花畑の怪物 作:西山太一


 やっと、少女はお目当ての花を見つけた。

「もとおか園」の近くにある森で、探しまわること三時間である。

 赤い血管の毛細が張るその幼いほっぺには、一体いつそうなったのか、一筋の黒い泥汚れが、まるで町工場の熱心な技術者のようについている。

「あった!」

 それでもそんな泥の汚れなど気にもしないこの能天気少女のお目当ては、凛として格調高い、純白をした百合の花である。


 葉々の深い緑の中に、スンと静かに咲いている白い花。


 昨日の午後の雨の中で桃子さんと一緒に花の図鑑をめくっていたときに、少女はこの百合の花の写真を見つけたのだった。

 わあ、いいな、これ。

 桃子さんが、カスミソウ、ミルトニアもいいわね、なんて言っている脇で、少女はじーっとそのユリの写真を見つめていた。

 これならいけるんじゃないか。

 なんて、幼い情熱をその小さな目の奥にゆらゆらと滾らせている少女のことをふっ、と見て、桃子さんは「気にしないの」と言葉をかけたものだ。別に、もう少女は何も気にしているわけではなかったのだが。

 目にも鮮やかなこの、緑と白のコントラスト!

 少女はいま見つけたそれが、間違いなく昨日の図鑑で見た百合の花であると確信し、無邪気に心躍った。

 やった、やった、やったった。

 図鑑の中に見た花が現実に咲いているというただそれだけのことで、まだ幼い少女はこの上なく面白がることが出来た。これをあの人に渡すことが出来れば、なんて考え始めると、少女はさらに面白がって、靴に翼でも生えたようにルンルン気分なのだった。

「あちゃー。でも、届かないなー」

 人気もない湿った森の中で、小さな少女は一人、幼い独り言をつぶやく。おままごとで、何かに困ったお母さん役をやっているような、それは呑気な口調だった。

 一体何に対して少女が困っているのかと言えば、いま少女が見つけた百合の花というのが、整備された道から外れた斜面の中腹に咲いていたからだ。

 断崖絶壁。壁立千仭。

 実際はそれほどまで急な斜面ではなかったが、小学三年生の女の子の世界では、それは確かに、断崖絶壁なのであった。

 数秒ほどの躊躇を爪先に集める少女。

 ふと、少女の脳内に、どこかで見たようなアニメーション映像が流れてくる。

崖の端から下を覗き込むと、足元の砂礫がパラパラっ、と下の渓流へと落ちていくのだ。落ちれば命は無い危険な渓谷だなんて、そんなことは言わなくても分かることだが、なんと、その崖の中腹あたりには、主人公のお目当ての、魔法の力を持った薬草が咲いているのだ。主人公はそれを、病に伏した母親を助けたい、その一心で取りに行く……。

 呑気で妄想がちな幼い少女は、どこかで見たそんなアニメの勇敢な主人公と現在の自分とを同化させて、いま一度、そこに咲いている白い百合の花をじっと見つめた。

 よし、大丈夫。

 ぬかるみに足を滑らせて無残にも下へと転げ落ちていくのは、少女が百合の花を左手に取って、上へと戻ろうとする最初の一歩目のことだった。


 あまりにもリアルにその斜面を転げ落ちていく少女は、命の危機を無意識的に脳が感じ取ったのか、はたまた、ただ単にどこか固いところに後頭部を強く打ってしまったのか、重力に身を任せて転げ落ちていく途中で、気を失っていた。

 やがて平らなところに出てきた少女の身体は、ピタ、と微動だにせずにとどまった。衣服や肌は泥で汚れ、水分に濡れ、小さな落ち葉は、頬にもいくつかぺったりと付いていた。昨日降った雨のせいで、単純に少女を汚す要素が多くなっていたのだ。

 死体を思わせるような、まるで生気のない様子だった。しかし、少女はいま、ちゃんと生きている。ただ、斜面を転げ落ちている途中でフッと、気を失ってしまっただけである。

 ところで、なぜ少女はこんな危険を冒してまで、たった一つの百合の花を手に入れたいと思ったのだろうか。死体のように気を失っているいま現在でさえも、何か固い意志のようなものと一緒に左の手のひらに握られているその一輪の百合の花を、なぜこの少女はそこまでして手に入れたいと思っていたのだろうか。

