X星のシダ 作:奴
健全な法権力と規律と警察による監視のもとでは、罪を犯した人間はたやすく捕まえられるだろう。たとえ現行犯で逮捕されなくとも、情報社会における監視体制は人間をあらゆる角度から捕えているため、わずか数日のうちに、逃走した犯人が見つかる。逃げ延び、みずからの犯した咎を報いることなく生き抜くのは、もはや難しくなっていた。
そのなかで、男が捕まる。彼の罪は絶対的、あらゆる証拠が裏づけるもので、拘束された時点でもはや諦めるほかなかった。警察と司法の取り調べ、それにともなう書類作成のあいだ、裁判を待つまで、男は絶望的な気持ちでいた。うまくやれたと誇っていたのだ。この殺人は完璧に遂行され、証拠は何一つなく、目撃者は自分一人、監視カメラの完全な死角だった。綿密に計画された逃走ルートを伝い、ものの数分で別の町へ行くと、そこから車に乗って遠く離れた都市へ向かった。事の発覚は、すっかり逃げ延びたあと、男がさらに場所を変え、車を変え、姿を変えてからであったから、近年稀に見る難解な事件として、何十年も捜査に時間が空費されるはずだった。男はそう皮算用した。しかしうまくはいかなかった。たったの五日で、犯人はその男と同定され、居場所は突き止められ、気がつけば包囲されていた。
男が裁判で下された刑罰は、人を一人殺し、逃亡しているのだから、当然重い。「X星でのシダ刑」である。地球と環境が近いX星に、当の判決を受けた囚人が送還され、一時的ないし永久的にシダ植物となって刑期を過ごす。「シダ刑」は重罪人に当てられる刑罰ではあるが、そのなかでも比較的軽い罪、たとえば一人への衝動的殺人、怪我人のみの放火罪などは、地球年の換算で二十年ののちに、もう一度人間に戻されて地球へ帰れる。死者が何人も出て、また犯行内容があまりに残忍となれば、当の受刑者は永遠にシダ植物であり続けるか、四、五十年ののちに刈り取られて死ぬ。終身刑となれば、担当する機関の管理によって「シダ化」した囚人は枯れることなく永久にシダであるし、死刑となれば、刈り取られ、細かく裁断されるときの痛みは想像を絶する。たとえそうした極刑的な「シダ刑」でないとしても、十年以上の歳月を、単なる植物として、植物が成す以上のことは何もできず、ただ思索ばかりして過ごすのだから、ある種の苦痛をともなう刑であることには変わりない。
判決に対し、男は控訴しなかった。罪と罰は確定し、地球の本国でのしばらくの拘留期間ののち、病院で「シダ化」手術が行われる。当人の魂を抽出して、栽培されたシダへ注入する。この人間の魂を入れられたシダの内側に脳波的な波が観測されると、手術は成功と分かる。恐ろしい話である。健康観察やそのほかの準備のための拘留のあいだ、それは十日ほどであったが、男はより多くのものを目に焼きつけておこうとした。シダになれば、見ることも聞くこともできない。すくなくとも人間的な五感は失われ、植物的な感覚になる。絶無の空間に男の魂が浮遊し、果てのない思考だけが持続する。男には考えたいことなどない。たいへんな思索家で、一日のほとんどを考えることに費やす人ならば、この刑は、あるいはそれほどのものではないかもしれない。しかし酒と性と賭博に身を委ね、薬物の成す強烈かつ不体裁で無際限な夢のなかを泳いでいるうちに数日を過ごし、たまの日雇いで金を作り、また欲望の発散へ返る生活を長らく繰り返した彼は、学問を厭い、考えることを嫌った。「シダ刑」は、労働や運動の気分転換もないために、彼にとって間断なき絞殺のごとくであった。
食事をふだんよりもずっとよく味わい、日に十五分の運動を丹念にやり、独房のドアの小窓から見える監獄の廊下を見回した。刑のあいだは何かに触れるということがもはやできなくなるから、今のうちにと壁を撫で、身体を触った。彼は始終恐怖し、眠れなかった。体の底や脳の奥にこびりついた薬物が廻り、狂気を増幅させているようだった。
生涯でもっとも長い十日を暮らした彼は、最後の食事に盛られた睡眠薬で眠らされ、手術室へ運ばれた。滞りなく手術は済み、麻酔の解けていないままX星へ向かう。彼のための区画へ植えられ、次に意識を取り戻したときにはもう植物と化している。「シダ刑」が始まっている。
男を待ち受けていたのは、完全な闇であった。刑の開始をようやく理解し、何かしらの抵抗を試みても、彼はすでに一個のシダである。身動きはできず、自殺も許されない。当然、枯死しないようつねに世話されてあるから、刑期が終わるそのときまで耐え抜かなければならない。彼は発狂の気味であった。手を振り回して暴れようとしても、四肢のない男はただ感情を錯乱させることしかできない。むちゃくちゃに叫びたかった。ただ一人、殺しただけじゃないか!
