第六章 首

「えいる! ‟くだもの”、とってきた! これ……るやつ? まえ、おしえて、くれた」

「うん。私が育った村で子ども達がよく獲って食べたの。子どもの手じゃ届かない高さの枝に実をつけるから、男の子と木に登ってはお母さんによく叱られたっけ。甘くて美味しいから、食べてみて」


 子ども時代の淡い記憶をしみじみと語るエイルに、トロルの少女は、手に持った果物をそっと差し出した。


「……私に?」


 指先に触れた実の感触に、エイルはたずねる。


「きず、なおしてくれた。――!」


 弾んだ声から、トロルの少女が笑ったのが、盲目のエイルにも判った。


「――ありがとう!」

「むいてあげる」


 目の見えない回復士の少女を気遣って、トロルの少女は、風化により崩れた天井の残骸に腰を落ち着かせているエイルの隣に座った。


「星は、もう出てる?」

「まだ あと――もうすこし」


 原生林に設けられた見張り塔からは森全体を見渡すことができる。塔は森の中に紛れるようにして地面から生えており、外界からの発見を枝葉を伸ばした木々によって阻んでいる。


 森に棲みついたトロルたちにも、見張り台が一体いつから、どういった目的で建造されたなどの歴史は知らない。彼らにしてみれば、巨体を隠せられる棲みと日光が届かない場所であれば寝床の良し悪しに掛けては、人間ほど遜色はないのだ。


 だが、トロルはエイルに教えてくれた。


 森を貫く恰好で聳えたこの見張り塔から見る空は、とても綺麗だと。


「むけた! はい」


 トロルの少女が皮を剥いた果物をエイルの鼻腔に近付けると、夜風に乗って懐かしい柑橘系の匂いが鼻頭をくすぐった。


 汁の滴る実を口の中で転がす。蜜柑にも似て、どこか引き締まって歯ごたえのある異世界の果物はエイルの心にいつも活力を与えた。


 こんな身近な場所にも、魔法があることを気付かせてくれた大切な想い出。


「おいしい!」

「――くす」

「どうした の?」


 果物の汁でべたべた口でトロルの少女はふり返った。


「‟人種ヒト語、また上手になったね”」


 そうエイルは、少女の疑問にトロルの言語ことばで答えた。


「かえった ら、またおしえて ――ええと。!」


 太陽がかたむき、世界を見張る目からトロルが見つからなくなる始めじかん


 人の言葉を話す巨人の少女と、トロルの言葉を食む人間の少女は、もうしばらくの間、他愛もない話をした。


「えいる かえろう」

「うん」


 手を繋いで森を引き返していると、二人が出てきた洞窟の入口から大人のトロルが地面を鳴らしてやってきた。


「いま かえり ? えいる」

「マーティさんたちは、これから?」

「うん」


 トロルの一体が首肯した。


 彼らの食糧調達は基本、夜に行われる。言わずもがな、太陽が沈むからだ。


 食糧――といっても彼らの‟食”の概念は、人と些か異なっていた。


 冬の時期になればトロルは滅多――ここぞという以外に狩りをしなくなる。


 この季節に飢えるのは、トロルだけではない。森を下りれば人間に遭遇する事例が夏の比ではなかった。空腹に喘いで人里に下りてきた魔獣の討伐――食糧採集、体力の落ちた村人に代わって野生動物の狩猟を依頼するクエストなど、冬には多くの依頼が貼り出される。


 夜でも森から下りるのが危険となった冬のトロルにとって、木の根元で越冬している甲虫の幼虫を始めとした昆虫類は、大柄の身体を生かす貴重なタンパク源であった。


「いってらっしゃい」

「いって きます」


 のしのし、と。特に道具もなく狩りに出たトロルの背中を見送ったエイルは、見張り役のトロルに少女が摂ってきた残りの実をあげ、村に戻るなり、腹を空かせたトロルの子どもたちを洞窟の一角に集めた。