 話は昨日の、雨が降る前のことである。

「もとおか園」の庭で適当に花を摘んで遊んでいたら、同級生の男の子が近くにいたので、はい、とプレゼントしたら急にぐしゃぐしゃに潰されてしまったのである。

 ああ……。

 少女の目の奥から、ジワリと涙が滲んでくる。少女は、両腕に目を隠すようにしてうずくまる。

 少女を泣かせた男の子は、ぐしゃぐしゃに潰した花をその場に捨てて、黙って逃げた。少女は声を出さずにそのまま泣き続けた。

 一連の様子を園内から見ていた桃子さんは、知ってはいたが、なんで泣いているのかと、帰ってきた少女に事情を訊いた。

 お花をあげたら潰されちゃったのと少女が幼稚な嗚咽の隙間から声を出して説明すると、「よし、それならもっと心のこもった花をあげましょう」と、桃子さんはあろうことか、またその男の子に花を贈ることを提案したのである。桃子さんは、少女がその男の子を好きであるということを、日ごろの素振りから見抜いていたのだ。桃子さんは、それを応援するつもりで言った。

「今度は適当な花じゃなくて、彼のために自分で選んだものをあげようね」と。

 一度ぐしゃぐしゃに潰されてしまったものをまた贈るなんて……、なんて思うこともなく、この底抜け能天気少女は「確かに!」と寧ろ感銘でも受けたかのようにパァと顔を広げて納得して、その後、桃子さんと一緒に図鑑を広げてみた。外は雨が降って来た。

「何がいいかなー? カスミソウ、ミルトニアもいいわね」と桃子さんが横からアドバイスをする中で、少女はたまたま開いたページに見つけた百合の写真の美しさに釘付けになったのだ。

 なんて綺麗なのだろう。

 百合の花。

 これならあの人も受け取ってくれるはず!

 その一心で少女は次の日、つまり今日、「もとおか園」近くの森へ入って、百合の花を三時間も探し回り、ぬかるみに足を滑らせて気を失っているいまに至るわけである。


 ザッザッザ——

 死んだように気を失っている少女に近づく足音。

 気を失った少女は無論、そんな足音で目を覚ますはずもない。衣服は泥と水分に汚れ、頬には小さな葉がいくつか、ぺったりと付いて汚れている。しかし、その左手には一輪の白い花が握られている。

 ザッザッザ——

 果たして、そんな気を失っている幼い少女に近寄って下衆ないたずらでもしかけようというのか、それとも自然の摂理に従って、動かなくなっている生物を今日の腹満たしにしようというのか。

 真実は結局のところ、分からず仕舞いである。


 夕方のカラスがねぐらに帰る頃、少女は目を覚ました。随分と長い間、気を失っていたものだ。

 うーん!

 少女は起き上がって、思い切り伸びをする。森の中を歩き回って疲れていたのだろう。それも、スニーカーなんぞで歩き回っていたものだから、特に足に疲れを感じていた。

 この元気な少女は、気を失ったそのままの状態で、スヤスヤと逞しく眠っていたのかもしれない。

 少女の疲労と眠気は首筋と背中を通ってストンッ、と勢いよく落ちて行って、それで何もかもが一旦、少女の中でリセットされた気がした。

 ふぅ、と辺りを見回してみたところで、夕焼けに染まる低空の赤色が変に、錯覚画を見ている心地にさせてくる。いま見ている景色と、体内時計とが、なんだかうまく組み合わない。海水の塩分に口の中が慣れた状態で、淡水のシャワーを浴びるような、感覚と脳が合わない感じだ。

 少女は、はて、自分は何をしていたのだったか、とはるか遠くのことのように思える記憶を探ってみる。

 そう、わたしは森の中を歩き回っていて、やっと目当ての百合を見つけて、あの急な斜面を降りて行って、無事に取って……。

 無事に……?

