天国の囚人 作:西山太一

鍵は合わない。もう上るしかない。

 男はそう思い、かじかんだ手でフェンスの網を上っていく。ここで脱走を試みようとした囚人は、未だかつてこの男以外にいない。


 檻の中にいるのは男だけだ。

 囚人の主はわざわざ檻の前へとやって来て、男に言った。

「また看守さんを殴っただって?」

 この罰当たりめが、と囚人の主は言った。

「そうだぞ」

「何やってんだよ」

「何か喋れよ」

 口々に傍の囚人たちが言うが、男は何も答えなかった。

「まあいい」

 囚人の主はそう言って眉を上げ、男を見た。薄暗い檻の中で、男は壁にもたれていた。

「お前、そろそろこっちへ来いよ」鼻を掻きながら囚人の主は言った。片手にはホットココアの入ったマグカップが摘ままれていた。筋肉の養われたその肉体に対して、マグカップというのは似合っていなかった。

 周りにいる囚人たちもマグカップ片手に、「そうだ」「早く来いよ!」と続けざまに言った。早朝のことだった。囚人たちはあっちで温かいブレックファストを食べて来て、何かに満ち足りた顔をしていた。

 男は何も答えない。

「来ないのならまあいいが。それよりそれ、もらっていいか?」

 囚人の主は、男の前に置かれているブレックファストを指さした。

「もったいねえから、俺が食べる」

 囚人の主は、健康的な肌つやで男に言った。檻の中の男は、皿の上に乗っているものへと目を遣った。男の顔はげっそりとしていた。腕や脚は箒のように細くなって、あごには無精ひげが生えていた。風呂にもずっと入っていない。

 男は、皿の上に乗ったものを数秒眺めた後、ためらいなくベッ、とそれに唾を吐いて、まるで道端の犬にエサでもやるかのように、囚人たちの方へ放った。

「うわっ」

「汚いっ」

 唾のかけられたエサはちょうど、檻の柵を出ないところで囚人たちの前に落ちた。男の筋力も集中力も、既にすり減っていた証拠だ。

「おいおい、もったいねえなあ」

 囚人の主は足元に落ちた汚いそれを見て、本当にもったいなさそうに、ゆったりとした語調でそう言った。

「ちゃんと食わねえと。断食でお陀仏なんてお釈迦様も泣くぜ」

 周りの囚人は、主のその一言でどっと笑った。

「うまいこと言いますね」

「さすがっ!」

 周りの囚人たちは手を叩いて口々に言った。

 幸せに包まれている囚人たちだった。楽しい人生を送ることは素晴らしいことだと心の底から認めている囚人たちだった。

 そんなガヤガヤとうるさい檻の前に対して、男の居るのは、薄暗く、沈鬱な檻の中。囚人たちが居るあっちは楽しそうな空間で、男が居るこっちは静かで空虚な空間。暴挙の治らない者はこの檻の中に入れられるのだが、いまとなっては、檻の中にはこの男一人しかいない。皆改心して、檻の中を抜けて行ったのだ。

 男はそんな静かな檻の中で、その場の誰よりも鋭く、眼光を光らせていた。

「お前らは死んだ。俺は死なない。それだけだ」

 男はそう言った。「へ?」と名前も知らない囚人の誰かがそのセリフに反応したが、始めからそれほど興味もなかったかのように、すぐに楽しそうな空間に戻って行った。

 男は静かに、数歩先に落ちているブレックファストを眺めていた。


 はだけるヨレヨレの囚人服の裾から、刃みたいな暴風が吹きすさぶ。着ても着ていなくてもこの気温じゃあ、致命的なのは変わらない。鉄の網に五指をかけ、一手一手、一歩一歩、上っていく。

「お前、そろそろこっちへ来いよ」

 あのとき囚人の主が言ったことを、男は思い出していた。

 こっちの世界は楽しいことがいっぱいある。幸せで満ち溢れている。だからお前もこっちへ来い。変な気い張ってないでよ。

 フェンスの網が、指に食い込む。まるでほとんど感覚はない。食い込んだ網が指を千切っていたって、男はきっと気づかない。

 なんでそんなつまらなさそうな顔してんだよ。笑おうぜ? こっちへ来い!