X星に設置された管理局の局員たちは、男の発する波を計器で観測する。上下に激しく揺れる針が男の狂乱を示す。しかしこれは、刑が開始してすぐの、みずからがシダになってしまったとわかったときの囚人ではよくあることであるから、皆、笑っているか、もはや何も感じず、異常はないがこの囚人は混乱しているようだと冷静に評するか、波がどれほど振動するかの賭けをやるかのいずれかである。局員の仕事は、管理局の周囲に植えられたシダのようすを計器と監視カメラでもって観察し、異常なしと確認することにある。すべては局内のデスク上で済むことで、しかも機械が勝手に計測し、データをまとめてくれるから、たまにカメラ越しの植物たちを目で見るほかは自由にしていられる。
とはいえこの管理局と居住区、小さな商店以外には広大なシダ園と草原が広がるだけの土地で、昼夜の区別があり春秋の別くらいはある雨の少ない過ごしやすい気候とはいえ、娯楽はまったくない。X星の調査が進められ、刑の整備とともにこの星が選定されて以来、多くの娯楽品が持ちこまれた。
シダ園を散歩する者もいる。現在千人超の囚人がシダとして服役する大地を、彼らは歩いて回り、物言わず風に吹かれるばかりのシダたちを漫然と眺めていると、優越感と安心感が湧く。囚人たちはまず襲いかかってくるはずはないし、そもそも局員がそばを歩き、彼らを嘲っていることなど、分かるはずがない。彼らは一人ひとりが孤独な絶望のなかで人間に戻る日を待ちあぐねている。かたや監視員としての自分はこれほど自由だ。わざと手を振り、足を振り、歩いてみせる。しょせん草の受刑者には分かりようもない。
当の男は半日のすえ、何をやっても無駄であることを学んだ。警察や裁判官を悪罵し、社会を呪おうとも、彼の怨念はまったく届かず、単なる情念として彼のなかで消化されてしまう。何よりつらいのは体が動かせないことであった。物を蹴飛ばし、駄々をこねれば、少しは気分も落ち着くのだが、植物としてただ枝葉を伸ばし恒星から発される光を受けて光合成しているだけでは、何にもならなかった。呼吸の感覚も、人間のころとは異なった。それがもどかしかった。植物であるというのは、人間のころの自由を思えば、奇妙な金縛りが何年も続くのと同じである。
管理局の者たちには分からない、シダの受刑者たちに特有の行為と言えば、まず日にちを数えだすことである。初日の激しい動乱が静まると、彼らはたいてい、刑期が終わるまでの日数を数える。恒星の発する光を感じて光合成する彼らは、その光のあるなし、言い換えるなら、みずからの光合成のはたらきのあるなしで、一日を計測した。光合成の感覚と呼吸の感覚にはどこか別なところがあり、呼吸優位になる、すなわち日が暮れだすと、敏感に察知した。しかし、最初は懸命に六日、七日と数えていても、それが無駄なことのように思えてきて、諦める者もいる。刑が執行されて何日目であるかを数えるのは、むしろ刑期の長さを誇張するようで忌々しく感じられるのだった。もちろん数えきった受刑者だって、帰還した者の発言によればいるらしいが、多くの囚人が口をそろえて、そんなものはかえって気を狂わせるから、何も考えず寝るように無意識であり続けたり、夢を見るように空想していたりのほうがましだと言う。なかには瞑想的な無思索・無思考を極めて、帰還後、神仏につき従う者や、かえって空想を豊かにして作家になる者がいる。そういう人間は無尽蔵の忍耐力でもって「生還」した者たちで、ほとんどの「帰還者」は狂って廃人になっている。この文化的成功の裏にある人権剥奪的現実は、つねに論争を生み出し、人はいつも「シダ刑」廃止を訴えた。X星を第二の地球として開拓せよという声も上がる。目下のところ、本国はそういった声に耳を傾けないが。