 頭の中で記憶の糸を手繰り寄せていく少女。

 斜面で花を手に入れることが出来て、元の場所に戻ろうとして踏み出した一歩目からその糸が途切れていることに気付く。

 そうだ、足が滑って、あの斜面を落ちて行ったのだ。

 ……じゃあ、なんでわたしはこの公園のベンチに座っているの?

 そんな疑問の壁に、少女は必然的に突き当たる。

 うーん……。

 公園のベンチ。さっきまで少女が歩き回っていた森のすぐ麓にある、公園のベンチ。少女はいま、そこに座っている。

 周りに人は、誰もいない。

 ここの公園を利用するのは「もとおか園」の子供たちぐらいで、今日は誰も来ていない。ここにいるのは、少女、ただ一人。

 うーん、うーん……。

 結局いくら考えても何の憶測も見いだせない少女は、ただ、今起こっていることが不思議で不思議でたまらなくて、もしかしたら自分には何か驚くべき魔法の力があるのではないかと、そんなファンタジックな結論に正当性を募らせていくのだった。

「いたいたー」

 声が聞こえて公園の入り口の方を見てみると、そこには黄色いエプロンを着た桃子さんがこっちへ歩いてやって来ていた。「あら、随分汚しちゃったわね」と苦笑して小さく言っているのが、少女の耳にはちゃんと聞こえてきた。

 少女は、自分の着ている衣服を見てみる。

 あれ? あの斜面を転げ落ちて行ったんだからたぶん……もっと汚れてたっていいはずなのに。

 斜面を転げ落ちる寸前まで覚えていた少女は、いま一度、泥に汚れているだけの自分の衣服を見てみて、そう思った。いまの少女の衣服、そして頬には、斜面を転げ落ちていく中で付いていたはずの枯れ木や落ち葉なんかが、一つも付いていなかったのである。

 不思議だな。

 しかし、能天気少女はそんなこと、いちいち気にはしない。

 少女はベンチから立ち上がり、こっちへやって来る黄色いエプロンの桃子さんの方へと行こうとする——のだが、踏み出す一歩に体重をかけようとするその零コンマ一秒前の時点で、少女の足に電撃が走った。

 いっ——

 ……っつっつ、と妙にゆっくりとした体重移動でベンチに座り直した少女へ、今度は少し血相を変えて桃子さんが走って行く。

「大丈夫?」

 屈んでそう訊いてくる桃子さんに、少女は「……いや、なんでも」と確実に何かを隠す言葉を口先で選んで言う。少女はまだ、「もとおか園」に来て三ヶ月だ。

「怪我したんでしょ」

 桃子さんの言うセリフの調子には、人に嘘をつけなくさせる特別な周波数が流れている。勝手にお菓子を食べたときだって、そのことを自分から言わせてしまうような優しい魔法が、桃子さんのセリフにはかけられていたものだ。つまり少女は以前それで、桃子さんに優しく怒られたことがあるのだが。

「うん。たぶん」と潔く白状する少女。

「あらら。転んだ? わけでもなさそうね?」

 一歩引いて少女を観察し、桃子さんは不思議そうに言う。転んだ程度では、そんな泥まみれにはならないか、との憶測だ。

 少女はそれには何も反応しないで、痛む自分の右足首を、左膝の上に乗せる。

 ここで少女が、運が良かったことが一つある。それは、少女の衣服の泥汚れに加えて、落ち葉や枯れ木といったものたちが頬や衣服にまでこっぴどく付いていたものなら、それを見て「何をしていたの?」と来るであろう桃子さんの優しい詰問に対して、魔法にかけられた少女は答えなくてはならなかっただろうということだ。

 安全上の問題で、子供たちだけであの森に行くことは「もとおか園」では禁止されているのに、あろうことか、少女一人であそこへ行っていたなんてことがばれてしまったら、当分の間、外へ遊びに行くことも許されないだろう。

 まさに少女はその、自分をこのベンチまで運んできたファンタジックな力によって、守られたようである。

「まあ、とりあえず帰りましょう。みんな心配してるわよ」

 みんな心配してる、と聞いて、少女は陽気な園長よりも仲のいい女の子たちよりも、同級生のあの男の子の顔を思い出す。花をぐしゃぐしゃにしたあの男の子を。

 あの人も心配してるの?

