氷雨 作:有明榮


第一章



 本郷かなでがここ三週間ほど総合図書館に通っているのは、主に二つの理由からだった。一つは編集部から期待されている――というよりはせっつかれている――新たな小説のためのインスピレーションを得るため、もう一つは巷で密かに話題になっている、この図書館の「とある司書」をその目に収めるためである。彼女にとっては後者の方が主目的のようなところがあった。その司書は「国内初の女性綜合司書」という肩書を、なんと国家試験一発合格という偉業と併せて得ていた。かなでは彼女の名前こそ知らなかったが、苗字が「藤原」であるということだけ知っていた。何度か彼女に読書案内を受けた時、濃紺のスーツの胸ポケットを挟んでいる名札にそう書かれていたのである。

 かなでから見て――というより一般的に見て、藤原は美人であった。深い青色にさらりと光る髪を背中まで伸ばし、やや面長の透き通る白い顔は鼻が高い。その顔のシルエットの鋭い反面、まつ毛の長い、鳶色の瞳をした大きな両目の形は猫のそれを思わせ、そこだけ見ると意外と幼く見える。「かわいい」と「綺麗」をいいとこどりしている顔立ち――というのが、かなでのアルバイト先の同僚が示した反応だった。

 藤原が綜合司書という役職にあるからというのもあるが、やはり彼女の美貌には人を遠ざけるものがあるように、かなでには思われた。人間においてあまりに強大な特徴は、むしろ美点を越えて、ある種の禁忌となる。その人の持つ美は崇高へと変わり、その人を囲む人々の感情は憧れから恐怖へと変わる。そしてまさに、司書藤原のどこか冷たい美貌は人に恐れを抱かせるのだった。

 しかし、藤原がかなでにとっての憧れの対象となるのに時間はかからなかった。藤原はかなでとは対極的だった。何もかもが正反対の存在といってもいいだろう。かなでは物心ついたときからよく「紙の」本を読んでいたが、それは電子書籍が主流となったこの時代にあってはかなり少数派だった。東京の私立大学に入学後は小説を書くようになったが、それはもっと少数派だった。東京ならば自分のように紙の図書に親しむ人はたくさんいるだろう、というアテが完全に外れてしまったので、かなではかなり意気消沈した。学生数二万という標準的な規模の大学にあって、文芸サークルの部員はたった六名、学祭に出店するにしても他大学との合同でようやく参加最低人数の二〇名に達するか否かという程度だった。図書とは無縁の人々が中心の世界にあった人間が図書の世界の頂点にある人間に憧れを抱くのは、ある意味妥当な反応ともいえる。対する藤原の経歴は殆ど判明していない。綜合司書が国家資格となった現在においても、彼等の経歴は「図書館大学院綜合図書館学府修士課程修了」以外明かされない――明かしてはならないことになっている。情報の価値が高騰し、伝播速度が加速度的に上昇した現代で、学術的な立場からその信憑性を判断できる人材は非常に貴重なものになった。彼等の素性をできるだけ秘匿しているのは、彼等が悪用され、社会に混乱がもたらされないようにするという国の方針によるものである。

 そもそも司書の一部が「綜合司書」として国家資格となり、藤原のようにそれを得た者達が国家によって守られるようになったのは、半世紀前に起きた悪夢と、そのトラウマによる急激かつ大規模な政治改革によるものだった。


         *****


 西暦二〇六六年、今にも来るぞ来るぞと言われ続けていた、東海・東南海・南海連動地震がようやく発生した。これによって九州から東北地方にかけての広い地域がその被害を受けたが、実際の悪夢はその後にやって来た。まず情報ネットワークの寸断である。二〇三〇年代に電信省として国営化されていったされていった旧NTTの基地局が、地震の揺れ、土石流、津波などの被害を受け相次いで倒壊。これに伴い、東京では電話回線とインターネットはほとんど使用不能になり、この状況を重く見た政府による緊急ネットワークが提供されるも一瞬でパンク。電気、水道、都市ガスなどの基本的なインフラがストップしたことも相俟って、都内の生活は一瞬にして前近代へと逆戻りした。

 幸いにも水道は直ぐに復旧したが、電気、ガス、ネットワークはなかなか復旧しなかった。このことが、歴史家をして「学術知最大の危機」「戦後最大の悪夢」と言わしめる動乱を引き起こした。これまで生活の情報リソースとなっていたテレビ、ラジオ、インターネットが利用不可能なものとなったため、市民が得る情報は新聞、雑誌もしくは「人伝て」によるものがほとんどとなった。しかしながら、社会混乱に乗じて情報を悪用する連中のたゆまぬ努力の結果として、新聞と雑誌の質は総じて劣化。昨日の嘘は今日の真実、今日の真実は明日の嘘となり、客観的に「正しい」と判断できるものは、見ることも聴くこともできないテレビとラジオの番組表、それからスポーツの試合結果くらいになった。

 そんな中、誰が発生源かは不明だが、「先の震災は人の手によるものだ」という流言がいつの頃からか飛び交い始めた。悪事千里を走るというわけではないが、噂は人から人へと伝わり、「震災は自然発生によるものである」という政府の公式声明すら――情報媒体が完全でなかったこともあって――かき消してしまった。そして二〇六六年の暮れ、来年は良い年でありますようにと多くの市民が願うなかで事件は起きた。陰謀論を信じる過激派からなる少人数グループが同時に都内の大学図書館数館を急襲、プラスチック爆弾と火炎瓶を炸裂させた。この過激派の行動がかなり綿密に計画されていたこと、また事件が発生するまで存在すら明るみに出ていなかったことも相まって、大学は全くの不意を衝かれる形となり、甚大な物的・人的損害がもたらされた。「大学図書館同時多発テロ」と名付けられたこの事件の三日後、実行犯は全員検挙され終身刑が言い渡されたが、それ以上に、「知識を持った奴らがおれたち市民を見えないところで虐げている」「我々は組織の末端に過ぎない。情報を掌握し諸悪の根源となっている金持ちと知識人は根絶やしにする」という彼等の証言が国中を震撼させた。

 これを受けて、情報の管理者、学術知の管理者の存在が大学関係者や一部の市民、財政界から要求されるや否や、時の首相・一条は迅速に「学術保護のための特別措置法」を発布し、与野党の意見を全て無視して図書館改革に踏み切った。彼の目的は学術知を含む知的財産の厳重な保護管理、またそれに従事する人員の保護であった。後者はテロの尋問に際して実行犯の一人が「大学の図書館長は恣意的な閲覧制限を設け、我々が得る情報を操作している」と発言したことを受けて――もちろん図書館の閲覧制限の判断基準は国立国会図書館規則に準拠するため館長が故意に閲覧制限を設けることは事実上不可能なのだが――定められた。

 一条首相が最初に目を付けたのは司書職の地位向上であった。それまで財政状況を理由に非正規雇用と低賃金が一般化していた司書職を「綜合司書」として再編し、これに国家資格を付与することにした。二〇六八年、筑波大学に合併されていた図書館情報大学を「図書館大学院」として再独立させ、これと同時に図書館法を改正。第五条にて定められていた司書の資格を大幅に変更した。


一 図書館大学院修士課程を修了し綜合司書国家試験に合格した者

 二 次に掲げる職にあつた期間が通算して三年以上になる者で綜合司書国家試験に合格した者

  イ 司書補の職

  ロ 国立国会図書館又は大学若しくは高等専門学校の附属図書館における職で司書補の職に相当するもの

  ハ ロに掲げるもののほか、官公署、学校又は社会教育施設における職で社会教育主事、学芸員その他の司書補の職と同等以上の職として文部科学大臣が指定するもの


 この条項では改正前に定められていた「大学を卒業した者(専門職大学の前期課程を修了した者を含む。次号において同じ。)で大学において文部科学省令で定める図書館に関する科目を履修したもの」という部分が全面的に改正された他、「大学又は高等専門学校を卒業した者で次条の規定による司書の講習を修了したもの」という文言が削除された。

 こうして司書を国家資格へと変更すると、首相は公共図書館の一部を国立図書館に再編する政策を提示した。この再編は莫大な費用を要求したため、復興の優先を唱える野党からは強い反対が挙がったものの、持ち前の迅速果断な行動力によって政策は強引に推し進められた。二〇七三年、大学との連携の下で一般利用と学術利用の両方を担う図書館として新たに「綜合新図書館」という分類を設けると、試験的運用として七五年に福岡市総合図書館および名古屋市舞鶴総合図書館、八〇年に広島県立図書館および京都府立図書館、八三年に都立中央図書館に「綜図オフィス」を次々に設置、これらを綜合司書の受け皿とした。およそ四半世紀にわたり政権を運営した一条首相は、都立中央図書館の綜図オフィス設置を見届けると退任、その翌月に死去。享年七七で世を去った政治家は、独裁者というイメージが持たれた一方で、後に「知の救世主」「大文人政治家」などと呼ばれるようになる。

 そして世間が急激な変化を見た二一世紀後半から約五十年が経過した現代、西暦二一二二年――嘉祥一三年。通りの桜がすっかり緑一色になった五月初旬のことである。


         *****


「いやいやいや、そりゃ当たり前だろ」

 と園田千裕は目を丸くして、振り返って言った。彼はベッドに凭れるように胡坐をかいたまま、なおも咎めるように目線を送るかなでを、肩越しに呆れたように見返した。かなではベッドにうつ伏せになって、乱れたボブカットの髪の隙間から口を尖らせていた。千裕はテーブルに置いてあるすっかり温くなった缶コーヒーを開け、一口すすった。

「考えてもみろよ。向こうは綜合司書だぜ? 国がイチバン大事にしている知識と情報の管理者。素性は一切明かされない。本名で小説家やってるお前と違って、その『藤原』って苗字が偽名の可能性だって高いんだからさ」

