第167話 あほの子


「わるいな、話の前に、これかえすよ」

 荒井家に入ってすぐ、尾花が冷静な顔で重義に向き合う。重義は、丁寧に受け取り、尾花への恋心を断ち切るかのような、悲痛な表情で、ビニールバッグを開いた。


「これ、俺のじゃない、尾花のジャージだ、な……?」


 重義はグッと息をのんだ。──お互いの家に良く行き来していると、服の1枚や2枚が置きっぱなしになって、どちらのものだったかよくわからなくなることはよくある。友里の部屋も、優のオーバーサイズのTシャツが2・3枚あるが、優が持ってきたのか友里が用意したのか、出所はもう覚えていない。


「こういううっかりしてるとこが、かわいいの!」

 友里は、重義の言葉に(あほの子では)と思いながら頷いた。優は尾花をみた。尾花は赤い顔で震えている。

 他にもゲームソフトや、イヤホン、文具が入っていて、重義は、ため息をついた。

「みんなおまえのだよ。俺と遊んだ記憶を、俺に返したいだけなんだな」

「ちが……」

 自室にあった重義の面影を詰め込んだそれを、否定しきれず、尾花は落ちる。すぐに髪をかきあげ、手首をくるりと撫でる。精神を安定させる仕草のようだった。


「今日呼んだのはそれのためじゃなくて、オレたちが昔、川に落ちた時の話を、重義が覚えているかを聞きたくて」

「?」

 重義は記憶力が良い。吹奏楽部のムードメーカーなのも、ひとりひとりの表情や、行動を覚えているから、場にあった行動をとれる。

「小5のときのだろ?すげえ消防車が来たのは覚えてるけど……おまえ、あのときの話するの、親に止められてない?俺が言っていいのかな」

「友里さんと優さんが、その相手かもしれない、当時の様子を教えてくれないか」

「えっ」


 重義は優と友里をまじまじとみた。


「でもあの子たち、大阪に行ったはずだろ?」

「うん、親はそう言ってたけど。こんなにきれいな子達なら、忘れないと思うし」

 尾花がほめるので、友里は優をチラリとみた。優は真剣な表情で、話を聞いている。

「あのときはみんなで遊んでて、スーパーボールを水に浮かせて、どっちが先に拾うか競争してた」

 重義が思い出そうとして、コンコンと額をノックする。

「尾花が、浅瀬で濡れたから、もういいって川に入って」

 深い部分に足をとられ、尾花は音もたてず川底へ落ちた。重義が気付いたときには、別の友達が尾花を川縁に運んでいた。駆け寄った重義は、尾花が激しく咳き込む様子にひるみ身動きがとれずにいた。立ち上がろうとした子の足が、ずるりと川に飲まれそうになった瞬間、別の子が押し飛ばし、尾花を助けた子は重義の胸に倒れこんできた。肩越しに、もうひとりの子が、川を流れていく姿が、見えた。


