第183話 失わないとわからないもの
「う~~ん」
友里は、自分の部屋ほどもあるホテルのバスルームで、泡に囲まれながら唸った。
(ああ言えば家に帰してもらえると思ったのに)
自分の浅慮ぶりに、呆れた。カバンはフットマンに奪われて、スマートフォンも駐車場に落としてきた。気品のあるゼラニウムの香りに包まれて、友里は車酔いのような気持ちになった。いい香りだが、優の香りが恋しくなる。
車から降りた際に、駿がいつの間にかいなくなったので、優に連絡をしてくれるかもしれないと、一縷の望みをかける。
「友達って、こういうものじゃないって、どういえば伝わるのかなあ」
ひとりごとをつぶやいていると、「じゃあどういうものなの?」と美しい声がして、友里はビクリとしてから、体を抱きしめた。
「紀世さん、勝手にお風呂に入ってきちゃだめだよ」
「あら、女同士だし良いじゃない。それとも友里ちゃんは、女の子しか愛せないから、ドキドキしちゃうのかな?」
絹とわかるベージュ色のオールインワン1枚になって、紀世が軽い口を叩きながら、白い猫足バスタブのヘリに寄り掛かった。
「そうだよ、だから気軽に入ってきちゃダメ」
友里は、真摯な声で言って、泡の中に体を隠した。
「ええ、そんなにすぐ認めるものなの?!すごい、愛が自由なのねえ」
友里は、紀世に対して嘘をついたら途端に切られるような、試されている雰囲気を感じている。紀世はそんな友里に気付いて、淡く微笑んだ。
「そうね、──ご名答。調べてて知ってるのよ。優さんとお付き合いしてる」
「そうそう、仲良しなんだよねえ」
友里は、高岡に対応するような気持ちで、紀世に対応するよう努めてみる。脳裏で高岡が、「誰も誰かには、なれないのよ」と言っている気がした。
「ねえ友里さん、──ごっこ遊びをしない?」
「?」
「友里さんの執事になるわ。お嬢様、ご用命を──いや、執事はなにも言わないわね、そばにいるだけだわ、難しいわね」
くすくすと笑う紀世に言われて、友里は首をかしげた。
「お嬢様は紀世ちゃんでしょ」
「あら、ノリが悪いわね、女王さまじゃなきゃ、だめ?」
「も~、じゃあ、いいよ、やってあげる」
友里は、お風呂のヘリに頬杖をついて、しばし考える。ロールプレイングは、好きだが、自分がお姫様な優に
髪を洗ってもらうのも、背中を流してもらうのも、優とだけしたいことだなと思った。『お風呂は恋人との一大イベントだから』という優を思い出して、胸が苦しいほど愛おしいと思った。
命令はなにも思いつかず、「お家に帰るのはだめなんだよね?」というと、紀世が嫌な顔をした。
「そう急がなくても。ケーキを食べましょう、ショートケーキを多めに頼んだの。それから、ドレスも用意したのよ、真っ赤なロングドレス。さあ、女王、お体を流しますわ」
友里にシャワーを当てて、泡を流す紀世は、くすくすと笑いながらそう言った。
背中を丸める友里の、傷跡が露わになった。
「これ、事故の?」
「うん、そうだよ」
友里は、諦めたように、バスタブから立ち上がった。紀世がなにかに気付いて、顔を覆って頬を染めた。
「あら、まって!」
「いいよ、見られても全然恥ずかしくない。わたしが、はずかしいとおもうのは、優ちゃんにだけ」
「でも、あの、その!」
「怪我の件で色々聞かれるのが面倒なだけだよ、お風呂は大好き」
友里はバスタブから出ると、紀世からシャワーを借りて、体の泡を流した。
「ホテルってお風呂場の床がツルツルしてるのなんでなんだろうね?泡で、滑って転んじゃいそう」
「そ、そうね、たしかに」
友里があまりにも普通に続けるので、紀世は友里から目をそらすように、腕で顔を覆って、たじろぐ。友里は、紀世の突然のもじもじとした態度に首を傾げつつ、しばし考えて、ハッとした。
──今朝、優とさんざん確認したキスマークの存在を、いまさらに気付いて、一瞬、羞恥で全身が真っ赤になって、涙ぐみそうになった。しかし、格好つけた手前、タオルで体を拭く。動揺を、出してはいけないと思った。
「紀世ちゃんのほうが、わたしの裸に動揺してるみたい。ごめん、はしたなくて!」
友里が笑うと、紀世は、顔から腕を離した。
「いいえ、あの……ずいぶん、仲がよろしいのね」
気を遣っているのか、紀世は言葉を選んで、友里と優の関係性を指摘した。しかしここは、あえてスルーしてほしかった友里は、うぐぐと唸って返事をしなかった。紀世はお嬢様で、やはり言葉の選び方が淑女だと思った。
「それにしても、ずいぶん落ち着いてるわね、わたしがこわくないの?」
コホンと一つ咳払いをした紀世に言われ、友里はキスマークの件にこれ以上、振り回されないような気持ちで、首を振る。
「びっくりはしてるんだけど、今、できることだけしようっていつも思うんだ」