「やっぱダメなのかなー、でもお友達になるくらい許してくれたっていいと思わない?」

「どこの馬の骨ともわからねえ奴とホイホイ連絡先交換するような人が綜合司書なんかに就けると思うのか?」

 千裕はピシャリと言った。それはそうだな、と思いつつもかなではどことなく腑に落ちないでいた。何も身に着けていないせいか寒気がして、くしゃみをひとつすると、足元でしわくちゃになっていたブランケットを胸元まで引き寄せた。日中から雨が降っていたので、五月とはいえ寒い夜だった。

「それに苗字が『藤原』なんだろ、ますます厳しいんじゃないか」

 どういうこと、と目を皿のようにしているかなでを見て、千裕はおいおいと驚き返した。一応文学部の出なんだからそれくらい知って置けよと言わんばかりである。それが不服だったので、明日図書館でばっちり調べてやる、ついでに藤原司書の御尊顔を拝んで、あわよくば明日こそ友達になるのだ……とかなでは勝手に妄想した。

「……でもどうしてあの司書にそこまで執着してるんだ?」

「えっ、やっぱこれって執着になるかなあ」と急にかなでは身を起こした。千裕は空になったコーヒーの缶を掌で弄んでいる。

「傍目から見る限りは執着してるよ。午前中はバイトして、午後に図書館に、しかも専門書の方が多くて利用者は大学に関係する人が殆どのオフィスの方に行ってんだろ」

「後は三日に一回くらい読書案内してもらってる」

「そこまでいったらもう執着でしょ」と、千裕は後ろを振り返ると大げさに肩を竦めてみせた。かなではやがて不服そうにまたベッドにうつ伏せになり、枕に顎を乗せた。その始終を見ていた千裕は、部屋の隅に置いてあったゴミ箱に空き缶を投げ込むと爆弾級の発言を投げた。

「なんというかまああれだよな、ウブい中学生が勘違いしてやっちゃうストーカー行為みたいなもんだよな」

「はああぁぁー!?!?!?!?」

「そんなに驚くことか? 言い得て妙だと思うだけど」

 茹でダコよろしく真っ赤になって噛みついて来るかなでに反して、千裕は何ともない顔である。

「ス、ストーカーって……そんな言い草はないでしょッ!?」

「いや立派なストーカーだろ。だいたいお前、ロクな恋愛経験ないじゃねーか」

「ロクな恋愛経験くらい私にも……」

 それくらいあるから、と言いかけ、かなでは口を噤んだ。思い返せば今の千裕との関係性ですらロクなものではない。大学一年の秋にできた、人生初の彼氏。関係は半年くらい続いたが、千裕が就職活動で忙しくなったこと、そもそもお互い別の大学に通っていたことなどから、翌年の六月くらいに別れ話がどちらからともなく切り出された。別れる直前とほとんど変わらない状況だったのに、かなでは何となく寂しかったので、その年の秋頃から、たまに会っては互いの性欲を解消する程度の仲になった。かなでにはそれくらいで丁度よかったし、千裕も新しい彼女ができるまでの退屈しのぎだという風に考えた。結局、その次の春に千裕が福岡に就職したので、三日三晩貪り合った三月中旬を以て、関係は途絶えたかに思われた。

 だが現に今、かなでは博多にある千裕の部屋にいる。かなではもともと東京で就職したが、小説を書くのは辞めなかった。そこで応募した短編が新人賞を受賞し、雑誌連載の話もついたので、入社後一年と一か月後、思い切って仕事を辞めた。これで執筆に専念できるとかなでも思っていたのだが、雑誌連載も振るわず半年で打ち切り、かといって新しい小説も書いてはみたものの満足がいかず、ノートパソコンのゴミ箱には書きかけのテキストファイルが溜まる一方だった。アルバイトをしながら燻った生活を続けていたかなでは、福岡で仕事決まったから、と嘘をつき、仕事と収入を心配する親の目から逃げるように千裕の家に転がり込んだ。初めの内は、新しい家が見つかるまで、一か月くらいのつなぎ程度に考えていた。だがそのつなぎも二か月になり、三か月になり、かなでもやがて自分で家を探すのが面倒になってきた。アルバイト先は福岡に移ってすぐに確保できていたので、なんとなく千裕の部屋を間借りして半ば同棲するような関係が、結局今の今まで続いていたのだった。

「……ないかもしれない」

「だろ? お近づきになるにしても色々もう少し考えたほうがいいんじゃないのか」

「色々って……千裕はその辺わかって言ってるんでしょ、例えばどんな?」

「例えば……例えばねえ」と、腕を組んで千裕が唸る。やがて意地悪い笑顔で振り返ってきたので、かなではちょっと嫌な予感がした。こういったときの予感は得てして当たるものである。

「お近づきになりたいならこそこそ後をつけ回すんじゃなくて素直に話しかけることだろうな。自明の理」

「うるせえ」

 それができてりゃ苦労しないわよ、とわかりやすく頬を膨らまして背中を向けたかなでを後目に、千裕はどこ吹く風とかなでの足元に脱ぎ捨ててあったカッターシャツに袖を通し始めた。


          *****

 

 昨日から降り続いていた雨は昼前に上がった。とはいえ空がどんよりと重い鈍色の雲に覆われていて、いつまた降りだすかわからないので、道行く人は皆傘を携えている。もちろんそれはかなでも同様だった。いつものように午前中はアルバイトに入り、お昼過ぎにシフトを終えた。ただ一ついつもと異なるのは、かなでが現在図書館ではなくカフェにいること、そして目の前の席に、藤原司書がいることだった。

 藤原は相変わらず静かである。通りを眺めている藤原の、銀色の眼鏡のフレームが光り、普段の業務中はコンタクト着けてるんだな、などと要らぬ考えを巡らせていた。

「どうかしましたか?」と、藤原がやや困った顔で言った。長いこと無言で見つめていたのを感じ取ったのかもしれない。いやいやいや全然そんなことは、とかなでは慌てて両手を振って答えた。顔が熱いのと、舌が全然回っていない――その割に大きな声を出したので何人かが二人の方を見ていた――のもあって、動揺していることは誰の目にも明らかだった。紙コップのラテを口にして誤魔化しながら、なんでこんなことになったんだっけ、とかなでは急いで今日の出来事を回想した。

 バイトの後、昨日の今日で向かった図書館は休館日だった。今日こそは一歩踏み出すぞ、と意気込んでいたかなではどことなく肩透かしをくらった気分だった。午前のバイトにいつも以上に気合いを入れたのに、肝心の図書館が開いていないのでは意味がない。朝五時に起きて、千裕が起きる頃にはすべての支度を終えていたという、今朝の自分の頑張りはいったいどこへ行ってしまったのか。このまま帰っても何がということもないが何となく報われないので――それと休館のことを言ったら千裕に笑われそうだったので――大濠公園の中に在るカフェに寄ることにしたのだった。ホットのラテを注文し、意外と暖かいからテラス席でも使おうかしら、と思って外に出た時、三台向こうのテーブルに藤原の姿を認めた。

 こんなところでバッタリ会うなんてラッキー、と思いつつ、でもやっぱり藤原さんにしてみれば仕事以外の場所で見られたくないかもな、と考え直したかなでは、気づかぬフリをしてさらに奥の席を取ることにした。遠くから眺める分にはいいだろうと結論付けたのである。が、そばを通り過ぎる時に、藤原の方もかなでの姿に気づいた。藤原は、あら、といってかなでを見上げ、次いで手招きした。向かいにどうです、と暗に示唆されたかなでは、それをわざわざ断る理由もなかったのである。

 そりゃ確かに憧れの存在? というか推し? ではあるけど私的にはちょっと遠くから眺めていたいといいますか――まあ勢い余ってお友達に成ろうなんてことを思ったりもしましたし今も思ってますけど――偶然とはいってもいきなり相席するとかじゃなくてもうちょっと会話の機会が必要なんじゃないの!? と、かなでは自分の経験の少なさを棚に上げつつ、藤原の突然のお誘いに困惑していた。昨晩千裕に自身のウブさを指摘されたばかりなのだが、そんな自分でも解る程の突然さといい、誘っておいて向こうから口を開かないことといい、実は藤原司書も恋愛経験に乏しいのではないか。まあ彼女のお招きにあやかった私も私でチョロいんだろうな。蓋の飲み口に付いた泡を眺めていると――

「……あの?」と、掠れた高い声がして顔を上げると、藤原が怪訝そうにかなでを見やっていた。

「やっぱり、突然誘ってしまってご迷惑でしたか?」

「いやいやいやいや、全然そんなことないですよ。寧ろ覚えててもらってうれしいと言うか……」

「本当ですか? それならよかったです……見たことのあるお顔だったので、もしかしたらと思って。でも、たまたま会ったからといって急にお呼び止めするのはやっぱりご迷惑だったかなと思っていたんです」

「いやいや全然、本当にそんなことないですよ。こちらこそ、この間急に連絡先なんか聞いちゃってすみませんでした。司書さんって今や国家公務員ですし、気軽に友達になるのも難しいですよね」

「そうですね……私たちは、配属先の図書館が決まった時に厳しく指導されます。特に交友関係は」

 そう言って藤原は、アイスコーヒーを一口飲んだ。ざあっと生温い風が二人の間を抜け、藤原の長い髪と、かなでの短い髪を揺らした。次いで雲の切れ間から光が射し、池の水面に反射して明滅している。そのせいで、福岡市街は逆にやたらと暗く見えた。何組かのレジャー客がボートを漕いでいて、池の周りの道を陸上部が走っている。テラス席には今や二人以外誰もいない。静かな午後である。

