番外編⑩ 松原×林
高校3年生の担任になって、1か月。吹奏楽部の顧問としての忙しさも加えて、わたしは、目の回るような毎日に、突然頭を抱えた。目立たないようにつけた血色ネイルも剥げ、教職に就いた記念に買った茶色いベルトの時計も、4年も経てば、皺が増えてきた気がする。
「どうしました、林先生」
4つ先輩の松原先生が、わたし専用の黒猫マグカップにコーヒーを注いで、声をかけてくれた。
「いや、責任の重さに、突然たえきれなくなって」
「あはは、あるある」
あるあるなんだ……そっか、なら安心☆じゃねえけど、まあ、完璧に見える他の先生たちでも、そうなんだと思って、わたしは長く美容院にもいけてない黒髪を、結び直して、目の前の書類に向き合った。申請書、申請書、……あと何枚書けば、おわるのかな?
ハッと気づくと4時半になっていて、顧問の吹奏楽に行かなくてはいけない時間だった。今日は、ひとりひとりの進捗を確認してあげなきゃだから、空き教室を借りるようだ。
松原先生にお願いすると、吹奏楽部から少し離れている別棟が穴場だと教えてくれた。みんなも、ちょっといつもと離れている場所のほうがリラックスして、悩みを打ち上げやすいんじゃない?なんて、ウインク付きで、かわいらしい提案に、わたしもすっかりノリノリになった。
パーマをかけて、華奢な眼鏡に、眼鏡かけを付けて、いつもは素敵なブラウスに眼鏡をネックレスみたいに下ろしたままにしている松原先生だったけれど、今日は真剣に、生徒たちの進路表を見ていた。商業科は進学クラスと違って、就職も多いから、会社との連携に毎日駆り出されてて大変そうだ。
松原先生の進言通り、シンとした別棟は空き教室が多くて、どれがいいかと廊下をさまよった。
ここにしようとドアに手をかけると、女生徒の話し声がして、使ってるなら別のとこへ行こうかな、と思っていると、駒井優と荒井友里が見えた。
(ええ、駒井ってば、荒井さんをお膝に乗せてる!)
ドキリとした。すごく普通のことみたいにしているので、そんなふうに思ってはいけないのだけど。
「昨日の通話、楽しかったね、優ちゃんとあんなに長いおしゃべりしたの、はじめてじゃない?」
「そうだね、いつも、逢って話したほうが早いから」
声が聞こえるところまで来てしまって、まずいと思ったけど、なんとなく聞いてしまう。夜寝るまでお話し、わたしもよくやったなあ、たのしいんだよね。幼馴染のふたりにとって、通話はイベントなのかもね。
「わたし、寝言大丈夫だった?」
「友里ちゃん、いつもなんでもないみたいにしているのに、そういうところほんとに、かわいいね」
「ええ、なになに、なにかしたの?」
「ううん、寝返りの音しか聞こえなかった。むしろ、なにか言ってくれたらよかったのに。村瀬の家のほうが、よほど……あ、これは。うそうそ、すごく寝相がいいよ。かわいい」
駒井、荒井さんの前では、からかったりするのね。ポカポカされてるわ。以前、吹奏楽部ではクールで、王子様のようにみんなに優しくて、頼れるお姉さんって感じだったのに、やはり気を許している子の前では、そんな姿も見せるんだ。安心した。
「優ちゃん、明日からの連休ってどうしてる?」
「予備校に行くよ。友里ちゃんはバイト?」
「そう、13時から18時!教習所の予約が取れたら、午前中に行くんだけど、4日は、ヒナちゃんちに19時って約束してて、そのままお泊り会なんだけど、優ちゃんもいこうよ」
「ええっと、柏崎写真館って予備校から歩いてすぐなんだよね、授業の後、家庭教師が21時に終わるから、それからでよかったら」
妙な沈黙が流れた。──あ、これはなにか始まってしまいそう?なんて余計なことを考えたけれど、すこしくたびれた茶色ベルトの時計を見ると、4時半になっていた。この教室だよと部長に連絡して、移動、と考えると、ここで決めないと……ごめんね、入らせてね。
ガララと教室のドアを開けると駒井の胸の中にいる荒井さんと目が合った。
「あれ、林先生!優ちゃん、担任の先生だよ」
朗らかに、駒井の肩越しに笑顔を振りまく姿は、まるでソファーにゆったりと寄り添っていた親戚の子どもが、久しぶりに帰省したわたしを出迎えてくれた時の笑顔のようで、こちらが恐縮してしまう。
「林先生、吹奏楽部で使用するんですか?」
勘のいい駒井に言われて、頷くしかなかった。
ふたりはなんでもないことのように、あくまで、今は、幼馴染の距離のつもりだったのか、対面に抱きしめ合っていたことも、わたしに見られたことにも、照れもしなかった。
「ごめん、駒井、あの距離感は、普通のもの?」
先に廊下に走って行った荒井さんの背中を見送るように、しっとりとした所作で歩き出そうとした駒井を捕まえて、なんとなく聞いてしまった。いや、わたし、なにを聞いているのか。申し訳ない。
「はい、よく、友里ちゃんの椅子になります」
中性的な魅力の駒井は、照れたような、はにかんだ笑顔でそう言った。わたしは生徒にそういう気持ちにはならないけれど、生徒たちが夢中になるのも分かる驚異的な笑顔で、思わず眩しいライトを浴びたような気持ちになった。
「気をつけて帰れよ!」
というのが精いっぱいだった。2人のさようならを受けて、背中を見送った。そして、すぐに、松原先生にメッセージを送った。
