諸断片 作:奴
遭う人
ここに来るまでにもいろいろあった。冬である。風が痛いほどの都市の冬である。街路樹はまったく葉を落とし、人びとはめいめい厚着して、憂鬱ぎみに黙したまま歩いていく。
一遍は、朽ちた老婆が街路に倒れこんで、行人に介抱された。最後まで目を開けることなく救急車に乗せられる。
一遍は、気の狂れたましらのような男とタクシーの運転手が言い争っていた。男は車輛や街路の花壇を蹴り、怒り猛っていた。そのうち警察が来てなだめた。
喫茶店に入る直前、すぐそばの十字路では事故が起こった。信号を無視した軽自動車が、青信号で入った大型トラックと衝突し、絶望的悲惨なありさまで潰れた。
この三つのできごとはみな彼女のせいだという。彼女が不幸をこのわずかな範疇に呼びこんで、あらゆる不和と災いをもたらしたと懺悔する。事故の現場がちょうど見渡せる街路側の席で、彼女は凄惨なようすに目をやり、うつむくと、ハンカチで目を拭った。涙をこぼしているのか、かたちだけのふるまいなのかはわからないけれど、長い髪の下に表情を沈ませていっさいこちらに視線をくれない。ただ今生百年の罪を一挙に白状しているほどの沈鬱さと不気味な冷静さで、彼女は過去あったことをぽつりぽつり、語った。自分がいる場所の周辺で事故が起こり、いさかいがあり、ときに人が死んだ。行く先々で火事に遭い、知り合いがけがを負った。旅行に行けば現地で地震が発生する、家にいるときも皿が勝手に棚から落ちる、また、動物の死骸をよく目にする、等々。彼女はそれらをわりにはっきりと覚えていて、何年何月何日にこれこれと、歴史を年表にして順繰り読み上げるように、経を読むように話す。メモを取るのは止めにした。あまりに膨大すぎた。
覚えているかぎりで最初の不幸はいった何だったかと尋ねたとき、店の厨房で皿の割れる音がした。それまで店内にあった、抑鬱的な冬を底から温めてくれる雰囲気は、皿が何枚も割れる鋭く激しい音に裂かれた。場が沈黙した。
「あれも」と彼女がつぶやいた。はじめて目が合った。
双子
実際に双子をこの目で見る経験は、そのときがはじめてだったので、新鮮な驚きと感嘆でもってその二人を見た。山間の温泉へ行くバスで、二人は席に座って、何やら静かに話をしていた。急勾配で屈曲した峠道を、ほとんど人のないバスが踏ん張って登る。そのうなるエンジン音に会話は紛れ、私の座っているところまで届かなかった。バスには私と双子だけがいた。暑くも寒くもない日である。
温泉というのも、べつだん整備が成されているのではない池のようなもので、夏が盛れば草木に埋もれ、秋になると落葉が敷きつめられ、冬には雪で閉ざされる。管理する者が一週ごとに掃除へ来るけれど、誰も番をしていない。だいたい無人で、簡易の休憩小屋と温泉が林のなかにあるばかり。だからして、そこへわざわざ足を運ぶのは、もっぱら峠越えのついでに寄ったバイク乗りや偏屈な数寄者である。私が驚いたのは、そこへ若い女の双子が赴こうとしているからでもあった。バスの通る道筋に、若者が住みつく地所はないようにみえた。
何も、単に秘湯と耳にしただけでここまで来たのではないだろう、と考えねばならない。ふつうの観光雑誌には載らないにしても、調べればすぐにその全貌が知れるくらいには名の知れたところである。写真をどう撮っても殺風景で、ひょっとすると温泉とは思われない。そこへぜひとも行こうとなれば、万が一の危険を想定するし、何よりまず満足できるほどのものかと考えあぐねる。道後とか草津とかに行くほうが明らかに賢明である。
しかし双子は、その温泉の最寄の停留所で降りた。私も降りた。バスでも三十分はかかった。引き返すバスが来るのは二時間先である。温泉はそういう場所にある。
双子は、秘湯と言うにしてもすこし粗末な、とはいえ好奇心を揺さぶられるそこへ、林を分け入って入る直前、ずっと時機をうかがっていたというふうにふと振り向いて、私に挨拶した。
「こんにちは」
私はできるかぎり善良さを示したいばかりに、自分にはいっさい犯罪的の思惑がないことを暗に言いたいがために、嘘くさいほどの声で「こんにちは」。
二人はすぐに二人きりの会話へ戻った。このときようやく二人の声をはっきり聞いたのだが、まったく同じ声色のようだった。
