卒業雑文 作:俗物


 この雑文を全文そのまま載せてくれるであろう、部長・編集の心の寛容さに謝意を表す


 【凡例】

・この文章はあくまで「雑文」であり、「小説」などというものではありません

・この文章もまた戯作であり、必ずしも筆者の個人的思想と関わるわけではありません

・この文章は実在の人物・氏名・団体・事件等には一切関係ありません



 この部活に入ってから四年が過ぎる。あっという間のことだった。後半の二年は未曽有の災禍の中にあったから、余計に短く感じた。自分自身を振り返れば、ここで何を成し得たかと言われても成果物を差し出すことは出来やしない。ただ、ここで色々と学んだことはあるわけで、卒業論文代わりに卒業雑文でも書くこととしよう。

 まあ、卒業雑文と言われて何を書けばいいかというとよくわからない。「体裁は?」、「文体は?」、「内容は?」そう問われてもよくわからない。ただひとつこの四年間で学んだことといえば、こんな雑文を書いていると、卒業論文で必要とされる「アカデミックな」書き方を得る機会に恵まれないということだ、いや、機会に恵まれないというよりは機会をドブに捨てているといってもいい。私の追憶のごみ箱には外れ馬券・舟券と同じぐらい、機会が捨てられている。

 これまで、自分が書いてきた雑文を分析でもしてみようか。そういえば、初めて書いたときは〆切に間に合わないから書いてみたのであった。ただ、それだけがきっかけだった。そして書き始めて気づいたのは、自分に「合っている」ということだ。だから、それを書き続けた。そのエネルギーとなるのは自分の中の負のエネルギーだった。負のエネルギーなんて言うと響きが良いが、これは自分の中の醜く悍ましい妬みや怨みの集積体だ。いや、これでもまだ格好つけている。つまりは高校までの井の中のイキリ陰キャが、大学という大海を知って溺れかけながら喚いているだけだ。賢明なる読者諸氏には自明のことかと思うが、中高までの無意味な無根拠な全能感に支配されてる奴の鼻っ面はすぐ折られる。話は逸れるが、出会い系でプロフに「九大生」と書いてイキっている奴の神経がわからない。学内でイキったって、皆「九大生」なんだから意味がないだろうに。聞いた話によれば、とある学部を中心にピンが立ちまくるそうだが。閑話休題、閑話休題。

 このように話が逸れまくること、これも私の「雑文」の特徴かもしれない。それはなぜかといえば、よく言えばライブ感、悪く言えば行き当たりばったり、古く言えば「徒然なるままに」書き連ねているからだ。私の文章を志賀直哉だとか小林秀雄とか(あるいはそれ気取りの奴ら)にでも読ませれば、駄文だ、生ゴミだって言われるかもしれない。ただそれも、俺に文句があるなら兼好法師だか鴨長明だかに言ってこいって話である。閑話休題、閑話休題。

 このように文章が行ったり来たりすること、これは私の「雑文」のみならず「学術的な文章」(を目指したもの)に共通することだろう。この点に関しては既に様々な方々にご批判を受けている。私自身も反省しているし、必要に応じて論理的文章を書く必要性を感じている。今後はその文法を改めて学び直さなければならないと強く思うところだ。ただ、「雑文」に限って言えば、論理にこだわる必要もないだろう。何故ならこれも「徒然なるままに」書いているに過ぎない。平たく言えば酔っ払いの中高年が駅前で喚いているのと変わんないし、成人式で新成人が壇上に駆けあがってマイクを奪うのと同じだ。彼らも叶わないとわかっていることを、論理立てて演説することもなく、ただその時、自分が思ったことを謳い、喚き、叫んでいるだけ。ただ彼らは自分の憤懣を誰かに伝えたいだけだ。それはまあ、聴衆もそうあることを望んでいるのだ。だって、色白の金髪オールバックの不良少年が「親友(ダチ)がやられてんのに日和ってるやついる? いねえよなぁ!?」って啖呵を切るのを見て憧れはしても、「我らの同胞が理不尽な暴力に見舞われたのに沈黙を貫いていいのでしょうか? 皆さん、今こそ立ち上がるときです!」なんて言い出すのを見たら、学生は学生でも学生運動までタイムスリップしたように感じるだろう。これはまあ、「役割語」のある事例とも言えようか。兎にも角にも、お互いがお互いに役割を期待しているのであるということだ。ああ、また話が逸れた。つまり、「雑文」を書くに当たって私は行き当たりばったりで書いてきた。一方で、そういったものを周囲に期待されていると感じるようにもなったし、ある意味で期待されるようになった(と本人は独りよがりにも感じている)。これはクラスで馬鹿なギャグをやった奴が、その後も芸人という役割を果たすよう求められるのとよく似ている。そして、その本人がしんどい思いをした事例も私は知っている。きっと当事者はしんどかったが、周囲はただ善意の塊だったのであり、不慮の事故である。こういった不慮の事故の結果として生じた雑文は仕方ないのだ。文中で〇〇息子の騎乗を批判した文章が公開されたあとに、彼が良い騎乗をして、次は褒めようと思っていたら、また彼が糞騎乗をするのだって仕方がないことだ。ただ私の財布のダイエットに貢献したことを褒めればいい。まあ、最近は馬よりもよっぽどボートの方に吸い込まれてしまっている。いずれにしろ、世の中の人々は「役割」をお互いに押し付け、背負い合って生きている。出来得るならば、私はその枷から逃れたいと思うだけなのだ。

