第八章 頭

「……そうでなくては、そうでなくてはなぁ!」


 鎧を破壊されみすぼしい様を曝してもなお、立ち上がるアルバートは勇猛に吼えてみせた。


 A級の冒険者が魔物に攻撃を与えられたのを始めて目の当たりにしたのだろう、部下の騎士達は武器を持ったまま硬直している。実力者が地面に転がる光景を信じたくないかのように譫言を呟く輩もいた。


 落とした武器を、ヨトゥン=ハイは再生した両腕でがっちりと拾い上げた。


「ヨトゥン=ハイ、さん……」


 仁王立つヨトゥン=ハイが放つ気迫は、これまでエイルが目撃したどの毛色とも異なっていた。両足を地面に喰い込ませ斧を握る五本指がぎりりと締まる。


 互いに相対する、勇者と魔物。


 群衆が固唾を呑む中、先に名乗りを上げたのは、アルバートだった。


「凄まじい回復力、やはり貴様は俺の見込んだ通りの強敵だったようだ!」


 剣を向けるアルバートはヨトゥン=ハイに称賛を叫んだ。


 エイルの魔法スキルで回復したヨトゥン=ハイに、アルバートは自分自身で傷を癒したと勘違いをしていた。


 その言葉で、エイルもピンと閃いた。


 エイルが元いた世界によれば――トロルという魔物には再生能力がある、などという『設定』があった。剣で斬られようと骨を潰されようと傷が治る巨人を倒す方法は確実な死か、陽の光に晒すか。


 もちろん、この世界のトロルにそのような再生能力はない。自ら剣を振るったアルバート自身もそれは重々承知しているはずなのに、眼前の敵が、『特異巨人ヨトゥン=ハイ』などという名称で呼ばれているせいで早合点をしてしまっていた。


 多くの騎士が、アルバートの言う聞き慣れないトロルの自己修復力に首を傾げる。


 それを見たエイルが、彼もまた、自分と同じ境遇でこちらの世界に渡ってきたのを悟った。


 だが彼の傷が癒えたのは、彼が、トロルではなく、人間だったから。


 エイルは、側らで、身の半分を石に変えられた子どものトロルの亡骸に視線を落とした。


 この子も人間だったら、自分にも救えた。


 ヨトゥン=ハイが人間でなかったら、あのままアルバートに殺されるを黙って見ているしかなかった。


 果たしてどちらの運命を望んでいたのか。涙の枯れてしまったエイルには、もはや選べない。


「……ッ!」


 と、突然の頭痛にエイルはこめかみを押さえた。


 あまりの激痛に声すら上がらない。釘を打つような痛みがエイルの脳に直接訴えかけてきた。


 視界が眩む。意識が溶ける。世界が霞む。


「これは……」


 目を開けていても曖昧になってゆく視界に、エイルは、何かを思い出そうとしていた。


 村が、燃えていた。ここじゃない村の景色。祭服を纏った男達がたいまつを手に家屋に次々と火を放ち熱さに耐え切れず出てきた住人を斬り殺した。


 村人は、トロルだった。


 地面にはそれこそ無数と呼べるトロルの屍が燃えながら転がっており、まだ息のある者は騎士の槍に止めを刺された。


 灰に喉を焼かれ、エイルは叫ぶこともできない。


『やめて、はなして!』


 目の前に停車した馬車に、武装した数名の信者達が捕えた村人の一人を乗せようとしていた。


 捕虜、だが何か違う。手と足の関節を鉄枷で拘束され抵抗できないのを、髪を引っ張り強引に乗せようとする様子は、まるで、犬か、家畜を扱うようだった。


『おかあさん! おかあさん!』


 車輪の側に斃れた雌のトロルに手を伸ばすの腕は、エイルよりもずっと細かった。獣の皮であしらったような簡素な服。泥だらけの顔は涙に濡れ、乱れた髪色は炎のせいだと思ったが、その赤髪は彼女本来のものだった。


『たすけて! ――おにいちゃん!』


で助けを呼ぶ少女の後ろで、騎士が弓を構え、エイルに向かって発射した。


 命中し、射られた肩を押さえエイルは蹲った。


 倒れた先には丁度水溜まりがあって、痛みに苦しむ自分の姿が映し出された。


 雷雲が唸る空に黒煙が伸びる。


 ――ゆるさない。ゆるさい、ゆるさない! ころしてやる、ころしてやる。みんなころしてやる! 


