第233話 思い出の地
平日のペーパームーンは教習所の客で込み合っている。18時少し前、友里は芙美花の車から降りて、ひとりで喫茶店へ入った。
きょろきょろと優を探す。いつもなら、勉強をしている麗しい優が、先に顔を上げて、友里に手を振ってくれる。周りの景色は光の中に消えてしまって優しか見えなくなるが、今日は、内装がしっかりと分かり、下宿募集の張り紙に、小さく「満室」というテープが張ってあった。
茶色いL字になっている皮張りのソファー席に案内されて、友里は流れるジャズを聴いた。ひとりでいると心細く、19時を過ぎても優は現れなかったせいもあった。スマートフォンをとりに一度、駒井家に戻ればよかったといまさらに思った。
ドアが開くたびにそちらを見る。ひとり、また違う。団体客が来て、友里は心細くソファーに寄り掛かった。空調が心なしか寒い気がして、優との待ち合わせ場所は、やはりここではなかったのではないかと思った。
駒井家に戻ろうと思った。その方が、確実だし、なにより安心する気がした。
ソファーの皮をギシリとさせて、友里は立ち上がった。
ベルが鳴って、ドアが開いた。何人目かの来客に、いらっしゃいませと声が響く。
優がそこにいて、ハアハアと息を切らしている。制服姿のまま、ズンズンと友里の方へ歩いてきた。淑女らしからぬ大股で、ソファーに膝をかけると、立ち上がりかけていた友里を抱きしめて、優のカバンが、床に落ちた。
「ごめん」
「わたしも」
「友里ちゃんは、謝らなくていい」
「……」
優にはっきりと怒られて、友里は無言で優の胸の中に沈んだ。
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抱きしめられている状況にすこし照れが生じてきた友里の前に、注文もしていないのに、青いクリームソーダが置かれて、優の肩越しに見ると、村瀬がパチンとウインクをした。村瀬を一瞥もせず、壁際に友里を隠し込むようにして抱きしめている優の前には、暖かい紅茶の入ったティーポットがカラのカップと共に置かれた。セルフサービスだ。友里は、大盛りのソフトクリームを前に、しかしこの雰囲気の中で飛びつくわけにもいかないと思っているのか、食べずにじっとしている。
彗が言った「まんまるのままでそばにいなよ」という言葉を、優は思い出す。(丸は接地面が少ないな)と、優は思った。いつまでも友里を抱き締めていたいが、それでは友里の喜びを奪う。優は名残惜しい気持ちで、友里を離した。
「友里ちゃん、どうぞ、たべて」
「でも」
「ううん。離れないと、友里ちゃんの笑顔が見れないから」
優が言うと、友里は照れ隠しのように、髪を指先で撫でて、まっすぐおろしていた髪を、結おうとするので、優が慌てて止めた。
「すごい素敵だ、いつもかわいいけれど、見違えた」
自分が知らない場所で相手が綺麗になっている気持ちを、以前、キヨカが恐ろしかったと言っていたが、優は友里にただ見惚れていた。
「あ。芙美花さんが全身ピカピカにしてくれたから。普段の自分じゃないみたいだから、あんまり褒めないで」
友里は、ようやく溶け始めたソフトクリームに手を伸ばした。甘さに微笑む姿を優はじっと見つめた。5月だというのに、連日猛暑で、今日も真夏日が連続記録を伸ばしていた。夕方でもまだ暑い。
「優ちゃん、ここってわかるまでけっこうかかった?わたし全然思いつかなくて、ふたりの思い出の場所がたくさんありすぎるよね」
早口の友里に問われて、優は、勢いで学校を無断欠席したことを白状して、芙美花が友里を連れまわしそうなところを、歩き回った件を、友里に告げた。
「淑女な優ちゃんが、サボるなんて!」
「友里ちゃんこそ、欠席させてごめんね。そして、待ち合わせに遅れてごめん。これでも彗にいのおかげで、早く帰ってこれたほうなんだけど」
