訊きたいことは山ほどあった。


 記憶が倒錯している。小屋で眠りに落ちて力づくで攫われたところまでは思い出せたが、それが、どうしてシノとこのような場所で目覚めたのか。


 掌に伝わる感触、舌で感じられる空気の味から少なくとも森ではない。牢か、それに準ずる施設だとエイルは推察した。


 見知らぬ地で、見知らぬ者との謁見。


 今後どのような目にこの男から遭わせられるか不安だが、その前に、エイルには自分を攫ったであろうセツナにどうしても問わなければならない案件があった。


「……ヨトゥン=ハイさんは、ここにはいないんですか」


 逃げ出した奴隷にあれほどの魔獣を送り込める。セツナが国と称したこの『タイサイ』の軍事力は相当な規模だった。


 近くでエイルが意識を取り戻せば真っ先に声を上げるはずのヨトゥン=ハイは、今も無言を貫いている。この周辺に彼はいないとまず考えた方がいい。


 エイルの問いに、セツナは謝罪するように声をすぼめ呟いた。


「それは、私の口からは申せません。あとで判る者に説明させます」

「無事……なのですか」


 不安を吐露させるエイルに、セツナは話題をすり替えようとした。


「私の国を紹介する前に、朝食を用意いたしました。長旅でお疲れでしょう」

「っ! ――どうして、私が、旅をしていると……?」


 連れてこられた理由ばかり詮索するエイルに、セツナの言動に怪しさを見抜けたのは全くの僥倖――運がよかった、としか言えなかった。


 だが改めてみれば妙な話の切り替え方である。山脈を越えてきたエイルが、ゴードンの街から旅をしていると断言できるのは、実際に、その行路を知っていなければおかしい。


 エイルには聞き慣れない国だったが、この『タイサイ』という国が、元来た国の同盟国で、エイルを捕えたのは手配書がここまで廻っていると仮定するのが自然。


 固唾を呑み下すエイルに、セツナが言った。


「手配書はこちらにも届きましたが、我が国に、あなたを引き渡そうと考える者はおりません。それは、この私も含め。ですからそう警戒なさらないでください」


 セツナの一文字一文字には、エイルの気を休ませようとする彼なりの意図が散見された。


 おほん、と咳払いを挟みセツナが話を戻す。


「それで、これから朝食を採っていただくのですが――その眼では、なにかと不自由ではありましょう。そこで、提案なのですが」


 やや間があって、セツナは。


「このシノと――奴隷契約を結ぶ気は、ございませんか」


 会話に間隔が空いたのは、セツナがエイルの隣の鬼人オーガに目をやったからだった。


「“奴隷契約”……?」

「人型の魔族を奴隷として使役すれば、感覚を共有することが可能となります。エイル様の場合は、視覚、ですね。儀式自体は大したことありませんので、よければ、どうですか」

