第154話 月光
浴室から出るころには冷静になれると思っていた優だったが、それでも友里を抱きたい気持ちで溢れていて──、昼間、酔っ払った恋人に手を出したことも、人様の家で、熱を解放しようとしたことにも、今日だけで自分の理性の在りかを何度も疑ってしまう。
(今夜はぜったいに友里ちゃんに触らない)
友里に嫌われてなかったと思うだけで、こんなに浮かれてしまう自分が恐ろしい。
幼いころから、友里への感情を封じ込めてきたのに、友里が、「初めてを全部」と優に与えてくれた日から、抑制がきかない気がしてくる。
(友里ちゃんのせいにして、最低だな)
髪を乾かすドライヤーは友里が部屋に持って行ってしまったので、洗い髪のまま客間に戻ると、友里が昔から変わらぬ笑顔で出迎えてくれて、抱きしめたくなる。
「優ちゃんの髪、先に乾かしてあげるね」
恋人の顔で、幼馴染の気安さで、脱衣所での寸止めなど、なかったかのように優の髪に触れる友里に、クラリとした。細くやわらかな指が、髪の合間に入り込んで、優はこの時間が永遠であればいいと思うほど、心地よくなる。
「優ちゃんも、高岡ちゃんも、もうおねむなんじゃない?」
柔らかな友里の声がして、優は閉じていた瞳を開いた。ヒナは優とバトンタッチで浴室へ向かい、高岡が睨みつけていることに、ようやく気付いた。友里以外、目に入っていなかった。
「大丈夫よ、だって駒井優にちょっと言っとかないと……」
うつらうつらとしながら、お布団に入っていた高岡が、たちあがり、髪に塗るためのヘアオイルを友里に渡しながら言う。優は頷いた。
「……きょうはわたしも、高岡ちゃんに説教されたい気分だ」
当たり前に優に甘え寄り掛かる友里の胸が、首あたりにふわりと乗って、優はまたクラリとした。甘いヘアオイルの香りがして、友里を抱きしめたくなる。かわいい恋人の髪を、優も撫でて乾かしたいと思った。
「友里ちゃんの髪、乾かしてもいい?」
「え、ええっと……恥ずかしいから、大丈夫」
友里が言うので、優はあからさまにがっかりする。やはり、自分の気持ちを正直に言ったせいで、友里がどこか遠くへ行ってしまったのかもしれないと思った。
「私の前で恥ずかしいだけでしょ?気にせず、そのしょんぼりしてる駒井優にしてもらいなさいよ」
嫌そうに高岡が助言してくれて、友里はようやく優に甘えてくれた。恥ずかしがっていただけだと高岡が教えてくれて、優は高岡を見つめる。
「高岡ちゃん……いや、高岡先生……友里ちゃんのこと色々教えてください」
思わず呟くと、高岡が「げえ」と「あなたのほうが、色々知ってるわ」と言いながらも口を開く。
「私が思うのは、駒井優は、先回りしすぎなの。友里を見守るだけでいいのよ……すぐなんでもかんでも手を出すから、友里が、駒井優のほうがスゴイって思っちゃうの……あなた、手が早いのよ」
(別の意味に聞こえる)と思いながら、優は頷いた。
「『優ちゃん、わたしも髪を乾かしてほしいな』って友里が言ったら、すればいいってことよ?」
「……なるほど。え、言い方がスゴイ似てる」
「うるさいわね、うつるのよ口調が!」
ポソポソと話していると、友里が、「仲間に入れてよ」という。友里には、ドライヤーの音で聞こえてなかったようで、優と高岡で少しホッとした。
「このヘアオイル、優ちゃんの香りがする」
「駒井優は、バラの香りなの?友里ってばほんと、あけすけなんだから」
高岡が呆れたように、友里を見た後、赤い顔をしている駒井優を見て、笑った。「良かったわね」と言われて、優はこくりと挨拶をするように高岡を見つめた。
「好きな人の香りって、一番好きな香りに変換されるって話は本当みたいね」
友里が、ハッとして、優を鏡越しに見つめると、髪を押さえて真っ赤になった。それを見た優も、つられてしまう。
