第七章 腕

 少女は、心の何処どこかで――安堵していた。


 何があっても、きっと大丈夫。どんな最悪も、目を覆いたくなる悲劇も“彼”が来てくれる。ずっとそうだったじゃないか、お互いを知り合う以前から。


 だから。エイルは笑えた。失ったはずの笑顔を取り戻せた。恐ろしい魔物が、大きな身体にどんな優しい心があるのかも知れた。


 だが、今さら過ちを悔いても遅い。


 守ってくれる? きっと大丈夫? 


 ――あれだけの目に遭い、あれだけ醜いモノを見ても、まだ成長しないのか。


 闘いで“彼”が優勢だったところなど、エイルは、知らなかった。


 ここに、平和などなかった。


 いつから――最初からだ。目の視えない少女が来るずっと以前から、村は滅亡に瀕していた。トロル達は常に外界からの攻撃に怯え、陽の光の届かない穴蔵で蛆のように隠れ潜んでいたのだ。


 エイルは、彼らの死の――きっかけにすらなれなかった。洞窟の位置を『新界教』の軍勢が特定できたのは、逃亡した罪人の視力が回復したことによるが、トロルの滅亡の直接的な原因ではない。分水嶺で維持してきた幽かな安寧が崩壊した瞬間に、立ち会っただけに過ぎなかった。


 トロルの血が流れたのは、世界が、かくあれと望んだからだ。

 

 では、なぜ防衛策を取らなかったのか。


 その解答こたえは、エイルの目の前にある。


 どれだけトロルが防御を固めても、人種にんげんには通用しない。彼らは神に愛され、祝福を受けている。精神は付与されたスキルによって強く、魔物よりも弱々しい肉体は“数”の力で互いを補い合える。


「ヨトゥン=ハイ、さん……?」


 呆然と呟くエイルの先に、“彼”がいた。冒険者の間で『特異巨人ヨトゥン=ハイ』とおそれられた、一人の人間が。


 彼が来たからには、もう大丈夫。――本当に酷い話だった。


 少女の仲間を殺し、追手を射抜いた小さな巨人は。


 突如、剣を手にやってきた追随者に、成す術がなかった。


「こんなものか、小さなトロル。期待外れもはなはだしい。貴様の噂は、やはり、臆病風に吹かれた弱者の幻影まぼろしだったというわけか。あるいは、トロルに敗けた、などという汚名を払拭させるための作り話か」


 刀身を肩に掛けたアルバートは、地に這いつくばるヨトゥン=ハイを、はっと鼻で笑い飛ばした。


「しかし、悪いがこちらもそれなりの覚悟を持って来た。酒場の与太話の怪物と戦えると聞いてな。――俺の覚悟に、最期まで付き合ってもらうぞ」


 水平に構えたアルバートの剣が異彩を放つ。周囲に残留する魔力の濃度が一気に薄れ、空気が張り詰めていった。


「固有スキル――〈縮地クイック〉!」


 含み笑いを浮かべた口で、アルバートがスキルの発動を、神に奉る。


 その最中でしばたいたエイルの瞬きの一瞬で――A級冒険者の剣が、体勢を立て直したヨトゥン=ハイの見開かれた瞳孔に迫った。


 咄嗟に斧を振り下ろしたことで剣の軌道が斜め下に反れ、ヨトゥン=ハイの脇腹を掠めた。後退したヨトゥン=ハイを引き搾られた剣が追う。一撃二撃を寸でで耐えるヨトゥン=ハイの表情はどんどんと硬くなる。だが軽快なステップで瞬息の刺突を繰り返すアルバートの、舞台で女性をエスコートするような優美さは、決して崩れない。