「ポジティブなのね」
「あはは、優ちゃんもそう言うんだけど、わたしあんまり、自分がどうとか、考えてないからかなあ。相手が、どういう気持ちなのかなってすぐ考えちゃって」
友里は、紀世が用意してくれたドレスではなく、着ていたジャージをそのまま着なおした。優に貰ったジャージを着ていてよかったと思った。優がよく、友里の作った服に勇気を貰うと言っているが、(なるほどこういうことか)と思いながら、紀世に向き直った。
「全然怖くないよ、紀世ちゃんのこと」
紀世は、友里を見つめたまま、ハッとして、それから目を伏せた。
「友里ちゃん、わたしが今、何を考えているか、わかる?」
「お友達が欲しいんだよね?」
疑問で疑問を返す友里に、紀世が笑った。
「ううんドレス、用意したから着てほしかったなってそれだけ。優ちゃんも呼べばよかった。そうよ、忘れてたわ。友里ちゃんだけじゃだめなの」
「?」
友里が紀世の言葉に首を傾げながら、白いソファーにもたれている間に、あっという間に部屋が甘い香りで満たされた。サービストロリーに乗った、光をまとったケーキたちが、所狭しと並ぶ。「どれでも好きなものを取っていい」と言われても、友里はさすがにと、一度は断りを入れたが、夜22時のケーキの誘惑に、食いしん坊の友里が勝てるわけがなかった。
ピカピカと光るシルバーのフォークを、ルビー色のイチゴごとケーキの土台にそっと突き刺し、口へ運ぶ。
「んんんんあああ!!!」
濃い甘みが口いっぱいに広がって、耳の奥にじんわりと、響いていく。
クリームの濃厚な舌触りは、生クリームとクロテッドクリームが層になっていて、スッと溶けるようで、舌の上にチーズのような深みが、イチゴの酸味と一緒に残るため、それらが混ざり合って、イチゴミルクのような味に変わる。
スポンジケーキはしっとりとしていて、バニラビーンズたっぷりの釜炊きカスタードクリームが奥に隠れていた。キルシュの風味がして、さらに半身に切られたイチゴが主役として引き立つ。
「こんなの……こんなの初めて……!!!」
「喜んでくれて、よかったわ」
さあさあと次々にケーキが友里の前に並ぶ。
チョコレートフレーズと、桃のシブーストでしばらく悩んだ友里に、両方を進める紀世は、可笑しそうに笑った。自分は、ただ、シャンパンとイチゴを食べている。
「紀世ちゃん、『泣いた赤鬼』ってお話、知ってる?」
「童話の?ええ、青鬼と赤鬼がいて、赤鬼が人間の友人欲しさに、青鬼に暴れてもらって、信頼を勝ち取るも、本当の友人である青鬼は消えてしまったから、泣いてしまうものでしょう?あちらもこちらも欲しいなんて、贅沢な話よね」
友里は優に聞かせてもらった話と若干違うな、と思いつつ、チョコレートフレーズを侵略しつつ、頷いた。
「赤鬼が、遠くを眺めて欲しがった気持ち、わかるのよね。普段は見えないものが、突然見えちゃったんだわ。わたしには、青鬼はいないから、自分で友人を奪いに行くしかなかったのよ」
この状況に例えて、友里が話し出したのかと思い、紀世は友達ならではの無駄な世間話だと、嬉しそうに笑った。シャンパンとイチゴを食む。友里にはオレンジジュースと紅茶を選ばせてくれたので、友里は優を想いながら紅茶をいただいた。
「失ってから、本当に大事なものに気付くお話しだけど、あんまりにさみしいから、あとから赤鬼が青鬼を追いかけて再会するシーンが追加されりするんだって」
「こどもだましね、失ったものはもう手に入らないと思ったほうが、大事さが増すわ」
イチゴを食みながら、紀世は友里に言う。
「紀世ちゃんは、本当は青鬼が欲しいんだよね?」
友里はシブーストのカラメリゼ部分を割りながら、紀世に言った。
「……?」
「友達のために、全てをなげうってくれる友人が欲しいのかなっておもう」
友里の傷にたいして思い入れがあるように感じた友里は、シブーストムース部分を桃に絡めて、頬張る。少しだけバラのリキュールが入っていて、優を想った。ごくりと飲み込んで、紀世を見ずに言った。
「わたしは、それになりえると思われたのかな?」
「……」
紀世が、下唇を噛んで、なにかに耐えるような仕草をした。友里はそれに見覚えがあった。大きな木と草原の映像がパッと脳裏に巡る。
「やっぱり、わたしたちどこかで、一緒に遊んでない?」
「……!」
カチリと、鍵の開く音がして、バン!とドアが開いた。友里と紀世は驚いてそちらを見やると、駿が、いの一番に入ってきた。その後ろに優がいて、友里と目があった瞬間、友里は、優に抱きすくめられていた。友里はよく知った優の香りに満たされて、心の底からほっとして、優に体重を預けた。
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