 差し伸ばされる手。凍てつく寒さの中、男は頭に思い浮かべたそれをひっぱたく。五指をかけ、フェンスを一手、上る。

 その手を無様にも握ったアイツらは、立ち上がるために魂を差し出したのだ。

 男は気づいていた。

 もう誰も一生、ここから抜け出せない。囚人が誰も抜け出さないように誰かがこれを仕掛け、まんまとアイツらは、それに引っかかった。

 ここは誰も知らない施設。極悪犯罪刑務所から、ある日いきなり連れてこられた施設。眠りから覚めると、国中の極悪囚人たちがここに集まっていたのだ。

 今日の囚人たちは揃って笑う。

「ここはいい。まるで天国だ」と。

 中には、千人以上人を殺した超極悪囚人もいる。今となっては、ホットココアをすすりながら彼は、「ああ、いい朝だ」と言う。彼以外にも、存在しないほうが絶対に世の中のためになる極悪囚人は腐るほどいる。しかしそのうちの誰もがいまは、美味しそうにホットココアをすすりながら、「ここはいい」と心の底から施設への賛美を微笑ましい表情で口にする。

 いいのか、それで。

 男は、ゆっくり、ゆっくりとフェンスを上っていく。ついにもう、あと二手進めば、フェンスの頂上に届くところ。

 いきなり天国みたいな施設に連れてこられたあの日、極悪囚人たちは「帰らせろ!」とうるさかった。室温は快適。血も死体も異臭もない。ゴミ一つだって落ちていない。

 こんな世界と、こんな世界で生きている人間どもを、彼らはこの世で一番気に食わないのだった。そういうやつらに思いのままケリを入れてきた連中が、そこにいる大多数だった。

 その日、施設に連れてこられて初めてのご飯時。用意されたのはごく普通の、しかしバランスの良い、温かい食事だった。

 それでも大半は興味もなさそうに、目の前の食事に手を付けなかった。実際は、興味がなかったのではない。こんなもの食ってたまるかという、それは極悪囚人たちのプライド、魂だった。

 しかしそんな極悪囚人たちの中で、我慢に耐えかねた数名が、貪るようにそれらを食べ始めた。中には涙して飯を掻きこむ者さえいた。

「うめぇうめぇ!」

「なんて救いだ!」

 残された極悪囚人たちはそれを見て、少々面食らった。ゴクリと生唾を飲み込む音が、そこかしこの喉から聞こえていた。やがてお互いがお互いの目を合わせるようにして、「少しだけなら、まあいいか」とでも言うように、ゆっくりゆっくりと食べ物へ手を伸ばし始めた。

 その日、アイツらは魂を売ったのだ。

 本当にいいのか。それで。

 男はなぜか、極悪囚人の全員が人間らしい素晴らしい生活をしているはずなのに、それだというのになぜか、彼らが死んでいるように見えるのだった。死人が、輝かしい生活をしているように見えるのだった。

 

 男は脱走を決意した。

 男は檻の近くに看守を一人呼び出して、絞め殺した。奪い取った鍵ともぎり取った指を持って、檻の鍵を開け、施設のドアを開けていった。どこがどう出口へつながっているのか分からなかったが、とりあえず外へ、外へと男は向かった。

 ここは天国なんかじゃない。

 男はついに、外界と内側を隔てる扉、”EXIT”と書かれた扉までやって来て、血まみれの看守の指を認証にかざし、ロックを解除することに成功した。

 これを開ければ、外に出られる。

 重厚な扉は、スライド式だった。男は取っ手を両手でつかみ、すぐ横の壁へと加える脚力と共に、身体全体の力で扉を開けようとした。

 まったく動かないかと思ったが、最大限の力を出して、ようやく数ミリ、扉は開いた。

 開いた!