『友里ちゃん!』


 なまえを呼んだ声が、重義の脳裏に戻ってきた。

「ゆりちゃん、て言ったかも……同名なだけ、かもだけど」


 重義は自信なさげに、呟いた。優は、ため息をこぼす。友里もまごつく。優が茶葉を鍋に入れながら、口を開いた。

「概ね、聞いてる話と一緒だ。水泳をならい始めたばかりで、水に抵抗がなかったから、川を侮っていたんだ」


「ひとりだと勘違いしていた」

 尾花がため息交じりに言う。

「そうだよ、尾花を助けた子が川に入ろうとするから、すげえおさえたもん、小さいのにすごい力で」

 もしもその子が駒井優なら、ずいぶん大きくなったなと、重義は8センチ下から言った。


「優ちゃん表彰されたんだよね、新聞にも載った」

 尾花が当時の新聞を開くが、スマートフォンでは確認できなかった。

「同じ小学校じゃなかったのかな?」

「俺ら私立だし、公園で逢うだけの友達だったのかもな」

 優が言うと、疑問を抱えた重義がコクと頷いた。

「なんかワクワクするな?!」

「なんで」

「おまえがあのときの!みたいなの、良いじゃん、冒険小説みたい」

「なにそれ……」

 優が呆れたように重義を見下ろすと、砂糖を入れた紅茶を全員に振舞った。

 紅茶をひとくち飲みながら、尾花が言う。


「幸せに生きていてくれたなら、本当に良かった。長年のわだかまりが取れた」


 尾花がぺこりと頭を下げた。

「大阪にいるって思いこんでたのは、なんだろう」

「友里ちゃんのおとうさんは大阪で単身赴任してる。うちの両親がわたしのために頼み込んで、してもらっている」

「ますます信ぴょう性が増すな」


 尾花はううんと唸る。

「でも、否定するとしたら時期だ。4月のはじめ、わたしたちは事故に遭っている」

「いや、優さん、もうそれは確信だよ、まさに小5になりかけの春休みだ」

「そうか」


「ふたりは絵本を読んでて、それをからかってたのに、助けてくれたから、すげえってなったの覚えてる」

 重義が、優と尾花に向き合う。

「尾花を助けてくれて、ありがとう」

 優は、どこか他人事にその言葉を受け取った。


 :::::::::::


 優と友里が片付けのために台所へ行くと、重義が腕を組んで、尾花に向き直った。

「駿、俺は、おまえが好きだぞ」

 「は」と吐き捨てるように溜息をつく。

「その話は、今したくない」

「逃げるのか?」

「逃げたいよ、終わりが、そこにあるから」


 沈黙が、通り過ぎる。


「オレ、重義のこと、忘れないとだめなんだ」

「なんで急に、家は姉さんが継ぐんだろ?」

「……紀世みちよ子どもが産めない体らしい。だからごめん、好きになって。オレが告白なんかしなければ、重義は、オレを好きになんて、ならなかった」


 重義は驚いた顔で、尾花を見つめた。

「ちょ、まってまって。紀世さん……!?なに?!」

「重義は、やっぱり紀世が好きなんだろ」

「なに言ってんの?もう俺、駿のこと、わかんねえええ」

 パニックになって叫ぶ重義だったが、それでもと腕組みをした。

「おまえが忘れても、俺が忘れないから」

 腕組みをしたまま重義が言うので、尾花は苦笑した。腕組みは、相手が何を言っても、絶対に押し負けないぞと心に誓っている仕草だった。


「そんなに、気負わなくてもいいよ。重義。オレ、おまえと付き合えただけでいいのに要求が多くなったせいで、悩ませた」

「え、なにも言われてないぞ、おまえから」

「頭の中で、どっか行きたいとか、いろんな事したいとか、普通の恋人みたいなことしたくなってた」

「なんだよ、そんなのかわいいやつだろ。言えばいいのに」

「言えるかよ、そんなの」



 その様子を見ていた友里は、そっと台所へ戻った。

「どうしよう、優ちゃん、すごく大事な話してる」

 友里に言われて、優は時計を見た。23時近く。友里を胸に抱いて、優はくちづけをしようとして友里に拒まれた。

「優ちゃん、ごめん、嬉しいけどバイト帰りで汚いから……ねえ、まって……っ」

 友里の制止をものともせず、優は唇を奪った。友里が、戸惑ったように声を押さえて震えている。気が済んだように優は友里を抱きしめて、肩越しに顔を乗せた。

「ごめん、すごくしたくて」

「ううん、怪我の時の話したから、寂しくなったのかな」

「そうかも……」


 重義との会話にいたたまれなくなった尾花が、洗い物を持ってきて、台所の入り口で固まっていたので、優は人差し指で唇を抑えて、内緒の合図をした。尾花が頷くと、居間に戻っていく。