「‟今日は、森にあるもので、人間の言葉を勉強しましょう”」


巨人トロル語でエイルが言うと子ども達は元気よく手を挙げた。中には若いトロルや見張り役を交代したトロルも混じっている。


 夕食ができるまでの間、腹を空かせたトロルの相手をするのはエイルの担当だった。


 空腹のトロルは癇癪を起しやすい。腹が減って元気がないはずなのにその暴れようときたら、山全体が揺れるかというほどの勢いだった。


 そんな彼らのささやかな暇潰しとして、エイルはトロルの村で人語を習う教室を洞窟で開いた。


「これは、人語でなんていうでしょう」

「‟どんぐり”――!」

「はい、よく言えました」


 最初に手を挙げたトロルの少年にエイルは教材代わりの木の実をあげた。大人の男ほども大きさのある両手でどんぐりを受けたトロルは嬉しそうに笑って、周囲から羨ましい視線を向けられている。


 言葉を教えて最初、エイルが驚いたのは、トロルの言葉の習得の早さだった。


 彼らは‟筆記する”という意味さえ判らない。子どものトロルが足を投げ出せるだけの広さのある一角には、ノートを広げるための机も、黒板もなかった。


 だと、いうのに。どの種族よりも知能が劣るとされているトロルは人語と巨人語で単語を次々と発音し分け、流暢まではいかずとも発音に違和感はない。


 もう一つ。

 

 エイルは、巨人トロル語の、そのボキャブラリーに感嘆した。


 同じ種族でも生活様式が異なれば、単語に付与された概念に違いが生じる。エイルが元いた世界でも、土ではなく雪を壁材とする国では、『雪』一つおいても様々な意味があった。


 魔物であるトロルが、どうやって意思疎通をしているか。


 彼らに言葉を教える過程で、トロルの言葉が一通り理解できるようになった今ならエイルに判る。


 エイルが人種の言葉で示した様々な品物は、トロルの言葉でも名前があった。


 声帯で意思を疎通し、時間の概念を持ち、季節で行動を変える。


 彼らの日常生活は、人間と、全くと言っていいほどに同じだった。


「‟ごはんできたよー”!」


 洞窟に集合を報せる野太い声が響き渡り、授業を終了したエイルが子ども達といっしょに行くと、戻ってマーティらがすでに食卓についていて鍋から椀に注いだ虫のスープを飲んでいた。


 大釜の火に映るのは、トロルの食事風景。


 エイルは、自分を囲むトロルの子ども達となかよくはなしながら食事を楽しんでいた。


「……ヨトゥン=ハイさんは、今日も?」


 ここに来た当初はエイルに付きっきりだったヨトゥン=ハイだったが、この時期、彼は誰よりも早く起床し、洞窟の周囲を警戒していた。エイルが聞いた話によると、偵察は陽が明けても続き、数時間の休眠を挟んでまた森に赴くらしい。


 洞窟でエイルと顔を見合わせた時、ヨトゥン=ハイがいつも起きていたのはこれが理由だった。


「しんぱい?」

「――いえ。私は」


 こうして安心して彼らが食事できるのは、彼が外で昼も夜もなく戦っているからにほかならない。


 エイルも、ヨトゥン=ハイの強さは知っている。並の冒険者であの猛追を振り切れる者はいない。


 彼がもたらす平和にあぐらをかいて温かい食事を摂りながら、血も凍るような闇が湛えた真夜中をひとり往く彼の身を案じる資格など、エイルはないとしても、どうすることもできない自分にまた、苛立ちを募らせていた。


