第234話 あなたしかいらない
20時、ペーパームーンではお酒の提供が始まり、ざわめきの色が濃くなる。
ポロポロとこぼれる涙を、そのままに、友里は優の胸の中にいた。
「わたしがむきになって離れたくないって言うたびに、まるで離れたら、別れるって言ってるみたいで、優ちゃんは不安だったってことだよね?」
友里がどこか遠くを見つめて言うと、優は、すこしだけ悩んだ後、頷き、友里の髪を撫でた。
ズズッと鼻をすすって、友里はハンカチで顔を拭いた。お化粧をしていたことに気付いて、今、自分の顔がどんなことになっているか、確認するのを少し怖がったが、村瀬が、ホットタオルとメイク落としシートを、テーブルに置いて、なにも言わず帰っていくので、友里は、やはり我慢しきれず、洗面所を借りて顔を確認した。
アイラインが落ちて、タレ目がいつもよりパンダになっていると、戻ってきて、優に怒って言う。
「もう!優ちゃんは、なんでも肯定しすぎ!こういうのはちゃんと言って、恥ずかしいから」
「友里ちゃんは、どんな時でも、いつでもわたしにとって特別かわいいよ」
「それは、わたしの優ちゃんへのせりふ!」
「友里ちゃん、ごしごししちゃダメ。赤くなっちゃうから。ほら」と言って、優は、友里をそっと自分の腕の中へおさめ、メイクシートで顔を撫でた。優にふんわりと撫でられて、友里は最初、恥ずかしさからバタバタと暴れていたが、おとなしくなり、なすがままになった。ピカピカの頬に、そっと優がホットタオルを当てると、沁みたようで震える。
「んっ」
優は、友里の声にはからずもドキリとして、申し訳なくなり、友里から顔を背けた。
「そうだ、わたしも紀世さんから、クリーム貰ったから……」
優が学校のかばんから取り出したクリームを、長い指先で友里の頬に塗る。しっとりとゆっくりと触るので、友里は、とろんとして、優を見つめた。
「優ちゃん」
「ん?」
「呼んだだけ」
「……!」
優がパチパチと瞬きをして、赤い顔をして目を伏せた。そしてもう一度友里を見つめるので、友里も優をじっと見た。──キスをすれば、わだかまりが解けてしまう気がして、2人して、みつめあったまま黙り込んだ。
隣に座っていたサラリーマン風の男性が、新聞をバサリとたたみ、ふたりでびくっとした。
「おちつきました?」
「村瀬」
「なんすか、L字ソファーへ案内しただけ、感謝してくださいよ!」
食器を片付けに来た村瀬に問われて、優は店内を見渡した。ソファーの周りはレンガ壁で仕切られていて、観葉植物があり、コの字のボックスになっている。前の席は、カウンターになっていて、振り向かない限り、L字ソファーの中で何がなされているかは、まるで見えない。確かに死角になりやすい位置だが、カウンターの中の村瀬には、丸見えだった。
見守られていた気がして、しばらく睨んでいたが、友里はコクコクと頷いて、メイク落としシートなどのお礼を村瀬に言っている。しばらく村瀬と友里は、バイトのスケジュールの確認をしあっている。優はそれを聞きながら、この日も思い出になるのかなと、思った。
友里を見つめる。友里は、それに気づくとふわり笑った。しかし、悲しそうな目で優を見つめていて、今、問いかけるのは怖かった。
(解き方を間違っていることだけはわかるんだけれど……)
答えが出ない方程式を解いているようで、優は胸にわだかまりを抱えた。もしかしたら前提条件が間違えているのかもしれないが、それを探ることは、今の優の力量では、マイナスの答えしか導き出せない気がした。
ふたりで手をつないで喫茶店を出ると、彗と芙美花が駐車場で待っていて、ふたりは誠心誠意、謝罪した。芙美花はいちど、会社へ行くことになり、彗のSUVに乗って、駒井家に帰宅することになった。
「ねえ、友里ちゃん、ふたりで行ったことがない所へ、行ってみない?」
「?」
「そういうのは土日の朝からにしないと、もう寝る時間だよ」
運転席の彗が、保護者の顔でそう言った。残念そうにしている優を見て、友里も、優が突然言い出した言葉にドキドキしていたので、仕切り直しにがっかりした。優と行ったことがない場所と言って、思い当たる節がひとつだけあった。淑女の優とは、あまり近づかない場所だ。
「ゲームセンター!プリクラだけとってみたい!」
落ち込んでいた友里から出た言葉だったこともあり、妹に甘い彗が、30分ぐらいなら大丈夫でしょうと言って、帰り道からは大きくそれるが、病院の傍にある、大型アミューズメント施設へ向かった。
昔、昼間に友里の母に連れられて、ボウリングをしたことのある5階建ての施設で、友里はプリクラの機械だけがずらりと並ぶ階に優と降りたのははじめてだった。
制服姿の優にハッと気づいて、補導されてしまうかもしれないと思い、ドキドキしたが、わりと他校の生徒たちもいて、優を見てきゃあきゃあ言い出したので、友里はササっと適当な機体を選び、優をカーテンの奥へ押しやった。
友里が知らない機械に唸っているうちに、優が説明書を熟読して、お金を投入して、あっという間に1回撮ってしまう。美肌で美しく撮られたが、友里はポーズを決めたい!と優にお願いして、もう一度撮ることにした。