【飲み会、いいですか?】
松原先生から、すぐに返事が来て、わたしは、OKのスタンプを返した。
::::::::::::::
「仲良しって素晴らしいな!!かんぱーい!」
松原先生の自宅で、何度目かの乾杯の後、わたしはクダを撒いた。
ドライジンの瓶が、半分開いていて、松原先生は、わたしの酒豪ぶりに毎回驚くけれど、まだ予備を用意してくれているので、飲むことは期待されてる気がする。日本酒消費量ナンバーワン県出身のわりに、弱いほうなのにな。これで3回目の、お泊り飲み会だった。
「あの2人は確実に、おつきあいしてますよ」
「あの距離感で、幼馴染だからですって言うのなら、他のカップルも全部そうです」
「かわいい、応援したい!あ、そういえば、他のクラスの子もですね!!」
松原先生が、他のクラスのカップルの話も出してくるので、全員が幸せになるように、神に祈った。幸せだ、みんな幸せだと、本当に嬉しい。
「そろそろ受験ですけど、先生、駒井の推薦はどうなってます?」
松原先生に聞かれて、わたしは書類の束を思い出しつつ、唸った。
「まあ、絶対通りますよ、生徒会にも参加してくれましたし……でも2年生までの評定平均で、すでにいけるのに、生徒会よくOKしてくれたな、って…基本、イイコなんですよね」
「荒井も、大丈夫そうです。よく家庭科の先生に褒められますよ、すごく熱心だって。それで、聞いちゃったんですけど、駒井優の制服って」
「え?!荒井さんが作ってるんです!?は~~?かわいいですね」
何度目かの乾杯をして、テーブルに突っ伏した。
「はあ、生徒が幸せだと酒がウマイ」
ポロンと松原先生のスマートフォンが鳴った。ハープ?日舞をしていると聞いたことがあるけど、多趣味なのかもしれない。
「あれ、笹谷せんセ、はいはーい、ああ、あのプリントなら、机の、今います?そうそう、引き出しの底にあります~~~は~い、よかった!」
プツンと通話を切って、「け」と言った。
「生徒に手を出す奴、マジで死んでほしい」
「まあ、まあちょっと前に、別れたっぽいじゃないですか、松原先生」
「責任を取らないやつも死んでほしいから、死んだらいいと思います」
「そういう態度、おくびにも出さないでいられるの、ほんと尊敬します!」
わたしは、笑いながらドライジンに、甘いライムジュースを多めに入れた。ぐびぐびと飲んでいると、松原先生もそれをひとくち欲しいと言ったので、渡した。
「いやあたらしいの作りますけど」
「ほんの少しだけ飲みたいんです」
カルーアを作りながら、松原先生が言った。
酔いが回ってきたせいか、その仕草すら楽しくなってきて、ふふふと低く笑った。
「次の酒をつくりながら、他の飲みたいって言うの、どんだけ酒豪なんですか」
「あははほんとだ!」
うふふとふたりでしばらく笑い合って、抱き合って、床に転がった。アハハと声が大きくなって、転がって、しばらく、ハアハアと息を荒げて、天井を見つめた。楽しすぎて、ずっとこんな感じだったらいいのにと思った。
「先生って、今お付き合いしてる人とか、いるんですか?」
松原先生が、突然そんなことを言うので、わたしは、起き上がりもせず、「いるわけがない」と言い放ち、むくりと起き上がると、ジンライムを一気飲みした。
「わたしの恋人は、生徒!です!」
「あ!そうですね!かんぱい!!」
松原先生が、なにか言い淀んでる。もしかして、松原先生ってば、コイバナでも始めるんだろうか?でも、チクリと胸が痛む。そっかそっか、悲しいけど、松原先生は、誰かのものになっちゃうのかなっていう寂しさ。
「わたし、お付き合いしたことないんで、好いたり好かれたり!羨ましいです」
「は?」
26歳にして、恥ずかしいことかもしれないという思いが巡ってきた。
「お、お付き合いしたことが無い、そんなまさか」
「なんですかー!モテないんだから仕方ありませんよ!」
自分の中で、汗が一瞬でひどいことになった。ドキドキした。実は、たぶん、わたしは女性が好きだ。だけど、まあ、お付き合いとかはできないと思っている。出会いもないし。でもさあ先生になった時から、超いそがしいし!「誰か一人」を好きになる未来なんて、きっとありえないと思っているから、諦めている。
酔いが回ったのか、頭がクワンクワンと揺れて、松原更紗先生がふたりに見えてきた。
松原先生に好かれる人は、どんな人なんだろう。
「そういえば、林先生って、女同士とか、気にならないんですね」
「そういうの、気にするんですか?」
「愛に立場は関係しますけど、性別は特に」
わたしは、同性愛者ですがと言いかけて、やはり黙った。
「そっかそっか、気にならないんですね、よかった!」
松原先生はとても美しい笑顔で、そう言った。
いつも雑魚寝だというのに、きちんとしたお客用布団が引かれ、松原先生は、「今夜はちゃんと眠りましょう!」とすぐに電気を消してしまった。わたしはまだ飲み足りないのだけど、家主がそういうのだから仕方ない。
松原先生に好かれている人って、どんな人だろう。
いつもなら生徒たちの幸せを願って眠りにつくのに、なぜかその夜は、その思いが胸に迫ってきて、なかなか眠ることが出来なかった。
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