「藤原さんは、どうして綜合司書になろうと思ったんですか?」

「それは、ここで言うのはなしにしましょう。いずれまたお話します」

 我々は「秘匿の職業」ですから、と藤原が言ったので、かなではあっと口に手を当てた。これまでの会話の軽率さに気づいたのである。

「仕事の話は、仕事の時に。今は勤務時間ではありませんから。そういう本郷さんは、熱心に図書館に通っていらっしゃるんですね。それもオフィスの方に。学生さん?」

「いえ、そういうわけじゃなくて……小説家なんです、駆け出しですけど」

「もしかして、『本郷かなで』さん?」と、藤原が丸い眼を更に丸くして聞いた。かなでがそうです、と言うと、信じられないといった表情をした。

「今時、本名で活動される小説家の方っていらっしゃるんですね……」

「たはは……何と言うか、ペンネームから本人を特定されたときの方がなんとなくいやだなと思って」

「たしかに、それもそうですね。私も昔は――といっても十年くらい前ですが――小説を書いてネットに掲載していたので、理解できます。ちょっとくすぐったい気持ちもしますね」

 

 その時、藤原の腕時計からピピッと短いアラームが鳴った。どうやら電話の呼び出しがあったらしい。慌ただしくアイスコーヒーを飲み干し、バッグをまとめている様子からすると、この後用事があるのだろう。

「ごめんなさい、本郷さん。私、これから行かないといけない用事があって。そうだ、連絡先、交換しましょう。本郷さんとは、楽しくお話できそうですから」

「はい、構いませ――えっ?」

 呆気にとられているかなでを余所に、藤原はさっさとチャットアプリを開いてかなでを友だちに追加すると、また今度オフィスかどこかでお会いしましょう、と普段の物静かな雰囲気からは想像もできない疾風怒濤の勢いで立ち去っていった。

「これは意外と――」意外と不器用なタイプだな、とは、かなでは口に出せなかった。



第二章



「かなで、お前に飛脚」

「え、私に? 何だろう」

 六月の蒸暑い夕方だった。仕事から帰宅した千裕が、ポストに入っていたかなで宛ての茶封筒を持ってきたのである。かなではいつもの通り、アルバイトの後、図書館に三時間ほど滞在して帰って来たのだった。

 封筒という実物の郵便形態は、二二世紀となった今でも健在である――それまでの郵便とは少し異なっているが。先の震災によって道路、鉄道が寸断され、多くの空港もまた損害を被った。それに際して活躍を見せたのが「飛脚」だった。始めは東海道の一地域で有志によって始まった、遊び半分、ボランティア半分の活動だった。人の脚は、車になると越え難くなる小さな亀裂を軽々と越えることができる。GPSはどうにか息をしていたので、モバイルバッテリーとスマートフォンを片手に、彼等は手頃な竹竿の先に文箱を括り付け、軽装で脚絆を巻いたいわゆる「飛脚」姿で、三重から静岡の間を縦横無尽に走り回った。その活動と範囲は徐々に人から人へと伝わり、五年もしないうちに、宅配便は運送会社が担っていた一方で、飛脚が郵便の一翼を担うようになった。

 こうして有志によって始まった飛脚は事業となり、「新郵便」或いは「飛脚」として、それまでの郵便事業に併存するかたちで定着することになったのである。それに加えて、人々がやり取りの手段として郵便を活用するようになったことも大きい。電話回線とインターネットの損害は予想以上に大きく、「(ほぼ)確実に届けてくれる」という安心感から、やり取りの手段は手紙・葉書が主流となっていった。こうした趨勢を受けて二二世紀現在、流通している郵便の総量は、二一世紀当時のそれよりも大きいとさえ言われている。

 今しがたかなでの下に(正確に言えば千裕の下に)届いた茶封筒も、福岡市を拠点とする西日本新聞社から街飛脚を通じて届けられたものである。「本郷かなで様」とだけ几帳面な字で書かれた縦長の封筒を裏返すと、左下に「西日本新聞文学賞 新人賞係」というゴム印が捺してある。それを見て、なるほどとかなでは中身を理解した。三月末に投稿した長編小説の選考結果が届いたのである。

「どこからだった?」と、スーツのジャケットをクローゼットに仕舞いながら千裕が尋ねた。

「西日本新聞社。小説の選考結果みたい」

「ああ、三月にあの分厚い封筒で出してたやつか」

「そうそう。審査員の人、読み疲れただろうなあ……なんせ七万字も書いてたし」

 我ながらどうやってあんな超大作を書き上げたのだろうか、と過去の自分のバイタリティを訝りながら、かなでは糊付けされた封筒を親指でざくざく開いた。まあどうせ今回も落選だろう、いい加減大人しく雑誌連載の原稿出さなくちゃな……と思いながら三つ巻きにされた紙を開くと、いつものように簡潔な文言が記されていた。


「本郷かなで様


拝啓


この度は弊社文学賞にご応募いただきありがとうございます。厳選な選考の結果、貴殿の作品『アトリエ』を大賞とする運びとなりました。

授賞式ならびに単行本化に関する打合せの詳細については、追ってご連絡致します。


敬具


嘉祥一三年 六月十五日

西日本新聞社文学賞 新人賞係」


「……んんん?」

「どうした」

「ねえこれ……」とかなでは文書を千裕に差し出した。千裕はざっと文書に目を通すと、かなでの方を見降ろした。かなではベッドに座って、千裕を見上げている。

「マジ?」と沈黙を破ったのは千裕だった。かなでは依然として、茫然と千裕を見上げている。

「夢じゃないよね、これ」

「現実だな」

「いやまさか、もしかしたら詐欺郵便の可能性だって」

「封筒の表に認定印があるから本物だな。ていうかこんなことでいちいち詐欺ってどうすんだよ」

 それはそうだけど、と言いつつも、かなでは自分の置かれた状況が信じられなかった。難産も難産の末に提出した作品が章を取るのはやはり嬉しい事なのだが、同時にそれは何とも実感の湧かない、不思議な感覚だった。

「そういえばお前、この後の生活はどうするんだ?」

「え、この後って?」

「いやいや忘れたのかよ、最初に俺んち来た時に言ってたこと……」と千裕はネクタイをクローゼットに戻しながら言った。

 言われてかなでは思い出した。この家に居候する条件として、『小説家としてメジャーデビューするときまで』という期間を設けていたことを。今回の受賞で作品が単行本となり、小説家として世に名を表す機会を得た以上、かなでは千裕の家を出ていくことになる。

「そうだった、忘れてた。私、いっぱしの小説家になるまでって言ってたんだった」

「……別に、いてもいいんだぞ」

「それは……それはどうして今になって?」

「いや、なんかさ。もうこんな生活が当たり前になっちゃったからさ。別に今更……変える必要もないかなって」と、千裕は背を向けたまま、振り返らなかった。

「そりゃ、お前の荷物は多いから小さい部屋が更に狭くなってるし、ベッドも交替で使ってるし、色々と面倒なことはあるさ。でも別に……今は苦にならないと思ってるから」

「それは、」それはずるいよ、とかなでは言いかけた。突然居候を申し出た自分も悪いのだが、迷惑そうにそれを受け入れ、かなでが住むようになってからもある程度ドライな関係を保ってきた今になって、今更「このまま住んでてもいい」だなんて。千裕にも割り切れないところがあるのは容易に想像できたし、かなでも実際に、割り切れない部分がある。だが『本郷かなで』が小説家となった今、約束は約束として守らないといけないし、それに――

「やっぱり私、ここは出ていく。約束は約束だし、それに、独りでちゃんと生きていきたいから」

「……そうか。そうだよな。大人になったな」

 そういってに笑う千裕の顔はどことなく寂しげだった。決意を固めたものの、かなではやはりどこか胸が痛かった。ひんやりと涼しい風が、ひぐらしの鳴き声と街の雑踏を、網戸越しに部屋へ運び込んだ。西の空が朱く染まっているのが見えた。一週間以内に、新居を探して引っ越してしまおう。心が変わらないうちに。かなでは立ち上がって窓とカーテンを閉めながら、自分にそう言い聞かせた。

 ――ここに居られるのも、あとわずかだ。心地いいぬるま湯は、自らの手によってやがて許されなくなる。長い長いモラトリアムのトンネルを抜けると、後ろを振り返ることはもうできないだろう。

 かなでは千裕を呼ぶと、紺色のジャージを静かに下ろした。


          *****


「新人賞? かなでちゃん、すごいじゃない」

「うん、ありがとう、ひさめちゃん」

 かなでは、藤原ひさめと二人で、例の大濠公園のカフェにいた。かなでが居を移した直後の六月下旬の休日は、前の日に降った雨のせいでとても蒸暑かった。

「ひさめ」とは藤原のあざな――わかりやすく言えばミドルネーム――である。字という概念はかなでにとっては聞き慣れた概念だが、それは実は先の震災前後頃から、古代の人々の文化を取り入れようとする、所謂『ルネサンス』的な観点の下、一部の人々の間で流行り出した習慣である。

 ルネサンスという文化潮流は、古今東西多種多様な地域で発生した。人口に膾炙している「イタリア・ルネサンス」は十四世紀から十六世紀にかけて生じた文化運動を指すが、文化的に「ルネサンス」という言葉が含まれる出来事は、八世紀から九世紀ヨーロッパのフランク王国における「カロリング・ルネサンス」、九世紀から十一世紀の東ローマ帝国で生じた「マケドニア・ルネサンス」、シチリアやスペインにおける「十二世紀ルネサンス」など複数ある。だがいずれの潮流も「古典時代への回帰」という根底を共通して有している。フランク王国ではカール大帝の下でローマ帝国文化復興と宮廷学校が設置され、東ローマ帝国では詩人ホメロス文学復興を中心とする古代ギリシャ文化の研究が進められ、十二世紀のシチリアとスペインでは古代ギリシャ・ローマ地方からイスラム教地域やギリシャといった東方地域オリエントへと伝播していた文化が逆輸入された。十四世紀イタリアの文芸復興は、諸説があるものの、イスラム勢力の拡大によりギリシャ地域――すなわち東ローマ帝国――の知識人たちがイタリアへと逃れ、古代の文化が共有されるなかで生じたとされる。