「……ねえ、そういえば人間の感情が動くと瞳孔──黒い部分ね。大きくなるって話、知ってる?」
「聞いたことないかも。優ちゃんは黒目がちだから、なにも変わらないのかな」
高岡に言われて、優は目を閉じた。友里に余計な話題を、取り入れないでほしいと思った。優が、友里を見つめるときの視線を、友里に気付かれないで生きていきたい。──人は、性欲がたかまると、黒目が大きくなるらしい。
「友里の話をすると駒井優の瞳が……」
「高岡ちゃん、その辺で」
「臆病ね。友里は、駒井優が友里を好きって確証を得るたびに喜ぶんだから、いいじゃない。ところで駒井優は、友里をどんな香りに感じるの?」
「友里ちゃんの前で聞かなくても……!」
「あら、それを聞いた友里の様子を,私がひとり占めしていいの?友里も聞きたいわよね?」
「え!?あ…えっと、うんでも、優ちゃんが困るなら」
「……!」
確かに、暴走列車のように止まらない友里のポジティブな様子から一転、恋の話をするたびに友里が、お淑やかなお嬢さんのように、頬を赤らめ、モジモジと「優ちゃんが大好き」という顔で俯いている様子を、自分が引き出せる機会は、ほとんどない。
恥ずかしさを感じると友里は、少し下品なジョークを飛ばしたり、場を壊すような事を言う。今はそんなこともなく、受け入れているではないか。
「高岡先生……」
「やめなさい!!」
いたたまれなくなったのは友里のほうで、髪を乾かしている途中で、「風に当たってくるね」と部屋から出て行ってしまった。
「おいかけないの?」
「行っていいの?わたしは手が早いよ」
「……ばかね……きょうは月が綺麗よ。語らうだけとか、諸々をしてきなさい」
優は少しだけ頬を赤らめて、先生の言うとおりに友里の後を追った。
:::::::::
「友里ちゃん」
雪見窓の縁側にいた友里に声をかけると、友里がホッとした顔で優に駆け寄ってきた。待っていてくれたと気づいて、高岡に感謝した。優だけの判断だったら、友里を待たせたままだった。
「高岡ちゃんがからかい出すと、どきどきしちゃうね」
手でパタパタと顔を扇ぎながら、友里が言う。
「わたしの話、高岡ちゃんには、いっぱいしてるの?」
優が問いかけると、友里があからさまに動揺したように唇を突き出した。
「ええっと……そうかも。でもだいたい、高岡ちゃんはどんびき」
「あはは」
優が笑うと、友里は「モウ」と鳴いて、優の腕にしがみ付いてきた。優は、友里の柔らかさにドキリとする。手を出さないと、お湯の中で誓ったが、肩を抱くぐらいは、幼馴染の時だってしていたのだからと、自分に言い訳をする。
「優ちゃんが、だっこしてくれると、安心しちゃう」
「そう…?」
余裕ぶった声で、友里に言いながら、内心で(わたしは、ドキドキしているけれど)と追加した。この言葉を、友里に直接言ってしまえば、友里が優の恋心に大いに気付くことはわかっているのだけれど、長年沁みついた隠ぺい体質が、それをさせようとしない。
「月が、きれいだね」
「すごいあかるいね、優ちゃん」
友里の笑顔を見つめながら、優は有名なネットミームを呟いてみる。I LOVE YOUを、夏目漱石が訳したというが、眉唾だ。漱石晩年の思想である「道義上の個人主義」が脳内に駆け巡ることで、アイラブユーが伝わらない友里を抱きしめたい感情から、冷静になっていく。
いつもなら、「おつきさまの光に輝く優ちゃんの頬の輪郭が~」と始まる友里の言葉を少し待ってしまった。優を絶賛する友里の言葉も、優を冷静にさせる。友里も言いたそうな顔をしているが、そっと優を見上げるだけで、その濃い蜂蜜色の瞳が輝いている。
(瞳孔は、大きくなっているのだろうか?)
