Ⅱ-6
あいつは意外と近くに住んでいた。散歩の時いつも渡る橋を越えて少し行ったところ。人通りがほとんどなさそうな、古びた倉庫や工場が点在する住宅地にある古いアパート。まわりの景観にすっかり溶け込んで、昭和という時代が染みついたまま放置されている。そんな匂いがした。
ドアを開けると絵の具と油の匂い。部屋の中には擦り切れた絨毯が敷かれ、そこらじゅうに絵の具や油のシミが点在している。キッチンのせまい空間以外は画材が無造作に散らばっていて、絵を描くときに使うエプロンが吊るされていた。
僕はそんな画材を避けながら恐る恐る部屋の中を歩いていく。
「そのへんのイスを使って」僕はあいつにすすめられるまま、近くにあったラワン材のまるい椅子に腰を下ろした。
「学校の美術室にあったような椅子だね」
あいつは僕の言ったことには答えず、キッチンでお茶の用意をしている。
「どこに寝てるの」
「奥の部屋にソファーが置いてあるの」
奥の部屋は襖で仕切られていて見えなかった。キッチンからコーヒーの香りが漂ってきた。僕がキッチンのほうに目をやると、あいつがマグカップを両手に持って歩いてくる。僕がカップを受け取ると、イーゼルの向こうに置いてあるイスを持ってきてぼくに向かい合ってすわった。
「店に行ったんだ」あいつがコーヒーをすすりながらそう言う。
「すごいね、あのおじいさん」
「あたしの師匠なの。今はほとんど描いてないけど」
「あそこにいると落ち着くの」
「あそこにはずっと通ってたの」
「学生の頃からね」そう言ってあいつが笑う。
「あなたの知らないあたしかな」
「でも結婚してからは絵は描いてなかった」
「おいしいね、このコーヒー」
「おいしいでしょう」
「本当にお前がいれたの」
「そうだよ」
「そういえば家でコーヒーなんて飲まなかったよね」
「そうだね。あなたはいつも一人でおいしいコーヒー屋さんに行ってたでしょう」
「ねえ、あたしの知らないあなたってどんな感じなのかな」
「そんなに変わらないと思う」
「そうだよね。わかってる」
「ねえ、絵見せてよ」
「どうしようかな」あいつはちょっと意味ありげに笑った。
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