第138話 こころの隙
校門をくぐった駒井優の背後に、赤い車がスウと近づいてきた。不信な表情で見ると、そこに柏崎キヨカが乗っていて優は驚く。
「乗って」
国道から声をかけられたが、優は無視をして駅へ歩いた。駅前のロータリーに先回りして待たれていたが、優は友里に約束をしたので、もう逢わないと決めていた。しかし、車から降りて来たキヨカに他車の車に迷惑をかける形で「優には付き合う責任がある」と詰められ、諦めて赤いスポーツカーに乗り込んだ。
制服姿の優をのせて、夕暮れの国道を走りだすと、キヨカはタバコに火をつけた。優がむせるので、一口だけ吸ってすぐに携帯灰皿で消した。「彼が嫌がるし、真帆も嫌いなのに、なかなか手放せないのよね」と言いながら、優をミラー越しに上目遣いで見た。
「真帆から、どこまで聞いてるの?」
煙を吐き出しながら呟くキヨカに、唇に握りこぶしを当てて咳をひとつしてから、優は答えた。
「昔から片思いしていた、キヨカと、大学卒業間近、お付き合いできたと。てっきり今も二人と一緒と思っていたので、この間は結婚に驚いてしまって……失礼な言葉を、すみません」
「「彼女の幸せを遠くで見守れ」って、ガツンときたわ」
キヨカは長い黒髪をさらりと肩の向こう側へ送って、優をちらりとみるとウィンカーを出した。
「どこへ行くんですか?」
「とりあえず、ホテル」
「未成年者略取です」
「真帆を散々抱いたんだし、わたしとも試そうよ?顔が好みなのよね」
「ふざけないでください。……他に理由があるんでしょう?」
あっはっはとキヨカは笑った。
「雰囲気は確かに、わたしに似てる……、なーんて言っちゃうと自分の美貌に溺れてる気がするぐらいだな、きみは。──真帆ってば、メンクイだ」
目を細めて優の造形を褒めながらキヨカが笑うと、黒目がちの瞳の下に涙袋がくっきりと光った。「笑った顔がそっくりなの」といった真帆の声がした気がして、優は、いつも「無表情」「人形のよう」と言われる自分が、真帆の前では笑っていたことに今、気づいた。
キヨカはそれに笑うが、優にとっては欠片も笑えなかった。真帆とキヨカの関係は、怒りから始まっていて、その原因は優だった。優と真帆の関係がキヨカに暴かれて「優はキヨカの代わりだ」と真帆が言ったことで、キヨカの実家で、暴力さながらに体の関係を持ったと優は気づいていたが、キヨカには伝えなかった。
優は無表情のまま流れる景色を見つめた。大きな橋を渡っているが、ぐるぐると県内を走っていることがわかった。「今日中に帰してください」と言うが答えはない。車内はキヨカの声だけが響く。
「……真帆と再会して、わたしと離れてても綺麗になれるんだ、って驚いた」
深い嫉妬のような声は、占有の色が濃すぎて、むせるようだった。キヨカの言葉は、真帆への愛ではないようにとれて、優は無表情のまま、その言葉を聞いた。
真帆のことを「ゆり」と呼んでいた優は、真帆からは「キヨカ」と呼ばれていた。キヨカの身代わりに、真帆を抱いた過去を、恋人の友里に、きちんと言葉にはしていない。「キヨカとの終わりは、わかってるの、でも幸せ」と、「ゆり」は記憶の中で儚げに微笑んだ。優は、「いつ終わりが来ても友里の幸せを願って手放せる」と思っているくせに、もしも、友里が「ゆり」と同じように優に対して思っていたらと思うと、胸が痛んだ。
キヨカが、真帆の幸せを願えない人間ではないことに悲しくなる優は、("キヨカ"に思い入れが過ぎる)と気持ちを切り替えたいと思った。自分の中にある、"キヨカ"ではなく、出逢ったばかりの"柏崎キヨカ"に向き合わないと、感情が「キヨカのために離れることを決意した真帆を守るため」へと引っ張られてしまいそうだった。
友里ならどう答えるだろうと優は考えた。他人の幸せばかりを願うから、きっと、身勝手だと今の優が感じてしまうキヨカの恋すら、応援するかもしれないと思った。頭の中の友里なら、一番の疑問に思うだろうことを問う。
「真帆のことが、まだ好きなのに、結婚するんですか?」
「そう、だってわたしがフラれたんだもん。婚約者を3年も待たせて、未練がましく待ってるのもオシマイだって決めたのに、マリッジブルーのこころの隙を狙って、ふらりと帰ってくるなんて。しかもウェディングドレスの試着に付き添う?!優さんにこの意味がわかる?」
キヨカが、優が思っているよりもずっとすんなりと、聞きたかった答えを言ってくれて、友里に感謝したい気持ちになった。キヨカは優を見てタバコがほしいと言うハンドサインをして、強いため息を吐いた。
「真帆が、帰ってきたのは、あなたの結婚式を祝うためだよ、きっと」
友里の残響を感じながら、優は言ってみる。常に人の良い所を探して、他者に甘い期待を持つ友里なら言うだろうと思った。──優自身も、もしも友里が他人と結婚するのなら、スピーチくらいはさせてほしいと、かねてから思っている。
「……奪いに来たとか思っちゃう自分が、女々しくて嫌い。ねぇ、それが本当かどうか真帆に聞いてくんない?」
「それは」