 さて、似たような文化現象が二一世紀半ばの日本でも生じた。誰が主導したわけでもなく、そういった潮流があったのである。文化と教育の格差拡大に歯止めが利かないなか、いつしか「暗黙の貴族」と呼ばれるようになった、情報網と資本に富む一部のエリートたちは、通常の学校教育に飽き足らず、古典文化に憧れを抱くようになった。平安文学に親しみ、当時の規範に則った和歌や漢詩を詠じ、弓馬の道を実践し、書画を嗜んだ。もっとも、こうした現象は一般市民というよりは時間と資産を持て余した暗黙の貴族の間でのみ流行った現象だったので、「ルネサンス」と積極的に彼らが喧伝した名称は殆ど定着せず、そうした彼らを皮肉って、同じく多大な時間と資金を要した「鷹狩」という名で呼ぶ人々が多かったようである。

 暗黙の貴族の関心は、名前にまで及んだ。その結果生まれたのが、「字」という慣習である。嘗て人名は、「姓」「字」「諱」の三要素で構成されていた。字は元々中国の習慣であり、成人した人間に通称として付されていた。一方、諱というのはその人の本名だが、古代において貴人や死者を本名で呼ぶの「忌む」つまり避ける習慣から転じて生じた、親、主君といった親しい者のみが呼ぶことを許される名前である。例えば三国時代の有名な武将「劉備」において、劉は姓、備は諱にあたる。彼の字は「玄徳」と言い、このため当時の人々はこの武将を「劉玄徳」と呼んでいた、ということになる。

 ところ変わって、この時代の日本における字と諱の使い分けは、もう少し俗的な背景があったということができるだろう。諱は「一部の者のみに呼ぶことを許されるもの」であり、故にさらに意味が転じて、誰かに開示することで、その二人の間に相応の特別で親密な関係性があることを意味するものとなった。字は命名に際して贈られ、それは大抵季語から引用されている。なお後に学者たちが挙って、字が再興した理由、多くが季語から引用された理由、そして必ず平仮名が用いられた理由を考察したが、誰一人として明確な決断を出せていない。「誰かがやり始めたのがインターネットを介して広まるというある種の流行みたいなものだろう」という意見が通説になっているのだが、そもそもインターネットに蓄積された情報が厖大過ぎるということもあって、それは学問的な見方ではないとする反論が多いようだ。

 藤原ひさめの「ひさめ」もまた字であり、これは夏の季語「氷雨」からとられたものである――実際ひさめもまた、暗黙の貴族の一家を出身としている。以前かなでが「もしかして『ひさめ』って字?」と聞いた時、ひさめはそうだと言った。字を使う程の富裕層。震災直後に立ちあがり、大成功を収めたフジ食品流通会社の創業者の孫がひさめにあたるのだという。つまりひさめは大したお嬢様かつ、綜合司書資格を取得した特権的エリートなのである。

「かなでちゃん、なんだか今日はあまり元気ないみたい?」

「そうね、いつもに比べるとエネルギー足りていないかも」とかなでは肩を竦めた。

 ひさめの身分を聞かされたのはつい先日のことだった。もしかしたらもしかするかも、程度に思っていたのと、もし「ひさめ」が字でなかった場合どことなくきまりが悪いのもあって、なかなか聞きだせないでいたのだった。それがあっさり予想的中とあって、何やら肩透かしのような、或いはかなでとひさめの間に走る社会的かつ根本的な隔絶のような、判然としない霧のようなものを覚えていた。そりゃもう、私とひさめちゃんは較べちゃいけないくらいの差があるんだよね。だからヘンに落ち込む必要なんか全くないんだけれど、やっぱり考えちゃうよね。という身勝手な落胆もあるのだが、かなではそれに加えて自らの将来についての不安を感じていた。

 ついこの間まで千裕の家に居候していたときは、唯なんとなく、アルバイトをして、図書館で本を読んで、帰ったら小説を書いて時々千裕と戯れる、位の生活を送っていた。それが殆ど当たり前だったので、殊更に将来のこととか、自分が小説家デビューしたらとかいうことは考えることもなかった。しかし本格的に独立した今となっては、かなではまさに、自分の足で立たねばならない。それまでは、編集部から担当を付けてもらっていただけで、プロフェッショナルとしてはそこまで期待されていなかっただろう。だが今回の受賞を機に、自分は「小説家」という肩書を得る。それによって得る未来と、己の個人としての独立に対し、かなでは正直なところ、全く持って実感を持てていなかった――そして、実感を持てていない自分に焦っていた――のである。

「もう、せっかく新人賞取ったんでしょう、もうちょっと嬉しそうにしたら?」

「うん、それはそうなんだけどね……。なんていうか、全然実感湧かなくて。それに、これから私、どうなるのかなって考えてると、何か不安なんだよね」

「なるほど、人生の不安ってことだね」

「ひさめちゃんは、将来どうしたいとかっていう……ヴィジョンみたいなもの、あるの?」

 言いつつかなでは、嘗て就職活動で頻繁に口にしていた「ヴィジョン」と言う単語が零れたのに驚いた。ただ違うのは、あの頃よりもそのヴィジョンということばの足が地についていることである。ただひさめの方は、それとは気づかなかった。

「私は……そうだね、このまま司書を続けて、ゆくゆくは国立国会図書館、それか一条記念館で働きたいな」

「一条記念館って、あの一条総理の死後に建てられたやつ?」

「そう。あそこは大きな図書館だけど、同時に哲学研究所でもあって。そこで、言語哲学研究とかできたらいいなって思うんだ」

 へえ、とかなではゆっくりと同意した。グラスに注がれたアイスコーヒーの氷がからりと音を立てた。かなではコーヒーを一口飲むと、頬杖をついて、大きくため息をついた。

「やっぱり私と違って凄いよ、ひさめちゃんは」

「そんなことはないと思うけど……どういうこと?」

「なんていうか……将来はこういう風に働いて、最終的には自分がこういう位置にありたいっていうのを既に具体的に思い描けているところが、かな。私は全然だめだよ。デビューして小説家になった……っていうか、どこからがプロの小説家なのかわからないけど、まあ小説家になったはいいとして、先が全然見通せないんだよね」

「うーん、でも、獲りたい賞とか、メディアミックスの目標とか、発行部数とかって考えたりしないの?」

「わかんない。昔はそういうことに目がいってたかも。でも今はもっと身近なことっていうか……何を考えて生きていけばいいんだろうとか、自分は何者なんだろうとか、そういうことを考えちゃうんだよね」と、かなではカフェの前に広がる池を眺めながら言った。

「月並みなこと言っちゃうけど」とひさめが言った。

「かなでちゃんって、つくづく小説家気質だよね。小説書くために生まれてきたみたいな」

「そんなこと初めて言われたんだけど?」

「己の存在そのものに目を向けて、その問題を問う。文学ってそういうことじゃない。多かれ少なかれ、小説家たちは自分の内を見つめて、世界とのギャップを擦り合わせるなかでそれを暴露して……たまに行き悩んで自殺する人もいるけどね。かなでちゃんの考えていることは、そういうことだと思うよ」

「……私、根っからの小説家なんだね。ちょっと自信湧いてきたかも」

「それ、自分で言っちゃう?」

 向かいの席で、ひさめがくすりと笑った。不意に生温い風が吹き抜けて、ひさめの長い髪を揺らした。右手で髪をかき上げるひさめを見て、かなでは一瞬、自分の体温が上がるのを感じた。

「さて、そろそろ帰ろうか。あまり遅いと帰宅ラッシュに巻き込まれちゃう」

 マグカップを取り上げつつ、荷物が多いからね、とひさめは足下の紙袋を持ち上げた。時刻は四時半を回っていた。かなではグラスの底に残っていたアイスコーヒーを飲み干すと、若干の頭痛を感じながら、同じように紙袋をまとめた。次の休みの日にどこに行こうかという話題は、その日の夜になるまで思い浮かばなかった。


          *****


 ひさめがかなでを自宅に誘ったのは、沖縄地方で例年より若干遅く梅雨が明けた、7月初頭のことである。それまではかなでの方が比較的仕事のスケジュールの融通が利いた――既に新聞に連載を持っていたからだ――ので、ひさめの休日に合わせて、二人で出かけることが通例となっており、一方がもう一方を自宅に招くということは、かなでにとっては考えても考えつかないことだった。たしかにひさめと仲良くなってはいたのだが、そうするほどの、あるいはそうしてよいほどの関係性に到達したと考えることはなかったし、おそらくひさめも同じように考えているだろう、と予想していたのである。それに、急に自宅に誘ってみたところで挙動不審に陥り、後々気まずい雰囲気になることも目に見えていた。そもそもかなでにとって、ひさめは憧憬とか崇敬に近い感情の対象であって、現在のように友人関係にある方がおかしいのだ――と思っていたからこそ、ひさめから誘われたことは、かなでを驚かせるには十分な力を持っていた。

 ひさめが「土曜の午後六時に野芥駅に来て。タオルと布団はこちらで用意するから」と短い文言を送って切り上げてしまったので、かなでは取り敢えず指定された場所に指定の時間に行くしかなくなってしまった。

 かなでは書きかけの原稿を眺めながら、相変わらずひさめちゃんって少し強引よね、と呟いた。とはいえ、自分が普段のオフィスで見るような理知的で流麗な「藤原司書」からは創造もつかないような、感情豊かで不器用な「ひさめちゃん」像を知っている数少ない人間なのだと思うと、どことなく優越感というか、自慢したいような(自慢するような相手は特に思い当たらないが)、逆に誰にも教えたくない秘密のようなものを感じた。えー、私って呼んでもらえるくらいの立ち位置なんだ。おうちデートって感じじゃん、何着て行こっかな、と舞い上がっていた……のだが。

「……ってこれ、私泊まるの!? 初回で!? 藤原家に!?」


 「武家屋敷」という家屋の形態は、「鷹狩」の時期に日本各地で二つの形態で再び数を見るようになった。

 一つは観光地化されていた明治時代以前の武家屋敷を、暗黙の貴族たちがその資産に物を言わせて購入したものである。ここ福岡の地であれば、久留米市のさらに南、有明海を目前に臨む柳川市に建てられている旧柳川藩主立花家の別邸――所謂「御花邸」――がそれに該当する。第二次世界大戦後、明治時代に建てられた御花邸を料亭旅館として営んでいた立花家は、震災の動乱による不況の煽りを受けてその一部を売却。前近代文化に高い関心を寄せていた「貴族」たちの競争入札の結果、二五〇億円で落札された。

