契り 作:西山太一
「ああ!」
ドアが閉まり切ると、健太は心の声をそのまま口にした。寸でのところでエレベーターに乗り遅れたのだ。しかしそれを悔やむ暇もないほど、いま健太は焦っている。
健太はスーツの左腕の裾をさっと引いて、腕時計を見た。
——六時五十四分。
健太が乗り遅れたエレベーターはもう下へ向かっている。これが順調にいけば、一階まで止まることなく降りて行って、そして止まることなくこの十階まで上ってきてくれて、そして自分を乗せてまた止まることなく降りていってくれて……。しかしそんなラッキーが起こる確率は——七時前の退勤ラッシュのこの時間帯じゃ——ほぼゼロだ。
健太の脳の中で端を発した思考は、一瞬の閃光の内に結論へと辿り着いた。
待っている時間はない。
健太は間もなく右を向いて、「出口」とある緑色の蛍光板の方へと走り出した。最近はだらしなくお腹が出てきたが、これでも昔は県で一、二を争うほどのスプリンターだった。極まる焦燥によって限界を超えた健太の脳細胞は、中高時代に陸上短距離で養われた彼のありとあらゆる五体感覚を、十年もの時を越えていま、呼び覚ます。
そのとき、次にエレベーターが来るのを待っていたある女性社員は、健太が「出口」を抜けるちょうど一瞬間だけ彼の背広がはためく後ろ姿を捉えていたのだが、それがその頭上にある「出口」の棒人間マークそのままの姿をしていたので、女性社員は何かそこに、日常の中に潜む奇跡みたいなものを見た気がした。
跳ぶ跳ぶ跳ぶ走る。
階段を降りていく、というよりもはや滑っていく勢いだ。タタタタと一つ飛ばしでフロア半分の階段を降りていき、掴んだ手すりを軸にぐるりと旋回してまたタタタタと降りていく繰り返し。
健太は自分が息をしているのを忘れていた。片手にカバンを持っていることを忘れていた。買ったばかりで足に馴染んでいない革靴を履いているのも忘れていた。
たった一つ、いまの健太の頭の中にポツンと浮かんでいるのは、約束の時間に間に合うかどうか、ただそれだけだった。
健太は一階まで着いた。
しかしゴールはまだまだ先だ。「出口」からエントランスへ出て、フロント前を駆け抜けていく。既に息は荒れている。
お疲れ様で——
受付嬢の声も耳に行きつかないまま、健太は会社のビルを走って出て行く。
ビル入り口から五十メートルほど伸びる石造りのストリート。昼はホットドッグや弁当を売る屋台がやって来て、健太もよくお昼に買って食べているが、いまはいない。街灯がポツポツと暗がりを照らしているだけだ。
健太はそこを駆け抜けていく。これから家に帰る者、これから同僚と飲みに行く者、様々な者たちを、健太は漆黒の風となって抜き去っていく。
車道に面した、会社名が掘られた石碑のところまで駆けて来ると、健太は息切れが遂に我慢できないほどキツくなって、そこでいちど足を止めた。
そこで急に何かにひびが入って、いや、ひびが入っていた事実に気が付いて、次の一歩が中々出て行かなかった。
はァ、はァ——。
膝に手をついて一直線にアスファルトを見つめる健太。深い眠りから覚めたかのように思えた全身は、ようやく現在の肉体との整合性を計り始め、それによって栄光の時代の五体感覚は、束の間のドーピングに終わっってしまった。
ようやく自分の衰えを知る健太。
走り始めたときは、これはいけると思った。高校を卒業してからこれまで、中高時代には考えられないほど運動をしてこなかった自分だが、さっき走り始めた最初の時は、なんだ、全然衰えていないじゃないかと思った。周りが言っているだけで、自分はそんなことはないんだと思った。さすがインターハイに出ただけのことはあると、自分に対して褒めてやりたいくらいだった。
しかし現実は、喉の奥から心臓が丸ごと出てきそうなほど、健太は大きく肩を上下させて息を荒らし、膝に両手をついて死にそうでいるのだった。
——ああ、うまくいかねえな。
健太はそう思った。そう思ったことによって、それまでクリアだった思考に、ドバドバと余計なものが入り込んできた。
もっと早く会社を出ていればよかったのだ。
五時の時点で既に今日の仕事を終えていた健太は、しかし約束の時間までまだ二時間もあったため、暇つぶしついでに、自分のデスクで明日の分の仕事を軽くやっていた。それで急に、普段オフィスに顔を出さないはずの部長がデスクの向かいに現れたものだから、健太は席を立って「お疲れ様です!」と言った。
気楽な姿勢でデスクに座っていたため、健太は「印象が悪くなってしまったかもしれない」と己の身を案じたが、意外や意外、
