ひびの入った峠 作:奴

 「湿った野原」と「金の川」がその両端にある「ひびの入った峠」は、いずれかへたどり着きたい者にはかならず通らなければならない道だが、ここにひとつの門があった。門は上の穹蒼のもとに、時代に磨された木の柱を鈍く光らせ「広野の人」のまえに鎮座した。二階門である。彼女にはいかにしても門を通るべき理由があるために、まず門を開くよう請わねばならなかった。門の左右は無窮な柵がつづき、しかし峠の荒れた野原は、柵の無窮であるのよりさらに無限に延伸していた。「広野の人」は振り返って、自分の登った道を見下ろした。それはそれとして無際限な道なのだった。「木々の」町は「湿った野原」のそばにあった。

 「広野の人」はまず父母の言うとおりに門に向かって声を飛ばし、またこだまのごとく返ってくる声に開門の請願をすれば、今すこし待つべきよしを頭上の櫓より落とされた。あたりは名も知れぬ草の繁茂する野原と、わずかばかりのティエヌ(註:現地に生育する一般的な樹木)の灌木があったが、彼女は柵に沿い草原を歩いて、門の開くときを待った。

 灌木はほとんど虚構的の大地のうえに視認できた。蕃息し行き場のないために折り重なっているような草が土の茶色を奥に押しこんで、緑な己の、灰色の空の下に鈍く光る姿を風に翻すなかを、所在無げに渡れば、葉の先のすこし硬い感触がくるぶしを弄して土の感触も遠くわからない。心に浮遊するのは草の感触、それを作る風の冷たい内側へと染みる感触、真上で差しているはずの偉大な明かりの幻みたいな光……不意に寝ころべば草の下へ落ち沈んでいく気が「広野の人」にした。

 上の明かりは綿に包まれた宝石のような秘密的の輝きをその人の胸に落として、その人の顔を隠された光輝のわずかに漏れいずるをもって照らし、その人の色のよい肌と艶美な髪を大河の○○石(註:ある種の瑪瑙様の石か)のように映えさせている。いまだ“小さな”を除いてはくれない年ごろの「広野の人」の、まったく無緊張で何かしら虚無性のある表情はそこになお神聖の輝きを原石のごとくに封じこめていた。あるいは、ただある人以外には見られてはならない手紙を、それとわかるよう特別の蜜蝋で封じるように、その人は何か熱っぽい感情を口を閉じることで隠しているらしく見えた。しかしすこし知ってさえいればふだんと違う蜜蝋の意味がだれにでも知られてしまうのと同じことで、「広野の人」の結ばれた口と、足を弄する草の葉の味わいのなかで薄く見せる紅色の気色は、ある人には知られてしまうだろう。この人の心持には、頼まれごとを如才なくやりとおすということのあいだに、会いたい、会って話したい、というような願いが織りこんであった。それがこの人の顔の上に、じき手に入る幸福への喜びとして浮かび、たまに足にまとわりつく草を払いのけるようにすこしだけ靴をわざとらしく前に押し出すしぐさが、御馳走が運ばれてくる前にそわそわと待ちあぐね、わけもなくものをいじるのと似て見えた。これこそがスィクームヒェ(註:当地方の民間信仰における恵みの神)の恩寵かしらと「広野の人」は思った。悧巧にしていればきっと恩恵がやって来る。幸福を与えれば、かならず幸福が返される。

 門はそのうちに開かれる。門番が門の二階から呼びつけるのを聞いてさっと走りだした「広野の人」は、先ほどまで足を取られながら歩いていた草原を軽快に突っ切ってもとの道に戻り、今一度挨拶をしながら門を抜けた。

 草原に帯びる川のごとき山道は、その果てに点ほどになった人影を除いてはひたすら空無で、「広野の人」は手持無沙汰に鼻歌を歌い、ときに踊るように体を回し、気ままに進んだ。空気が粒だっていた。「木々の」町では単にそこにあるものとしてしか感じられなかったものだが、峠を行き、草の香を嗅いでいると、どこか異なる清潔さを覚えた。いや、町に漂う大気には何ら悪いところはないのだが、山を伝い草木をなびかせる風が運ぶものに、どこか特別なところがあるのだった。だからしてこの人は、その美しい香りのなかを、ほとんど飛ぶように跳ねだし、「金の川」に広がる大きな町へ向かった。もちろんそこには、ある人に会えるという喜びを忍ばせて。

 峠は「金の川」の平野に続く。家畜を連れた者らがその緑野を跨いで、あるいは畜舎に帰り、あるいは井戸のほうへ向かうさまを眺めていると、そこではじめて、生まれ育った町とは違うところへ来ているのだという寂寥混じりの興奮が沸き立つ。というのも、「木々の」町はその名のとおりに林業、木工が主の町で、農耕は点々と行われてあるけれど、畜産はまったく発展していないのだった。例の峠を越えて交易するとき、「木々の」者たちはみな、肉を求めて、自慢すべき材木や木製品を差し出した。上質なティエヌの木である。さて、そういうわけで、子どもがひとり行くぶんには何ら艱難もない丘が、それでもなおふたつの町を分断するこの地方において、その一方に住む「広野の人」は、ごく新鮮な心持で家畜らを眺めた。