さて、何日も罵りを繰り返した男は、ようやくそれも止め、地球での生活へ思いをはせた。若いころ、何にでもなれる気がしていた。なりたいもの、就きたい職業はなくとも、将来への淡い期待を胸にして生きていた。だが大学生活で失敗し、酒や薬や賭博に溺れると、彼はもう這い上がれなかった。人生は惨めで苦々しいものになった。薬物使用で捕まったときは単なる懲役刑で済んだ。そのまま更生すれば問題はなかったのだ。しかし一度した薬の影響はすさまじく、すぐにもとの頽廃した生活に戻った。それで社会と刑務所を行き来するうち、人を殺した。金貸しの男だった。とうとうこの囚人の借金の額がうず高くなってきたため、金貸しの男は貸し渋った。それにいら立った男は、綿密な計画を立て、彼を殺した。だれにも知られることなく殺したと思った。それなのに、どこからか情報が漏れ、犯行があらわになると、もう言い逃れはできない。シダとして十年あまりを過ごすことに甘んじなければならなかった。男はしだいに後悔の念を強めた。どこかの時点で薬を止め――いや、まず薬などには手をつけず、真っ当に生きていればよかった。あるいはそうでなくても、一度捕まったところでまじめに治療を受けて、薬物から脱していればよかった。それがこんな地獄に落ちるなんて! 男はとうてい耐えられないと絶望していた。すでに何日目のことか分かっていなかった。二日、三日しか経っていないのか、いや、もう一年は過ぎたのか。何にせよ分かるのは、絶え間ない後悔と、恒星の光の有無と、ときおり吹く風の感触であった。葉先が揺れている。
これもやはり大多数の囚人に共通のことではあるが、皆、昔を回顧する。学生時代、はたらき始めたころ、家庭を持ったころ、等々。自分が輝いていたあの時代を振り返り、それに引き換え今は、と思う。自責の念に駆られ、また何もこんな仕打ちをしなくたってと憤る。
こうしたすべての者に似かよった感情の過渡期を超えると、多少は特徴が現れる。第一に、他人やあらゆる事物への呪詛を続ける者。彼らは刑期が尽きるそのときまでひたすら誰彼を罵倒し、かならず復讐してやると決心を改める。凶器は何を用意し、どこでどういうふうに仇討ちしようかと計画を練り直す。本来恨まなくてもよい人間にまで怨恨を抱いてシダの一生を過ごす。第二に、後悔しどおす者。こういった受刑人は、社会に復したときには絶対に真っ当な生活を送ろうと心に決めて、もし叶うなら結婚までしたいと未来を思い描く。できるかもしれない友人、配偶者、子どもを想像し、どんなに温かい世界だろうと思う。彼らはこの後悔と夢想を往還し、与えられた期間を生き延びる。この空想というものが意外にも効いて、狂乱を防ぐことになる。理想の人と性に耽る生活を妄想し、美しく器量ある者から無限の愛を受けると脳裡に考えていると、ただ内向的で妄想質の人間になるだけで、少なくとも精神を荒廃させるのは免れるのだ。第三に、前述したが、瞑想する者。宗教的・神秘的な思考をする者。この境遇に至ったのは神の思し召し、裁きと考え、社会に帰ったそのときにはかならずや神に仕えようと回心し、キリストや仏にかんして知ることはないとしても、自分の信じる神を素描してひたすらそれへ祈りを捧げる。瞑想と祈祷のうち、自分、というよりは人間の愚かさを覚知し、宇宙の広大さを了知し、今の自分のこの巡り合わせは何であろうと考察する。第一の者がこの過酷な環境を生き抜いて地球へ戻ったとき、また犯罪に手を染めることがあるが、第二、第三の者が再度法を破ることは、まずない。彼らは文化に親しみ、人を慈しみ、余生を静かに生きる。なかには、芸術の面で才能を見せる者もいる。
健全な人間として刑を終えられる者たちのことは、これで言い尽くしただろう。しかし全員がこうして精神を保てるわけではない。むしろこういう受刑者は稀で、八割がた、発狂する。それが第四の者である。もとより思索をする傾向になく、暇を嫌がり、とにかく何かしておかねば、誰かと一緒でなければ、気が済まないという者たち。勉学や読書や、一人で静かに過ごすことを疎んじて、労働に励んだり、友人と遊んだり、遊蕩のかぎりを尽くしたりした者たち。彼らはまずもってこの刑には耐えられない。果てしない余暇のなかで空想せず、かといって人を恨んだり後悔したりするだけの単純さもなく、他者との共同作業によって生まれる楽しみを奪われたがためにその無聊のなかで危機的な渇きに喘ぐ。故郷たる星へ回帰したとき、彼らは、どうにか人間との交流をしようと奔走し、その渇望を癒すか、ある種の精神病にかかっていて、あらゆることがらが自分に関係しているように感じて已まないか、もはや他者との交流というものが怖くなって、孤独な狂人として生きるかである。何にせよ、刑を終えたそのとき、彼らはもうまともな人間としては生きられぬことが約束されている。依存体質の人間が、千年万年のごとき孤独のあとで、いかにして生きられるというのか? そしてそうであるがゆえに、「シダ刑」への反感は根強い。