 もう一つはかねて少子化・首都一極化によって売却された土地や手つかずになっていた林野を貴族たちが購入し、そこに大邸宅を建てたもの。後継者不足による山林と農地の放棄、自治体への寄付は前世紀半ば以前より増加傾向にあったが、そもそも財政が逼迫している状況で、買い取り手が見つからない土地を保有し続けるのは、地方自治体にとっては自傷に等しかった。だが「鷹狩」潮流が始まり、「貴族」たちが都会から離れた山林や農地に関心を向けると、自治体はここぞとばかりに広大な土地を格安で売却。郊外の山中や麓に、大規模な農地を構える屋敷が点在するという、千年前に見られていたであろう景色が広がることになった。

 そして、ひさめが生まれ育った藤原邸は後者に当たる。

 この種の屋敷は所有者が誰もいない土地を贅沢に開発した結果形成されているため、その敷地といえばそれはもう息をのむほど広い。南北に長い福岡市早良区の中間に位置する藤原邸の前に車から降り立ったかなでは、既に帰りたい気で一杯だった。

「……ひさめちゃん」

「なに?」

「ここ、旅館?」

「まさか。私の生家だよ。もっとも、私の部屋は離れなんだけど」

 私と同じくらいの年で離れなんて持ってるのーーーーーー!? と全力で突っ込みたいかなでだったが、そこはぐっと堪える。

 思えば、藤原ひさめの生家が普通の一軒家であるはずがないのだ。事前に「七隈線の野芥駅から車で十五分くらいかな。当日は駅に迎えが行くから」という連絡があった時も、何か違和感を覚えていた。「迎えが行く」という言い方は、「送迎の人がいてその車が来る」という意味だったのだ。駅にはひさめが出迎えに来ていたが、実際に駅前に停まっていた車では濃紺のスーツを着た、初老の紳士が乗っていた。かなでは始め、父親の車でひさめが迎えに来たのだと思っていたが、実際はそうではなかった。彼はひさめが「じゃあお願い」と言うと、その紳士は「はい」と一言だけ口にし、滑るように車を走らせた。ひさめは道中、主にかなでとだけ話していたが、それはあの紳士とひさめの仲が悪いことによるのではない。あの運転士は、ひさめと話す身分ではなかったのだ。

 ひさめは正真正銘、名家お抱えのお嬢なのである。

 落ち着け私、これから大事なお泊りなんだから。大丈夫、ただ友達の家に泊まるだけ……そう……何もここには武士が住んでいるわけじゃないから……。と自分に言い聞かせ、大きく深呼吸をすると、ひさめの後に続いて重々しく聳え立つ樫の木の門扉を潜った。


 ひさめが暮らしている離れは、敷地の南端にあり、母屋からは渡り廊下を三分ほど歩いたところにひっそりと建っていた。離れは二階建てで、中庭に面した二階の窓からは、屋敷全体を一望できるようになっていた。縁側の目の前に立っている羽振りの良い楓は青々と葉を茂らせており、ヒグラシが涼しくなった空に鳴き声を響かせている。

 ガラリと音を立ててひさめが引き戸を開け、かなでを中に招き入れた。離れであるため玄関こそ質素であり大きくないものの、やはりそもそもが富豪の建てた大屋敷ということもあって、中は広々としていた。靴棚もまた引き戸式になっており、その上には鮮やかな青色の、豪華な花鉢が置いてあった。花弁は牡丹のように多かったが、牡丹ではなかった。知らない花だな、とかなでが眺めていると、クレマチスという花の一種だとひさめが教えてくれた。これもさっきの人が? とかなでが聞くと、ひさめは首を横に振った。

「離れの方には、使用人はいないの。父や叔父は私の安全を考慮するとか言って使用人を置こうとしたんだけど、流石に私だってプライベートはあるし、押し切って一人で住むようにしたわ。母は私に賛成してくれてたし」

「離れにはいつから住んでたの?」

「高校に上がる時にね」

「じゃ、その時から実質一人暮らしみたいなもんなんだ」

 道理で大人っぽいわけだ、とかなでは独りごちた。板張りの廊下が軋み、歩く度に音を立てた。

「ううん。高校の時は、ご飯だけ母屋で食べてた。だから完全に一人暮らしになったのは、大学に入ってからだね」

「ふうん。そういえば離れって、それまでは誰が住んでたの?」

「使用人が住んでたよ。もともとこの離れは祖父の書斎だったから、その時の名残だね。私が一人で住むことになってからは、母屋の空き部屋を使用人には充ててるけど」

 角度のきつい階段を上がると、欄間に葡萄と栗鼠の彫刻が施された部屋があった。硝子障子を開けると、十畳ほどある部屋の一面が畳張りで、その隅に、和室には似つかわしくない白いデスクが置いてあった。障子を開けた丸窓からは西日が射し込み、部屋の中に明暗のコントラストができている。床の間は一段暗くなっており、神仙を描いた掛け軸がおどろおどろしく見えた。

「かなでちゃんの荷物はここに置いて。布団は一階の客間の押し入れに入ってるのを持って来ましょう」

「え、私もここで寝るの?」とかなでは口を開けた。

「あら、いけなかった?」

「いや、別に……」

 別に嫌というわけではない、というより寧ろ嬉しいのではあるけど、どっちかというと一緒の部屋でよかったんだ、というのがかなでの正直な感想だった。なんとなく、空いている部屋とか別室をあてがわれるものだと思っていた。とはいっても友人を招くのだから、確かに同じ部屋で寝泊まりする方が道理ではあるな、とかなでは一旦納得することにした。

「じゃ、決まりね。布団を持ってきたら、夕飯にしましょう。昨日から仕込んでおいたんだ」と、ひさめはわざとらしく片目を閉じて見せた。この数か月で仲が深まってきたとはいえ、そんな表情を見せたのがかなでには意外に思われた。

 台所は離れの玄関の反対側に置かれている。石床の土間を採用してはいるが、石製のシンクには配管がむき出しになった蛇口が取り付けられ、その隣に冷蔵庫が置いてあり、それに向かい合う竈門の上にはガスコンロが置いてあるという、なんともちぐはぐした設えをしている。

「母屋の方は竈門をそのまま使ってるんだけど、流石に面倒くさいでしょう」とひさめは説明した。確かに、使用人がいるならともかくとして、一人暮らしで食事の旅に竈門を使う生活は面倒そうに見えた。

「そういえば、昨日から仕込んでたって言ってたけど、今日は何を作るの?」

「ふふん、それはね……」とひさめは勿体ぶって、冷蔵庫からビニール袋を取り出した。

「唐揚げを作ります! 工程はそこまで多くないのに何気に作らないから」

「あっでも確かに私唐揚げっていったらコンビニで買うか、定食屋さんで食べるくらいしかしないな」

「でしょう? かなでちゃん、料理はできる?」

「私? うんまあ、それなりに」

「オーケー。それじゃ、そっちの鍋つかってお味噌汁を作ってくれない? 私、その間に唐揚げと、付け合わせにポテサラ作るから」

 ひさめは滑らかな仕草で長い髪を頭の後で留めた。それに呼応するように、「よっしゃー」とかなではない袖を捲ってみせた。

 夏の昼は長い。藤原邸は周囲を山に囲まれているため早くに陽が当たらなくなるのだが、午後六時半を回ってなお辺りには夕焼けの色が残っている。離れの裏にある弓道場では稽古がまだ続いているらしく、時折、カラリという弦音、それに続いて矢の的に中(あた)るパンと高い音が、台所に入ってくる。

「ひさめちゃんの家、弓道場まであるんだね」

「うん。他のお屋敷もこんな感じみたいよ」

「え、他のところに行ったことあるの?」

「そりゃあ、まあうちの会社の関係でね……一応、今は社長令嬢ってことになってるし。行かないわけにはいかないのよ」

「うわあ、大変そうだなあ……。他の家でも皆弓道やってるの?」

「ううん。ウチがたまたま祖父の趣味で弓道場を置いてるだけ。剣道とか柔道やってるところが殆ど。あとたまに空手かな」

「ひさめちゃんも弓引けるの?」

「私はできないよ」と、ジャガイモの皮をするすると剝きながらひさめが言う。

「私はピアノを習ってた。一般に、こういう家の箱入り娘は、お琴か、ピアノか、ヴァイオリンか、あとは茶道、華道、和歌ってところかしら」

「最後だけ急に古風なのね」

「『鷹狩』って言葉は知っているでしょ?」とひさめは肩を竦めた。時間と資産を持て余した、暗黙の貴族たちの金のかかる趣味――社会の授業で聞いた単語を、当の本人から聞くとは思っておらず、かなでは不意に言葉に詰まった。

「別に気を使わせるつもりはないよ。あの時の社会の事を考えれば『鷹狩』だなんて揶揄されても文句は言えないから。まあとにかく、私の祖父みたいに事業で大成功したお金持ちの人たちは、ものすごく『教養』って単語に憧れてたんだよ。それで、武道場を自宅に構えたり、娘には習い事代表の楽器とか茶道に華道、あとは教養としてレベルが高いと思われていた和歌を習わせたりしたってわけ」

「私なら絶対できないわ……」

「薄々思ってたんだけど、かなでちゃんって表面というか、心こそ文学的だけど性根は体育会系でしょう」

「うん……ってウソ!? そんな風に見えてたの?」

 口元を軽く抑えてひさめが静かに笑った。かなではわかりやすく口を尖らせてみせたが、やがてそれすらもおかしくなって、耐え切れず噴き出した。そうして二人で、何が面白いのかわからないまま、しばらく笑いあった。