「思い出話で思い出したんだけど、前に高岡ちゃんと優ちゃんが撮った写真があったの。ふたりで並んだ写真、大阪で撮ってもらったけど、ああいうのじゃなくて、こういう、遊び心いっぱいなの、撮ったことないなあって思って」
「友里ちゃん、いつだって被写体に自分は、いらないって言うじゃない、珍しいね、これも、はじめてをわたしにくれる一環かな」
優を見上げる。優が穏やかに微笑んでいて、友里はドキリとした。
「だって、ふたりで行ったことがない場所、なんて優ちゃんが言うから」
友里は、胸が高鳴った。自分では思いもよらない出来事や、優の仕草にドキドキすることは毎日だったが、新しい刺激に、楽しくなるのは、久しぶりの感覚だった。
「せっかくだから、友里ちゃんを、切り取られない構図がいいな」
カーテンの中で、優は友里を抱きしめた。友里がドキリとして、戸惑っているうちに、優は友里に口づけをした。
「ん…っ」
パシパシャっ。シャッター音がして、友里は瞳を見開いて、優を見つめた。伏せていた瞳が友里を捕らえて、ドキリと心臓が鳴った。長いまつげが友里に当たって、解かれた友里の長い髪の中に優のしなやかな指が絡むように入り込み、友里の後頭部を撫でて、もう一度深くキスをした。友里は、くすぐったくて、声が出てしまう。
「わー!!だめ、だめ!」
友里が慌てて、優の顔をぐいーっと遠くへ引き離し、カメラに手をのばす。他にも何枚も撮られたが、優は友里の制止を聞かず、一連のキス写真を現像した。
「どんな風に撮れた!?」
駐車場で待っていた無邪気な彗は、「俺10年は撮ってないなあ」などと言いながら、ふたりに問う。友里は最初に撮った、無難にふたりが並んでいるものだけを彗に見せて、キス写真は、優の学校かばんの中に押し込んだ。
「優ちゃんって、時々そういう……はっちゃけたことするよね?!」
「嬉しい」
無邪気な優に、友里はグッと息をのむしかできない。
「優ちゃんが、嬉しそうで、嬉しいけど」
彗のSUVの後部座席で、防犯カメラがどうとか、友里がぶつぶつと言うので、彗が心配そうにバックミラー越しにみたが、優は大事そうに、友里が鞄の奥へ押し込めたキス写真を取り出して眺めているので、ホッとしたように運転に専念している。シールがシースルーなので、彗に見えてしまう気がして、友里は、優ごと手で覆って、隠す。
ふたりで、行ったことがない、したことがないことを、した気がして、友里も優もすこしだけ、胸が高まった。
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駒井家に戻り、友里はお風呂へ入って、優も家族風呂へ入ると、ふたりしておなじくらいの時間に部屋に戻ってきた。
無言で、寝支度をして、友里は優を、自分のベッドへ呼んだ。
「優ちゃん、あのね、聞いて」
友里は、ペーパームーンでしたように、優の手を握って、優が大好きという意味を込めて2回ぎゅうぎゅと握った。
(優ちゃんが大阪へ行けって言うのは、わたしを心配しすぎてのことだってことは、わかった)
友里は、優を見つめた。紺色のパジャマを着て、背筋がピンとしている。黒曜石の瞳が、洗ったばかりの髪の隙間からキラキラと友里を熱っぽい瞳で見ていた。誰にも向けないその表情を、友里は、本当は、昔から見ていて、その優に恋をしたことが、いたいほど鳴る胸の鼓動でわかった。
優は友里を思って、父親との確執をなくせといってくれてること、それが友里に解決できると信じていて、協力を惜しまないといってくれているのも理解していた。けれど友里はどうしても、優と離れたくなかった。
優ならば、離れなくても解決の糸口を探せそうなのに、友里に大阪へ行けと言うのは、友里がそばにいなくても、優は心さえつながっていれば生きていけると、友里に知らしめようしとしてるのではないかと思っていた。
「友里がそばにいないと優が声を出せなくなる」、「優のためにそばにいてあげて」と言われることに、友里自身、少しの優越感に浸っていたことに気付いて、友里は、羞恥に震えていた。
(わたし何様なの?)
「だからねっ、優ちゃんに、真の意味で必要とされる人間になりたいの」
「……なんのはなし?」
優はポカンとして、友里を見つめた。その表情は、友里が幼いころから、よく見ていたものだった。優が、本心から友里のことが分からないという顔だ。ここから友里なりに一生懸命に説明をして、優が(なんだかわからないけれど面白そうだな)と瞳を輝かせるまで、すこし大変なのだが、手を引っ張って外へ連れ出す、そんなことを何回もしてきた。
(優ちゃんには、結構迷惑をかけているのに、本当にどこを、好きになってもらえたんだろう……)
しかし、友里にはそんな自分しか、上手く表現することが出来なかった。
じっと優を見つめ、グッと息をのむ。
(開戦だ)
狼煙が、あがった気がした。
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