第223話 素敵な先生

 水曜日、友里が優との待ち合わせの為に廊下を歩いていると、花束と色紙を抱えた尾花紀世に逢った。

「友里ちゃん」

 紀世ちゃんと友里がいう前に、友里に紀世が抱き着いて泣くので、友里は落ち着くまで紀世の頭を撫でた。廊下を歩いていたほかの生徒たちに驚かれたりしたが、友里は悲しいことに、人におかしな目で見られることに慣れている。


 スンと鼻をすすって、紀世が自分のハンカチをグシグシにして涙を拭くので、友里は試作品の刺繍が付いたハンカチを紀世に渡した。

「きれい」

「良かったら拭いて」

 紀世は小さくはにかんで、それでも涙が止まらず友里の肩越しにグスグス泣いていた。

「お疲れさま」

 友里に言われて、紀世はまたぐぐッと泣いたので、友里は思わず噴き出してしまった。ゼラニウムの香りをさせて、紀世が照れてバッと顔を上げる。

「ごめんごめん、すっごい可愛いなと思って!」

「友里ちゃん!?」

 

 優が廊下の向こうからやってきて、友里は腰のあたりで手を振った。

「尾花先生、まだ残っているなら、みんなで写真でも撮りませんか?」

 優がクラスを代表して、尾花を迎えに来たようだった。

「まだ泣かす気!?」

「お礼を言う前に駆けだしてしまうから、みんな待ってますよ」

 友里が(放課後15分は、今日はおあづけかな)と思いながら手を振ると、優と紀世が、「友里ちゃんもおいで」という。友里は普通科に足を踏み入れるのはちょっと難しいと断った。しかし紀世に手をつながれ、ふたりに押し切られる形で普通科校舎まで赴いた。


 クラスの前で、生徒が待っていて、尾花紀世をわあっと囲み、口々にお礼を言いながら何枚も写真を撮っている。


「駒井、荒井さんとおいでよ」

 重義航しげよしわたるがそう言って、友里も集合写真に参加した。「ちゃっかり優の隣を奪った」と、クラスメイトに少し睨まれたが、友里はニコリと相手に微笑んで、友里の隣に呼んだ。

「ここならいい?」

「え、ええ?」

 睨んだ相手は毒気を抜かれたようで、小さく頷いた。それを見ていた紀世がグイと手を引いて、友里をクマのぬいぐるみのように抱きしめるので、優も紀世ごと友里を抱きしめて、周りも優に抱き着くという1枚が撮れた。

 優が、すぐに紀世から友里を引き離すが、友里も紀世も「アハハ」と笑っているので、優だけが慌てたようになった。


「尾花先生、2週間と少しでしたが、本当にお疲れさまでした。わかりやすい授業、丁寧な指導、私たちは、忘れません、最初の日──」

 クラス委員が、用意していた手紙を読み上げた。記念の色紙を受け取っただけで感動して逃げたことが分かって、友里はグッとなにかを堪えたが、クラス委員のお手紙に、周りがしくしくと泣き始めているのを見ると、そちらに気持ちがうつって、友里ももらい泣きしそうになった。

「先生、またあそびにきてくださいね!」

「ぜったい、先生と同じ大学に行くので、よろしくお願いします!」

 口々にお礼を言われ、紀世はもう完全に泣き通しだ。友里のハンカチで涙を拭き、促されるままに、全員にお礼を伝えるため、最後の教壇に戻った。


「わたしは……、実は先生になる夢を、ずっと忘れてました。自分の本来の夢を思い出した時、パァッと目の前が、光に満ちた気がしたんです」

 教壇をすこしだけ撫で、涙をスンとしまうと、ちらりと友里を見た。友里が、こくりと頷くと、紀世は胸に手を当てて、話を続ける。


「それまでも充分、人生を謳歌していました。でも、気付いたらそこに、自分がいなかったんです。夢を思い出して、一歩踏み出したら、見えてる景色が違って見えて、そこには色があって、人がいて、美しいものに溢れていて、学びたいと思う気持ちと、誰かのために、わたしができることがたくさんあるんじゃないかと気付いて……素晴らしい人生になりました。見えていなかったものが見えると、人は大きく、自愛に満ちる気がします。みんなは、きっと出来る人だと思うけれど、大人になっていく過程で見失うような小さな感動を、忘れない人でいてください。わたしは、いつでも皆さんを応援しています」


 パチパチと拍手が起こって、紀世は照れてはにかんだ。「受験、頑張ってね!」というと、数人から叫びが起こり、わっと笑顔に包まれた。数人の女子が、ぬいぐるみやプレゼントを渡しながら、歌を送るので、紀世はまた泣いた。



「受験生とは思えない準備力でしょ?」

 優がこそりと友里に言うので、正直、商業科に比べて有名大学進学のみを目標としているだけのコースだと思っていた分、熱い人たちが多く、圧倒されていた。

「それだけ、紀世さんが素敵な先生だったってことだ」

「よかったあ。ねえ、病気も嘘みたいに治って、お仕事のことも全部うまく行って、本当の先生になれたらいいね」

「うん」

 友里は優とほほ笑み合って温かな気持ちに包まれたが、優が時計を見て、アルバイトの時間が迫っていることに気付いた。名残惜しい気持ちだったが、友里はじたばたとして、生徒に囲まれている紀世に宜しくと優に頼む。優も家庭教師のアルバイトの日だが、19時からなので、もう少し紀世を見送りたいクラスメイト達と付き合うことにして、友里に小さく手を振った。


 校舎を出ると、なんとなく見覚えのある人が、駐車場に立っていた。(あれって教習所の蔦木先生だ)友里は、まだ教習所で、蔦木ルミ先生に、判子を貰えない日々を送っていた。優を男の子扱いしたことも相まって、苦手が加速していた。