「…………。お断りします……!」


 エイルは、自分でも驚くくらいにセツナに向かって声を荒げた。


 魔族を所有物として隷属させるということは、シノを、己の“モノ”として自由を束縛するということ。


 話して、怖ければ悲鳴を上げ、助けると、頭を下げて感謝する。


 心が在るシノが見て、聞いている前で、セツナは、奴隷という言葉を――何の躊躇もなく軽はずみに使った。許されるものではなく、申し入れを受けるはずもなかった。


「そうですか。まあすぐにと急いた私にも責任がございます。急ぎませんので、ゆっくり考えていてください」


 そう言ってセツナはシノにエイルを介抱するよう命じ、朝食が用意されているという場に案内した。


 エイルが軟禁されていたのは、領主の屋敷の敷地の外れにある奴隷が寝泊まりする小屋だった。


「どうして、生活の場を分けて……?」

「奴隷には特殊な刻印を施し屋敷の者を攻撃しないようしつけておりますが、魔族と同じ場所で寝泊まりするのは、気が休まらないもので」


 臆病な自分に苦笑するセツナに、エイルを支えるシノの手に、微かな力が籠った。


 無差別に殺すのではなく、隷属とはいえ生かすこの国なら、もしくは――などと寛容さを最初は期待したエイルだったけれど。


 躾という単語で同居するシノを指す領主。この国も、魔族を自分達の種とは違うという差別意識の根は深かった。


 外廊下を抜けると、中で待っていたシノが扉を開け一行を迎えた。


 一階の大広間にはすでに料理が用意されていた。エイルが香りから量を概算したが、普段朝に食べる量ではない。今、そして元いた世界も。


 どこの世界でも、貴族の胃袋というのは庶民よりもよく伸びるのか、なんて思いながら席に座る。


「失礼します」


 背後から近付く気配がして、続いてグラスに飲み物を注ぐ音が聞こえてきた。それからすぐさま扉が閉まる音。


 屋敷内にも何人かの奴隷がそれぞれの役目で配置されており、役目を終えるととっとと次の仕事に向かうよう、調教されている。


「…………」


 卓についたエイルは、そこで、セツナが嫌がらせ目的で奴隷をつけようとしたのではないと悟った。


 トロルの村でも旅をしている時も食べ物は直接手掴みだったが、目には見えないがテーブルには――食器に盛られた料理と、食べるための道具が並んでいる。洋風な香りから、恐らくフォーク、スプーン、ナイフもあるかもしれない。


 そして、これは先の滞在先で食べ方と同様に、料理の品目も一品二品で、選ぶのに迷うこともなかった。だが今、目の前にどんな料理がどのような配置で並んでいるのかエイルにはとんと判らなかった。村ではトロルやヨトゥン=ハイが配膳してくれたので不自由は全くといってよいほどなかったが、迂闊に手を伸ばせば、グラスを倒してしまう。


「どうかなさいましたか?」


 セツナの声だった。笑みの交じる、穏やかな。


 食べ物を口に含んでいない――食べる準備がエイルにはまだ整っていない状態で先に召し上がっては招いた側として失礼にあたるで、ことにした。


「エイル殿。わたしと、奴隷契約を結んでくれ」


 来賓に対し仕掛けた主人の“悪戯いたずら”にとうとう耐え切れなくなり、エイルを座らせすぐに背後に下がったシノが再び前に出た。


「でも……」

「わたしは、エイル殿を巻き込んだ罰を受けていない――エイル殿の視覚を共有するのを“罰”と揶揄するのも失礼だな」

「へ、へいきですこれくらい……!」

「その意気やよし。だが、エイル殿の力になりたいと願い出たわたしの勇気も、どうか汲んではくれないだろうか」

「あ……」


 そうだ、とエイルはフォークを取ろうとした手を引っ込めた。


 発言する許可を――シノはセツナから取ってはいない。


 この屋敷における奴隷の立場をエイルは今さっき知ったばかりというのに、察そうとしなかった。


 人間の住む屋敷で、魔族が勝手に発言してはならない。それだけの信頼は、国のどこを探しても存在しない。


 後で折檻を受けると判っていても、シノは、エイルの助けになれればと意を決したのだった。


「……どうすれば」

「道具は揃えておきましたので、あとはシノに従っていただければ」

「“道具”……」


 セツナの言に汗を垂らすシノはシノに対し嫌な想像をした。


 奴隷といえば、隷属する相手にその証を刻む。焼印を入れたり。魔法が存在する場面では奴隷の契約はもっぱら呪の類で紋章を施す場面では相手に苦痛を強いる。


 食べ物如きでシノはそのような仕打ちを受ける――シノの気持ちを尊重したいが、エイルには最後までやり遂げる自信がなかった。


「エイル殿、手を、貸してくれ」

「手、ですか」


 おっかなびっくり、言われるまま、シノの指示に従う。


「エイル殿……わたしは、今から、汝を傷付ける」

「……えっ?」

「奴隷契約は、奴隷となるモノに、主が己の血を飲ませ発動する術式。奴隷が取り込んだ主の血は奴隷の糧となって全身を巡り、内側から支配するのだ……」


 ビーストテイマーが使役する魔獣を獲得するのもこれと同様の方法。飼い主から流れ出た“一部”は隷属者の血肉として、いついかなる場合も鎖で魂を縛られる。意識も神経も、自分の物ではなくなる。