「あーあ。私ももうちょっと『普通の女の子』みたいな暮らしがしてみたかったな」

「え、今でも十分『普通の女の子』じゃない?」

「それはまあ、大学に入ってからは家の付き合いとか抜きにして友達作るようにしたし……。どっちかというと、大学で同期から聞いたような高校時代の友達付き合いにちょっと憧れるんだよね」

 なるほど、家柄が良い人には良い人の苦労があるものなのね、とかなでは勝手に納得した。

「だから、かなでちゃんがお友達になってくれたのはとても嬉しいんだ。大学院は忙しかったし、働き始めてから新しい人間関係は作りにくかったから」

「うん、私も…………やっぱり、ひさめちゃんと仲良くなれて良かったなって思う。憧れの人に留めておくのもいいけど、そこで止まっちゃうとちょっと勿体ないっていうか、やっぱり仲良くなりたかったなって後から思うのはちょっと嫌だったから」

 ありがとね、とかなでは短く言った。どういたしまして、という言葉が隣から聞こえた。


 翌朝、ひさめは雨が屋根に打ち付ける音で目を覚ました。枕元の時計は午前六時前を指している。雨の降る梅雨明け直後の朝は、季節が一足秋に飛んだかのような錯覚を覚えさせた。どんよりとした鈍色の空模様が丸い窓の外に見え、そのまま視線を下に遣ると、かなではすうすうと寝息を立てている。

 それまでのひさめは、常に朝が孤独だった。幼い頃は母の隣で眠っていた。だが早くに一人部屋を与えられ、そこで寝起きするようになると、ひさめにとって、朝とは孤独の時間だった。薄暗い大きな部屋の中心に、唯一人だけ自分が在る。中学生にもなると、その瞬間にどことなく感じていた気詰まりはなくなっていたが、小学生の頃は、その気詰まりな空気に耐え切れず、起きるとすぐに窓を開け、空気を解き放っていた。広い監獄から解放されたかった。

 昨晩は、夕食を一緒に食べ、二人で風呂に入って、お酒も少し飲んだ。ひさめにとって、それは唯の他愛もない、過ぎていくだけの時間だと思っていた。だが朝が来ても、今のひさめは孤独ではなかった。かなでと共に迎えた朝の寝室から、気詰まりな空気を開放する必要など微塵もなかった。今日は、少しくらい寝過ごしてもいいかもしれない。ひさめは自分の寝ていた布団を抜け出し、起こさないように気を付けながら、かなでの布団に潜り込み、目を閉じた。


 一時間ほど経って、かなでがおもむろに目を覚ました。かなでと対照的に朝には弱いらしく、覚醒するのに更に二十分ほど要していた。それが幸か不幸か、同じ布団でひさめが寝ていると気づく前に、ひさめの方が目を覚ました。かなでから午後にシフトが入っていると事前に知らされていたので、二人は朝食を食べた後、コーヒーを飲みながら一時間ほど談笑した。

 かなでが帰る時、ひさめも別件の用事のための準備があったらしく、門の前まで見送りに来てくれた。藤原邸に来た時とは違う運転士の車に揺られて、かなではひさめの家を後にした。野芥駅に着くまでに、かなではに誘ってくれたお礼をチャットアプリに送ったのだが、そのメッセージは一週間ほど経っても返信がなかった。かなでは、ひさめちゃんのことだから確認の暇が取れないくらい忙しいのかな、程度に思っていたが、二週間、三週間経っても返信はなかった。八月になり、自分の仕事の忙しさと、蝉の声にかき消されるように、やがてかなでもそのことは忘れていった。



第三章



 その日はうだるような暑さだったが、木々に囲まれた藤原邸ではそれも幾分か和らいだ。ひさめは長い髪を入念に梳かすと、白いブラウスの上に淡い紫色のジャケットを羽織り、同じ色のタイトスカートを身に着けて自室を出た。軋む階段を下りると、階下には使用人を控えさせた父が黒いスーツを着て立っていた。白髪の増えた短髪がいつも以上に丁寧にまとめられ、豊かな口ひげが切り揃えられている。ひさめは何も言わぬまま、父の後に続いて母屋に続く渡り廊下を歩いた。古い板張りの廊下の空気ははひんやりとしており、随分と心地が良かった。遠くで鳴いている蝉の声が周囲の森林に深く反響し、今日もいつものように弓道場からカラリ、パンという音が響いてきた。

「今日はある出版社から御次男がいらっしゃっている」と、父が短く言った。

「年はお前の二つ下だ。政治学部を出ているらしい。頭の切れる一家だよ。長男が会社を継いだもので今は市役所職員をしているが、後の市議会議員、国会議員候補とも言われている」

「はい」と、ひさめは細い声で答えた。そこに意識はなかった。

「お前の見合いはこれが四人目だ。お前もいい年齢になったし、そろそろ身を固めた方がいい。今回は事前によく調べてお前に見合う人を選んだつもりだ」

 父の言葉はいつになく硬い。これは実質、今回の相手と結婚せよという無言の圧力である。ひさめはそれまでに三度、見合いの相手との結婚を断ってきた。

 勿論、相手が気に入らなかったということも大きい。一人目はひさめが二十歳の時で、何某とかいうIT企業の、三つ年上の三男坊だった。背が高く清潔感があり、ひさめの目にも良く見えていた。知的で話も良く弾む相手だったが、庭園の隅で犯されかけた。下着姿で何とか母屋に逃げ込み、多額の示談金と引き換えに相手を追い出して以降、見合いに慎重になった。二人目は大学院の夏休みに見合いをした、ある銀行の一つ年下の長男だった。家柄もあってひさめが図書館大学院に在籍していることに興味を示し、尚且つ温和な性格であったため、ひさめも警戒心を徐々に解いたのだが、それにつれて相手の性格の難点が目につくようになった。何かにつけて「君は知らないかもしれないけれど」という枕詞を用いて話し始めるという侮蔑的な態度に我慢ならず、縁談を打ち切った。

 そうした事情について父は一応理解を示してはいたものの、縁談相手の候補を選ぶ際、仕舞いには決まって「多少は二人で価値観をそろえるものだ」と言った。その意味は理解できるが、だからと言って性欲や抑圧の対象となることは容認しえない。ひさめは縁談の全てが面倒になり、昨年から相手選びは父に委任することにした。その方が自分のために使える時間が増えるし、そうすれば国立国会図書館や一条記念館にポストを得る確率が上がる。実家から離れた東京で、家柄だとか土地だとかいったしがらみに囚われず、自己実現のために邁進できるのだ。そのうち父も諦めて養子をとるだろう、とひさめは考えていた。そのような意図があったので、三度目の見合いでは気難しいエリート気質の女を演じ、男の方から諦めさせた。

 母屋の裏側にある応接間は二十畳の広さを誇るため、廊下と部屋を仕切る襖を六枚必要としている。開け放たれた二枚の間から廊下に光が射し込んでいる。ひさめは、適当に話を合わせて終わらせよう、と思った。きっと、これまでと同じようにぼろが出てくるはずだから。

「大変お待たせしました」と、父が慇懃に言った。それに続いてひさめが、視線を下げたまま相手親子の視界に入る。いやはや随分待たされたものですな、と陽気な嗄れ声がして、見合い相手の父親らしき人物が鷹揚に応えた。父が座布団に胡坐をかき、ひさめが正座した。そっと視線を上げると、座卓の向こうに、若さと勢いと緊張とがにじみ出た青年が、鉛色のスーツに薄紫色のネクタイを締め、膝を正しているのが見えた。

 四十ほどになる、二人の女の使用人が襖を開け、座卓に御膳を並べ、徳利を置いたところで、静かに見合いが始まった。

 

 ひさめはそれなりに酒が強い方だったが、相手の男――名前は殆ど気にしていなかった――はだいぶ弱いらしく、会食が始まって三十分ほどですっかり赤面していた。もっとも、場の目的が目的であるためにかなり緊張してもいたのだろう。いずれにしてもその姿は視界の端に留めておくにはどことなくいたたまれず、また父親同士も「少し二人で話してきてはどうだ」などと言ったので、庭園をしばらく散歩することになった。

 随分と蒸暑い日だった。加えて酒をいくらか口にしていたので、更に熱気が感じられた。男は来ていたスーツのジャケットを腕に掛け、ネクタイも緩めている。公務員と聞いて何となく中肉中背の男を想像していたので、ジャケットを脱ぐと細い身体付きをしていたのが意外だった。ひさめは男の二、三歩ほど後ろについて歩いていた。辛うじて相手の手が直接届かない距離である。

「あの、」と切り出したのは男の方だった。

「あちらの池の方でお話しませんか。暑くてかないませんし、立ち話よりはいいでしょう」

「ええ」とひさめは短く答えた。

小さな池に臨むベンチが、丁度木々の影に隠れていた。吹き抜けた冷たい風が、ひさめの汗ばんだ頬を撫でた。

「すみません、折角の機会を頂いたのにお見苦しい様を見せてしまいまして……」

「いえ。緊張されるのは分かりますから」

「そういうひさめさんは、あまり緊張されていないようですが」

「見合いもこれで三度目です。流石に慣れてきましたよ」

「三度目、ですか……」

 三度目、という言葉に、男は少々面食らったようだ。それもそのはず、世の「貴族」の娘たちは大半が最初の、そうでなくとも二度目の見合いの相手と結婚する。ひさめのように三度目の見合いをする――しかも前の二人との縁談をどちらもこちらから打ち切っている――女はこの国に片手で数えるくらいだろう。

「何かトラブルが……いえ、お話にならなくても結構です。確かに、親同士が勝手に決めた相手ですから、うまく行かないことの方が当然の筈です」

 おや、とひさめは予想外の返答に目を丸くした。そのようなものでしょうか、と返すと、男はそのようなものです、と語気を強めて言った。

「大体、『鷹狩』趣味に走るのは良いとしても、我々の人生までそこに合わせなければならないとは思いません。恋愛とか結婚とか、本来は自由なものでしょう」

「ええ……ですが、それならばなぜ、私との見合いに踏み切ったのですか」

「恥ずかしながら、写真を窺った時に、何と申しますか……」

 男は急に黙りこくった。ひさめには回答が粗方予想で来ていたが、それを言うのも面倒だったので、男に言わせることにした。

「美しい人だな、と…………もちろん、矛盾しているのは承知しています。親の提案した女性を見初めてしまうのは、私の信念とは真逆のものです。理解しているつもりですが、やはりどうしても抗えない部分が……」