「えいる やさしい みんな それ しって る」


 雌のトロルは虫の這う背中を掻きながら言った。


「わかって ない あの 子 だけ」


 マーティは狩りにも出るトロルの中でも大きい個体。そんなマーティを始めとしたトロルを育ててきた母の言葉は、エイルにはとても芯の強いように聞こえた。


 叱咤ではなく――心から、彼の身を案じている。


「ヨトゥン=ハイさんは、どうして……あなた達を、守るんですか?」


 いつか、聴かなければならないと胸に決めてきいた核心を炎の熱に浮かされたのを言い訳にエイルは問い質す。


 薪が割れる音で、トロルの唸り声は聞こえない。


 彼の眼は、燃えていた。二度目に再会した時は落ち着いた会話も少なからず交わせたものの、兜から覗く眼差しは怒りに満ち溢れている。


 憎しみがあまりにも深過ぎて、その奥の真意が測れないほど。


「えいる あの子 すき?」

「すっ……え!? いきなりなに言ってるんですか!」


 喉の奥からスープが逆流して、エイルは咳き込みながら鼻を押さえた。


「きらい? しんぱい して ない から」

「好きとか嫌いとか、私はそんなんじゃ」


 エイルにとってヨトゥン=ハイは命の恩人だった。だがヨトゥン=ハイは森に入った人間を殺しただけで、そこに、エイル、というだけ。


「でも、ヨトゥン=ハイさんって、変わっていますよね。人間を殺すくらい憎んでいるのに、私を村から追い出さないなんて。同じ、……人間なのに」

「――‟”、だとおもうわ」


 聞き間違い、なのか。


 巨人トロル語で、トロルの母は遠い声で呟いたようにエイルは感じた。


「えいる も へん こども に にんげん ことば おしえて る」

「ご飯前の暇潰しですよ。……でも」


 エイルが教えたのは【アースミガルト】で広く流通したいわば公用語。人種にんげんのほかにも亜人の間でも使われている。


 仮に、だが。そうエイルは淡い期待を抱く。


 魔物が、この世界の言葉を話せたら、迫害が消えるかもしれない。時間が掛かるのは判っている。この世界でトロルがどれだけ忌み疎まれているかは彼らと生活を共にすればなんとなくだが想像できた。


 でも、お互い、腹を割って話し会えば、きっと。


 少なくとも、ここに――成功した例がある。


「えいると、ごはん、すごくたのしい」


 隣にいたトロルの少年――エイルが初めて出遭ったサムが言った。


「こんなとき、にんげんは、なんて、いうの?」

「……私にも、わかりませんっ!」


 また笑いが起きて、洞窟は活気に包まれる。


 相も変わらず、トロルの作る食事は死ぬほど不味まずい。体臭には意識が眩み粗暴な態度は耳をつんざく。


 でも、エイルは笑った。意識しなくても笑顔を自然とつくることができた。


 こんなにも温かい冬は、前世でも久しぶりだった。


☆☆☆


 

 ――目を醒ませば、そこは『無』だった。


 光も音も消失した空間。肌を撫でるはずの空気はなく、どうやって息をしているのかも判らない。上を見れば無色むしきの白が拡がり、視線を彼方に向ければなお拡大を続ける。


 膝まで浸かった水は、冷たくもなければ熱さも感じない。これが、本当の意味で‟温度がない”ということだと、澄み切った頭で理解する。


 自分は、死んだのだ――唐突にエイルはここが死後の世界だと自覚する。


『ひさしぶり、。エイルたん』


 胸を打つその声は、エイルの‟内”で響いた。


 膝を打つ波紋に、エイルの視線は先を捉えた。


 ひたり、ひたりと近付いてくる。


 無感の世界から顕れた人影は――水の上を、歩いていた。


 それで、彼女が、人間ではないのが決定する。


「フレイヤ――様」


 エイルを異世界に導いた神が、彼女の前に再び姿を現す。


 白い肌は触れるのがこの世のどのような罪よりも罪深い光を放っている。指先の爪は真珠の如く瑞々しく、裸足の指の間には水滴一つとついてない。


 踵まで伸びた金の髪はエイルとお揃いだが、燃えるように煌めく金糸は――、燃えていた。睫毛も眉毛も、彼の女神の美しさを体現させた体毛は、全て、火と熱によって構成されていた。