 奴隷が主に危害を加えられるのは、この、一度のみ。


「…………よかったぁ……! 私がシノさんを傷付けるんじゃないんですね!?」

「――エイル殿は一度、誰かを服従させた経験でもあるのか」


 見知ったようなエイルの発言にシノが首を傾げる。


「そ、そんなことしてません! ――ただ私のせいで、シノさんが苦しんだら、いや、だなって」

「そっ、…………そうか。では――失礼する」


 エイルの手の平から指を一本選び取り、シノは口に入れた。


「……っ」

「すまない! 痛かったか……?」


 びくんと跳ねたエイルにシノが謝る。


 エイルの人差し指の第一関節から、シノの牙が滑るように痕を残す。表皮、真皮から肉を裂いた鬼人オーガの小振りの牙の感触。ちゅう、と、体温を吸おうとするシノの濡れた唇が指を包み、ちゅぱ、ちゅぱ……じゅぷりと。


「……ん、ぁ、いやぁ……」


 シノのベロの上で、エイルの血が融けてゆく。人間とおよそ変わらない感触の、鬼の舌。こりこりと乳飲み子が乳房ちぶさを口でまさぐるように、エイルの細い指先を優しく、あたたかく……なぶる。生温かい唾液にちりちりと傷口を刺激するその刺激は、痛くも痒くもあって――こそばゆかった。


「……こ、これで……儀式は終了だっ!」

「……。ああ……!」


 眼帯越しの漆黒の視界に、シノの見ている光景が転写された。


 深紅の絨毯が敷かれた屋敷の大広間。部屋の半分以上あるテーブルに並べられた料理は、一流ホテルのそれが給食と見間違えるかと思えるほど豪華を極めていた。純白の壁には汚れ沁み一つなく掃除が行き届いていて、斜陽の射す窓もよく磨き上げられていた。


 実際は、そうではないのかもしれない……けれど。


 シノの目を借りて見る世界は、自分が目にするよりも、エイルには、眩しかった。


「応急処置を……もう、傷が塞がっている?」

「私、傷が治りやすいのが自慢なんです。ほかに取り得はありませんが」


 セツナが用意した“道具”というのは、傷口を手当てする救急道具だった。


「しかし。どう、だろうか……わたしの目は、汚くは、ないだろうが」

「とんでも、ありません……。これが……シノさんの見る、この世界なのですね……!」


 シノの視界に、感動する自分の姿を幻視したエイル。


「ちっちかづかないでくれ……!!」


 歓喜に取り乱し側に寄ろうとしたエイルをシノは手で制した。


 共有した視界の下――シノの頬の上、瞼辺りが燃えるように熱い。急激な体温の上昇で瞳が濡れていた。


「あいや、す、すまない……! 君を拒絶するつもりは」

「どうしたんですか!? もしかして、どこか身体の具合が」


 奴隷契約は完了し、シノと感覚を同調したエイルの身体にはこれといった異常は検知されていない。だが胸を打つシノの鼓動は早く、リズムに合わせ高速でステップを踏めるかという勢いだった。


 そして、先ほどから――エイルと目線を合わせようとしてくれない。移動するシノを頼りに目線を追うが、反発する磁石のようにしきりに反らせる。


「シノさん……!」


 シノは、胸の前で手を合わせ膝をついた。


(……なんだ、この、気持ちは……!? いたい、くるしい――でも…………?)