「おお富永君。もう帰ってしまったと思ったよ。ちょうどいい、君に任せたい仕事があるのだがね」
と部長は豪快な語気と共に健太に言った。
そこからほとんど部長一人が喋る打ち合わせが続き、十分経って、一時間経って、もうすぐ七時になってしまうかと思われても一向に話が終わる気配がしない中で、健太は一人、焦りを募らせていった。
約束の七時までもう十分もないとなったころ、健太はようやく申し訳なさそうに「すみませんちょっと用事が……」と出た。もしかしたら部長の機嫌を損ねて、今回の話は無しになるかもしれないと思った。部長は結構そういう人間だ。
しかしその申し出を受けると部長は、「おお! 早く行け行け! 遅刻はいかんぞ。そもそもこれは明日話す予定だったんだからな。まあ、もうほとんど話しちまってんだが」
ガハハハと豪快に笑う部長に最大の愛想笑いをしつつ、健太はすぐに荷物をまとめて「失礼します!」と言って、エレベーターの方へ走って行った。
そしていまに至る。
腕時計を見る。時刻は六時五十九分。約束の時間まであと一分だが、ここからどう頑張ったって、待ち合わせの七時にあそこへ行くには間に合わない。そもそも一歩が出て行かない。
健太は悔やんだ。
会社で暇をつぶそうとしたこと。これまで運動を怠ってきたこと。
足が動かない。
心臓が耳の辺りで爆心する、その音を聞きながら、健太は額に冷たい脂汗を感じる。
健太は息を整えつつ、恋人のみどりを頭の中に思い描いていた。
健太は今日、みどりに結婚を申し出る予定だった。二人が出会ったあの何でもない公園のベンチに、健太は今日の午後七時、みどりを呼び出していたのだ。
付き合って三年、これまでその思い出のベンチにみどりを呼び出したことはなく、ともすれば彼女の方も、今日は何か特別な話があるだろうと勘づいているに違いない。
そんな中でいま健太は、その約束の時間に遅れているのだった。六時半には先についておきたいと思っていた。健太はそういう男だった。
時計を見た。ちょうど七時になっていた。
はあ、とため息を吐く。時間とは残酷だ。待ってくれない。
健太は諦めて、みどりに電話をかけようとポケットのスマホに手を伸ばした。
なんて言おうか。
健太は案じた。二人にとって、とても特別な場所に呼び出しておいて、何もなかったじゃ済まされない。それで本当に何もなかったのなら、みどりを不安にさせてしまうのは目に見えている。そんなことでみどりを不安にさせるなんて情けなさ過ぎる。
——ああ、うまくいかねえな。
スマホを開いていく。何を言うかは決めていない。とにかく今日は、プロポーズはできない。こんなグダグダなプロポーズを、二人の最高の思い出の一つになんかしたくない。
とにかく今日はごめんということを伝えよう。みどりならきっと、俺が何か大事なことを言うのを予定していたのに、何かアクシデントがあってそれが出来なくなってしまったと考えてくれるに違いない。
健太は都合のいいことを考えながら、みどりに電話をかけようとした。息は既に戻りかけていた。
——すると
ヴーヴー。ヴーヴー。
——何⁉
健太は思わず、目を見張った。みどりに電話を発信する寸でのところで、逆に電話を着信したのである。そしていったい何がこんなにも健太を驚かせたのかというと、それが他でもない、健太の恋人、「高橋みどり」からの電話だったということである。
ああ、きっと俺が待ち合わせに遅刻しているから電話をかけてきたのだろうな。普段から、俺は遅刻なんてしない人間だから。
健太は、あと二秒でも早く発信ボタンを押さなかった自分を悔やんだ。自分からではなく、彼女から催促してきた電話口でこっちが謝罪をかますなんて、いったいどの男の口が言えようか。
——何もかも、うまくいかねえな。
健太は電話に出た。
「もしもし」
【はあはあ、あ、もしもし健ちゃん? ごめんねもう着いてるよね】
「え?」
マイクロスピーカーの奥から聞こえてくるみどりのはあはあという息遣いに、健太は、一体何が起きているのかと思った。三秒ほど考えて、健太はいまみどりがどういう状況にあるのか推測した。
瞬間、先に言わなければならないと思った。彼女に言わせてはいけないと思った。
「ごめん」
【ごめん! え?】
一瞬だけ健太の方が早かった。
「約束の七時、間に合わなかった。呼び出しておいてさ、本当にごめん」
【いや、わたしもいま、向かっているところなの。ごめん。あれ? 健ちゃんも?】