 無邪気にもそう思えると、少女は天からパワーでも降り注いできたかのように「うん!」と元気よく返事をした。全くもって、能天気な少女である。

 眠気も疲労も無くなった少女のテンションは、赤く染まるしわがれた夕方の景色に当てはまっていなかった。カァ、カァ、とカラスは喉から乾いた鳴き声をする。夏も終わりの季節である。

 少女はベンチから立ち上がって、さっき傷んだ箇所に慎重に体重を加えていく。

——ッ……。

 しかし、閃光のように走る痛みは徐々に和らいでいって、はて、歩く分にはそう大して致命的な怪我でもなさそうなものだった。後で見てもらえば、ただの捻挫ということだった。  

 そういえば、と少女は、ぬかるみに足を滑らせた時に足をひねっていたことを、そのときに思い出した。

 二人は並んで、「もとおか園」に向かって歩いて行く。

「今日はチーズオムレツよ」

 夕焼けの方向に歩き始めてほどなく、桃子さんが言った。

「……」

 チーズオムレツは少女がリクエストしていたメニューだった。「もとおか園」では、子供たちのリクエストが定期的にメニューに反映されるのだが、チーズオムレツは、この少女の母親がよく作ってくれた、少女の最も好きな食べ物だった。

 ふいにジワリと目に涙を浮かべ、グッと黙ったままの少女を隣に、桃子さんもまた黙って、少女の小さな手をそっとつないだ。

 少女はそれが自分の母親のものだったらどんなにいいかと心の中で思ったが、そんなことが口に言えるはずもないまま、桃子さんの大きな手を黙ってぎゅっと握り返した。

 少女が両親を失った驚きと悲しみは全くもって癒えたものではなく、それを周りから、いや、自分自身から隠そうとする自衛本能の裏返しとして、少女は能天気で明るく、元気な思考に辿り着いたのかもしれない。

「あっ」

 キュン、と目の奥に涙が引っ込んで行って、目元をごしごしすればもう涙は出てこなかった。少女は強かった。

 ところで、「あっ」と何をもってそんな短い声を突然出したのかと言うと、大きな桃子さんの右手を左手で握ってみることで、逆にずっとそこに握っていたはずの何かが無くなっていることに、いまさらながら少女は気づいたからだった。

「ん? どうしたの?」

 ニコ、と少女を見て笑う桃子さん。それを斜め上に見上げると思考は一瞬途切れて、ああ、綺麗だな、と少女は思った。桃子さんは少女の亡き母親よりもだいぶ年上の女性だったが、その柔らかな顔のパーツと若々しいエネルギーは、少女の母親によく似ていた。同じ種類のぬくもりだ、と少女は思った。

 いやいやいや。

「何でもないっ」

 世間から関心を断ったような表情で、少女は返す。別に、桃子さんに、亡き母との思い出を邪魔されたくないとか、桃子さんに対して心を開いていないとか、そういう意味ではなかった。

 手にしていたはずの百合の花が無くなっている。

 そんな話をしてしまったら、そこから話が広がって行って、やがては、さっきまで一人で森に行っていたことがバレてしまうと思ったからだ。

「ふふっ。そう」

 桃子さんからすれば、少女がいま何かを隠したな、ということなんて火を見るよりも明らかなことだったが、少女が、「自分は隠せている」なんて本気で思っていそうで、それが子供らしい悪戯のようでかわいいなと思ったので、大人な桃子さんは、上手く騙されているふりをすることにしたのだ。何よりも、無事ならそれで万事よかった。

 つないだ手をぷらぷらする。二人の手の振り子は、心地よくいつまでも揺れる。

 ぷらぷら。ぷらぷら。

 二人はやがて、皆の待つ「もとおか園」に着いた。

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