「人はそもそも矛盾を抱えているものですよ。あまり自由とか大きなことは考えず、ご自身の矛盾もお気になさらない方がよいのでは?」と、相手の顔を横目に言った。予想通り、男は赤面した。こうした家柄のお坊ちゃまは元来、自尊心が高いものである。

「それは、勿論理解しています。ですが、やはり透徹した理念が私には必要なのです」

「理念に囚われていては、自由は達成できないでしょう」とひさめは呆れ顔で言った。男はまたしても唇を噛んで黙ってしまったので、ひさめはやれやれと立ち上がった。

「そろそろよしましょう。これでお解りの通り、私たち二人は根本から矛盾していますから。このまま続けても良いことはありませんよ。それに私は恋愛という事象に極めて無頓着な人間です。自由な恋愛と結婚がしたいのなら、より良い方をお探しになるのが身のためでしょう」

「待ってください。そんなことはありません」と、男はひさめを見上げて言った。

「確かに、あなたは恋愛に無頓着かもしれない。ですが今話してわかりました。やはり、どうしても私の眼には魅力的に映ります。私はこれまで、一貫した思想の軸があってこそ、自由が得られるもので、人間はそれを成し得ると思っていました。でも実際はそんなものではない……事実私自身、矛盾を抱えていますから。それを気づかせてくれたのはあなたです。あなたのような知性のある方と、一度ゆっくり話してみたかった…………結婚を、とまでは考えません。ですが、私を友人として見て頂けませんか」

「…………」友人という程度の関係を、わざわざ断る道理もない。意外と手強い相手だと思いつつ、ひさめは了承した。


          *****


 かなでの携帯に、遅くなってごめん、綜合司書資格の更新のことで色々立て込んでて、というメッセージが届いたのは、八月の初旬のことだった。かなでは全然構わないよ、寧ろ忙しいときにごめんと返信した。更にひさめから、九月半ばくらいまで忙しいからお出かけもいけないかも、というメッセージが届き、かなではどうしようもないので、休日は半分を執筆に、残り半分を買い物や映画鑑賞に費やしていた。

 その間に、かなでのキャリアはかなりのものになった。まず、新聞の連載が捗らない時に並行して執筆していた小説がネット上で相当な評価を受け、単行本化。電脳世界で人工知能に恋をした少年の悲劇という在り来りな内容だったが、散りばめた伏線の鮮やかな回収に驚嘆を、少年の細やかな心情に共感を覚えるという宣伝文句によって、アクセスが殺到したらしい。基本的にネット上の小説は投げっぱなしのスタンスを取っているかなでだったので、出版社から出版のオファーが来た時に総アクセスとコメントの数を見て思わず笑ってしまったほどだった。

 元来長編を得意としているかなでだったが、その作品だけはそこで終わらせるのが最適だと判断したので、ネット上での連載はしないことにした。多くの作品が長期連載をする中、連載はせず作品を終わらせる形を取ったということも相俟って、異色の新人小説家として『本郷かなで』は注目を浴びるようになった。

それもあったのだろう、頻繁に中高の同期を名乗る人物から連絡があった。知らない人間が大半だったが、中には見覚えのある名前もあった。ランチとかディナー程度の誘いには付き合い、そのまま誘いに乗って何人かの男と寝ることもあった。

 そうやって忙しいような、気ままなような日々をかなでは送っていたのだが、どことなく満たされないものがあった。仕事は充実している筈だった。知名度も上げたし、書いている作品は間違いなく良いものだ。だが何かが足りなかった。始めかなでは、千裕の家に居候していた時に比べて確実に少なくなったものがその原因と考えて、元同期の男と何回か寝ていた。しかし、いくら情動に任せた欲がその場しのぎで解消されたところで、正体不明の空白は埋められなかった。

 そうした感情の迷路の中に、ある出口が見える瞬間が時折あった。もしかして、という可能性はあったが、かなではそれが「そうだ」と断定できなかった。大雑把で大概のことを楽観視し、何か問題が生じてもノリと勢いとちょっとの策略で乗り越えてきたかなでだったが、人の感情とか琴線とかいった問題には人より数倍の時間と労力を割かねばならなかった。ひさめが評したように、元来内省的で繊細なものを核心に抱いている割に表面的にはざっくばらんとしているため、勘違いされやすく、そのため友人といえる関係性の人間もかなり少ないのだった。そのため、今かなでが自身の内部にその萌芽を認めつつある感情に判断を下すことは尚早に思われたし、その判断を下すことに畏れすら抱いていた。

 以前、千裕はこの感情を「執着」と言った。それは正しい……正しいのだが、なぜ自分がこれほど執着しているのか――「ひさめに対する」執着を抱いているのか――答えはすぐ手の届くところにある気がしているが、それを前に自身の性質という壁が圧倒的な存在感を放っているのだった。


 意外にもひさめから誘いを受けて――普段は忙しいひさめの代わりにかなでが行き先を提案していた――かなでとひさめは休みの日を火曜日に合わせて、一か月半ぶりに外出することになった。ひさめの提案で福岡市美術館をメインに置くことになったが、火曜日で来館者も少なく、週末に訪れるよりは余裕を持って回れるだろうとの判断だった。

 待ち合わせ時間の十五分ほど前に地下鉄の改札の先で待っていると、人混みをかき分けるようにひさめが駆けてきた。淡い色の服を着ていることが多いひさめが、目の醒めるような群青色のサマードレスにクリーム色のカーディガンを羽織っているのが新鮮に思われた。

「ひさめちゃん、珍しい色の服着てるね」とかなでは素直な感想を口にした。

「そう? 結構こういう色持ってるけど」と言いながら、ひさめは自分の装いを改めて見下ろしてみせた。

「いいなあ、濃い色の服も似合うなんて……私は勇気出ないや」

「たしかにかなでちゃん、大体はベージュで統一してるもんね」

「まあ、楽だからね。考えても分かんないから無難に納めてるんだ」とかなでは苦笑した。今日のかなでは半袖のブラウスにアンクル丈のデニムという、「無難」という言葉そのものを体現したような恰好をしていた。

「じゃあ、行こうか」とひさめが先導する。駅構内の人はだいぶ少なくなっていた。

「今日は美術館メインなんだっけ?」とかなでが半歩後ろから聞いた。そうだよ、とひさめが長い髪を棚引かせて言う。

「私はそこまで興味ある訳じゃないんだけど、何となく面白そうだったから」と、ひさめはバッグからチラシを取り出した。灰色を基調とした色彩の中心に、『モノクロームの画家展』という文字が大きく白色でプリントされている。

「モノクローム……ちょっと地味じゃない?」と眉を顰めつつかなでが聞いた。見た目のインパクトに欠ける上に、裏面に紹介されている画家の名前を見ても知らないものばかりだったので、自分からは確実に行かないタイプだ思った。

「私もちょっと思った」とひさめが言う。てっきり、しっかり興味を持っているものと思っていたので、ひさめがそう言うのは予想外だった。

「でも、自分一人だときっと行かないじゃない? だからかなでちゃんを誘おうと思ったの」と、ひさめが振り返って言った。地下鉄の出口付近には、表の道路を走る車の音が次々に流れ込んできていた。

 ごめんね、殆ど私のわがままかも、とひさめが言うので、そんなことないよ、とかなでは笑った。私も同じこと考えてたから、と付け加えると、何が可笑しいと言う訳でもなく、二人は同時に噴き出した。

 展示室に人は少なかった。展覧会はヴィルヘルム・ハマスホイ、ベルナール・ビュフェ、ジョルジョ・モランディという、十九世紀から二十世紀に活動した『モノクロームの画家たち』をメインに据えていたが、かなではどの画家の名前も聞いたことがなかった。ひさめは流石に綜合司書で多くの図書を扱っていることもあり、三人の名前は知っているらしかったが、作品を観るのは初めてということだった。

 かなでは特にモランディが気に入った。若干静物がヨレていたり、空間と噛み合わなかったりするのに、絵画全体がきれいにまとまって見えるのが面白かった。それ以上に、使われている色が殆ど同系統なのに、微妙な色の差で陰影や輪郭を的確に表現しているところには舌を巻いた。確かにじっくり観てると面白いかも、とかなでは考えていたが、途中で隣にいた筈のひさめがいなくなっていることに気づいた。別にこのまま進んでも良かったのだが、折角ひさめが誘ってくれて、しかも二人で展覧会を見ているのだから、ひさめのいるところまで戻ることにした。

 高さが自身の背丈以上はありそうな縦長の絵画の前で、ひさめは立ち止まっていた。食い入るように見つめている作品を見ると、茶色の絵具が荒々しく塗られた中に、半袖でひざ丈の黒いドレスを着た、短髪の女性の立ち姿が描かれている。髪型や服装こそ異なるものの、力強い双眸はどことなくひさめの知性に通じるものを思わせた。キャプションに目を移すと、《夜会服のアナベル》とあった。ベルナール・ビュフェによる一九五九年の作品だった。

「この人、画家の奥さんなんだって」とひさめが、近寄ってきたかなでを一瞥した後にぼそりと言った。キャプションの文章にざっと目を通すと、確かにベルナールの妻アナベルがモデルにされたと書かれていた。

「これは――この人は、私」と続けてひさめが言う。

「どういうこと?」

「わからない、でもアナベルは私なんだって直観的に思った。この服は夜会服って言ってね、夜の社交場に着るドレスなの。っていうか、それが礼儀。私も何度か出席したことあるけど、男はタキシードを、女はイブニングドレスを着るように厳しく言われて、それに反している人は遠くから白い眼で見られてた」と絵を見つめたままひさめが訥々と語る。かなでは依然、ひさめの言っていることが理解できていなかった。

