第134話 めずらしい
柏崎写真スタジオの奥で優と柏崎ヒナの姉のキヨカがなにやら言い争いをしている事はわかるが、直角の壁の向こう側で、ヒナと友里には正確な声までは聞こえなかった。
「なに、話しているんだろう?」
重い長い棒を持ったまま、ヒナを胸に抱えるように立っていた友里は、そろそろ腕が限界になっていた。ヒナが、それに気付いて、そうっと抜け出し、自分もその棒を支えようとして、失敗して盛大に転んだ。
友里もそれにつられて、棒と一緒に、壁の向こう側へストンと落ちた。。
見上げた先に、キヨカと優が、顔を寄せ合っているのが見えた。友里の姿に気付いた優が、目を見開いてキヨカから離れて駆け寄ってくる。
「友里ちゃん!」
駆け寄ってきた優を見つめる友里は、優の唇に、口紅はついていないことだけは見た。しかし、やはり、くちづけをしていたように見えて、ぼさぼさの頭のまま、優をまっすぐ見つめる。
「優ちゃん、いま」
──キスしてなかった?
いつもならすぐに口をついて出る言葉が出なかった。感情が自分でも理解できなかった友里は、抱き起してくれた優にぼんやりとお礼を言うと、無意識のまま髪を結びなおした。
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柏崎姉妹に挨拶をして、写真館を後にした。キヨカから受け取ったお金で、友里は、手芸用品店で水曜日に注文したヒナの制服用の生地や、それからドレスの素案を見てもらって、日数も無いのでさっそく数枚の布を予約した。
可愛いボタンが入荷していたので馴染みの店員さんと話しながら数個購入して、優と話しながら帰宅の途についた。
「友里ちゃんが採寸しているとき、真剣な表情がとても素敵だった」
帰りながら優が手をそっとつないできた時、友里は、ようやくハッとして、優の美しくかわいい姿に正気を取り戻した。呪いが解けたようだった。ときめきながらその手を握り返したが、もわりと広がる薄い膜のようなものがあって、後遺症に戸惑った。
「優ちゃん、大好き」
「突然だね」
こそっと小さな声で、優は「わたしもだよ」と言った。
「優ちゃんはかわいい淑女!」
「淑女じゃないって……」
「キヨカさんとなんの話してたの?」
心に強い自信のようなものを宿してから、なんでもないコトのように、優を見上げながら友里は、ほほ笑んで聞いてみた。心臓が震えていて、手のひらから悪いなにかが優へ流れ込んでしまいそうで、緊張した。
「ああ、昔馴染みだったみたい。逢ったのは初めて。ちょっと口論みたいになったけど、もう会わないから大丈夫だよ」
「あわないの?優ちゃん……でも」
──キヨカさんとキスしてなかった?
聞こうとして、友里はパクパクと唇だけ動かしてしまう。キヨカと口論になる内容も気になるが、優とキヨカの件に踏み込んで聞いても良いのか、友里はどう切り出せばいいか迷っていた。
「そうだ、今日はどっちの家にお泊りしようか?」
友里が気にしている柏崎キヨカとの件は、もうなんでもないコトのように優がそっと艶めいて、聞いてくるので、友里は今日が、これからなんの予定もない土曜日であることを思い出した。
明日は優は予備校へ行くので、友里は日曜日をひとりで過ごした後17時からバレエスクールだ。その間、荒井家でお裁縫をする予定だろうし、友里の家がいいだろうかと優が言っている。
「ん……、優ちゃんのお家がいいな」
声が震えた気がして、友里は優から目をそらした。優の家で、キヨカの件をもう一度言葉にして、なにかあった時に自分が逃げて出て行けばいいと思ってしまった事が、つないだ手のひらから伝わったらどうしようと思って、そっと手を離した。
「友里ちゃん?」
その反応は、やはり不思議に思われたようで、優が友里の瞳を覗き込むようにして見つめる。優にすべて、口に出さないでも伝わればいいのにと友里は思って、しかしきっとそれは叶わないと思い、無理やり唇で微笑んだ。
──しかし、やはりわだかまるのは良くないと思い、ぎゅっと目をつぶると、握りこぶしを作って、口に出した。友里は、思っていることを溜めておくことに全く慣れない。
「キス、してなかった?キヨカさんと!」
優は冷蔵庫にスニーカーが置いてあった時のような顔で、友里に驚く。しばらく思いを巡らせるように眉を寄せてから、友里の疑問の答えを見つけて、優は答えた。
「もしかして、胸倉をつかまれてたところを見られたのかな?ちょっと、仲たがいしちゃって」
「え、優ちゃん喧嘩したの?」
「喧嘩というか、キヨカさんに耳障りな言葉を言っちゃった」
「優ちゃんが……?!」
友里は心の底から驚いた顔をして、優を見上げた。
柔らかなまなざしと淑女の微笑みで、友里を見つめる優の唇から、人を怒らせる言葉が出るのかと、友里は不思議に思った。
「わたし、けんかっ早いんだよ、3人の兄がいるんだから!ね、淑女とは程遠いでしょう?」
「えええ?駒井家の姫にめろめろお兄さんたち、優ちゃんとけんかするの!?」
友里は、思わず笑った。確かに、友里には完璧な淑女である優だが、カっとなると強引なところがあることを、友里は身をもって理解していた。強引なくちづけを思い出して、サッと頬が赤くなる。最近、すぐに頬が赤くなってしまって、友里は困っていた。
「友里ちゃんやっと笑った。今日はどこか、緊張していたのかな」
「え!そうかな?そうかも!はじめての、お仕事だもんね!?」
友里が「なるほどな!わたし緊張してたんだ!!」と自分の心のもやへ答えを出すと、優はニコと笑った。友里は、道端だったが、優の胸に飛び込んでグレーのロングコートの中に、自身を沈めた。
「友里ちゃん、歩けないよ」
優が困ったように言うが、そのまま優の柔らかな胸にジッとした。背中の筋肉のくぼみをサワサワすると、ふわりと優から、薔薇の庭園のような清浄な空気が香って、うっとりとしてしまう。
「早く帰って、抱きたい」
「え!」
まだ辺りは明るく、田舎でも人影がぽつりとある。
友里の大胆な発言に、優は人前では完璧な、いつものポーカーフェイスを崩して真っ赤になった。
「あ!!!ごめんね」
さすがにデリカシーのなさに気付いて、友里のほうから謝った。優は横に首を振って、優よりももっと真っ赤に染まった友里を見つめる。友里が優の手を取って、ほんの数メートル先の自宅を通り過ぎ、角を曲がって駒井家に走り出した。
走っているうちにテンションが上がってきて、友里は「あはは!」と笑った。優も笑ったが、少し困ったような戸惑った顔をしている。友里の気持ちを量りかねているように探るが、友里自身もそのモヤリとした膜の正体を自分で「緊張していたから」と理解して落ち着いてしまったので、優にわかるわけがなかった。
駒井家には誰もおらず、軽くシャワーを浴びてから優の部屋で、友里は優を心が急いた状態で抱いた。
楽しい気持ちや嬉しい気持ちを優先した友里は、キヨカとの件など、話を切り出すこともなかった。
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月曜日、学校。
「そういえば、友里はこれが何に見える?」
「黒猫ちゃん!かわいい、お散歩してる」
お昼休みにすっかり2年生の教室へ遊びに来るようになった高岡と、開放日の屋上へお昼ご飯を食べに来た。いちまいの紙を見て、高岡が聞くので、友里はもち麦の山菜ごはんの入ったお弁当箱をおなかに抱えながら、ちょうちょを追いかける黒猫だと言った。
「さすがね」
高岡が唸る。優の描いた「ネコ」の図は、高岡にとってはタコのクリーチャーだが、友里には優の思惑通りのかわいい黒猫にみえるらしいと知って、その紙を折りたたむと友里に進呈した。友里はその紙を、丁寧にポケットへおさめた。
「いい天気ね、駒井優も、誘えればいいのに」
「ねえ~」
友里は屋上からの空を見つめて、ニコニコと頷いているが、先ほどからごはんが進んでいない。高岡が心配そうに見つめるが、友里は気付かなかった。
「……駒井優と、なにかあったの?」
高岡が聞くと友里は首をかしげる。
「だって友里、めずらしい状況よ、あなた──」
高岡が言いかけたが、柏崎ヒナが、友里を探しながら駆け寄ってきたので、友里はお弁当箱の蓋を閉じて、立ち上がって手を振った。
「土曜日は、姉がお騒がせしてごめんなさい」
「ううん、こちらこそ、すぐ帰っちゃってごめんね」
ドキリとして、言葉に詰まっていると、高岡が(どちらさま?)という顔で見た。
「柏崎ヒナちゃん、今度、彼女の洋服を作ることになったの」
友里が紹介すると、高岡は簡単に名乗り、頭を下げた。幼馴染だと友里が言うと、ヒナはニコリとほほ笑んだ。
「じゃあ、駒井さんとも?」
「あっちは高校に入ってからよ」
柏崎の言葉に、パッと否定してから、先輩だったことに気付いて、高岡は友達口調を謝罪した。しかしヒナがなにか言いたそうに友里を見つめ、高岡へチラリと目線を送るので、場を明け渡せと言われていると気づいた高岡は、友里にそんな気の遣い方は出来ないだろうと思って自らが立ち上がった。
「いいわ、友里、また放課後」
「高岡ちゃん?」
含むように微笑まれて友里が止める間もなく、高岡は出口へ小走りに行くと、一階へ降りて行ってしまった。
(今日ってバイトだし、優ちゃんとも"放課後15分"が……)と思いながら、友里は高岡の背中に手を振った。
他の生徒たちがバレーボールを始めたため、柏崎が、写真部の部室へ友里を誘った。
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