 このように、大学における私の事績を振り返れば、とことん典型的なイキリ野郎であって反吐が出る。だが、周囲を見れば、私には良い仲間がいた。これは疑うまでもなく良い事だ。ボートレースを教え込んでくれた高校同期、聞くところによれば先月はとても負けたらしい、もいれば、お酒の美味しい飲み方といって目の前でレッドブルとウォッカを混ぜ合わせる後輩もいた。いずれにしても、私にとっては存外、大事な仲間たちである。ここに書くことは憚られる同期もいたが、それは過去の事、すこしだけきついことを言う前にやめておこう。

 また、先輩にも恵まれた。先輩とのエピソードというと色々あるが、とある先輩の事はすごく参考にさせていただいている、反面教師として。本来であれば、その人物を評して文藝部五年間の歴史を「学術的に」書こうかとでも思ったが、周囲からの圧力に負けた。これは言論の自由を侵害しているのではないだろうか、誰か「言論の自由」を守るためのオープンレターでも初めてくれないか。この「言論の自由」は私が言いたい放題やるための自由なのかもしれない。ま、所詮SNS上での呼びかけなんぞ愚にもつかないのかと、徒労に終わるだけのことだ。いわゆる「学術」の世界に立つ人々が「きのこ・たけのこ論争」レベルで騒ぎを繰り広げているのを見ると、虚無感を抱く。また、その象牙の塔に住まう者が下界を見下すのは、気持ちいいのかもしれないが、下界の俗物たちからしてみればバスティーユの監獄か、動物園のパンダを見ているようなものである。パンダとコアラがじゃれ合っているのを見て「かわいい~」と言う子供たちはよく見る光景だ。この九州の人間に分かりやすく言うなれば、高崎山のサルたちが餌を巡って争っているのをキャッキャして見ているだけのことに過ぎない。今は本当にいい時代だ、タダであんなに面白いサーカスが見れるのだ。しかしながら、こんなことばかりを書いていては、この「卒業雑文」の単位は貰えないかもしれない。次節以降ではもっと真面目に「雑文」を書いていこう。

 今まで述べてきた中で、「役割」について述べたことを改めて考えてみる。この「役割」について思いを馳せたのは、某後輩氏(ウォッカとレッドブルを混ぜたりする子)のレポートに関わってからである。後輩氏はとある講義の課題で「役割語」について論じることとなり、私の作品を取り上げてくれたらしい。全くもってありがたいことである。確かに、我々書き手が小説(あるいは小説もどき)を書く際に、登場人物に一定の役割を持たせるということは多々ある。これは演劇や映画にしても同じかもしれない。それは書き手(作り手)による「作品」という箱庭世界だから許されることだと私は考える。それは登場人物を盤上の駒として扱うことであり、およそモノとしてしか見なしていないからだ。