友里の言うとおり、確かに、優は無断欠席をしたのは初めてで、自分が見境なくそんなことをしでかしたことに、自身でも驚いている。18時になれば、友里に逢えるとわかっていたのに、なぜか体が、動いてしまった。
「まさかサロン巡りとは思わなかった。紀世さんのお見舞いは、すこし考えたけど、それより空港に行かなきゃって思って……」
「──18時待ち合わせが、ヒントになったの」
「わたしもそう。最近、ここでしかデートしてないものね。あまり最近だから、「思い出」と言われてピンと来なくて。──ここも、思い出になっていくんだね」
「うん♡」
笑顔で、友里が頷いて、優もいつものように笑い合ってしまう。なあなあにしてしまいそうで、そうではいけないと思い、優は口を開いた。友里が手を伸ばして優の手を握った。L字のソファーに横になって座っているふたりは、見つめ合った。
優が友里の濃い蜂蜜色の瞳を見つめると、薄化粧が施してあった。薄いピンク色のグラデーションをした目元を細めて、友里がぎゅっと2回、優の指を握った。
「あのね、嫌な気持ちは一切ないよっていう約束。優ちゃんに悪い気持ちは、全然ないから、安心して話して」
深夜のうちにたくさんの悪い感情や、友里との関係が悪化するのではないかと悩みつくした優は、友里にそう言われて、自分のことなどお見通しな恋人にどきりとした。手汗が滲みそうで体がこわばった。
「あの」
「うん」
「友里ちゃんが、大好きで」
「……!うん」
友里が、今聞いたみたいに驚くので、優は眉をしかめた。
「本当だよ?友里ちゃんしか、好きじゃないんだ」
「う、うん、わかってるから」
優は、本当にわかっているのか友里に問いただしたかったが、口を開いた。
「空港に行ったのは……、友里ちゃんと、はじめて感情をぶつけ合えた場所だと思ったから。淑女だと、言われるたびに、本当の自分をわかって貰えてないんじゃないかとか、不安を、勇気に変えてくれた場所だったから」
「優ちゃん」
友里は、ソフトクリームが沈んでいく青いソーダ水から手を離して、優を見つめた。
「わたしほんとは、手芸屋さんのそばの神社かなとか思ったの。まだ付き合う前で無自覚だったけど、たぶんあそこが、優ちゃんのことを、すごく好きで好きでたまらないと気付いた場所」
優は驚いて、友里を見た。優にとっては、なぜ泣いて逃げたのかわからず、とにかく友里を連れ戻さねばと躍起になっただけの場所だった。
「なぜか友里ちゃんは、わたしが高岡ちゃんを好きだと思ってたアレ?」
「並んで歩いていたんだもん!でも、今考えたら、優ちゃんのことを友達だと思ってたら、そんなことで動揺しないよね」
友里が赤い顔で優を見つめる。
「優ちゃんだって、好きじゃなかったら、泣いてるわたしを、追いかけたりしないよね」
「うん」
ぎゅっと手を握り返して、優は友里をじっと見つめた。お互いに見つめ合って、しばらくして、机に視線を戻した。
「お互いにぜんぜんちがったんだ」
「今日なんか、スマホがなければ、すれ違ってたね」
くすりと笑いあって、お互いの好きを確認しあったようで、くすぐったい気持ちになった。
「でもほんとは学校だよ、だって、優ちゃんが放課後15分なんて言うすてきなデートを毎日用意してくれてるんだもん」
「15分と言わずもっと一緒にいたい、という気持ちが強くて、学校は最初に候補から外れちゃった」
「えー!」
しばらく思い出話に花が咲いて、ふたりは、けんかの仲直りを忘れてしまっていた。悲しいすれ違いになりそうで、優も友里も、口に出したくなかった。けれど、優が観念して、友里に謝罪をした。
「友里ちゃん、一昨日の夜は、ごめんね。ネグレクトだとわかってるのに、全員に祝福されたいと思ってしまって」
「……ネグレクトってなに?」
友里が首をかしげた。要約すれば、育児を放棄する親のことだと優が告げると、友里は、「うちの親だ」といって驚いた。
