第184話 みえないもの



「なにがしたかったんです?」

 友里の肩越しに、優の冷たい声が響く。友里がこの声を聞くのは、キヨカの車のなか以来だ。


「ケーキを食べたかったの」

「?」

「友里ちゃんと、ケーキを食べる約束を守りたくなっただけよ、そんなに怒らないで」

 紀世が小鳥の鳴くような声で震えてつげると、フラリと倒れた。

 床に倒れ込む前に、駿が支え、紀世の名前を呼んだ。すぐに、ふっと目を開けた。

「…ちょっと貧血おこしただけ。そんな大きな声で、突然大きな男の人たちが部屋に入ってきたから驚いた」

 優と村瀬は顔を見合わせる。確かにふたりとも大きいが、女性だ。彗がそこにいるので、確かに4人もはいってきたら驚くかもしれないと反省した。


 瞳を閉じたまま、紀世は駿をソファのようにして、ごろりと弟の胸に寄り添った。


「せっかく今、友里ちゃんが思い出してくれそうだったのに。いじわるしたせいかしら」

 友里と優は顔を見合わせた。抱きしめたまま、離れようとしない優に、友里はすこし恥ずかしくなってきたが、優がそれを望んでいる気がしてそのままでいた。


「友里ちゃんが女王さま、優ちゃんがお姫さま、わたしたちが家臣」

 ポツリポツリと、紀世が話す。

「みんなで10年後に、したいことを書いた紙を、うちの敷地に埋めて、遊んだのよ、まあわたしだってすっかり忘れてたんだけどね」


「やっぱりそうだよね」

 彗が頷いた。

「俺、高校生だったから覚えてるよ。小学生をまとめて面倒見てたの。優たちは、小3か、そこらだよな、やっぱり忘れてたのか、だから──」

 彗が、思わず笑顔になって手のひらを打つが、雰囲気的にそういった場面ではない気がして、神妙な態度になる。

「…そう、わたしが、全寮制の中学に入る少し前のお話し」

 紀世は、ポツリと話し始めた。



;;;;;;;;;;;;;;;;;;;



 家同士の結び付きのためのパーティーで、紀世たち子ども世代は、子どもなりの繋がりのために、遊ぶという使命を帯びていた。しかしその日の紀世みちよは、親元を離れ一人、全寮制の中学に入学するという前日で、自室の窓から見える大きな木に登ってみたくなっていた。

(やったことがない、練習もしたことがない、しかしできたのなら、自分のポテンシャルを信じられる)

 そんな願掛けをして登った景色は、さほど心に映えるものでもなく、自室から見た景色となにも変わらなかった。それはそうだ、木から自分の部屋がよく見える。ピアノを習っているせいで爪は平坦だが、きれいな手に木の皮のトゲがささり、裸足で、オートクチュールのドレスの淡いレース部分が少し裂けたため、その反省会のほうが大きく、もう二度と登らなくていいと思った時だった。


(降りられない)


 その事実に気づいた紀世は、さぁっと血の気がひいた。初歩的なミス過ぎて、自分を叱咤した。太い枝に腰をかけたときは気づいてなかったが、立ち上がるための捕まる場所もなく、枝から地面に飛び降りる高さでもなく、幹ににじり寄る度にドレスが裂ける気がして、紀世は途方にくれた。


「ねえ、わたしも登っていい?」


 下から子どもの声が聞こえて、紀世は降りられない苛立ちから、「勝手にしたら?」と返事をした。するすると子どもがあがってきて、紀世がつまらないとおもった景色にたいして、絶賛した。あまりに底が浅い賛辞だったため、紀世は思わず声をかけた。

「どこがいいのよ」

 そんな言葉に、ただただ「きれい」と言っていた女の子は、キョトンとしてから、小さな指をスウと掲げた。バレエのマイムの型だと、紀世はすぐに分かった。


「坂になってる道に、来る時は全く気付かなかった白いお花が咲いてるの。風が吹く度にキラキラしてて青空のなかでお姉さんたちがおどってるみたい。空が近いし、葉っぱの隙間から覗く太陽がキレイだし、妖精の群舞ってこういうことなのかなと思った。見えなかったものがたくさん見えて、楽しい!」

 女の子の言うとおり眺めると、いつも見ていた丘に白いチュチュを着て、緑の草原のなかで踊るバレエダンサーのような花が咲いてる。風が草原を駆け抜けて、紀世の顔をパンっと叩いた気がした。見上げると、髪をお団子に丸めた、濃いはちみつ色の大きな瞳の女の子が、笑っていた。

「みえた?」

「みえたわ。確かにきれいね」

 紀世の素直な感想に、女の子がふにゃーっとわらうと、八重歯がみえた。歯並びを直さない家庭の子だから、一瞬で格下だと気づいたが、その八重歯こそが彼女の笑顔の美しさの秘訣のようで、目が離せなかった。