双子とはこれほど見分けのつかないものかと思う。二人のあとから休憩小屋に入ると、私は二人に先に温泉へ入らせるつもりで、そこの椅子に座りこんだ。双子は小屋のなかをぐるりと見渡し、相手の次に言うことがわかっているように口々、話す。笑う箇所、ふるまいは違うところがなかった。ほんのわずかな語らいであり、二、三のしぐさを観察しただけであっても、単に容姿が同じであるという範疇を超えた、ややもすると不気味なくらいの同一さが、二人に見て取れた。私はだんだん自分が化かされているのではと冗談めいた空想をした。
その日、私が人の来ない森閑とした温泉を訪ねたのは、このすこし場違いなくらいの双子にいざなわれ、そのまま神隠しに遭いに来たということではないか。温泉に浸かったつもりが、底なしの深淵へ引きずりこまれるのではないか。双子の笑い声は、今に私の命を奪うぞ、という高笑いかもしれなかった。
ぼんやり外の木々を見ていると、双子は私の背後に設えられている小さなロッカーで荷物を引っかき回していた。そこで一人が、思いがけず声をかけてきたので、先刻の妄想をむやみに広げていた私は心臓の打ち方が早かった。
「私たち、しばらく入るつもりですから、気にせずにごいっしょして構いませんよ」
「はあ、でも悪いですから待っときます」
「本当に、お気になさらずに」
とうとう双子はそこでいっさい服を脱ぐと、さっき入った入口とは別の、温泉のほうに向いている引き戸から出ていった。ではお先に、と姉とも妹ともわからない双子の片方が会釈する。
むろん待てば時間がかかる。空想するほどのことはもうない。景色を眺めるにしても単なる山林である。温泉がなければ見るほどのものではない気がする。鳥は鳴いていた。何の鳥かは知らない。私は決心した。
双子は何ともなく私を迎え、世間話をした。湯は悪くなかった。まずまず熱くて、澄んでいた。ただ入って見れば、写真で見るよりもわりに浅く、みぞおちくらいまでしかなかった。湯に入っていても見るほどの景色はなかった。だから双子との話ばかり覚えている。
二人のなかでまるで違う部分はあるのか。どこもかしこもまったく違う。体型が同じで、服を取り換えっこできるくらいだ。古い写真にまったく同じ服装のふたりが並んでいるとして、見分けがつくのか。必ずつく。二人には両親にも理解できない、しかしはっきりとした異なりがある。趣味や、考え方や、人づき合いなど、食い合わないものは挙げればいくらでもある。ところで、温泉はどちらが発案したのか。二人で決めた。行ってみたい場所が偶然、重なったのだ。
その日はうまいぐあいに日ざしがあって、風はぬるく、ほとんど吹かなかった。鳥の声がした。その下で、私と双子との会話が枝葉のなかへ溶けた。半身が出ているせいか、のぼせる感じはなかった。そのせいでだいぶ長湯した。
「でも木に覆われてて、露天風呂っていうふうでもないね」
「ね、でも落ち着く。来てよかったね」
双子は同じときに同じように手を後ろにつき、上体をななめにして林冠を見上げた。上半身の乾いた白い肌や乳房に、葉から漏れた日の光の斑が散っている。まさしく瓜二つの、まったく同じ体をしていた。
私は温泉を出て、小屋に戻った。バスの来るすこし前にもう一遍、入り直した。双子はずっと温泉のほうにいて、ときおり、筵を敷いた腰かけで、睦まじく談笑していた。
名前も知らない二人だった。
三十日
年の暮れ、ひどく冷えこんだ日が幾日か続いた。その最後の日である。翌日はもうすこし暖かい予報であったが、その印というように、風が強く吹いて窓を揺らした。家全体までもが揺れていたかもしれない。夫はどうにも寝つかれなくて、床について三十分ほどして、何の気なしに妻へ声をかけた。妻はもうずいぶん前から布団のなかで静かだった。
「おい、起きてるか」
「何」不機嫌な声である。
「いや、眠れなくって」
「どうでも、寝てください。あすも仕事でしょう」
「うん」
しばし沈黙した。眠ればよいのだが、まず眠たくならなかった。
「おい」
「何」
「風が吹くね」
「そういう予報だったわよ」
「予報されたから吹くなんてことはないと思うけど」
「理屈はいいから眠ってください」
「うん」
蓄光塗料のついた時計の針と文字だけが、真っ暗な室のなかで人魂のように光っている。針が一分ごとに動くのを眺めながら、眠気を待った。なかなか来なかった。
「おい」
「何」
「内閣は、K総理は、どうなるだろうね」
「いいから寝てください」
それで夫はようやく眠った。風はあった。
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