 腫れた顔で、復讐を誓う自分がいた。肩から血を流し、なにもできない在りし日の自分が泣いていた。


 が、それは、エイルではなかった。


 少年だった。赤い髪に灰色の瞳。成長途中の筋肉。


 顔も名前も知らない男の子は、エイルの意識にメッセージを送った。村を焼き、親を殺し、大切なものを自分が奪い反省も後悔もない人間を、一人の残らず見つけ出して殺すと。


 その少年を、エイルは、どこかで逢った気がした。それほど昔ではないいつかに。


「あ、あ、……」


 声を絞り出してその名を思い出そうとしたエイルに、神の啓示が下りる。


固有ユニークスキル、〈超回復〉を発動します』


 女神の天啓が脳に響きエイルの意識は途端に正常を取り戻した。再び気が付くとトロルの洞窟にいて、炎の熱さも少女の姿も、煮えたぎる復讐心もなくなっていた。


「さあどうした、かかってこい!」


 眼前ではアルバートが、ヨトゥン=ハイを挑発していた。


 挑発するアルバートにヨトゥン=ハイは返事を返さない。両手に斧を持ったまま異質な存在感を放っていた。


(私は、なにを……?)


 あの光景キオクは一体なんだったのか。幻覚の中では明らかに他人の姿だった。なのに追体験したような生々しい記憶は、自分のモノと、錯覚してしまうほどであった。


 みじろき一つ見せないヨトゥン=ハイに、アルバートは苛立ちを募らせた。せっかく敵が全快したとゆうのに向かってくる気配がない。


 アルバートはヨトゥン=ハイからわずかに距離を取ると、トロルの死体に剣を突き刺した。


 騎士の注目を惹くと、持てる語彙を出し切りヨトゥン=ハイの闘志のなさを一帯に辱める言動を叫んだ。


「残った戦力は貴様だけだ、だというのに、ここに来て陳腐な睨み合いでこの俺を追い払おうとするとは。もうじき夜が明けるというに何と興の冷めることを。朝までじっくりと戦いを楽しもうではないか――」


 遂に己の前に立つのに相応しい――騎士として新たな武勲の“柱”となるのに不足ない敵の登場に神の代行者たる騎士は思わず声を弾ませた。


 いい加減、逃げるだけの醜い肉の塊を切り刻むのにも飽きてきたところだった。


 ――そんなアルバートの歓喜する声を掻き消したのは。


 跳躍で地面がごう、という音と。振り下ろされる二本の斧が空を切る金切りの唸りだった……。


「ちょ、え!?」


 間の抜けた声をしゃくり上げながらもアルバートの反射神経は頭蓋を叩き割ろうと迫る鉄塊をトロルの死体から引き抜いた剣で防いでみせた。


 衝突する鋼同士の先で、血走る灰の双眸が、瞳孔からアルバートの脳まで殺意を送っていた。


 腰から足先にまで筋肉痙攣を起こしながら何とか押し返したアルバート。しかしヨトゥン=ハイは空中でぐるんと一回転しながら着地し再び武器を構え肉薄してきた。


「〈縮地クイック〉!!」


 スキルを発動し反撃に転じようとした。


 音速を凌駕する斬撃がヨトゥン=ハイの四肢を寸断しようと繰り出される。一太刀でも喰らえば戦闘態勢が崩れ手足は胴と泣き別れることとなる。


 実に一四七という斬撃を、ヨトゥン=ハイは、二本の腕で防ぎ切った。


「ばかな――!?」


 一瞬にも満たない実数で攻撃を受けたのにも驚いたが、剣を振り上げたアルバートが叫ばずにはいられなかったのは――相打ちになって弾き返されたのは、自分の方であることだった。


 驚嘆している間に挟み込むように向かってくる対の斧に頬を左右から切られる。膝から下の力を失くし倒れるように躱して剣を下ろせばアルバートの真似をして体勢を自ら崩した。


 あと一瞬、力を抜くのが遅れていれば鼻の下から顔が真っ二つになっていた。


 だが自身の間合いまで後退するアルバートを、ヨトゥン=ハイの間合いが逃がさない。


退、だと――この俺が!?)