 片腕がない状況で、浴びた敵の血を錆と変えてきた斧も、未知の速さの前では無力の極み。顎に咥えているだけの鉄塊と化していた。


 斧の腹で長らく耐えてきたヨトゥン=ハイの柄を握る指が、何千目かの突きで砕け、したりとアルバートが敵の武器を弾き飛ばす。


 すっぽ抜け宙をまわる斧に呆気に取られたヨトゥン=ハイの肋骨を横薙ぎに切り開けた斬撃が切り飛ばした。


「…………ッ!!?」


 切断された自身の骨身と内蔵が飛び散る光景に、兜の下で苦悶の表情を浮かべるヨトゥン=ハイ。痛烈な信号が全神経に伝達し顎の骨が軋み砕けた歯が零れ落ちた。


 そこに、勝機と踏んだアルバートが止めの一撃を繰り出す。


 一瞬を等分したようなときに、ヨトゥン=ハイは、勝利を確信した冒険者の驕りを見逃さなかった。


 放り捨てた斧に代わって、ヨトゥン=ハイは、機能不全に陥った全感覚を懸けた。


 手中で滑る剣の刃。教団でも選りすぐりの鍛冶師が心血を注いで鍛えた武具の感触は、刃型も残さず神経を両断するほどに、素晴らしいものだった。


 心臓に届く寸前、ようやく剣の軌道が止まった。


 これはさすがに想定していなかったであろう――アルバートは小さく息をついた。


 すかさず迫るヨトゥン=ハイの頭突き。


 アルバートは剣から手を放し後退した。


「トロルにしては中々に浅知恵が利くじゃあないか。反射速度も結構いい線いっていたぞ。三五七一撃まで我が縮地を受けた魔物は、貴様がはじめてだ」


 称賛――エイルにはそう見えた――するアルバートに対し、ヨトゥン=ハイは呻き声で威嚇した。


 はあ、と目を反らしため息を吐くアルバート。


「やはり……魔物に人の言葉は解らぬか。それに――剣をれば、と思ったのか。…………貴様はやはり、ただのトロルだ」


 心底つまらなさそうに吐き捨てたアルバートが、空手のまま詠唱を口に含んだ。


「固有スキル、〈武具操作〉!」

「!?」


 高度の魔力を感じ取ったエイル。だがアルバートにこれといった変化は見られない。


 ヨトゥン=ハイを油断させるハッタリか、そう思った矢先。


 ヨトゥン=ハイの悲鳴が上がった。


 彼の手が奪い取ったアルバートの剣が、そのまま上昇しヨトゥン=ハイの片腕を斬ったのだ。


 己の鮮血を浴びながら地面に膝を打つヨトゥン=ハイ。肩までを文字通りスライスした剣が主人の許へ飛んで還った。


「たとえ離れていても、俺達は心が通じ合っている。魔物には理解できない――使い手と武具の絆の力よ」


 剣を鞘に収めたアルバートに、部隊を率いてきた騎士の一人が報告する。


「洞窟の奥でトロルの残党を確認しました。これより掃討作戦を実行します!」

「おう、諸君ら丁度よかった。こちらもあのトロルに止めを刺すところだ。まだ見せていない我が奥義、初披露となるその場に、ぜひ立ち会ってほしいのだが、よいか?」

「“奥義”、でありますか?」


 首を傾げて見合う騎士達に、アルバートは、彼らでも見たことのない集中した面を見せた。


 一迅、二迅、三迅と風が吹く。大気中ではない――アルバート自身から発せられた魔力が突風となって足許から溢れ出ていた。


「俺の言っている言葉が判るなら、答えてくれ。なあ弱いトロルよ、貴様は――“上”か“下”、あるいは“横”……どちらの向きがお好みだ?」


 アルバートの周囲に顕現した、五本から成る光の刃。瞬く閃光は藍、空気を斬る音が耳をつんざいた。


「『追加エクストラスキル』――〈連雷五槍〉」


 今までのスキルとは異なり、アルバートの口は実に厳かに囁いた……。


 項垂れていたヨトゥン=ハイが、その詠唱がもたらす未来を察知し、エイルの見ている前で意識を覚醒させた。


 身を翻したヨトゥン=ハイの背後を追う五本の槍。勝手知った狭い通路を選び洞窟の奥へ奥へと逃げるトロルを、刃がしっかりと付いてきた。


 漏れ出た清流が築いた岩肌の天然の隠し通路は、住人であるトロルでも通れない。新たに開拓しようにも、岩の硬さはトロルの用いる道具では穴幅を広げられないほどに頑丈だった。


岩削種ドワーフでも苦戦する岩を、槍はいとも易々と貫き、一本も欠けることなくヨトゥン=ハイに執拗に迫ろうとしていた。


 途中、開けた場所で多くのトロルの死体を見た。斬られた者、焼かれた者、矢で貫かれた者、召喚士ビーストテイマーがいるらしく獣に手足や頭部を食い千切られた死体もあった。