 出来る限り朗らかな小波渡こばと先生という眼鏡の先生を探して科目を入れているが、タイトなスケジュールで授業を受けているので、あまり人気のない、蔦木先生に当たることが多く、しかし判子がもらえないので、無駄な1時間を過ごすという負のループに陥っていた。

(なんで学校に?誰かのお姉さんなのかな)

 友里は間を小走りに駆け抜けた。

「荒井さん」

「ひゃ。い、こんにちは」

 気付いていないふりで行こうとしたが、相手から声をかけられたので、仕方なく振り向く。蔦木は、緑色でラメが入っている、大きく胸のあいたサマーニットにタイトスカートで、美人ぶりをアピールしているようだった。

「尾花先生って、まだ学校かな?」

「え、紀世ちゃんと知り合いなんですか?まだクラスの人たちに、見送ってもらってますよ」

「そっか、そっか、ありがと」


 笑顔で友里は「それでは」と駅に走った。思いもよらない場所につながりがあるものだなあと、毎度のことながら、思った。



 ::::::::::


 金曜日、友里のアルバイト先に、紀世と蔦木、小波渡が来たのは、友里が仕事を初めて1時間後、村瀬が入った頃だった。

「こんなとこでいいの?料亭の予約してたのに!」

「ここがいいの!友里ちゃ~ん、ワインとホールのケーキ持ってきて~」

 蔦木が困ったように肩を撫でる。教育実習の打ち上げという名目で集まっているようだ。

 自動車教習所指導員と、元尾花製薬の次期社長の大学生との接点が分からず、友里はすこし困惑したが、紀世に頼まれたメニューを持って、席に案内した。

「お酒ってだいじょうぶなんですか?」

「うん、ありがとう。すこしならね、大丈夫だよ」

 紀世がにっこりとハウスワインと、4号のホールケーキを受け取った。

 紀世は友達がいないと言っていた気がしたが、こうして集まれる友人がいるのなら、良かったと友里は思いながら、スタッフ常駐所へ戻ったが、背後に気配を感じて振り返った。

「蔦木は、孫請けの社長の娘で、小波渡はその社員の娘よ。ふたりとも2個上で年が近いからって、こうして記念日ごとになにかをしてくれるの。友人じゃないわ」

 友里の頭の中を読んだのか、紀世が働く友里の後ろに立って言うので、友里はドキリとした。

「今日も料亭に連れてかれるとこだったから、友里ちゃんに逢いに来ちゃった」

「紀世ちゃん、あの2人、わたしの教習所の先生なんだよ」

「へえ、働いてるとは聞いてたけど、教官ってどうすればなれるのかしら」

「興味を持って聞いてあげて」

 友里は困ったように笑った。さらりと紀世は淡い色の髪をなびかせて、友里に微笑みかける。

「自分が興味ない人のことは、どうでもいいって思ってたけど、そうね、聞いてみるわ、姫」

 紀世は、友里を女王のように扱うが、どちらかと言えば、紀世のほうが女王然としている。友里の頬を撫で、「クリーム使ってないわね」とたしなめるので、友里は勿体ないから土日だけ使っていることを伝えると、どこかに連絡する紀世を見つめた。ほんの15分ほどで、7点セットの美肌クリームが届けられて、今後は家に送られるというので、友里は慌てて断ったが、紀世は笑った。

「じゃあ、教育実習の打ち上げ、楽しみましょう」

「エビフライ定食頼んでいいですかあ?」

 テーブルに戻ると、小波渡と紀世が大げさに楽しんで、蔦木が嗜めるような雰囲気なので、友里には普通の友人関係に見えた。


 夜9時まで働いて、友里は彗と優の待つ駐車場へ行くまえに、まだ楽しそうにしている、紀世の元へ行った。手を振ると、紀世も嬉しそうに笑った。

「あ!」

 ガシャンと食器の上に、紀世がシルバーを落とした。

「やだ、ごめんなさい」と紀世が言いながら、横にスライドしていくので、友里は慌てて駆けた。ズシリと紀世を支えて、意識を失っていることに気付いた友里は、スマートフォンで彗を呼ぼうとしたが、手が離せない。蔦木が、救急車を呼ぶ。小波渡に友里が、駐車場の青いSUVに彗がいることを伝えると、呼びに行ってくれた。

 現れた彗が、紀世に応急処置をする。

「おそらく血管迷走神経反射。細胞外液の点滴をすればなおるだろう」と、彗は皆を安心させた。すぐにきてくれた救急車に彗も一緒に乗り込んだ。


「良かった、お医者様がすぐそばにいてくれて……」

 蔦木が、救急車を見送って、ひとり呟いた。小波渡が、優と友里に頭を下げて、自分たちが尾花紀世の体調を見守っていなかったことを謝るので、友里は誰のせいでもないと手を振った。

「気を失うことは、最近、よくあるみたいです」

 優が言うと、蔦木と小波渡は青い顔になった。

「私たちがさんざん、治療してくれと頼んでも、治療してくれなかったのに、治療を始めた矢先に……血管迷走神経反射ってストレスでなるんだっけ……」

 蔦木が悔しそうに言った。

「友里さん、あなたのおかげで、紀世さんが治療を始めてくれる気になったんでしょ、ありがとうね」

 小波渡が言って、友里は、教習所の先生という立場の小波渡しか知らなかった分、はにかんだ。

「友達なので……」

 言うや否や、蔦木がキッと友里を睨んだ。

「私たちも友だちですけどね」

 友里は、突然向けられた言葉に、ハッとして、優を見る。なにか失礼なことを言ったのかよくわからず、優に助けを求めるが、しかし優も小首をかしげた。

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