優は、友里が、ときめいたり、動揺したり、性欲を感じたりしているのだろうかと思って、瞳から目を反らせなかった。
「そんなに見られたら、恥ずかしいよ、優ちゃん」
赤い顔で言う友里に、優はどきりとした。
最近の優は、友里に対して中学生のような反応をしてしまう。覚えた大人の女性への対応をすべて忘れて、感情のまま、友里を見つめている気がしていた。真帆と出会ってなければ、そうなっていた姿だ。
「ごめん」
「ううん、可愛いから、良いよ。ああ、緊張しちゃう」
「どうして?」
「だって、優ちゃんのこと、抱きしめたら、もう我慢できないもん」
「……友里ちゃん」
「ごめん、はしたないね」
「ううん、わたしも同じこと、思ってたから」
友里がポッと頬を染めて、優を見上げる。優は、くちづけを我慢をして、そっと肩から背中に手を移動して、友里を胸に柔らかく抱いた。きつく抱きしめてしまうと、そのまま体をまさぐってしまいそうで、こわい。
「……優ちゃんの心臓の音、早いね」
どんな言葉よりも雄弁だと言った友里の言葉が、また聞こえてきて、優の心音をさらに高める。
「いつまで、友里ちゃんのことを、こんなふうに思ってしまうんだろう」
「どんなふうに?」
「幼馴染カップルはね、付き合いが長いから、飽きるんだって」
優の言葉に、友里は優の胸の中で小さく首をかしげる。優もその話を聞いた時、まったく同じ気持ちになった。
「友里ちゃんの香りをほかのモノに例えることは出来ないけれど、ずっといい香りだと思っている。幼い頃から毎日、今日もまた新しく恋をしたみたいな気持ちになってしまうから、本当に飽きる日がくるのかな」
「うぐ」
「うぐ?」
「優ちゃん、死んじゃう……」
「え、大丈夫!?」
「可愛すぎる……!」
友里がふざけ始めて、すごく緊張したのだと気づいて、優は心臓がドキドキと踊った。口下手な自分の言葉が、友里に届いている意味を理解して、ここで自分があきらめて別のことをしださなければ、友里は、すっかり自分に落ちてきてくれることに気付いていた。
「緊張してしまう友里ちゃんも、好き。ポジティブで、かっこいいとこも、大好き。なにをしてても、心を奪われてしまうよ」
「優ちゃん…もっと自分を大事にして。そんなに誘われたら、ひどいことしちゃいそう」
「自分より、友里ちゃんが好き」
「もう!優ちゃんは、最初は嫌がってるのに、はじまっちゃうと思い切りがいいんだから……!」
「ええ……?」
「だってキスしてって言っても、素直に言ってって言っても、恥ずかしがって嫌がるのに、わたしがもういいって言ったら、ずっと、口説くんだもん」
そう言われれば、そうかもしれないと思い、優は少しだけ思考する。
「友里ちゃんに、いらないって言われると途端に不安になるのかも」
素直に、思考結果を言うと、友里が拍子抜けしたような顔になる。
「そっか。わたしにとっては、もう充分っていう意味なのに、優ちゃんは、途中でわたしに勝手に終わりにされた気持ちがして、ヒートアップしちゃうってこと?」
「そうかも……」
「だから、えっちも、もうだめっていうと、また始めるの──」
「その話は、いまはよそう」
優にきっぱりと言われて、友里は笑った。優は気まずそうに、首元に手を置いて、友里を見つめる。(笑顔がかわいい)と伝えたくなったが、友里から、今の笑顔を取り上げたくなくて、柔らかな月光の下、ふたりで微笑み合った。
窓から見える月の光に、いつか地球から月が離れていくことを思い出す。それは遠い未来だけれど、必ず訪れる別れだと言われている。
(先に地球が滅びるかもしれないのに)
優は物騒なことを想う。
月の光に輝く友里を、抱きしめられる幸福だけを、甘受したい夜だった。
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