 煌びやかで、近寄り難い、息遣いで大地の森とそこに住まう命が虜になる美貌。


 そんな女神は、初めて出逢った時と同じように。


 ――手を広げたエイルの許に、、と。走った。


「エイルたぁあああああん!!」

「フレイヤ様!」


 しゃがんだエイルは女神――フレイヤを抱き締めた。女神の髪を梳くと、優しい温もりが指先を包む。


 抱いた女神は、……エイルの太ももまでの背丈しかない。


 エイルに二度目の人生を与えた女神の正体。


 それは、よわいにして五歳に届くか届かないかの、小さいという表現が巨石の貫禄を持ってしまう。


 ――全裸の、超絶に可愛い幼女だった。


「会いたかったでしゅ。ふれいやは、エイルたんに会いたかったでしゅ!」

「私も、お逢いしとうございました……! でも、どうして一体」


 まさか、なんて不穏な考えが脳裏をよぎる。


 フレイヤと逢った時、エイルは死んだ。火葬された自分の遺体をフレイヤに見せてもらい、死んだことを知らされた。


「私、また、死んだんですか……?」

「エイルたんは、まだ生きてましゅ! ふれいや、うそ、つかないでしゅ!!」


 小さな拳をぶんぶんとふり下ろしフレイヤは真剣な面持ちでエイルを説得した。


「……へ、へ、へぇ――くしゅ!」

「――もう。フレイヤ様ったら、‟今度会う時は服を着てください”って、私、言いましたよね?」

「えへへぇ」


 叱られたフレイヤは鼻水を垂らした顔で腑抜けた笑顔を浮かべた。


「ほら、ちゃんとチーンして」


 懐から取り出したハンカチを鼻に当て鼻水をエイルは拭ってやった。


 こんな、威厳の欠片もない幼女が、世界を管理する女神だとエイルが信じて疑わぬ理由。


 それは、そう言ったフレイヤの言葉を――エイルが心から信じているからだ。


 現にこうして、二度目の人生に送り出してくれた。


「ふれいや、なえいるたんのこと、ずっと見てたでしゅ。ふれいや…………見てるしか、できなかったでしゅ」

「フレイヤ様」


 エイルがあんな目に遭ったのは、元をただせば女神が彼女を転生させたから。未来を知っていれば二度目の人生など選ばなかったし、起きてしまった後では、恨みをぶつけるしかない。


 これが、洞窟で見ている夢ではないという保証はない。


 だが、フレイヤの姿と再会しても、エイルには憎しみの一言すら湧いてこなかった。


 水面に映る自分の影は、一見、人の姿をしているように見えても、ここに在るのはエイル=フライデイという魂に外見が投影された精神体。恨みを持った脳はない。握り締める拳もない。


 ここでは、女神に対する羨望と、生まれ変わらせてくれたことへ感謝する心のみが顕現していた。


「お顔を上げて、私を見てください。私、二度と、フレイヤ様に伝えられないって、諦めていたんです。次会えるのは、また死んだ時だから」

「えいる、たん……」

「いろいろありましたけど、私、今、人生を生きているんです! フレイヤ様に会えたから、私また、笑えるようになりました。ありがとうございます!」

「えいるたん、えいる……た、…………ぅ、う、うわぁああああああああん! いやだぁああああああ! ふれいや、えいるたんにきらわれるぅううううううううううううううう!!」