みどりの声が弱くなった。期待していたものが違っていることを話しながら理解していき、理解していくうちに声の調子が下がっていくようだった。
「ごめん、本当に。もう今日は」
何もかもうまくいかない。それはみどりとのこれからの生活を案じた、神様からの兆しなのかもしれない。とにかく、こんなことではプロポーズなんて、出来やしない。
そんなことを考えつつ、今日の待ち合わせの件は破棄にしようとしたそのとき、
【あ!】
と元気のよいみどりの肉声が、確かに後ろから聞こえた。
スマホを耳に当てながら健太が振り向くと、そこには同じくスマホを耳に当てているみどりの姿があった。
みどりは笑って、顔の近くで小さく手を振った。
健太は、それまで思考の中に蔓延っていた邪悪なものが、蜘蛛の子を散らすように消えていくような爽快な感覚を覚えた。後に残ったのは、みどりと自分とを結びつける運命の赤い糸だった。健太にはそれがいま、目の前にはっきりと見えているような気がした。
「ああ、お疲れ」
自然と、健太の口からはそんな言葉が出てきた。
「はあ、はあ、うん」
みどりは息を整えるようにしてそう言った。
数秒、いや、数十秒かもしれない。二人の間には沈黙が流れた。その沈黙の間に、健太もみどりも、何かに対する覚悟を募らせていった。
やがて健太は意を決し、空を見上げずに言った。
「月が綺麗だね」
「月?」
みどりは夜空を見上げた。雲がかかっていて、月はどこにも見えなかった。
「うまくいかないことばかりだよ。何もかも」
満ち欠けの周期では、今日は満月の日だ。このセリフを言うために、今日をプロポーズの日に選んだ。しかし思うようには、月は姿を見せてくれない。
でもいい。
「君を不安にさせることも、これから先、もっとあるかもしれない」
健太がいつになく真剣な表情をしていたので、みどりは、これから大切な話が始まることを予見し、ぐっと口を噤んだ。
「でも、俺はそんな中でも、君と一緒に人生を歩んでいきたいと思っているんだ」
健太は鞄から小さな箱を取り出し、みどりの前に片膝をついて、それを両手でパカ、と開けた。
「結婚してください」
仕事を終え、石造りのストリートを歩いて来る人々は、足を止めて、その光景を見ていた。まるでそこには、神聖な場所に結界が張られているかのように、誰も石碑より前へ出て行かない。ちょっとした群衆が二人を中心に弧を描いて、その様子を見守っていた。
——結婚してください。
ついに男の方がそう告げた。片膝をついて、両手で結婚指輪を差し出して、それはまるで映画のワンシーンのような綺麗な画だった。
プロポーズを受けた女は数秒、黙っていた。その数秒が、そこにいた群衆には数十秒かのように思えた。彼、彼女らでさえそうなのだから、いま片膝立ちで女からの返事を待っている男にとっては、それは永遠のように感じられたのかもしれない。
固唾を飲んで二人を見守る群衆の中には、とある女性社員がいた。
あ、と思った。
「出口」のマークさながらに駆けて行った、さっきの男ではないか、と。
何か人だまりが出来ているな、と思ったら、まさにさっきの男がなんと、そこで女にプロポーズをしていたのである。
沈黙の数秒が過ぎ、やがて女が「よろこんで」と最高の笑顔で男に返事をすると、世界は二人を祝福して一瞬だけその場の時を止めた。
そして世界は動き出した。男は女を抱きしめた。群衆から、パチパチと乾いた拍手が起こった。そんな拍手は二人の耳には聞こえていないのか、女も男を抱きしめ返した。しかし数秒経って、男の力が少しばかり強かったのか、女は「もういいよ」みたいなサインを男の背中にたんたん、と叩いて、それでようやく男は「ああゴメン」と女から離れた。
女が悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて、群衆の方をチラと示した。
男は「え?」というようにすぐ傍の群衆を見て、そしてなんだか申し訳なさそうに、頭を掻きながら軽く礼をした。
乾いた拍手が、どっと音の密度を高めた。
パチパチパチパチ——
「おめでとう!」
「おめでとう!」
「お幸せに!」
とあるその女性社員も、群衆の中からそう言っていた。日常の中に潜む奇跡の瞬間に、自分は今日二度も立ち会えたのだと思った。
いつか自分もこんな瞬間を迎えられたらいいなと、幸福な夫婦を見ながらそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます