Ⅲ-1
モーツァルトもグールドが弾くとバッハのように聞こえる。というより素材がどうあろうと、いかなる時でもグールドはグールドなのだろう。あいつの絵もこんな感じなのだろうか。どんな題材を描いた絵であろうとも、あいつはあいつ。そもそも画家というものは、そういうものなのかもしれない。その点、音楽家というか演奏者は融通が利く。
モーツァルトはモーツァルトらしく、ベートーヴェンはベートーヴェンらしく、表現方法を変えていくこともできる。作曲者や曲の表現を優先させ、それに演奏者なりの解釈を加える。グールドは例外中の例外なのだろうか。グールドは自己を表現することしか考えていないように思えた。曲はあくまでも素材。それゆえ自己を表現できない素材は使わない。演奏者としては変わり者。そして多分画家も変わり者なのだろう。いつも同じ服を着て、下着さえ取り替えているのかわからない。ひたすら自己の表現に没頭し、寒く暗いアパートで格闘している。
あいつも変わり者だったのか。僕はあいつのことを典型的な専業主婦と思っていた。実際あいつは僕の前ではずっとそうだった。そして多分僕のいない時でも。あいつは変装をしていたのだろうか。でもどうしてそんなことを。
「あなたのことが好きだから」
あいつの声が聞こえたような気がした。僕には信じられない。
結婚とは契約のようなもの。究極の妥協の産物。愛し合っているなんてことは嘘っぱち。一時的な気の迷い。誰かに押し付けられた義務のようなもの。
僕は実感していたんだ。もちろんそれで十分だと思っていた。そして何よりも、そんな関係が壊れてしまうことが怖くてしょうがない。どういうわけか僕もあいつと同じように厚着をして、毛布にくるまり寒さに耐えている。自分がすべきことは何なのだろうか。そんなこと考えてみたところで何も思いつくはずもない。ひたすら家と職場を往復する毎日。そのことで自分の生活が支えられている。今さらそれを変えることはできない。
ジンとベルモットがなくなりはじめていた。これを買ってきてから一年が過ぎている。本当は体に良いからと買ったわけではない。それはまちがいなくあいつがいなくなったせい。
「心配しなくても大丈夫だから」
あいつの実家に電話した時に、実家の母親にあいつがそう言っていたと聞かされた。そのうち時間が解決してくれる。実家の母親も僕もそう思っていた。あいつは何を望んでいたのだろうか。
ケータイが鳴っていた。
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