「パーティーには参加しないの?八重歯ちゃん」

「イチゴのショートケーキがなくて、つまんない」

 女の子はそういうと、もういちど目に刻み込むように木の上からの景色を眺めて、枝をくるりとしなやかに歩いて、するするとバレエの動きで降りていった。

「待って、ねえ、わたくし、降りられませんの!」

 女の子は紀世の声に面倒くさそうな顔をして、「じゃあ登らなきゃいいのに」と当たり前のことを言った。

「はじめて登ったのよ、練習もしてないのに、すごいでしょ!」

 紀世が威張って言うと、女の子は「降りる練習してから登るんだよ、登るのなんて簡単なんだから」と頭をかいた。

「あと、八重歯ちゃんじゃないよ、友里だよ」

 紀世は、走って行こうとする友里の背中に、素直に謝った。外見のあだ名など、品のないことをしたことを謝ると、友里は「仕方ないなあ」と思ったことをすべて口に出してから、しかし、にやりと笑った。


「降りかたをおしえてあげてもいいけど」


 新しい秘密基地を見つけたような顔で問われて、紀世は「うっ」と唸った。この、こども特有の顔は、等価以上のものを差し出せと言う顔だとすぐにわかったが、甘いお菓子につられる子どもの望むものなど大したことはないと思い、紀世は、友里に教えを乞うた。


「今日一日、家臣ね」

 友里の教え通りに無事に降りられた紀世に、友里はそう言った。

「はあ?」

「いやならいいよ」

 あっさりとその権利を手離して、走り出そうとするので、紀世は自分の価値を軽く見られた気がした。自分と親密になりたい人達が、いかにたくさんのものを差し出してくるのか、11歳にして、自分の価値を理解していた紀世にとって、侮蔑とも思えたその行動に、苛立ちを覚え、友里の細い腕を掴んだ。


「よろしくてよ、わたくしを家臣にするからには、あなたは女王よ」

「女王さまってなにすんの?座ってるだけとか無理だよ」

「それはあなたをいいこで椅子に縛り付けておくための親の言い分ですわ。わたくしが、本物の女王として、エスコートして差し上げます!」

 弟の駿を呼んで、友里を完璧な女王のように、真っ赤なドレスで仕立て上げた後、ティアラを掲げた。友里は窮屈そうにしていたが、幼馴染みの美しいお人形のような女の子が、そっと友里に寄り添うので、紀世はそちらの子にも、青く光る真白いドレスをあてがった。すると途端に、友里がぴょんと跳ねて喜んだ。

「ユウチャンカワイイ!!!!!!」

「女王さまがおきに召してくださって、この上ない喜びですわ」

 紀世が、友里に言うと、八重歯を見せてふにゃりとわらう。

「スゴく嬉しい!優ちゃんを可愛くしてくれてありがとう」

 紀世の心に、なにかとても暖かいものが溢れた気がした。今まで、ひとつも感じたことのなかったもので満たされ、それは、特別としかいいようのない塊で、流動的だった。たぷんとゆれて、心臓が高鳴って、頬が熱くなるような気持ちは、はじめてだった。

 友里に駿は顎で使われて、甘いものをたくさん用意させられている。紀世に「頼むことがなくなった」というたびに、友里のためになにかしたくてたまらなくなり、駿と奪い合うように友里の身の回りのお世話をした。


「死ぬまでにしたい10のことを決めたいと思います」


 神妙な顔つきの女王さまにいわれて、紀世と駿は顔を見合わせた。

「女王は、死ぬのですか?」

「おばあちゃんになったらね」

 ホッと胸を撫で下ろす。

「友里ちゃんはいつも説明が足りない。大人になったらやりたいことを、書き出す遊びが、流行っているんだ。何になりたいとか、子どもの体ではできないことを空想して、10個だけ決める」

「さすが女王さまの幼馴染み、聡明でいらっしゃる」

 紀世が優をほめると、女王がなぜか照れて喜ぶので、紀世はことさらに優を褒めた。

「書き出してみて」

 女王の命令なので駿も紀世も、普段から両親に言われてるままの、会社の繁栄や医療の充実など社会の問題をかき連ねた。女王はいやな顔をして、それらをポイと丸めた。

「イチゴのショートケーキを作る」

 パーティーにはなかったメニューを女王が書いた。

「素敵なドレスで踊りたい」

 女王はバレエが得意なので、「これは今日叶った」と披露した。

「自分が、したいことを書くんだよ」

 そう言って真新しい紙を、紀世に渡すが、紀世は自分が出来ることが全く思い付かなかった。駿は、幼馴染みの男の子といつまでも一緒にいたいと目を輝かせて書いている。紀世には、出来る望みがなかった。


「お友だちが、ほしい」


 自分でもなんとも頼りない小さな字で書き出したそれを、女王が見つめる。

「もう友達はわたしでしょ?いっぱい遊びたい、じゃない?」

 あっさりと言われて、紀世はまた暖かな気持ちが胸に溢れた。友達なんて必要がないものと思う自分が、いつでも占拠しているのに、その願いが正しいモノのような気がした。

「大人になったら、なにになりたい?」

「わたくしは……」


 紀世は、友里に微笑まれ、言葉に出してはいけない望みを、書いた。宝箱に、したいことの全てをしまって、庭の木の下に埋めた。【10年後に掘り出すことが決まってるのだ】と女王が言うのでその通りにした。


 女王は、親に呼ばれて幼馴染みとあっさり帰宅してしまったが、駿と紀世は、その日からしばらく、女王さまと過ごした感覚が、抜けずにいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る