第222話 バレエスクール

 羽田バレエスクールの白いドアを開けると、すでに柏崎ヒナがいて、友里は駆け寄った。羽田先生と、葛城先生、それから高岡が友里を出迎え、ヒナも赤い顔で小さく手を振った。

「バストラインを埋めて……うん、なんとかこぼれおちないかな!?」

 友里が1分で着替えて更衣室から出てくると、ヒナにレンタルのレオタードを着つけた羽田が、ぶつぶつと呟き、網で出来たベージュ色の上着をかぶせて、頷いた。

「ちょ……っとこういうハムを思い出します」

 推定Iカップのヒナが、ぐうと唸って、鏡を見ながら胸をおさえた。腰の細さに、友里は驚愕する。2kg落とす約束は始まったばかりだ。

「今日は柔軟にしましょう、最初から飛ばして、バレエが嫌いになっても寂しいし」

 高岡が言うと、ヒナは、こくりと頷いて、高岡と友里の間に入って、見よう見まねで柔軟を始めた。(嫌いになる以前の問題というか)この場で、高岡と一緒にいる為と知っているのは友里だけで、友里は何とも言えず、とにかくヒナを応援するしかなかった。


 最初はついてこれたヒナだったが、だんだんと、頭にはてなが浮かぶ顔つきになっていく。友里と高岡の体がぐにぐにと曲がって、ありえない方向へ向かうたびに、おもわず「え!?」だの「うそでしょ!?」だのと言うので、高岡も友里も思わず噴き出した。

「ヒナ、少し休みましょう」

 高岡がそう言って、全身から滝のように汗をかいているヒナに、スポーツドリンクの入ったボトルを渡す。ボトルもひとりひとり購入してもらうリストに入っていて、ヒナは出費に少しだけ、くらりと眩暈がする。がぶがぶと飲み込んだ。

「レオタードにジャージ、靴も全部レンタルでいいわ。でもこれは口をつけるものだからイヤでしょ、800円ぐらいだったかな」

 そう言われて、ヒナは初めて、高岡のボトルから飲ませてもらっていることに気付いた。すこしむせて、友里に背中をさすられる。

「ゆ。友里!言ってよ!!」

 好きな人との間接キスに戸惑う気持ちがありありとわかる友里は、職人のように、うんうんと頷くばかりで、ヒナにとって助けにはならなかった。

「ごめんなさい、用意しておけばよかったかしら」

 気付いていない高岡が、困ったように眉を寄せた。

「う、ううん強引に飲んだから、変なとこに入っちゃって」

 ヒナは言い訳のように嘘を重ねる。

「そうだ、高岡ちゃん、ちょっと踊ってみせたら?ヒナちゃんもバレエの魅力をもっと知ってほしいし」

友里が、パチリとヒナにウインクをする。高岡は、今度の羽田バレエスクールの発表会で、ロミオとジュリエットのジュリエットを踊ることになっていた。

「ロミオは誰がやるの?」

「羽田先生の息子さん、3児のパパ」

壁に貼られたポスターを、顎で指し示す。高岡は少し恥ずかしそうに、練習中なのと言いながら、羽田先生に許可を取りに行った。

そして羽田先生が、音楽を流して高岡を後押しする。練習着のまま、高岡はジュリエットとロミオの後朝の別れを踊った。

「ジュリエットは、ロミオが感じているような、悲しい死の気配は何も気付いていないないの。初夜が嬉しすぎて、愛おしい人と少しでも長く一緒にいたくて、見送る喜びにあふれていて。でもロミオが、ここにいたら死ぬからかえりたい、って繰り返すからやっぱり朝よ!!って逆切れ」

「逆切れって」

羽田先生が、くすくすと高岡のアナリーゼに笑う。最後に本気で怒って追い出すような体演技をするので、すこし注意をして、高岡の踊りに細々とした所作の位置を教えた。

ヒナが、ただただ感動して、拍手をする。

「こんなふうに踊りたい!」

友里も、ヒナの感想に頷いた。

「葛城先生が、踊ると思っていたから……少しでも、ご期待に沿わなきゃ。まだまだよ」

ハアハアと呼吸が乱れた状態で、ふたりの元へ戻ってきた高岡に、2人は拍手を続けた。柔軟では一切汗をかかなかった高岡の汗の雫を、ヒナが見つめる。


「まずは、どう?踊ったの見てみて」

「充分、好きだよね」

「友里!」

 アハハと友里が笑って、高岡が赤い顔のヒナを見つめた。

「いつの間にそんなにバレエが好きになったの?気付かなかったわ」と言われ、ヒナは思わず友里を睨んだ。友里はにへへと邪気のない顔で笑うので、ヒナは「かわいい顔!」と叫ぶ。可愛さあまって憎さ百倍という言葉の意味が分かった気がした。


「そういえば、優さんってバレエはしないの?」

 こんなに一緒にいられるだけで楽しいのにという気持ちを込めて、ヒナは言った。

「誘っても、他の習い事が好きって言ってなかなか来ないねえ」

 友里は、そういう。

 高岡は以前、友里を好きすぎてミラーリングしているのではと優に対して思った際に、バレエをしていないからありえないなと思った気持ちがすこし心をかすめたが、その言葉を口にするのはやめておいた。