 訪ねるべき家へ行くまでの、家畜が草をはむ草原の向こうに人が集まっているので、「広野の人」は屋根ばかりがうかがえるところまで来ながら、その人群れのほうへ好奇心でもって進んだ。草は峠に群生していたものと同じ種で、歩いている分に心地よいのだが、人群れに近づくころ、その先では草葉のかおりではない明らかな異臭がし、一帯に朱色が散っているのがわかった。大人たちは「広野の人」を近づけないよう、若干つけ加えたような険しい顔で追いやろうとした。それは慈悲と擁護のためにその人へ向けられた親切心(あるいは、親心)で、「広野の人」もさすがに剣幕に気圧されたけれど、大人たちのあいだから目に飛びこんだ異形の者に、瞬間的鮮烈な脅威としておののいた。草原に倒れ伏し、異臭を周囲に染みるほど放っていたのは神であった。詳細にすれば、それよりも大いなるものが考えられないようなものの配下、使者に当たる天上の者である。当の死体は四つ手、四つ足ではあるが、だいたいにおいてはわれわれと同じ体構造をしていて、大きさは「広野の人」の母「背の高い女」の半分ほど、すなわち、われわれ一般よりは明らかに大きいものの、天上の者が口にするところの「卑しい土の民」のなかでも当の母のようにとりわけ背丈のある者ほどではないくらいの、実に微妙な背格好である。より正確にするとき、死体は切り落としたばかりの百年もののティエヌの木に並ぶくらいであった。

 神の配下としての別なる神と見えるこの死体は、天上の法規の制約するところによって、「卑しい土の民」らは触れられず、また触れた者は恐懼すべき罰でもって代償を払うことになっていたので、またそれを払った「民」はたいてい見えるところには帰っては来なかったので、人群れはただ注視するばかりで、無要な興味に押され、体に遺された魂に呼ばれるかもしれない無垢な子どもらを追い払う以外には、押し黙って悪臭に鼻を潰すか、何かしら感じ取るのであろう、はるか離れた畜舎にいる家畜の怯えを除いてやりに戻るか、老人の語る神を見たのはこれで何度目だという話に耳を傾けるかのいずれかであった。「広野の人」はあまり恐ろしく思われたので、まるで足と心とがうまくつなぎとめられずに互いに違うほうへ行きたがってるような気分の悪さでもって、もと行くはずの家に向かった。しかし望まざる嫌な思い出のせいで、髪の毛は逆立つようだった。ひどい顔つきをあの人に見られるなんて、とも考え及ばなかった。

 家々の連なるこの「金の川」の町の奥でも、神の死は人びとの騒ぎの薪になり、そのあいだをすり抜けていく「広野の人」の明らかなる顔には、同情の声を上げ、一度は老婆に呼び止められた。

 「怖いものを見ちまったねえ」

 「はい。いえ、でもきっと、いや、私は大丈夫よ、おばあさん。ほんのちょっと、神さまの手や胸が見えただけ。それより、においが嫌だったの」

 「ここまで漂うようだね」

 老婆はドニの木(註:現地の一般的な香木)の艶やかなかけらを「広野の人」に与えた。

 「広野の人」はそれから一目散に当の家へ行き、戸をたたく前、ドニのかおりをたっぷりと吸いこんだ。足と心はもとの同じ一つに返った。

 戸を開けたのは「広野の人」が会うのを心待ちにしていた「絶えざる流れ」だった。「絶えざる流れ」は「広野の人」が落ち着いた澄明な顔立ちでいるので、神の死についてはちっとも知らずに駆けてきたのかと判じて、これ以上ない四方山話とそれを切り出したが、その人がドニの木を鼻に当てながら、知っている口を利くので、すこしつまらない気持ちになった。それにどうせなら自分がとっておきのドニの木のかけらを「広野の人」に渡したかったのだが、親切な老婆はいかなる土地にもいるもので、先を越されたのが悔しかった。用事の品を「広野の人」に手渡すと、「絶えざる流れ」はその人の両親の体調かげんを尋ね、とくに母「背の高い女」のことは事細かく聞いた。別に何というわけではないのだけれど、あの異様なまでの背の高さには驚かされるのだった。だが「絶えざる流れ」の口ぶりのどこから見抜いたのか、「広野の人」はすこし嫉妬の顔になってさっさと帰ろうとした。

 「あっ神の近くを通るのは怖いだろう。俺がついて行ってやらあ」

 「いいわよ。私、怖くなんかないわ」

 「広野の人」は気丈にふるまい、実際に「絶えざる流れ」が町の入口までつき添ってくれたときには、つんと澄ました顔をして、自分の母親のいったいどこがよいのかと尋ねるなどしながら、それの伏せる草原のそばをやり過ごした。だが「絶えざる流れ」が別れの挨拶をし、家へまっすぐ帰っていく姿をもの惜し気に眺めた。峠のまんなかくらいまで一緒に行って、ちょっと話をしてもみたかったのだが……。「広野の人」はその草原を見やったときに例の嫌な記憶がちらついて身震いし、ドニのかおりをめいっぱい吸いこんでから、峠に続く道を走って帰った。

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