 奴隷契約とは、なにもかも、誇りも尊厳も相手から凌辱される禁忌の術。下賤な人間共は、攻撃で弱り切った鬼人オーガの口に手を突っこみ、無理やり血を飲ませ、敵の味にもがき苦しむ様に支配欲をそそられ興奮を覚えて嗤う。


 この回復師も、多少、シノに好感を覚える見た目をしていてもセツナと同じ支配する側の種族。鬼人オーガを虐げ、魔族の怒りになど一切の関心も抱かない。小さな昆虫が大型の動物に威嚇する程度にしか思っていない。


 本当は、エイルの血なんか取り込みたくなかった。


 だったのに、この――触る身体に彼女の一部が巡っていると思うと、意識が熱に浮いて、身体が言う事を聞かなくなる。


 自分から拒んでおいて、エイルの髪の間に指を入れ、肌を揉み、腕と脇腹の間付近をして、もっと――大事な部分に触りたくてしまいそうなる。


「だいじょうぶ、ですか? すいません、私のせいで……」


 子猫みたいに小首を傾げ、愛らしい仕草でシノに謝ろうとするエイルが、シノにはもうどうしようもなくなって。


 心が、乱される。


「――きゅううううう……!」

(やっばぁあああ、かぁいいよぉおおおおおおおおおお……)


 触れたい、さわりたい、何時間でも何日、何ヶ月でもおしゃべりしたい、嗅いでいたい。そんな気はないのにわざと邪険に扱って、落ち込む姿を楽しんだ後、嘘だと言って今度は安堵していく様子を間近で観察していたい。


 今度は指じゃなくて、彼女の唇に、舌で触れてみたい。こんな綺麗で白い服が似合うエイルの味が、まずい、なんてありえない。きっとこの世のどの果物より甘酸っぱい。そうに決まっている。セツナに今、ここで『エイルを襲え』と言われば自分をどこまで制御できるかシノには判らない。


(できれば、エイルの方から……命じ言って、ほしいなぁ)


「シノさん」


 彼女の中でどろどろとした感情が湧き続けているのはエイルにも感じ取れるが、なにに苦しんでいるのかまでは残念ながら理解してあげられなかった。


 ――せめて、彼女の苦しみに、少しでも寄り添えられれば。


『奴隷契約が結ばれたことにより、エイル=フライデイが〈鬼人オーガ〉、奴隷個名“シノ/737ナナサンナナ”を獲得しました。感覚情報の共有に伴い、固有スキルを共有します』


 フレイヤの声が脳に届き、シノの視界の端に彼女のステータスが表示された。



 『N:シノ=/737


  IC:番号外


  HP:255/1179200


  MP:2470-2356/1820390


  US:連結意思/Lv75(使用不可)

     霊体化/Lv86(使用不可)

     誘百神イザナギ(使用不可)


  AS:歌虞千神カグツチ(使用不可)』


「……わたしは、一体なにを……!?」


 エイルのスキルが共有されたことで冷静さを取り戻せたシノは、頭にこびりつく自身の姿に慄き、顔を伏せた。人に、しかもこのような子どもに、あのようなぐろぐろと醜い劣情を抱くなんて……。


「エイルは、もしかして気づいて!?」

「なにを、ですか……?」


 シノを気遣い、わざととぼけている可能性もエイルの性格から可能性はあるが。ひとまず、追求はなかった。


「いや、いいんだ」

「なかよくなられたようで、よかったです」


 杯を掲げながら、テーブルの男がエイルに笑った。


 セツナ=グレートフィールド。その姿は、一国の領主を名乗るに相応なものだった。丁寧に梳かれた髪はエイルよりもなめらか、黒を基調とした衣服も街では流通しないオーダーメイドの特注品。使用された絹糸は一本で国の通貨で最大の価値を持つ金貨一枚分に相当する。きめ細かな肌は、何らかの魔術で清潔と湿度が保たれていた。