 男の目に精気が宿った。そこから扉は一センチ、二センチと順調に開いていった。ようやく、この偽物の天国から外へ抜け出せるのだと思った。

 が。

 ——ッ。

 壁を蹴っていた方の足首が、刹那に切られたかのような気がした。痛みや何かは特になかったが、何かこう、スッと何かがそこを通って行った気がしたのだ。不思議な感覚だった。

 男は壁を蹴るのをやめ、自分の足首を見た。

 足首は横に一線を書くように、赤くなっていた。まるでそこだけ日焼けしてしまったかのように。しかしこの赤くなり様は——まさか。

 男は恐る恐る、数センチ開けた扉の隙間から、外を見ようとした。しかし、その数センチの隙間に右目を持ってくる前に、後ろから、「いたぞ!」という追手の声が聞こえてきた。ただでさえ、男は施設の中では謀反者だった。そんな謀反者が施設を抜け出すというタブーを犯そうとしているのだ。

 まずい!

 他に、男に逃げ場はなかった。


 男はようやくフェンスの頂上を越えた。あとは降りて、どこかへただ走る。ひたすら走る。それだけだ。

 四メートルあるフェンスを降りていく男。手はもちろんのこと、足にも耳にも鼻にも唇にも、感覚はもうほとんどない。気力だけで男はこのフェンスを降りている。

 男はしかしそんな中でも、ここを逃げ切れば何をしようかと考えていた。また銀行をいくつかブチ破って、海外に金をばらまこうか。ギャングに喧嘩を売って、世界を股に逃亡生活でもしようか。

 男は思った。

 俺は自由だ。

 俺は、まだ生きている。

 男は思った。

 アイツらは死んでしまったが、俺はまだ、生きている!

「ここはいい。まるで天国だ」

 ホットココアをすすりながら、微笑ましい表情でそう言うアイツら。

 天国で生きていくことを決めた時点で、お前らは魂を売ってしまった。売った魂の対価で生きているお前らは、どんなに素晴らしい生活をしていようが、それは死んでいるも同然なのだ。

 俺は死なない。死んでも死なない。この魂は売らない。

 あと数歩降りれば、地に足が付くところだった。そこで男は、絶望的な様子を目にしてしまった。

 男の開けた重厚な扉から、重層な防寒を施した追手たちが、猟銃を持って次々に出てきたのだ。男が外へ逃げたと報告を受け、いったん中で、外に出る準備をしてきたのだろう。それはまるで、近くに未確認の凶悪生物でも出没したかのような緊迫感だった。

「逃がさんぞ極悪囚めが!」

 施設の看守たちは、囚人にとっては友達だった。先生だった。理解者だった。しかし男がいま見ている防寒服の看守たちは、施設の中で見るいつもの看守の剣幕ではなかった。それがこの施設における看守の真の姿だった。

「とっ捕まえろ!」

「殺してもいい! いつでも許可は得ている!」

 パンッ!

 たった一発の銃弾に、男は見事に撃ち抜かれた。救いようもなくあっという間の出来事だった。

 男は二も三もなく、そのまま背中から地面へと落ちていった。落ちるたった零コンマ数秒の間に、人はこうも容易に死ぬのだな、と男は思った。

 がはっ——。

 口から吐いた血反吐が周囲の雪へ飛び散った。撃ち抜かれた箇所からドクドクと血が滲み出した。顔面には血反吐でできた赤い斑点がポツポツとできていた。

 寒さで既に弱っていた男を絶命させるのに、銃弾の一発は余分過ぎるほどのダメージを与えた。男の命はもう短かった。

かすむ視界の中で男は考える。

 ——ここはどこだ?

 フェンスの外。施設の外。

 外の世界。

 寒いも痛いももうよく分からない。ただ眼を開けて、寒空のグレーをポカンと見上げているだけ。

 喉の奥に血反吐が溜まって来て、呼吸が出来なくなる。

 男は残された時間で、人生を振り返った。

 たくさん人を殺してきた。たくさん罪を犯してきた。

 施設の外の世界に落ちて、男はいま、ただの極悪犯罪者に戻れた気がした。

 俺は、最後の最後まで、この魂を売らなかった。

 それでいい。

 それでいい。

 それでいいのだ……。

 男は、これから死にゆく己に、強くそう唱えた。

 ついに男の目が光を失う間際、しかし男は、いまも温かい施設の中で幸せそうに生活する極悪囚人たちのことを、無意識に思い浮かべていた。

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