 別にこのこと自体は否定されるべきことではない。確かに、多くの小説(作品)には作り手から読み手へのメッセージが込められる。それは魅力的な謎かもしれないし、くだらんアジ演説かもしれない。だが、それは作り手からすれば当然、自明のことであったとしても、読み手からすれば許せない場合がある。これがいわゆる公式に噛みつくオタクだったりするのだが、確かに登場人物がそれぞれのキャラクター性を失い、作者の主張を垂れ流す拡声器の「役割」を押し付けられている場面を見ることがある。その時、読み手は古参ファンであればあるほど、愛着があればあるほど、顔を真っ赤にするのだろう。それに対して作者はどう接するべきか。オタクのような俗物達には深謀遠慮を理解できないと切り捨てるのか、はたまた軌道修正を図るのか、そこに作者の器量が見え隠れする。もちろん、初めから作者が自身の考えを述べさせるということをオープンにしていれば、ある意味でフェアだ。だが、その手続きを踏まえず、姑息にこそこそとやる輩が多いのではないか。そんな人間に限って、「小説は「人間」を描くこと」などとのたまうのである。

 また、この「小説は「人間」を描くこと」とのたまう奴らが描くような「人間」に、真性の人間が居るのだろうか。「人間」なんてものを文字で表すことなんて出来るのか。お前だってそうだろうとツッコミを受けるかもしれないが、出来ないことを知っている人間と、知らない(あるいは知らないふりをする)人間では違うだろう。不可能を知り、それでなお可能なところまでを探求することが書き手の使命のように思うが、これは酔っ払いの戯言かもしれぬ。ただひとつ言えることは純度百パーセントの善も悪もないし、愛も恨みもない。人間とは筋を通すことが苦手なダブスタ上等な生物だろう。それをそう割り切って書くべきだし、その結果、周囲から見たら言行不一致が生じることもあるのだ。ただ、きっと当人の当人による当人のための視点からは自然な行動なのである。私はそこを踏まえなければいけないと常々思う。これはすなわち、戯作の世界から現実に目を向けた際も同じだからである。現実においても「役割語」なんてものは存在してはならないのだ。

 現実においても、我々は「役割語」を用い、「役割」を押し付け合っている。T―RPGなどでロールプレイということを行うが、それは普段の生活においてもしていることだろう。読者諸氏におかれましては、素直で真面目な親の言うことをよく聞く子どもって役割を演じたり、それを陰で親の悪口を言ったり、なんて役割も演じているのかもしれない。あるいは従順な後輩を演じる羽目になったり、理知的で聡明なパートナーであることを求め続けられたりもあるだろう。全部、それを押し付ける俗物がひどい話だ。そしてそんな奴は都合のいい時に都合の良いように投げ捨てる。きっと、そいつは報いを受けるはずだし、とっくのとうに報いを受けている。地獄の業火を待たずして、悶え苦しむのだ。

 だが、肩を持つつもりもないが、きっとそんな俗物たちもまた「役割」を押し付けられている。そして、その「役割」という枷から逃れる過程で誰かを傷つけてしまっている。この過程はある意味で輪廻の構図である。この枷から逃れるという行為が、堕落だと私は結論付けたい。これこそ、かの坂口炳五博士が言うところの「堕落」の一つの解釈ではないか。俺はこれまで自身が俗物であることを自覚し、世の無聊さを認めることが「堕落」へ繋がる第一歩だと思ってきたが、考えを半歩進めるべきであろう。「役割」を求めること、それはヒトをモノとして扱う、ヒューマニズムの真反対にあることだ。まずはその無聊なる現実を知り、自身もその現実を形成する俗物であることを自覚せねばならない。その後、枷から自由になること「freedom」を謳歌することが、「堕落」することだ。明治期の日本人は欧米の言葉を翻訳するに当たり、とても迷ったそうだ。「freedom」についても、「自由」と訳すか、「勝手」と訳すか迷ったという。今こそ、「勝手」と訳し直そうではないか。そして、俺のような俗物は「勝手」を謳歌すればいい。

 「勝手」謳歌の先に何があるかなんざ、知ったこっちゃないが、少なくとも今より幾分かは生きやすい世界じゃなかろうか。親だの教員だの放って捨てて、勝手気ままに生きること。これが今の我々に許されるべきこと。我々に「役割」を押し付けてくる奴らは、既に「勝手」を謳歌しているのだ。私が仕事しないと回らない、それは違うんだ。一人がモノとして扱われるような仕事なんて既に崩壊しているのだ。崩壊の傷を糊塗するのではなく、崩壊を白日の下に晒して、また建て直したほうがいいにきまっている。言いたいことも言えない世の中なんてものは、さっさと壊したほうが良い。反町隆史だってそう言うだろう。