「では、いただきましょう」


 シノの視覚を借り、エイルは、久しぶりとなる――人間の食事を食べた。


「うっ!?」

「お口に合いませんでしたか」


 ナイフで切り分けた白身魚のムニエルをフォークで口に運んだ途端、エイルは食べかけの食材を絨毯に吐き下した。


「い、いえ……ちょっと、むせてしまって」


 料理を振る舞ってくれたセツナに礼を失さないよう口ではそう言うエイルだったが。


 ドレッシングのかかったサラダを、よく火の通ったパンを、どれも美味しそうな見た目の料理を見る度に胃がむかむかしてくる。あれだけ香ばしかった匂いにも、鼻を押さえてしまっていた。


 魔族の食卓にすっかり順応したエイルは、もはや、人の食事は一口たりとも受け付けられない身体になっていた。


「すみません、ちょっと……食欲が」

「では、気分転換に散歩などをしてくればいいでしょう。シノ、エスコートを頼みますよ」


 

 余った料理は後で片付けるよう言っておくと、そうセツナは――一人と一匹に領内を散策する許可を出した。


「ああ、そうだ」


 セツナがエイルを引き留めた。


「判っているとは思いますが、感覚の共有は隷属対象の心までは見抜くことはできません。ですが――位置は察知できますよ」


 肩に手を回し、耳打ちするセツナにエイルは背中に寒気を覚えた。


 どこまでも追いかける――これは、明確な“脅し”だった。


「では、いってらっしゃい」


 手を振るセツナに、エイルは振り返そうとしなかった。


 エントランスの外は石段の階段を下りると庭園を両隣に挟んだ中央回廊、それを突っ切れば街全体を一望できる立地になっていた。


 庭園に咲いた花は、花弁が濃い赤――チョコレートブラウンと言った表現が一番近い。葉の色も深く、太陽の光を多く取り込めるよう進化したとシノは解説した。


「なんという花なんですか?」

「カバネグライ。我らの一族がよく愛でた花だ」


 カバネグライは、その名の通り、死体を養分にする一種の冬虫夏草だ。群生しているように見えるが地下では一本に繋がっていて根の深さは横にも縦にも百メートルを超える。地下深くで腐敗した化石からも栄養を吸い取り、年中枯れることない花は、肥料にした生物の血が色付いたものなのだとか。


「この花は、我らの一族が葬送でよく使ったんだ。肉が腐ろうと、そこで芽吹いた花が枯れることはない。この花の中で、彼らの魂は生き続けているのだ」

「綺麗、です……」

「血を吸う花だから、ここの住人には忌み嫌われているがな」


 そんな植物がなぜ領主の邸宅の庭に咲いているのかというと、支配の象徴であった。鬼人オーガの象徴である花を領主の庭に植え、彼らに管理させることで、主人と奴隷の関係を住人に誇示させるため。


「ここに、我が先祖が眠っている。奴隷は、死してなお、飼い主の住まいからは出られないのだ」


 感覚を共有しているとはいえ、遠くを見つめるシノの眼の奥底――鬼人オーガの長に、どのような想いが秘められているのかまでは、エイルには共感してやれない。


「シノさん……」

「なんだか辛気臭くなってしまったな。……ここからは足場が悪い、エイル殿、お手を」

「……はい!」


 気持ちを切り替えようとしたシノ。それに合わせ、エイルも笑顔を取り繕い、先導する彼女の手を取った。


 ふにふにと柔らかいエイルの手。回復系の魔法に特化しているからか感じる魔力が並の人類種ニンゲンと比べ高く、濃い。


 握り返す手は、シノを心から信頼しようとする誠意が顕れていた……。


 ――というか、めっちゃくちゃ触り心地のイイ手だった。


「ぶべべべべべべべべべ!!!?」

「シノさん――!」


 エイルの手を振り払ったシノが鼻腔から大量の鼻血を噴き出して昏倒。


 嗅ぎ取ったエイルの匂いと一緒に、致死率を優に超える血液が刹那の内にシノから失われた。


「寄らないでくれッ!」

「やっぱり、私と契約したことで拒否反応が!」


 またもシノに拒まれた。


 表示されるHPに相変わらず目立った不調は見られないが、高熱を出したようにシノの白い顔は真っ赤、手先は痙攣し、呂律も廻っていない。


「ぜんぜん“兵器へいき”、ほら、みればわかる! だいじょうぶなやつだから!」

「見ても聞いても、ぜんぜんだいじょうぶではありません……!」

 