優は、友里の家族と自分の家族が、友里を手元に残してくれたことを、心から感謝している。
「その放置状態は、わたしの我儘のせいでそうなってしまったのかもしれない。友里ちゃんのご両親が、友里ちゃんを愛しすぎて、そうせざるを得ないほど追い詰めたのなら、友里ちゃんを返さなきゃと思って……。離ればなれになっても、わたしの気持ちは変わらないから」
「……一個一個否定したいけど、黙って聞いてるね」
友里が、ぎゅと手を握るので、それでも好きだよと言われた気持ちになって、優は困ったようにコホンと咳払いをした。彗に慰められた言葉を後ろ盾に、言葉を紡ぐ。
友里がどこかにいると思うだけで、安心する。2度と逢えないわけではなく、数年経てば、誰からも祝福されるというのなら、耐えられると優は説明した。
「友里ちゃんとの結びつきが、強固だと信じているからこそ、送り出せるし、友里ちゃんが「離れたくない」と言うほど、わたしを信頼していないのかとも思う。もしかして、離れたら、別れると友里ちゃんこそが思っていて、不安だから、行きたくないのかな……って」
両手で優は友里の手を握る。
「悲壮感も、麗しいね優ちゃん」
「もう、真面目に答えてよ」
ふざけて言う友里に、優は困った顔で答えた。友里の緊張が、ピークに達していることが伝わった。
「だから、友里ちゃん。友里ちゃんが何のわだかまりもなく、わたしと東京で暮らしてくれるなら、それで嬉しい。でもなにか心にひっかかるのなら、大阪に行ってみたらと思ったんだ」
ポロポロと友里の目から涙が落ちて、友里が「あれ?」と言った。
「友里ちゃん」
優は、友里を抱きしめた。
止まらない涙に、友里は戸惑って、優の胸の中に顔をうずめた。
優は、壁に友里を隠すように、抱きしめた。
「泣かないで」
友里の耳にささやいて、優が言うと、友里はしばらく、しくしくと泣いた。
「一緒にいたいよ、でもわたしのせいで、壊れた友里ちゃんの日常を、全部友里ちゃんに返したいって、ずっと思っている。高岡ちゃんも、お父さんも、あの事故が無ければ、当たり前にあったものを、全部」
「それは、優ちゃんだもん」
「え」
「優ちゃんが、いるのが、全部なの。だから優ちゃんといられたら、それでハッピーエンドなのに」
それだけ言うと、友里はまた涙をこぼした。
優の胸にジワリと、友里の涙がにじむ。優の胸で泣いてくれる友里が戻ってきてくれたことだけで、優の胸が高まった。
けれど、泣かせたいわけではない。
(全部捨てて、わたしと生きてと言えたらいいのに)と、優は自分自身に思った。
友里は喜んで付いてきて、本当に優だけになってしまう気がした。そんな友里を容易に想像できてしまう自分にも、落胆する。優とふたりだけの日常は、本来の友里ではないと、やはり思ってしまう。
(わたし以外に好きなものを作ってという気持ちは、高岡ちゃんに怒られるけどやっぱりそう思うんだ)
「この悲しいのも早く思い出にしたい」
友里がしゃくりをあげながら言った。
「『あのとき、優ちゃんに、嫌われたって思ったの、でも、そんなことなかったんだね』って笑い話に」
ポツリと友里が言うので、優は友里の髪を撫でた。
「嫌わないよ」
「──もう、わたしのことが、いらない?」
「大事だよ」
友里が言うたびに、優は友里をぎゅうと抱きしめた。友里のまんまるの心を潰しているのは自分かもしれないと思い、優も悲しくなった。
キスをしたくなって、友里に唇を寄せたが、さすがに喫茶店の中だと友里に唇を押し戻されて、これだけ抱きしめ合っているのに、今更だなと優は思い、顔を上げた。
村瀬と目が合って、優は顔をしかめた。
「いや、俺は悪くないですからね?!」という、村瀬の声が聞こえた気がした。
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