Ⅰ-10

 何を今更なんて思いつつ、ベッシー・スミスのLPを聴いている。小さめのグラスでジンとベルモットをチビチビとやりながら。

 まだ学生だった頃、家の近くに中古・輸入盤店ができた。定年後にクラシック通のおじさんがはじめた店。僕はそこで今聴いているベッシー・スミスの二枚組のLPを買った。実を言うとこのレコード、一度くらい聞いただけでずっと放置したままだった。最近急に聴きたくなって、レコード棚の隅のほうから引っ張り出して聴いている。シッピー・ウォレスを知ったせいかもしれない。

 おじさんはクラシックが専門だったけれど、お客さんに影響されてジャズやロックの輸入レコードも置いていた。逆に僕はおじさんに影響されてクラシックのレコードやCDを聴くようになった。R&Bやソウルを聴くようになったのもおじさんの店に通うようになってからで、店で過ごす時間は当時の僕にとってこの上なく刺激的な時間だった。

 過去を振り返っているわけではない。家を出ていったあいつとはまるで関係がない。どういうわけか、会社の友人からあいつを見かけたという話を聞いたとき、何故かあの頃のワクワクしていた日々を思い出した。

「お酒飲んでるの」

 エリコが僕の部屋を覗きこんでそう言う。

「いっしょに飲む」

「やめとく。邪魔しちゃ悪いし、それにそのお酒強いんでしょう」

「ギムレットとかいうんだよね」

「ギムレットじゃないよ。ギムレットはジンにライムジュースを入れたやつ」

「アメリカの探偵さんが飲んでたんでしょう」

 確かにそうだけど、フィリップ・マーローは実在の人物じゃない。それにしても、今飲んでいるものは、何て名前をつければいいんだろう。マティーニもどきでもなあ。エリコは自分の部屋に戻ったようだ。

 シッピー・ウォレスは、ボニー・レイットが彼女のデビュー作で取り上げていたブルース歌手。ベッシー・スミスほど有名ではなく、ボニーによって再発見されたといってもいい。

 ベッシー・スミスが終わったので、ぼくはボニーのデビュー作をプレーヤーにセットした。シッピーの曲を含むラスト三曲は僕のお気に入り。

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