「フレイヤ様!?」


 抱き寄せたエイルの胸の中で、フレイヤは号泣した。


 それは、もうギャン泣きだった。エイルがどれだけあやしても涙の粒は大きくなる一方で手に負えない。


「たすけて、たすけて、えいるたんんんんんんんんんんんンンンンンンン! ――……あ。あ、ア」


 俯いて泣いていたフレイヤが、突然、空を見上げ出した。


 びくんっと痙攣した彼女の頭上に、何かが降ってくる。


 空を黒く塗り潰し降下してきたのは、円筒状の黒い‟柱”だった。側面を明滅しながら奔る幾何学模様は、まるで血管のよう。


 重厚な駆動音を上げた‟柱”から放たれる魔法陣の列。それを一直線に貫いた光がフレイヤの眉間を焼け焦がした。


「フレイヤ、様……?」


 エイルの前で、フレイヤは大きく項垂れた動作を取った。


 人形の操り糸が、ぷつりと切れるかのように。


「……ッ!?」


 すると、今度はエイルが、フレイヤの前でばしゃりと膝を突く。


 覆い被さる圧迫感に顔も上げられないエイルの顔を、両耳に伸びた幼女の腕が強引に引き上げた。


『――経験値の上昇に伴い、個体番号・ヒト4313124245・個体名『金澤理恵子かなざわりえこ』に固有スキル〈治癒師ヒールマスター〉が付与されました。スキル「回復」「超回復」に進化します。――感覚器官の損壊を検知しました。スキル「超回復」による自動回復に伴い、消失した視覚機能が全快します』


 無機質な声だった。


 魔法陣越しのフレイヤの琥珀の眼、唾液を垂らした口から滔々とうとうと零れる声には、感情というものが載っていない。


 エイルが憶えているのは、ここまで。


 なぜ、……そんな疑問が浮かぶよりも早く離脱した意識を肉体に降ろされたエイルの叫びに応える女神は、どこにもいなかった。




「えいる うなされ てた !」


 覚醒したエイルが真っ先に取った行動。


 重い頭を抱え、上がった息を整える。

 

 悪い夢を脳と頭蓋の隙間に流し込まれたような倦怠感。閃輝せんき暗点した視界がぐらりぐらんと揺れる。


「フレイヤ、様……」


 悪夢の中で、エイルは女神と再会した。


 会話の内容は――思い出せない。楽しい会話をした気もするし、泣きながら、何かを謝られた記憶も片隅に微かに残っている。


 生気のないフレイヤの顔が、ある言葉と共に甦る。


『――たすけて』


 誰とも知れない幼女が絶望するエイルは肩を抱いた。寒いのに、うなじから背中にかけて汗が止まらない。


 どの記憶も削り取られている。連想される回想は滅茶苦茶、感覚が麻痺し内蔵がひっくり返る気分だった。


 覚醒する直前、訳も判らない文脈をのべつ幕無しに唱えるフレイヤの顔が、頭から離れなかった。曖昧な思考で、あの顔だけが――あの無機物めいた表情だけが鮮明に、刻銘に刻み込まれていた。


 近くで、たいまつが灯されている。顔を上げたエイルのに、揺らぐ炎があった。


「…………あれ」


 おかしい。何か、そう――


 心に引っ掛かるもどかしさ。違和感に気付いていても、それが何なのかがエイルには気が付かない。


 精神はさておき――身体はこんなにも正常なのに、不安で気が変になりそうだった。


「えいる。どう、したの?」


 横を見ると、隣で寝ていたトロルの少女が不安げにエイルを見つめていた。周囲で寝息を立てていた子ども達も、一緒に寝ていたエイルの異常を感じ起き始めていた。


「えいる……目が」


 呆気に取られるトロルの面。エイルを案じる子ども達。


、唯一違いに差異に気付く見知ったトロルの少年の名をエイルは譫言のように呟いた。


「サム……私、わたし……!」


 エイルは、見た。一人ひとりのトロルの顔を瞳に焼き付けた。


 何度も話し、笑い合った。声を聞けば誰が誰だか判る。――判るに、決まっているのに。

 