 だが、悠長に怒りを覚えれば、死ぬ。


 一見出鱈目に飛んでいるように見え、槍は、標的を主人の許まで誘導した。


 逃走するヨトゥン=ハイと、足を止めども追手であるアルバートの視線がある一点でかち合った。


 そろそろ潮時か――踏み出したヨトゥン=ハイの足を、アルバートは、と出した足で、引っ掛けた。


 おっとっと――そんな間の抜けた足取りで足許を掬われたヨトゥン=ハイが失速する。


 もつれた拍子にふり返ったヨトゥン=ハイの腹を槍が貫く。その尾を追っていた残りの槍も次々と疲労困憊したヨトゥン=ハイを串刺しにした。


 槍に付着した汗が煙を上げて蒸発する。


 貫通する瞬間、落雷のような音がした。奔る槍の軌道に轟いた洞窟を内から震わせた雷撃のは、超自然の調べ。アルバートが舌で滑らせた祝福スキルに相応しい――五つの奏々そうそう


 雷の槍は、先に質問したアルバートの解として、罪深きトロルを洞窟の“天井うえ”に磔としたのだった。


「見たか、これこそが我が妹にして『新界教』最強の聖騎士、トールから受けし稲妻の槍。尽きぬことのない浄化の一閃よ!」


 おおおおおおおおおおお!! ――アルバートと共にときを挙げる騎士団。


「……ヨト、ゥン……ハ……っ」


 涙で霞むエイルの目に映るヨトゥン=ハイは、瞳孔を開かせたまま意識を失っていた。魂をも焦がす魔力への絶叫に顎が外れ、肺から噴き出した喀血が泡となって噴き出す。重力に引っ張られた手足は見苦しいまでに垂れ下がり、筋肉痙攣を起こしていた。


 終わりの見えないいかづちが、今も、彼の命を蝕んでいた。


「……え、……い」

「サム、しっかり!」


 戦いの道行を見守っていたエイルに、サムが声を掛けようとしていた。


 トロルの幼体は、全身の半分を太陽に焼かれ思うように身動きが取れない。壊死した感覚は重々しく顔面にも石化が及んでいるせいで、紡ぎ出させる言葉に反映される意思は、ごくわずか。


 聞き手は、かろうじて変わる表情から、その思いを汲み取るしかなかった。


「えい、る……ぼく……」


 外見だけに留まらず、石化は内蔵器官にも侵攻していた。肺は半分がとうに機能していない。血流も停止し――心臓は、もう、手の施しようがなかった。


 生きているのが不思議な状態。


 トロルの生命力の、なんと驚くべきことか。


 奇跡か、苦しみ続けるそれははたまた、罰か。


「だいじょうぶ、だいじょうぶですから!」


 傷付いた細胞に手をかざし、魔法発動の準備にかかる。


 どれだけの生命力を払ってもいい。尽きるまで寿命を魔法に使うのもいとわない。友達が、それで、助かるなら。


「――なんで!?」


 エイルがどれだけ祈ろうと、据えた手には魔力が溜まらない。


 石化したトロルを『叛生魔法』で治したのは、つい先日。一ヶ月も経っていなかった。


 それなのに。エイルは、思い出せない。


 一体どうやって、あの『魔法』が発動したのかが。


 記憶で連想するのは、エイルの見知らない魔法。『超回復』というのは、夢で女神から授かった少女の新しいスキルだった。


 エイルがこの村で積んだ経験は、決して無駄ではなかった。他者との関係は彼女の心を強くし、癒えた傷は肉体と精神に多大な影響を及ぼした。時に、禁則事項たる呪法で魔物の傷を治療した。