「まあ、駒井優は、したいことしかしない女だから」

「優ちゃんって、朗らかでなんでも許してくれるとこあるけど、頑固だよね」

 高岡と友里が、優についてワイワイと話す。ヒナはそこまで優に対して知っていることが少ないので、うんうんと頷いて聞いている。

「ふたりは、優さんのことよく見てて、大好きなんだね」

「うん!」

「ああ……ええ、強制的にね」

 友里は元気よく返事をしたが、高岡はこの世の終わりのような顔で、返事をした。

「私は友里だけが大事なのよ、大事な友里が話す言葉なんだから、まあ、聞いちゃうし、聞くだけの井戸じゃなくて、分析しちゃうからおのずと知ってしまうというか」

「井戸?」

「ああ、王様の耳はロバの耳っていう舞台をこの前までしてたのよ……えっと」

「あ!わかるよ。王様の耳がロバってことを知った美容師?理容師?が、その秘密を抱えきれなくて、愚痴を井戸に叫んだら、井戸が国中につながってて、広がっちゃうやつでしょ、ついてないよね~」


「ふふ、そうね。でも、愚痴を受け入れる側も、いつまでも黙っていないぞって言う教訓なんじゃないかしら。秘密なんて、秘密にする方が悪いのよ」

「高岡ちゃんは、すぐ優ちゃんに伝えちゃうんだよ!?」

「だって、聞きたがるんだもの。そういうとこもかわいいって思ってるんでしょ?」

「カワイイ!可愛いって思われてるのを確認したい優ちゃん!!!ユウチャンカワイイ!!」


 友里がひとりの世界に行ってしまったので、高岡は首をすくめ、くすくすと笑うヒナに首をかしげた。ヒナは、高岡の傍へ行き、柔軟のコツを習った。

「夢中だ、あのふたりみたい」

 友里の様子を眺めながら、壁に貼られたロミオとジュリエットの公演ポスターを眺めて、ヒナがポツリと言うと、高岡が「そうね」と頷いた。


「ロミオとジュリエットのお話、どこまで知ってる?」

「えーと、一目ぼれの代表みたいな話でしょ?敵同士なのに、好きになっちゃって、一緒に死んじゃう話」

「そう。出会った時、ジュリエットが13歳、ロミオが15歳。恋を知って、4日で死んだの」

「え!?わっか。中学生じゃん!?まって、4日!?めっちゃ悲しい」

「5日目に若い恋人同士の死によって、両家が仲直りするっていう、悲しいけれどどこか喜劇的で、命があるべきことに使われたからなのか、神々の話ではないからなのか、悲劇には数えられてないの。恋にはドーパミン型とセロトニン型があって、前者は脳が活性化されて、パアッと燃え上がって、だれにも止められないほどだけど、その恋状態が続くのは、だいたい3カ月から長くて3年なんですって。セロトニン型は、その人とだけ、いつまでも恋を続けていられる、その人と一緒じゃないと、穏やかでいられないみたいな……。友里たちは、一見、ドーパミン型に見えるほど情熱的だけど、セロトニン型なんだろうなと思うのよ」


「……えーとつまり、ロミジュリはドーパミン型で、もし生きてても最長3年ぐらいで別れてたって、コト?」

 ヒナは自分が、高岡を好きでいられる時間はどのくらいあるのだろうと、思った。この燃え上がるような気持ちも、すぐに消えてしまうのかなと、不安になった。


「その都度、恋を更新できれば、それ以上続くっぽいけど……少し不安なのよね、イイコたちだから、なにかあったら、お互いの為に別れを選ぶんじゃないかって」

高岡が遠くを見るようにして言った。

「でも優さんと友里は、ドーパミン型なのかもよ。ちょっとでも不安になると確認してるし、なんかあっても、駆け落ちして元気に生きるよ」

「ああ、そうかも!!脳内麻薬の浮かれぶりに友里が早く気付いて、別れればいいのに」

「朱織!さっきと言ってることが違う!」

 アハハとヒナは笑って、高岡も、ただ友里の幸せを祈っているだけよと続けるので、ヒナは立ち上がった。

「友里の幸せって、具体案はなんかあるの?──例えば、朱織がなにかしてあげるみたいな」

「相談は受け付けるけど、考えたこと、なかったわ」

 高岡はヒナの質問に、ポカンとした。

「あっはは。朱織もそういうとこあるんだ!友里が幸せなのを見守ってたいだけだ」

「そうね」


 幸せな優との妄想から帰ってきた友里の肩をポンと叩いて、高岡は友里にだけ、ヒナと違うセットを命令した。友里もヒナも、ぎゃ~となりながら練習に励む。


::::::::::::



「お試しとして1か月無料よ、また気にいったら来てね」


 高岡は、その後のゴールデンエイジクラスの為に、羽田バレエスクールに残り、友里とヒナは教室を後にした。


「どう?高岡ちゃんに惚れ直した?」

「もう~~~!!!!!……正直、限界感じるほど好き」


 ヒナは「明日ぜったい筋肉痛だ」と、からかいすぎた友里への恨みと共に唸る。

 友里はくすくすと笑って、所作を優のようにするのだと言って、背筋をピンと伸ばした。高岡が、2人の恋路を心配していた話を何気なく、ヒナは話した。友里と優がラブラブで、羨ましいと添えるように言うと、友里はすこし照れてはにかむ。


「あのね、……ちょっとだけ、ヒナちゃんに相談があるの」


 友里は真面目な顔をした。ヒナは聞きながら、王様の耳はロバの耳に出てくる井戸はきっと、抱えきれない秘密のせいで、壊れたのかもしれないと思った。

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