 エイルは、ずらりと並んだトロルを見て、それが、どこの誰か見当も付かなかった。


 それも無理はない。なぜなら、ここに来て、エイルは。


 面と向かって会話をしたことなど、ただの一度たりともなかったのだから。


★★★


 荷物もなしに村を絶とうとしたエイルを、トロルたちは止めた。


「えいる まって!」


 洞窟の入口で肩を組んだトロルは、たとえ子どもであっても武器を持たないエイルに突破は難しかった。


「どいて! おねがい……」


 声を押し殺して言うエイルに、子ども達の表情が曇る。


 焦る彼らの顔を、エイルは、これ以上視たくはなかった。


「えいる、ぼくらのこと、きらい?」


 トロルの子どもの一人が人間の言葉で訊いた。エイルが教えた言葉だった。


「きらいなんかじゃ……!」


 本当は、嘘でも拒絶すれば容易に通れた。トロルの言葉を少しはかじったエイルなら言える。


 だが、ここで過ごした時間、一緒に遊んで、知らない知識を教え合って互いに分かり合えた子ども達に、それが彼らを守りたいという願いからくる言葉であっても、嫌いなんて言えるわけがなかった。


「えいる、行っちゃやだぁ!」


 群れから離れたトロルの子どもがエイルの袖を掴んだ。いつもエイルの側に座り、授業の内容を一生懸命に聞いていた子どもは、引き留めるためにその成果を披露した。


「みんな……ごめん、ごめんね……!」


 トロルの子達と抱き合いながら、取り戻した目に涙を溜めてエイルは一人ひとりの名を呼んだ。


 そこに、あの、見張り台で一緒に夕陽を見た少女はいない。起きるなり、突然村を出ようと言い出したエイルに泣き出して、村を飛び出していった。彼女を追ったサムもエイルを引き留められなかった。


「‟エイル、せめて、戻ってきたあの子としてからにしてくれない?”」


 子ども達を宥めながらトロルの母は言った。


 まだエイルの習っていない単語だったが、ニュアンスから、『仲直り』と言った。


「‟これ、持ってくるって”」


 トロルの母がエイルに手渡したのは、見張りの塔で一緒に食べた、あの果物だった。


「‟これがあれば、エイル、残ってくれるって”」


 トロルの少女は、絶交したからいなくなったのではなく、エイルを村に留めるために、果物を獲りにいったと。


「……私、探してきます!」


 やっぱり、このまま何も言わずにいなくなるなんて嫌だ。共に過ごした時間の分だけ、別れと感謝を伝え、ここを、後腐れなく絶ちたい。

 

「えいる……」

「みんな、ごめん。すぐ戻ってくるから、待っててくれる?」

「うん、まってる」


 友達を捜しに、エイルは洞窟を出た。このまま森を抜ければいいと直前で思ったが、やっぱり止めた。


 まだ、ちゃんと、お別れを言えていないから。


 洞窟の入口に続くトンネルの中頃で、エイルは一人の男とすれ違った。


 白いローブの男。だが靴音から下に鎧を着ているから、どこぞの騎士らしい。


 上等な生地で仕立てられた外套のフードを脱いで見せた顔は、目鼻立ちのしっかりした彫りの深い青年だった。一つに結った銀髪は丁寧に梳かれている。


 彼の後ろを往くのは、杖を携えた少年だった。洞窟の暗闇に肌が慣れないのか周囲をおどおどと見上げている。


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」


 エイルは、振り返られなかった。背後を見れば心臓が止まってしまいほど、急速な心拍が発展途上のエイルの胸を内側から打った。


「案内ご苦労! しかし、ここは何とも寒々しい場所だな。それとも、卑しいトロルには、この湿気が心地よかったりもするのかな」


 肺を吸い込んだ青年の声が洞窟に反響した。


 槍を持った部隊が、膠着状態のエイルの肩を通り過ぎ村に続々と押し寄せてきた。


「え、えい……る」


 その最後尾に引っ付いてきた、一匹のトロル。身体の何か所も槍に突かれ、腱を斬られた足で歩くのもままならない状態だった。


「――サム!」


 深手を負ったサムをエイルは倒れる直前で支えた。


 サムの意識はすでになく、流した血にエイルは紅く染まった。


「訊け! トロルの一族よ! 我が名はアルバート。『新界教』直属A級冒険者にして、魔族討伐軍第五師団師団長。今宵は、此処に蔓延はびこる邪悪な気配を裁つべく参上した。この魔族のように抵抗しなければ、お前達には神の慈悲による浄化を約束しよう!」