 信じがたい。断じてあり得ない。


 だが、現実はヨトゥン=ハイではなく、アルバートが敵の攻撃を防ぐので精いっぱいだった。


 固有スキルは正常に作動している。防御するアルバートの剣は確実に速くなっていた。


 上から斧が迫る。横から来た殺気が鎧を裂きにくる。下では顎を叩こうと武器が重力に逆らい対抗すれば軌道が斜めに変わった。


 一瞬でも判断を誤れば死ぬ。思考を停止すれば二度と動きはしない。生きるためには動き、考え続けなければならなかった。


 言うまでもなく、――


 慰め程度にしかならないが、一瞬、迎撃を命じられるだけの余裕がアルバートとヨトゥン=ハイの境に生じた。


ころせ!」


 命令対象も、誰を殺せばいいのか指定もせず咽頭を震わせたアルバートに配下の騎士は各々おっかなびっくりと動き出した。


「〈フレイ〉!」

「〈アクアショット〉!」


 二人の魔術師が火炎魔法と水流魔法を唱え、Bランク級の魔術師の詠唱が乗った二つの属性はヨトゥン=ハイの両腕を吹き飛ばした。


「一斉攻撃だ。かかれ――!」


 仰向けになる倒れ込もうとするヨトゥン=ハイに円形に陣形を展開した槍兵が取り囲む。


 師団長まではいかずともアルバートの忠義に応えるべく兵士は日々鍛錬を怠らない。凝縮するように迫りくる兵士の見事な連携によりヨトゥン=ハイの逃げ場は封じられた。


 しかし追い詰めたと確信した人間達は大きな勘違いを犯していた。目が節穴な上官が上官なら、部下も部下であった。


 ヨトゥン=ハイは始めより、逃げてなどいなかった。


 陣形の上へ斬り飛ばされた腕が握っていた斧はヨトゥン=ハイのいる位置に落下した。後頭部を打ちそうになったヨトゥン=ハイにはすでに〈超回復〉が自動で発動し腕は元通りとなっていた。


 受け身を取るヨトゥン=ハイは、落ちてきた斧の柄を、足の親指と人差し指で掴み、倒立姿勢で、回転した。その華麗ながらも暴風を彷彿とさせる足さばきは、格闘技でありながら舞踊の要素も併せ持つ――所謂いわゆる“カポエイラ”のようだった。


 頸椎を切断され胴体と泣き別れた騎士は、叫び一つあげず、地面にした。


「ひゃああああああああ!」


 後方で支援魔法を行っていた魔術師の一人が上げた悲鳴は、立つ拍子に裸足から抜けた斧を口に投擲することで黙らせた。もう一本は索敵にと洞窟の奥から出現した魔獣に命中したが、装甲を施されており大したダメージは与えられなかった。


「くっ、くるな!! 俺は雇われただけの冒険者で、教会の連中に頼まれただけだ」


 犬を巨大化させたような中級の魔獣の後ろに隠れたビーストテイマーが震えた声で命乞いをしていた。


 冒険者の言っていたことが本当だとすれば、ヨトゥン=ハイが見逃す可能性は十分にあった。


 だが、魔獣の牙に、食い荒らしたトロルの肉片が挟まっているのをヨトゥン=ハイに見られてしまっていた。


「こっちくんなよー!!」


 弁解を全く聞き入れようとしない頭の悪いトロルにビーストテイマーは使役した魔獣を消しかけた。脂肪で固く守られたトロルの内蔵も一咬みで千切り取る魔獣は、B級の冒険者が数人がかりで相手しなけえば太刀打ちできない。