ところで、「シダ刑」からそのまま死刑になる者もいる。これは以前に少しだけ語った。今や改めて詳述しなければならないだろう。本来、死刑判決を受ければ、拘置所で一定の年数を過ごすうちにその日が来て、絞首刑等に処せられるが、とくに残忍な犯罪によって死刑を言い渡されると、シダにされてから死刑となることがある。これはまだほんの数例である。シダとなってから殺されるまで、数十年を無為に過ごし、それからようやく死刑執行と相成るのだから、囚人には相当な苦痛である。それなら拘置所に収監しておけばよい。だから極刑的「シダ刑」は例が少ない。ただいざ執行されるとなれば、まず三、四十年をシダとして過ごさねばならない。それに死刑の方法がひどいのだ。人間である執行者の側には、刑のひどさがわからず、ある意味「処分」するだけであるから、いまだに是正されないのだが、数十年の歳月を超えて死刑囚たちはシュレッダーのような機械に放りこまれ、細かく切断される。最後に焼却され、灰はそこらの大地に撒かれる。この切断と焼却のさいの痛みは、人間が受けるあらゆる痛みのなかでも究極的で、しかも気を失うことはできない。意識があるまま身を千切られ、燃やされるというのはいったいどういうやり口だろう! だがこの痛みを人間の身で知っている者は誰もいないから、単なる意識の断絶だと決めて、雑草をむしり捨てるように「シダ人」を殺す。人によっては、むしろ無際限の孤独を打ち切って死ねるのだから救済だと見なす。だから、もう一度人間に戻したうえで極刑に処すべきという声もある。実際のところ、現行のこのやり方は、非人道的どころでない異常な刑罰であるのだが、この星の生物学はまだ植物の痛覚を発見するには至っていなかった。
さて、例の男はどうであるかと言えば、当初はあらゆる人間への恨みを繰り返し、復讐の算段をしていたが、しだいに、実現はずいぶん先だと思い直し、故郷を恋しく感じていた。それがひとまず落ち着くと、刑が終了して地球の土を踏むときには、どういう手順で社会へ復帰しようと考えを巡らした。つまり前述の種類のうちの第二の者に近い。薬物のぶり返しの幻覚に悩まされ発狂寸前まで行ったが、どうにか持ちこたえて数年が過ぎた。シダであるということが彼に馴染んだ。恒星の光を受ける喜びと、呼吸し、風を受け揺れる喜びを感じ、刑を被っているにしても生きていられるのだという境地に至れば、毎日は物静かに進んだ。彼の精神は明けない世界と不動の身体のなかで管理された健康を享受し、今ある状態と、これからあるはずの状態との両方を考えて満足するのだった。地球へ帰るとき、いや、シダから人間に戻ったその瞬間から、自分を人間にしてくれた医者、自分の肉体を保存してくれていた者へ感謝し、心を入れ替える機会を与えてくれた制度に感謝し、社会を構築する人間へ仇ではなく恩を返そうと考えた。男の気持は晴れやかであった。
しかし残念なことに、男は「処分」された。機械で裁断され、火のなかに投げこまれたのだ。酒を飲んで酔った局員がシダ園へ入り、酩酊のなか、男であるところのシダを引き抜いて、ふとした胸のいら立ちを抑えるために勝手に男を殺した。男は突然の違和感のあと、しばらくして訪れた激しい痛みに混乱した。ばらばらにされた植物の一断片ずつが皆、炎に燃やされるときの苦しみで悶えた。灰になるころ、とうとうこと切れた。
男の本来の刑期は十年ほどである。それが刑期満了の数日前、怠惰な局員によって手違いの極刑にかけられた。しかしどうせ「シダ刑」に処せられていたような人間なのだからと、この局員は大した処罰を受けることなく、ほんの少しの減俸と注意で職場へ復帰した。彼の失敗はしばらく話の種になり、どうせなら「シダ囚」は皆、殺してしまえばいいという結論すら出た。
「シダ刑」反対のデモは、何度か起きた。けれどもしばらくののち、社会はまたもとのとおりに戻った。男の死は、忘れ去られた。
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