 洞窟中に響き渡るA級冒険者――アルバートの宣言に、エイルは、反射的に振り返ってしまった。


 アルバートが洞窟のトロルに掲げて見せつけたのは、森で遭遇し、彼自身の手で刎ねた幼体のトロルの首だった。性別からして雌で、つがいと思しき雄は生かして、棲み処である洞窟まで案内させた。


 彼が掴む三つ編みの髪に付いた花の髪飾りは、エイルは今朝、初めて見たが。


 それを揺らして村を出た‟彼女”を、エイルは――よく知っている。

 

『えいる! ‟くだもの”、とってきた! これ……るやつ? まえ、おしえて、くれた』


 あの子の顔は思い出せるのに。


 どんな顔で言ったか、エイルは思い出せなかった。


「では、始めてくれたまえ」

「はっはい!」


 アルバートの前に立った魔術師の少年が、恐怖で動けないトロルの子どもと、それを庇う雌のトロルに杖を構え、詠唱を唱えた。太陽に祈りを奉げる魔法を発動させる詠唱。それはとても高度なもので、大量の魔力を消費する。


 何せ。――夜の世界に、陽の光をもたらす、まさに‟魔法”なのだから。


 少年が詠唱を終えると、洞窟の一体に、陽光が降り注いだ。闇に隠された一切も合切も、何もかも白日の許にし、影は光にその皮を剥がされた。


「ぁあぁあああ、ああぁああああ!」

「サム!」


 日光を受けたサムをエイルは身を呈して守った。


 だが、大柄なトロルを少女であるエイルが覆うには限界がある。


 太陽の光はサムの全身の右半分を石に変えた。


 白い閃光が迸った、その間。


 数え切れないトロルの悲鳴に、洞窟中が揺れた。


 ここ数日、聴覚だけの生活に慣れ切っていたエイルは、断末魔の叫び、太陽に細胞が固着する激痛、涙さえ塵となり消える悲鳴――一人ひとりを、正確に判別できた。


 魔力が尽き、洞窟に再び闇が満ちてゆく。


「奥にもまだ生き残りがいるはずだ。逃がした者も含め、トロルはここで殲滅しろ! 一匹たりとも外へ逃がすな!」

『おー!!!』


 槍を構えた『新界教』の信徒が逃げるトロルの群れを追随する。


 太陽で動けなくなった、トロルの石像を縫って。


「みんな……」


 エイルがこちらを振り向かせようと触れても、トロルの子ども達の首はびくともせず、目が開いているのに、抱き締めながら呼び掛けるエイルの声に、ちっとも反応してくれなかった。


 ざらりとした肌に、エイルの涙が落ちる。


 苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いてもまだ続いて。痛みと熱さにもがいた状態を保ちながら――永遠に安息は訪れない。


 こんなの、こんなのって――!


 涙も蒸発し怒りも溶かす叫びをエイルが上げようとした、瞬間――。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 岩盤を砕く迫力の慟哭が、森全体に轟いた。


「ほう。君が噂のトロルか。想像よりも小さいんだな」


 顎を撫でるアルバートに、ヨトゥン=ハイは斧を手に肉薄した。側にいた槍兵を斬り倒しながら。


 雑兵に用はない。


 話があるのは、トロルの首を群れに見せしめにした、この男だ。


 大木を一刀両断する『特異巨人ヨトゥン=ハイ』の猛撃を。


 自称A級冒険者は、涼しい顔で、抜いた直剣で受け止め――蚊を払うように、元居た地点まで


「……、トロル」


 石像に打たれたせいでヨトゥン=ハイは立ち上がれない。片腕では受け身も十分に取れず、頭を打って意識は混濁していた。


 夜明けの見えない夜は、まだ始まったばかりというのに。


 復讐に燃えるトロルは、早くも、満身創痍だった。

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