 エイル自身が認めずとも、彼女に加護を与えた女神がその功績を称え、ついに固有のスキルを獲得するに至った。


 機械が新機種に代われば、時に、既存とされた機能が排除される。


 魔物を癒す力など――強くなったエイルには、不要だった。まして自身に障害を与える魔法を一度使えば、真っ先に排除されるのは道理。


 エイルがトロルを救う道は、完全に、絶たれた。


「……えいる、ぼく……こわ、かった。いた、くて……あつく、て。みんな、きけん、なの、……わかったのに」


 肉眼は片方は無傷。だが光を捉えることはもうできない。


 涙の枯れた瞳でエイルに訴えたのは、人間を村に招いたサムの言い訳。


 A級冒険者は仲間に“抵抗した”と嘯いたが、トロルの少女は、背中を向け逃げただけだった。


 魔物の行動は、いつだって人類の害でしかない。逃亡も降伏も、首を傾げる行為ひとつ取っても、魔物の言葉を知らぬ彼らにしてみれば――列記とした攻撃なのだ。


 斃れた仲間の頸から噴出した血に目を焼かれ、斬られ、火に炙られ、鞭に打たれ、突かれ、その後、始めて村の所在を問われた。


 人間を連れていけば、家族が死ぬことくらいのろまなトロルにも判っていた。


 判って、サムは、答えるほかに助かる道はなかった。


「ごめん、ごめん……えいる……!」

「謝る必要なんかありません! あやまらなくて――いいから……!」


 友達を目の前で殺され、家族を危険に晒し、――そこまでしないと生きていけない。かろうじて命を繋いだところで命は伸びない。


 そんな子に、“生きていてごめんなさい”と謝らせる世界を、エイルは哀しんだ。


「――いやだ。……、しにたくない。たすけて……あのとき、したみたいに、ぼくも、みんなも、たすけてよ……えいる」


 仲間の、家族の石像を見ながらサムは訴えた。


 エイルが聞き間違えなどしないよう、人の言語で。


「――――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――」


 ゆっくりと冷たくなってゆくサムは、後悔に嘆くエイルの声を半分の耳で聞いた。


 彼女との日々によって、その涙がなにを意味しているか――助からないと悟ったサムは目を見開いて、最期にエイルに言葉を遺した。


 この世全てに蔓延する瘴気と、その元凶たる人を憐れむ言葉。


 ――“だいじょうぶ”って、言ったのに。


「……


 それきり、サムはほかのトロル同様、生命活動を停止させた。


 ずしりとエイルの細い腕に圧し掛かる、空になった命の重み。弾力はあっても血の巡りの感じない、石と、腐り始めた肉のどれほど重いことか。


 耳を澄ませば、洞窟の奥からトロルの呻く声が聞こえる。


 剣を振り下ろす者にとっては単なる咆哮にしか聞こえない叫びは、死にたくないと――嘆く悲鳴だった。


 助けに行きたい。けれど行った所で、エイルが彼らにしてやれることはない。魔物の傷を癒す腕は――少女にはない。


 エイル=フライデイはトロルでも魔物でもない、魔法を操り、嘘をつく――どうしようもないくらいに、人だった。


「聞けば貴様は、ずいぶんと多くの冒険者を殺したそうじゃないか。――仲間を殺された復讐か? 人間がそんなに憎いか。魔物がそこまで情に厚いとはな。だがなぁ……ひとつ、いいことを教えてやる。人間様の言葉だ、ありがたく訊け?」


 どちゃり、と雑巾が落ちるような音にエイルが首をもたげれば、地に伏した死に損ないのヨトゥン=ハイの頸骨をアルバートが掴み上げていた。


「我らは、貴様らを殺したのではない、……救ってやっているのだ。図体でかく吼えながら森を闊歩し、人々の糧を盗み糞尿を垂れ流す知性の欠片もない醜悪な魔物を、な。そんな我らの慈悲深さを受け入れられないのは――貴様が、それを理解するに足る知性がないからだ。『トロル』とは、“この世界から一片も残らず切除されねばならない癌細胞”の名なのだ」


 宣教師のように諭すアルバートが、虫の息のヨトゥン=ハイの喉に剣を突き付ける。


 青ざめた唇から漏れる呼吸は途絶え掛け、怨みと怒りに盛った命も、最早風前の灯だった。


「よかったなぁ、お前も、……ようやく救われるぞぉ」


 触れる切っ先に血が垂れるさまに下卑た笑みを湛え、救済を宣う『新界教』の騎士。抑え切れない興奮に手元が震える。


 やはりいつも、魔物狩りは気持ちを昂らせてくれる。特に、勝てないと判っていて抵抗する“丁度弱い相手”を完膚なきまでに力の差を思い知らせた後には。


「……ス…………こ……ロ……」

「アルバート殿、そいつ、今なにか」

「んん?」


 アルバートが腕を引くと、意識の失せたヨトゥン=ハイは。


「――コロス、コロス、コロス」

「…………はっ、見上げた根性だな。聞いたか諸君、このトロル、俺を殺すそうだ!」


 アルバートが見せびらかしてきたヨトゥン=ハイに、騎士は一斉に噴き出した。携えた槍にはトロルの血が飛び散り、鎧も魔物の血でまみれた状態で、質の悪い状態を聞くかのように笑い飛ばしていた。


「どうして、笑うんですか……? みんな、生きていたのに」


 嘲笑する人種にんげん達に、同じ種族であるエイル声は届かない。


 また、助けられなかった。また目の前で知り合いが死ぬ。


 命とは尊いものだ。その命が、こんなにも簡単に失われていく。一度死んで、治癒の魔法を女神から授かったのに誰も救えない。救いたいとどれだけ願っても、生きて欲しいと必死に望んでも、世界は、運命は、少女に苛酷な現実を見せつける。