 突進してきた魔獣の牙を紙一重で躱したヨトゥン=ハイ。頭を振った狼の頸を抱くように絞め、捻じ切った。


 ごきりと骨が外れる重々しい音が響き、仲間を殺した魔獣は死んだ。


「……なんだよそれ――!?」


 一撃で犬を殺された現実を叫びで逃避しようとした冒険者の腸に、魔獣から剥いだ鎧の薄い側面を振り下ろし、犬にやらせたのと同じ方法で報いを受けさせた。


 トロルの血で洞窟を染めた人間の血で、ヨトゥン=ハイは仲間の無念を洗い流した。


 だがまだ、最後の一人が残っている。


「こんな、ことが――!?」



 数分もしない内に激変した戦況にアルバートが乾いた喉で呟いた。


 ヨトゥン=ハイの強さは完全に見切っていた。トロルにしては強いが体格の小ささを活かした敏捷さに頼るだけで、自身の総戦力があれば討伐は容易かった。


 だが、現状はどうだ。敗北と呼べるのは、一体どちらだ――?


 部下を殺したヨトゥン=ハイが、来る。武器も持たずに拳を握り締め。抜刀状態の剣士に素手すてごろで向かってくるなど、なんと無謀か。


「――まさか、いや……だがそんな!?」


 自身の立てた仮説を払拭しようとアルバートは頭を振った。だが彼の剣士としての勘はあらゆる戦場で勝利を左右し、仲間の命を救った本物の慧眼である。状況を理解し、好機に転じようとする才は――称される師団の中で、たった一つ卓越した取り柄であった。


 これが、ヨトゥン=ハイ本来の強さだとしたら。


 片腕を斬られ、攻撃力をある程度カバーするために口に咥えた武器に、身体の重心がずれ速度と防御力が落ちていたと、再生し五体満足となった敵に考えるのが一番自然だった。


「だが。それでは――!」


 それが本当だとすれば。


 今まで本気で戦っていたのは――アルバート唯一人ということに。


「いやだ――!!!!」


 武器を捨てた騎士は、涙を流して訴えた。助けてくれ、命だけは助けてくれ、たすけてくれ、たすけてくれと、それこそ呆れるくらいに。


 

 だって、勝てないのだから。どれだけスキルに頼ろうと敵はそれを上回る速度と重圧で斬り込んでくる。魔獣を文字通り一捻りする腕力があれば、武器操作で遠距離から攻撃しても剣を掴まれ、奪い取られる。これで殺してくださいと武器を差し出すようなものだ。


 愛妹から伝授した雷霆で焼こうと、岩で押し潰そうと、――どうせすぐに再生する。


「ゆるせ! いやゆるしてくれ! ――ゆるしてください! おねがいします!!」


 最初は偉そうに振る舞ったが、頭を下げ、それでも止まってくれなくてアルバートは名誉も誇りも仲間を殺された怒りも捨て、地面に頭を擦りつけた。なんとも――トロル臭い地面だった。


 アルバートは謝った。噂を信じてあげようとしなかったEランク冒険者に対しても。


 圧倒的な威圧感、一歩ずつ近づいてくる度に生きようとする意志を押し潰されそうになる。眩暈がする、胸が張り裂けそうになる。


 見上げれば、左右の拳を握り締める影が月光の背景にやってきた。


 弱者の言い分は正しかった。


 これが、これこそが――最低辺の魔物の中で畏怖される存在、弱き巨人の怒りの象徴にして人間に絶望を轟かせる獣。


 即ち――『特異巨人ヨトゥン=ハイ』。


「そそそ、そーだ! いいこと思いついた。君も我らが師団に加わるとはどうだろうか!? 君ほどの強さがあれば、師団長最強と謳われる伝説の英雄、我が自慢の妹トールと肩を並べられるだろう。なんだったら俺から推薦してやろう。美味いものも温かい寝床も約束する。こんな黴くさい洞窟で寝泊まりする必要――おい、聞いているのか、……ほんとにすごいんだぞ! 俺の妹は最強なんだぞ! ……人の話を聴け、耳ついてんのか、このトロル!?」


、トロルは全然止まってくれなかった。


(死ぬのか、俺は死ぬのか――誇り高い『新界教』の騎士が、こんな臭いトロルの洞窟で、死ぬ? 俺は転生者だぞ、選ばれた存在なんだぞ!)