「私はこのアナベルみたいな生き方以外にできない。礼儀に則って澄ました顔をして、それでも向かってくる皆の視線を受け流すしかできない。真っ黒な輪郭線に囚われた生き方。引き延ばされて窮屈な生き方。色彩が抑えられた生き方。環境なんて無意味で、私自身が見られている生き方……。私はそうでしかあり得ない」

「…………でも、ひさめちゃんはこれまで、自分の意志で生きてきたんだよね? 実家でも離れで実質一人暮らしをして、それから綜合司書になって。国立国会図書館とか一条記念館の話も、ひさめちゃんの意志でしょう」

「うん。そうだよ――それが私にできた、精一杯のポーズだった。私が目線を逸らしても、私以外は私に目線を向けてくる。だから、夜会服を着るしかないの。そうしないと、ただでさえ私は無色で――真っ白で、血が通っていない色のままで、生きてすらいないから」

「ひさめちゃん…………?」

「――ううん。何でもない。変なこと言っちゃったね」

 ひさめは明らかに声を滲ませていた。両の目尻を指先で拭うと、かなでちゃんは私を置いて何を見てたの、と笑って見せた。取り繕っているようにしか見えなかったが、かなでは深く追及すべきではないと判断し、モランディの静物画が面白いんだよ、という話をした。その後は、どの作品が好きだとか面白いだとか言いながら、展示室を並んで歩いた。二人ともビュフェの《アナベル》の話題を避け、それに触れることはなかった。


          *****


 これから家に行ってもいいかとひさめが聞いたのは、美術館を出た直後のことだった。あまりに急な提案だったので、片付けてないから、と月並みな理由で――実際に本やら書類やら色々と散乱していたのだが――断ろうとしたが、ひさめは全然気にしないと言った。なんやかんやで断ることもできただろうが、ひさめから家に行きたいと言い出すことは太陽が西から昇るくらいあり得ないことだ。もしかしてさっきのアナベルのことかも、と察したかなでは、スーパーで晩御飯と酒を買うことを提案した。日は既に傾き始めているとはいえ、八月の夕暮れはまだまだ明るい。大濠公園のランニングコースを、野球部と思わしきユニフォームを着た少年の集団が、隊列をなして走ってすれ違って行った。

 玄関で靴を脱いで部屋の明かりを点けるなり、ひさめが「うわあ……」と思わず声を漏らしたので、だから言ったでしょーに、とかなでは口を尖らせた。持っていたバッグを仕事机の上に放ると、かなでは部屋の中央に置いてあるテーブルに積んである辞書、図鑑、文庫といった図書を本棚に戻した。どうにか間に合わせでスペースを作ると、レジ袋からスーパーで買った惣菜と二リットルのペットボトル、それからワインを次々にテーブルに並べ始めた。その間、ひさめはベッドに腰掛け、物珍しそうにかなでの部屋を眺めていた。仕事机の上の壁にはコルクボードがかかっており、新人賞の通知書、新人賞を報じる新聞の切り抜き、それから海辺の景色の写真が画鋲で留められている。それから、二十人くらいの男女の集合写真も留めてあった。

「あの集合写真は何?」とひさめが聞いた。

「あれね。新人賞とったからって、高校の同じクラスだった人たちが祝賀会開いてくれたんだ。三分の二くらいは話したことないんだけどね」

「ちょっと分かるかも、その感覚。私が綜合司書になったときもそんな感じだった。有名人になったってことだね」

「こんな形で知りたくはなかったなあ。有名になると関係の薄い人が沢山増えるって事実を。お惣菜開けるの手伝ってくれない?」

 いいよ、とひさめが腰を上げた時、ひさめの携帯が鳴った。ひさめは鬱陶しそうにポケットから携帯を取り出すと、通知を切ってバッグに戻した。

「……出なくてよかったの? 今の電話」

「うん。どうせ親からだろうし。この年になっても――まあいっか、食べようよ」

「……そうだね」、いつになく表情の硬いひさめを横目に、かなでは割り箸を取り出した。


 かなでは三本目の缶チューハイのプルタブを開けながら、美術館でしてた話のことを詳しく聞きたいと言った。ひさめはワインの入ったグラスを揺らしながら、額が触れ合いそうなほどわざとらしく身を乗り出して「訊きたいの?」と言った。惣菜のパックがいくらかひっくり返ったが、枝豆意外全て空けていたので、気に留めなかった。頬と首元が上気してひどく艶かしいひさめにかなでは固まったが、細かくコクコクと頷いた。

「あれね。ちょっと最近のことを振り返って、ああ私ってこんな感じだなあって思ったんだよ」

「最近って――綜合司書のことで忙しいって言ってたけど、それ?」

「ううん」とひさめはグラスを呷り、カンと音を立ててテーブルに置いた。両手をテーブルに置いて一息つくと、ひさめは俯いたまま言った。

「結婚するんだ、私」

 えっ――とかなでは絶句した。取り上げた枝豆を落としたことにも気づいていなかった。

「す……すごいじゃん。よかったじゃん。おめでとう」

「うん――そうだね。かなでちゃんはやっぱり優しいね」とひさめが笑った。どことなく寂しげに笑うひさめを見るのは初めてだった。もしかして――

「もしかして――嫌なの? 結婚」とかなでは恐る恐る聞いた。

「うーん。嫌と言うわけではないよ。相手もいい人だし。私、あまり男の人に良いイメージ持ってなかったんだけど、彼はそれを理解しようとしてくれるし、私にも興味を持ってくれてるし。それに、この先の目標も応援してくれてるから、仕事は続けられるし。でも何だか……」

 ひさめは天井を見上げた。部屋の明かりを反射して光る黒髪が、まとまって一直線に下りている。背を反らせて、首を向けたひさめは、やはり困ったように笑っていた。

「私、やっぱり定められた道を歩くことでしか、生きていけない。もちろん、結局自分で選ぶんだから、それは自分の決めた道だと言われたらそうかもしない。でも、初めから用意されている道を歩くのと、自分で拓いた道を歩くのは違うでしょう?」かなでが頷いたのを見て、ひさめが続ける。

「かなでちゃんは、小説家って道を自分で選んで、拓いて生きている。この間言っていた、『何を思って生きていけばいいんだろう』っていう悩みは、自分しか選べなくて、誰も芯から共感してくれる人がいないから――でもそれは、裏を返せば独立した自己があるが故の悩みなんだと思う。あの時はかなでちゃんが文学的だからって言ったけど、今思い返すとそういうことなんだと思う」

「私は……私はそれでも、ひさめちゃんは自分から自分の道を拓いていると思う。それが初めから用意されていたものであっても。だって、用意されていても選ばなければ意味はないし、それを選んだってことは、他の道を捨てて、その道を拓くってことじゃない?」

「そうだね――そう見えるのは分かってる。でも、私はこの時代に生きて、私の意志で人生を選ぶものだと思ってた。だから、今の自分を振り返ると、結局ああやって夜会服を着せられたアナベルみたいだなって思ったんだ。相応の振舞をするものとして見られているんだってね。勿論、ビュフェはそんなこと思いながら描いてはいないのかもしれないけど。私は、私が誇りをもって生きている姿のままでありたかった。孤独でもいいから、理想が欲しかったのかもしれない」

 孤独でもいい、理想が欲しいという言葉に、かなでは不図撃ち抜かれたような感覚がした。ひさめが口にした覚悟は、かなでが持ち合わせていなかったものだ。ひさめに対する執着は、自分が持っていない、彼女だけが持っている、その覚悟に対する憧れゆえのものだった。

 だが――それだけではないことも、同時に確信していた。その感情を抱いていることを、認めねばならなかった。認めれば楽になるが、同時に認めることで崩れてしまうものがある事も、理解していたのかもしれない。

「私……気づいちゃった。今言うことじゃないけど。私、ひさめちゃんが好きなんだ。友達としてってことでもない。恋してた。ひさめちゃんの全てが欲しい」

「それは確かに、今言うことじゃないね。でも、どうして私を?」

「わからない。最初は憧れだったと思う。綺麗だし、頭は良いし、大人っぽいし、私が持ってないものを、全部持ってたから。手が届かないってわかってたら、多分好きにはなってなかったと思う。でも、すぐそこにひさめちゃんがいたから…………。ねえ、ひさめちゃんの諱、訊いてもいい?」

 かなではひさめの視線を感じていたが、かなでは顔を上げられなかった。今目を合わせるのが確実にまずいことは、僅かに残った理性でも判断できた。

朱美あけみ」と、やや間があって、ひさめは静かに答えた。かなでは何か言いかけたが、朱美を見つめるばかりで何も言えなった。藤原朱美は、困った顔で笑っていた。

「やっぱり、私には見送ることしかできないや。結婚おめでとう、朱美ちゃん」

 そう言うのが精一杯だった。涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭うことすらできなかった。躊躇いながらも朱美が頭を撫でたことで、堰を切ったようにかなでは泣きだした。


 ひさめを見送ったのは午後十時過ぎだった。駅まで送ろうかと言ったが、「その顔で着いて来られても困るよ」と指摘され、慌てて洗面台の鏡を見ると、目の周りが腫れ、化粧もすっかり崩れており、外に出るには余りに憚られる見た目をしていた。物言いたげに頬を膨らませて玄関に戻ると、ひさめが必死に笑いを堪えていた。

「じゃあ、帰るね。オフィスの仕事はまだ続くから、図書館にも来て。それから、結婚はしても友達と二人で出かけるくらいは許されると思う。いつでも誘って」

 うん、と短くかなでが頷くと、ひさめはドアを開けて出て行った。重い金属の扉が閉まると、静寂がやけに五月蝿く聞こえた。堪らずかなでは、机に放っていた携帯を取り上げて電話をかけた。

「…………もしもし。千裕、今空いてる?」


終劇

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