 ここまでが現実の話である。話が行ったり来たりしてしまうのだが、小説という箱庭世界の中では「役割」が生じるとは述べた通り。その「役割」が露骨に偏れば、読み手から批判を受けるのも述べた通り。だが、「役割」が書き手も読み手も望むものであったらどうなるのだ。結果として、毎週日曜朝五時には、ばい菌の精が「バイバイキーン」と叫ぶし、六時五十五分にはどこかの主婦がジャンケンをしている。たまには、ばい菌が「アンパーンチ」と叫んだり、弟の野球少年がジャンケンをしたいと思ったりもあるだろう。だから私は今回追い出し号において、「役割」を与えた登場人物たちがどう枷を壊していくのか、一種の思考実験を行うことを思いついた。それこそ、一部の気取り屋が言う「人間を描いている」ことになるんじゃないかと思ったのだ。その結果は何と、話の筋が書き手の手から離れていく、書くことが出来やしない。どこかの掲示板管理者の如き思考で話の腰を折る。とてもじゃないが、まとまらなかった。そして、思考実験ならば、それをそのまま出せばいい話ではある。けれども、私はこの状況で出すつもりはない。「実験は失敗」、この事実をここに書き記すことで十分であろうと判断する。つまりは、私の「勝手」で登場人物たちの「堕落」を踏みにじることとする。これはエゴ以外の何物でもないし、エゴイストと罵られる事には慣れている、偽善者とも。だが、私はこの決断を下すという事はある意味で、作り手としての意識を抱き続けるということだと開き直りたい。登場人物たちを徹頭徹尾自分のエゴでモノとして扱い、「役割」を与えることで小説(創作物)は「戯作(フィクション)」となり得る。これを証明したのだと思う。つまり、それこそが戯作者根性だ。まがい物のでっち上げでかまわないだろう。ただ、そこに面白さがあるのなら。戯作者が考えるべき相手は登場人物ではない、読み手である。

 ただ、先述したように、作り手が創作物の中で自身の主張だけを繰り広げるなら、それは一種の露出狂であり、全裸で自慰行為を見せつけているのと同じだ。そして、他方で「人間を描く」、そんなことに傾倒して読み手の存在を無視して、登場人物と対話するなんてことは、作り手が登場人物とセックスしているのを配信しているだけだ。両者の間には自慰行為を配信するか、セックスを配信するかの違いしかない。この文章を書いている私もまた、その俗物の一員であるかもしれない。

 さてさて、長々と「雑文」を書いてきた。およそ「アカデミック」な文章とはいえないが、これが私の過ごした四年間を象徴する。そしてまた、今後はここから卒業することになるのだろう、それが成長というものだ。他方で、小説において「人間を描く」ことを望む読者諸氏からすれば、この雑文を読むと憤怒を覚えるかもしれない。それならば、私にセックス配信ではない、オペラでもミュージカルでも見せていただければ幸いだ。きっと賢明なる読者諸氏ならば、私に美しい小説を見せてくれるであろうから。あるいは口頭試問でも開いていただけるのだろうか。また、この文章は初めに「卒業雑文」と称した。この科目に単位認定があるかは知らないが、初めに述べたように「徒然なるままに」叙述したわけであるから、単位はきっともらえると私は信じている。締め切りを守れという怨嗟の声も聞こえてきそうだが、それに関しては……謝罪する。誠にすいませんでした。 ただ言い訳するならば、四年間の文藝部生活の中で、私は〆切を引き延ばす「役割」を背負うことになったのだと思う。その「役割」に殉じたのだと言い訳したい。部長君や副編集長はきっと怒るであろう(彼らもまた「役割」に縛られているように見えるのは私だけだろうか)がね。これ以上、彼らの仕事を増やさないためにも、この「卒業雑文」は全文そのまま墨消しなどはなく、追い出し号の紙面に載るだろう。これもまた、「勝手」かもしれない。

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2021年度・九州大学文藝部・追い出し号 九大文芸部 @kyudai-bungei

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