 神に選ばれ、この世界でスキルを授かった。転生者を管理する教皇を父に持ち、魔物を世界から滅ぼす使命を与えられた、アルバート=スズキが。


「ヨトゥン=ハイさん、あぶない!」


 尻餅の姿勢でふと見れば、トロルの死体を抱いたEランク魔術師の少女が叫んでいた。


 なんのことかと思った、次の瞬間、アルバートの許まで近付いたヨトゥン=ハイが体勢を崩した。痛みに顔を歪ませ背中を押さえていた。


(――背中?)


 背後には、突撃一番に太陽の秘術を発動させた魔術師がヨトゥン=ハイの背後でなにかを行っていた。彼は、出立する際に街で拾った冒険者だった。Dランクと生憎戦力は期待できないが、トロルを一瞬で殲滅するスキルを持っておりアルバートが直々に仲間に加えた。


 そういえば、と参加の条件を話す中で、彼が興味深いことを言っていたのをアルバートは思い出す。自分には太陽を顕現させる魔法と――魔力封じの作用がある剣を持っていると。儀式用に代々受け継がれ、厄災から一族を守った剣は、見せてもらったが、こちらも少年同様、刃渡りが小さく武器には向かない。


 それを、ヨトゥン=ハイに突き刺した。アルバートに注意の向いている隙に。


「アルバート様、今のうちに……!」


 なんて言う魔術師の少年。大した強さもないくせに、度胸はあったということかとアルバートは感心した。


「でかした――……あれ?」


 武器操作で剣を呼び寄せようとしたアルバートは、詠唱を言うのを忘れてしまった。


 見上げた視線の先、そこには、兜の中からアルバートを睨むヨトゥン=ハイの顔があった。


「――――トール?」


 散々人間に絶望を与えてきた巨人トロルの顔を目の当たりにしたアルバートが最期に呟いたのは、愛する妹の名だった。


「ッ!!」


 振り下ろされたヨトゥン=ハイの足が、呆けたアルバートの腹を貫通した。渾身の一撃で踏み抜かれた腸から吹き出した消化途中の穀物は、休息に仲間と食べ合った粥だった。それがヨトゥン=ハイとその後ろにいた冒険者に飛び散った。


 ぐえ、あぐと潰れた蛙のような声を腹から上げたアルバートを、ヨトゥン=ハイは何度も踏み潰した。怒りに任せ力に任せ、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……。


 二度と、その口が利けなくなるまで。


 やがて、アルバートが瞬きがしなくなったのを確認したヨトゥン=ハイもその隣で意識を失くした。


「よくも、アルバート様を……!」


 血を流し過ぎて気絶したヨトゥン=ハイの胸に、少年は刃を突き立てようとした。彼の顔と服は敵の横で息絶えた主君の血とどろどろの食物に汚れ、鉄と嘔吐物のにおいが鼻をついて嗅覚は完全に麻痺していた。


 ヨトゥン=ハイの胸に刃が刺さるが、あれほどの戦いをしてみせた彼は寝返りの一つも打とうとしない。


「どうしよう、このままじゃ――」


 受けた傷は治癒せず、ヨトゥン=ハイは血を流し続けた。


 このまま傷を受け続ければ、ヨトゥン=ハイは死ぬ。彼も、死んでしまう。


 エイルの視線に先に、魔術師の持っていた杖が転がっていた。杖の先端には宝珠が付いており魔力の流れが視える。


 考えるよりも先に動いたエイルは、杖を取り上げると、ヨトゥン=ハイに復讐するのに夢中になっている魔術師の脳天目掛け――杖を振り下ろした。


 こつん。……なんて音がするだけで、魔術師は無傷だった。エイルの腕力では、ヨトゥン=ハイを守ることができない。


 魔術師がエイルに気付いた。腫れた目に映る、杖を手に震えた少女。


 誰も救えない、守れない無力な少女。


「…………なんだ、お前」


 魔術師は、名前も呼ばないエイルのことは脅威とも思っていなかった。


「あああああああああああああああああああああああ!!!!」


 エイルは魔術師の頭を宝珠で殴り潰した。持てる強さを全て使い、力を振り絞り、魔術師がスキルを発動させ抵抗しないよう。逃げないよう馬乗りになり、魔術の知識を脳漿と一緒にぶちまけた。