「友里ちゃん、ありがとう」

「優ちゃんが元気でたなら良い!」

 意味も分からず、友里が頷く。優をぎゅっと抱きしめて、友里は、その足でお風呂へ向かった。

 残された優は、友里を名残惜しく思いながらふたりの元へとりあえず向かった。



「で、どうするの?」

「別れない!」

 重義が元気よく優に言うので、深夜だというのに元気だなと思った。尾花はさきほどのせいか、優の顔を素直に見れずにいる。

「優さん、あれってどういう意味?」

 溜まらず、尾花は優に問いかけた。

「ふたりも仲良くすればいいのにという意味」


 重義が、尾花をじっと見つめる。尾花は、戸惑って辺りを見やる。


「ああ、でもそうか、オレと優さんが婚約して偽装結婚すれば、よくないですか?」


「は?」

 優の低音が荒井家に響いた。

「なにいってんだ、駿!?」

 慌てた重義も立ち上がる。


 お風呂から帰ってきた友里が、にこにこと「なんの話?」と問いかけてから、尾花の言い分を聞いて、おもいきり呆れた声で言い放った。


「尾花さんは、あほの子かな?」


 尾花は、しょんぼりと萎れた。



 友里は、お風呂上がりの洗い髪のまま、尾花の隣に椅子を持ってきた。

「跡継ぎ問題で、結婚しなきゃならないのに、偽装結婚が許されると思っているの?優ちゃんが周りに責められて、尾花さんはそれをずっと助けていられる?それに優ちゃんは、お医者さんになるっていう夢があって、その夢は、かなえてあげられるの?」

「あ、っと」

「何にも考えないで、発言したんだ?ホント尾花さんは、わたしよりずっとあほだね」


 呆れたように、怒った友里に尾花が責められて、優と重義は添える言葉はない。

「友里ちゃんこういう感じなのか」

 重義が、感心したような声で優に言う。

「うん、いざとなったら、口が達者なんだよね、わたしはいつも負けてしまう」

 優がうっとりというので、重義は小さな声で「ばかっぷるだ」と言った。


「紀世さんの件が判明して、尾花さんは、慌てて重義との思い出を作ったんだな。そして頃合いを見て、お別れをする予定だったのか」


 優がまとめて言うと、尾花はこくりと頷いた。

「まさか、重義がこんなにしつこいとおもわなかった」

「おまえー!駿!!」


 重義が手を高く上げて、その手を尾花が掴んだ。

「好かれてると思わなかったから」

 涙目になって、尾花は言った。

「オレだけだと思ってた、ずっと、だから、この先の事なんて、何も考えてなかったんだ。付き合ったら、なにをするかとか、この先の人生の責任を」


 一気に言われて、重義は悩む。

「確かに、俺も、全然考えてなかった」


 友里は、ううんと考え込んで、「口をはさんでいいかな」と言った。


「「今が幸せ」の積み重ねでいいんじゃない?」

「うん?」

「いろんな努力が必要だと思うけど、今、幸せって思うことをずっとしていけば、将来とか、人生が、それだけで埋まるんじゃないかな」


「短絡的すぎない?」

 尾花に言われて、友里はすこし考えて笑った。

「でも今、こうして生きてるのって、優ちゃんが尾花さんを助けるって、選んで、そこから、してきたことの積み重ねでしょ。今幸せなら、それが正しかったってことだから」

「命の恩人に言われると、厳しいな」


 尾花は髪を掻いて、腕をくるりと撫でた。


「幸せじゃないなら、選択が間違っていたってこと?」

 重義に言われて、友里は首をかしげる。

「ううん、そんな簡単なことでもなくて、まだ途中ってことなのかな。そこからどうなるかは、今の自分が、頑張ってもがいて、最善のことを選ばないと、どうしようもないと思う」

 友里に言われて、尾花は瞳を閉じた。納得したように、口を開く。

「5年後、一緒にいられるビジョンが見えない。だから、ここで、恋は断ち切らないと」

「本当にそれでいいの?」

「良いんだよ、友里さん」


 今度は泣かなかった。尾花は、手首をくるりと撫でるとほほ笑んだ。

「重義、振り回してごめん」

「ううん、俺はずっと好きだから、なんかあったら言えよ」

「なんだよそれ。絶対すぐ、他の子好きになって、幸せになって」


「やっぱり、あほの子なんだな、駿は。それはねーって」


 重義は愛おしい笑顔で、尾花の頭を撫でた。

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