 いっそ――諦めてしまいたかった。命とは、最初から壊れやすく設計されている。剣や弓、戦で生き残っても、時間が命を殺す。時とは、世界のどの殺人鬼も及ばない殺戮者の代名詞だった。


 もう、疲れた。


 結局どうあっても、トロルに、平和な場所なんてないのだ。


 ――どうせ自分も死ぬ。なに、一度経験して乗り越えたんだ。今度だってうまく行く。


 もういい、そう、エイルは零そうとした。


「…………や」


 ――あれ? おかしい。


 諦めたのだから最初に呟くは『も』のはずなのに、思ってもない言葉おもいが自然と口をついて出てきた。


「……やめ」


 どこからともなく聞こえてきた囁きに、騎士の一人がふり向いた。今になって気が付いたように、一人、また一人と目配せして辺りを窺う。


 中途半端に石化したトロルを抱いてむせび泣いていたのは、街を逃亡したと報告に上がっていた元・冒険者の少女だった。


 逃亡した冒険者は、トロルの掃討が完了次第、当初の予定通りゴンドーの街で公開処刑せよとの命令だった。晒し首にし、死体は市中を引き回し最後には犬の餌にせよと。人種の中からトロルと一夜を共にした者を出した。神に許しを乞うには、それが最も誠実な方法、と。


 アルバートが顎をしゃくり上げると、手枷を持った騎士はエイルに近付いた。


 エイルの目は、固く閉ざされている。自らの意志がそうさせた。


 確かに、命とは儚い。人生とは残酷だ。ある日、誰のせいでもなく命を落とすこともある。生きたいとどれだけ神に祈っても、助からない運命。薬で髪が抜け落ち、成長途中の身体は痩せ細り、美味しい食べ物も我が家からも引き離され、恋も知らず管に繋がれ死んだエイル自身が一番身に染みて理解していた。


『理恵子、理恵子……いや、いやぁああああ……!』


 耳の遠くで誰かの泣く声がする。自分じゃない、自分の名を叫ぶ女の人。


 この身体になる前の、エイルの母親だった。こんな身体になっても憶えているなんて、とエイルはかつての自分を思い出す。


 ――おかあさん、私、じゅうぶん生きたよ。過ごした時間は短かったけど、たのしかった。


 ――ああ、わたしは、なんて馬鹿だったんだろう。


 大切な人が目の前で死んで、悲しむなというのに無理があるのだ。慣れるわけがない。


 命は脆い。


 だからといって――諦めるわけには、いかないのだ。


「やめてぇえええええええええええええええ!!!!」


 エイルは懇願した。ヨトゥン=ハイを助けてくれと。恐ろしい現実に目を瞑り耳を塞いだとしても、心を欺くことなど、できはしない。


 正直になった少女に、神は、冷たく、うそぶく。


『――番号外アウトナンバー『ヨトゥン=ハイ』が編成パーティーに参加しました。スキル〈超回復〉を編成全体に発動します』


 女神フレイヤの声が耳元で囁き。


 次いで、小さな衝撃が到来した。


 周囲の騎士が笑う中、エイルの目が、その光景に釘付けとなった。


 あり得ない、あり得ないが――


「…………がはぁ、ア!!?」


 瀕死の状態のヨトゥン=ハイ、彼の肩の古傷から生えた腕の骨が、アルバートの胸のプレートを殴り砕いた。


 後方に吹き飛ばされるアルバート。その一撃は、A級冒険者の頭と足を逆さにするほどの威力だった。


「一体、なにが……」


 呟いたエイル。


 その視線の傍らに、不可思議な表記があった。


『 N:ヨトゥン=ハイ


  IC:番号外


  HP:235(DZ)


  MP:0


  US:なし


  AS:未開放 』


「なに、これ……?」


 触れようと手を伸ばすが感触が掴めない。


 いつの間にか赤や青で記された文字は、視覚を介しエイルの脳に直接刻印されていた。


 と、『MP』の横に表記された赤字の数字が、みるみるうちに上昇する。


 356、535、1367、3256、7123、8123……気が付くとDZの文字が消え、16600で打ち止めとなった。


 エイルの視界の端で数字が一つ上がる度、斬撃と魔力で受けたヨトゥン=ハイの傷が瞬く間に治癒し、一人で立てるまで回復した。


 ヨトゥン=ハイの身に何が、自分の身に何が起きたかはエイルには判らない。だが。


のは、間違いない。



 

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