 彼らは、エイルの村を焼いた。友達を殺し、ヨトゥン=ハイを、そしてエイルも殺そうとした。彼らは自分達が正しいことをしていると信じて疑わず、人もトロルも関係なく殺して村を焼いた。


 これは、当然の復讐。自分が殺されないようにした正当な防衛だった。


(もう……私しか、いないんだ。私が、ヨトゥン=ハイを守らないと、私が、この人を、殺さないと! 私しかいないんだ……いないんだ!!)


 閉じた瞼に散る血の温もり。杖を通して感じる頭蓋骨の固さ。


 両手を血に染めたエイルは、始めて、誰かを守るその重み、ヨトゥン=ハイが感じていた苦しみを実感した。


☆★☆


 ヨトゥン=ハイが意識を取り戻すと、洞窟の入口から陽光が射していた。


「あっ……ヨトゥン=ハイさん、よかった、目覚めたんですね……」

「えいる」


 目を醒ましたヨトゥン=ハイが見たエイルは、杖を握ったままへたれ込んでいた。身体中のあちこちを血に濡らし、握り締めた杖は先端部が折れ、そこにも血がべっとりとついていた。


 エイルの側に、泣いたままこと切れた魔術師が転がっていた。


「ヨトゥン=ハイさん、奥に逃げたみんなは、無事でしょうか」


 ヨトゥン=ハイとエイルはたいまつを持ち洞窟の奥へ進んだ。


 予想はしていなかったが、明かりに映し出された光景は、人種にんげんはどうか知らないが二人にしてみればあまりにも凄惨で、声も出せなかった。


「……私は、最後まで、なにもしてあげられないんですね」


 呟くエイル。だが二人だけでは村人の全員を弔ってあげることは残念ながらできなかった。


「なら、せめて……私にこれを」


 エイルがヨトゥン=ハイに手渡したのは、魔力封じの宿る剣だった。


「これ、魔力を発動を抑える力があるんです。二回目があるなら、また、ヨトゥン=ハイさんがいいなって」

「えいる」

「わがまま、ですよね、私。私のせいでこうなったのに、まだ、ヨトゥン=ハイさんと一緒にいたいなんて」

「さむ の やくそく まだ  えいる、ひとりに ならない」

「……そう、でしたね。――ヨトゥン=ハイさん、目が視えなくなる前に、ヨトゥン=ハイの顔、ちゃんと見せてくれませんか?」

「…………うん」


 ヨトゥン=ハイはエイルの身長まで膝を折ると、兜を脱いだ。


 そこにあった赤毛の青年は、どこからどう見ても、人の顔をしていた。


「えいる ……ごめん」

「私も、ヨトゥン=ハイさんになんてこと! ヨトゥン=ハイさんを、一人で戦わせてしまって」

「えいる ありがとう えいるが たすけてくれた」

「私の方こそ、守ってくれて……ありがとう……!」


 ヨトゥン=ハイの胸に顔を埋めるエイル。もう彼の顔を見るのも最後になるのに、目を合わせられなかった。


「私、これから、遠くに逃げようと思います。……よければ、ご一緒して、くれませんか?」

「えいる め みえない ひとり あぶない」

「…………もう」


 こうして、再び盲目となった少女は、世界中から嫌われているトロルに味方をする奇妙な青年と早朝から旅に出た。冒険というにはあまりにもおこがましい、逃亡の始まり。


 これから、青年と少女には苦難の連続が待ち受けることになる。誰もが一度は憧れた異世界での生活。悠々自適、何の制約も苦労のない日々。


 その真実は、あまりにも残酷で。出逢いは決まって、絶望と悲しみから始まるのだった。


 そして。二人がトロルの村に戻ることは、二度となかった。

  


 


 

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