 庇おうとするシノの心遣いは嬉しい。だが魔族の状態異常に心得がないエイルの体調を改善するにはセツナに助力を請うしかない。奴隷にどこまでしてくれるか怪しいが、他に手もなかった。


「ほら、もう治った。血も止まったし」

「でもまた、体調が悪化したら……」

「エイル殿のせいではない! わたし鬼人オーガだろ、族長だろ? ほかの種族より血の気が多いんだ。だから、三時間に一回はああやって鼻血を出して自分を落ち着かせているのダ!」

「いまの血抜きだったんですか!?」


 地面の血だまりに意気揚々にガッツポーズをするシノが反射するが、あの血液量は明らかにあのままでは出血多量で死んでいた。


「本当に、私は大丈夫だ。だから、もうそのような哀しい顔をしないでくれ。暗い顔より、エイル殿は、笑った顔の方が似合っているぞ」

「…………はい! 私、がんばって笑いま――シノさーん!?」


 太陽のようなエイルの笑顔にあてられ、大足を投げ出し再び鼻血を噴射してひっくり返るシノ。


 もうかれこれ、人一人分の血液を流していた。


「今日はやけに血を流すなぁ。朝駆けにトマトジュースをがぶがぶ飲んだせいかな? けらけらけら」


 鼻の下に乾いた血がこびり付かせながら呑気にシノは笑った。


 鬼である彼女には野菜を摂取する必要もなく、またトマトジュースを多量に飲めばその全てが血液になるわけでもなかった。


「あ。エイル殿――見てくれ」


 仰向けにシノが空を指し示すと、彼女とエイルに陽の光が注がれた。


 太陽を直接見ないよう手を笠に見上げたエイルの目に飛び込んできた、街の天蓋。


 二つの岩山の裂け目に太陽は光を落とし、街を神々しく照らしている。屋敷のある街の周囲の地形は巨大な杯のようになっており、近隣の街があった。


 首都を合わせ七つある街は、屋敷を下った先にある中央道一本で繋がって、まるでのようだった。見渡す国の全体像はゴードンとは比較にならないほど広く、点在する家々は、その全てが――岩をくり抜いて三角屋根の容に加工した純粋な石造りだった。


 暗く、てっきり夜だと思った見上げた空とエイルが立っている地面。湿気しけって滑りやすい地面は岩同士が年月を掛け融解し道となった。


 陽光に白く染まる天地は、まったく同じ素材でできていた。


 山脈を隔てた先に国が隣接している――そうエイルは思っていたが。


 タイサイは、山脈そのものであった。


「あそこを見てくれ」


 落ち窪んだ岩壁、その中心地。


 七つの街に包囲されるように広大な土地があって、中央のドーム状の建物から馬車と思われる乗り物と人型の影が出入りしていた。


「あれが我らの故郷、今は、奴隷の街だ」


 あの巨大な建物にシノが解放すべき民が囚われ、生きたまま角を折られ、奴隷として“出荷”される。外壁には鼠一匹通れるような隙間はなく、逃亡を図っても必ず街の一つを通過しなければならず、すぐに見つかる。


 多くの偶然が重なり、脱出できたとしても――呪詛を施された奴隷が山脈を越えた過去は、数千年経った今も、一度も、達成されていない。


 この国は、外部からは鉄壁の防御を誇り、冷たい岩に囲まれた奴隷には、決して出ることの許されない――天然の牢獄だった。


 そして今、霊山郷に囚われの身となっている一人と一匹の少女は。


 この数千年間で初となる外の世界からやってきた人間と、自力で地上に這い出した鬼人オーガだった。


 

 

 



 

 


 


 


 


 


 

 

 


 

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