優は黙る。関わるなと突き放そうとしたが、優は、友里ならば、絶対に「わかった!」と言って駆けだすだろうと思ったため、反応に迷った。ふたりの橋渡しになって、各々の幸せを得るまで、見守ることが、自分ができる、真帆への罪滅ぼしなのだろうか、と。
「厳しく見えて親切だな。わたしと、きみの違いはここかも」
「?」
「こんな無理矢理に付き合って真剣に話してくれてさ。真帆がわたしと付き合って、どっか違うってなっちゃったのかも。キミみたいになんて出来なかった。卒業までの数ヵ月本当に幸せだったのに、いっぱい泣かせたんだ。だからフラれたのかもしれない」
「別れまでわたしのせいだと言いたいんですか?」
優が自分の言葉で冷たく言い放つと、キヨカは黙った。確かに優の罪は重いが、ふたりの関係に亀裂を入れたのは、他でもないキヨカだと、キヨカ自身がわかっている沈黙だった。
「──ごめん」
キヨカは心許なげに俯く。真帆へのわだかまりが残ったまま、結婚を選んでいいのか、はかりかねたまま、身動きが取れなくなっているのだと吐露した。そんな時に、ある意味でふたりの関係に進展をもたらした駒井優に逢えたのは、天啓だと思ったのだという。
「だから、真帆に聞きたいんだ。ただ、もう好きじゃないのか。愛しているから、わたしと、写真館のために、別れたのか……愛しているのなら、わたしは……」
「別れを選んだ相手をまだ好きなら、不用意に近付かないのも、愛情だと思いますよ」
優が、友里を演じるのをやめ、自分の意見を柔らかな声色で言った。
「あの子ほんとにわたしにだけ、嘘が上手なんだよ」
キヨカが真帆に敵わない自分の弱さを、小さな声で言う。
「真帆が、ちゃんと愛してくれるなら、わたしはすべてを手放すって言ったんだよ。なのに、「だからこそ、別れる」って、それが嘘だとわかってたら、キミならなんていう?」
キヨカにため息交じりに言われながら、優は無表情で車内から窓をみつめ、夕焼けが落ちて、空が濃い青に染まっていくのを眺めた。
ここに友里がいれば、優が傷つくことを察して、背中を抱きしめてくれたかもしれないと思ったが、友里はアルバイトへ行っていて、遠く離れている。優は、フロントガラスに映る自分をみつめる。
「別れます。「幸せを祈る」って、あなたが言ったように言うと思いますよ」
キヨカは戸惑って、タバコが欲しいと何度でも言う。
「じゃあ、何年後かに逢って、ずっと綺麗になってる彼女を、抱きたいっておもわないわけ?」
「真帆の気持ちを、わかって別れを受け入れたのでしょう?わたしなら、もう、二度と
優の低音の声が響いて、キヨカはゆっくりと頷いた。
「愛してるだけで充分って言ってた彼女に、手を出したのはわたしだ。どんな目に合おうと、貫けばよかったのに、結局わたしが”真帆だけ”をえらびきれなかったから、あの子が離れてくれた」
「わかってるなら、もう、真帆に関わらないで、一生幸せでいてください」
優は、自分がなにも知らない他人に言われたら、抑えがたい憤りを感じる言葉を、もう一度無表情で言った。やはり、今回もキヨカの逆鱗にも触れたようで、「この前のように胸倉をつかみたいけど、運転してるからね」と、頭を掻いた。
ドライブの理由がわかったが、優は表情を変えず、窓に映るキヨカの姿に、自分を見ているようだと思いながら、醜い嫉妬で涙にゆれる、キヨカの姿を横目に見た。
「自分以外のところで幸せになれるなら、それが一番なのに、どうして自分で幸せにしたい、そばにいて、幸せを感じていてほしいと願ってしまうのだろう」
「わかると、言ってしまいたいけれど、なんて利己的なんだと腹が立ちます」
優は自分にも言うように、キヨカの言葉に添えた。
「同族嫌悪ってやつかしら?やさしいって思って損した。キミ、ムカつくね!」
「その感情は、わたしにむけるより、自分に向けてください」
美しいふたりはガラス越しに睨み合って、一対の獣のように唸った。そして、キヨカは思わず吹き出した。
「なんで笑うんですか」
「だってきみが、真帆を守るために、わたしから遠ざけようと頑張ってくれるから……かわいくて。ちょっと冷静になってきた。うん、ありがと」
キヨカは、空元気をみせて微笑んだ。お互いの複雑な状況を理解し合える唯一の他人の、優と話して、真帆との関係に折り合いをつけることを決意できたと言う。
「優さんも恋をしてるのかな?」
「……真帆に、ではないですよ」
「わかってるよ、そこまで嫉妬深くない」
キヨカは淡くため息をついた。タバコの煙があれば、それを眺めていたいくらいの沈黙の長さ。自身を痛め付けて周囲にも害を及ぼすそれの麻痺した快感を、欲して、苦しんでいるキヨカに、優は自分がたどり着く先が、ここなら、友里に引導を渡してほしいと思った。真帆の決意の別れが、キヨカにとっては表面を撫でただけの爪痕で、内側からえぐりだして貰えなかった恋の病巣は、また何度でもよみがえってしまう。
「……ここでおろしてください」
優が言うと、キヨカはすんなりと優を解放した。
友里に逢いたくて、優は、友里のバイト先まで走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます