第72話 温度差
暗闇の中で、友里は優の膝に抱かれていた。
お姫様抱っこのような形でいるので、友里は反対がいいな?と思い優に提案してみるが、優が「重いって思われるからいや」というので、淑女の可愛さに免じて、その状態に甘んじる。
「わたしこそ、重くない?」
「羽のようだよ」
浮かれた優が、そう言って、本日何度目かわからない口づけを落とした。
(かわいい…。かわいいけど、やはり多いな…?)
友里はとっくに恥ずかしさの許容量を超えていて、その状況にいっそ、慣れはじめたので、ようやく至近距離の優を堪能していた。
サラサラの黒髪が肌にあたって気持ちいい。時折長すぎるまつげが、頬にあたってふわふわさわさわするので、目を閉じてキスをしているわけではないと気づいた。友里も瞳を開いたら、目が合ってしまい、極彩色の輝きを放って微笑まれたので、『東洋の宝石箱や~!』と思ったりした。肌は透け、穏やかな輝きを放ち、さすがにこの距離だと産毛が分かった。
一生懸命、優しくしようとしている優の心を感じて、友里も何度も自分からキスをした。
ふと、廊下を見ると、真っ暗闇が広がっている。
「おばけでるかな?」
友里が可愛い優を見たくて言ってみる。フフと優は微笑むと、友里の首元から離れて、もういちどキスをされた。
「友里ちゃん、おばけっていないんだよ、しってる?」
優が新しい説を出してきたので、「その心は?」と聞いてみた友里。
「おばけだとおもうのは、人の認知力なんだって。明らかに怖いと思うことで、人はありもしないものを委縮した脳で具現化するんだ。認知能力の衰えを感じ始めた軽度の認知症の人も、ありもしない物を頻繁に見たりする事例が多分にあるっていう話だよ」
「へええ…」
聞きながら、なにもない廊下の奥の奥の部分をじっと見つめて、優がビクリとするのを楽しんだ。
「もう、いじわるだな、友里ちゃんは!」
きらわれると困るので、そっと手を取って、「なにか来たら私が守るからね」と言って手にそっとキスをした。優がポッと赤くなるので、「かわいい」と呟いた。ひどいマッチポンプだ。
窓の外では、まだキャンプファイヤーが続いている音がしているが、優にいだかれながら、友里は優の胸にスリスリとする。すると優が気付いて、もう一度幸せで優しいキスをする。
「ああ、だめ…!なんかもう…!!はずかしい!!!」
友里は唇を両手で覆って、体を前に丸めた。
「どうして?わたしは、うれしくて、ふわふわしてるよ!」
優の知能が著しく落ちている気がして、友里は優の頭を撫でた。かわいい。
友里は脱ぎ散らかした靴下をはくために、優の膝から降りた。さすがに、このまま朝までキスをし続けるわけにもいかない。
「いま以上に、おばかになっちゃう…!」
キャンプファイヤーが終われば各々解散になるけれど、さすがに後楽や萌果ともう一度逢う分くらいの知能を残したかった。
「ねえ、やっぱり気持ちが残ってる気がするから、バレエを習い事としてやってみたら?さっきの友里ちゃん、とても綺麗だった」
知能を取り戻した優が、ふと思い出したように、そういうので、友里はナイナイと手を振った。
「完全な片思いなので、早く諦めたいなって気持ちしか、残ってないの」
友里は、靴下をはき終えて、まだ熱いのでジャケットは着ず、腕に抱えると優に向いた。17歳の今、戻ってなにか出来るほど甘い世界だと思えない。失った7年はもう戻らない。戻れないと決めたのに、どうして今さら。もっと早く、……いや、去年も一昨年も、その前も言っていた気がした。バイトに明け暮れ、ダンススクールに行けなくしていたのは自分だ。第3日曜日だけ、空白にして。
──離れていないと、つらい。
素直な気持ちを言っているのに、優が欲しい言葉を言うまで、手放してくれないような空気だった。
「わたしより、好きでしょう?」
優が、友里の瞳をまっすぐ見て言うので、友里は一瞬まよったが、比べるものでは、無い気がした。
「優ちゃんとは、比べられないよ」
思ったことをそのまま口に出すが、優は真剣なまなざしでいるので、戸惑う。暗闇が深くなってきて、友里は迷子のような気分になる。
「優ちゃん、このお話やめてもいい?」
先程までの甘い空気から、あまりにも一変したので怖くなって、手をつなごうとするが、優は気付いてくれなかった。スッと手を友里の肩にのせて、説得するような体勢になる。
「ううん、友里ちゃんが、気持ちが残っているなら、わたしはなんでも協力するから」
「なんでも、って…もう、なんにもないんだって」
友里は心のそこからそう言ってるのに、届かなくて焦った。優が、なにを欲しがっているのか、わかりたくなかった。暗闇で美しい優の顔がみえなくて、甘くて低いやさしいけれどどこか遠い声だけがして、友里は不安にかられた。
「友里ちゃんが、バレエをしていた頃に、戻ってほしいんだ」
──言われた。怪我をする前の自分に、今が負けている事を、優が認めてしまった気がした。
「わたしが、バレエをしてないと、好きじゃないの?」
友里は、泣きそうな、──どこか冷たい、小さな声で言った。
座り込んだ頭上にクライマックスをむかえたキャンプファイアーの明かりがうつり、四角く真っ暗闇の廊下を照らす。ぼんやりとした光の中、優を見つめた。優以外の全てがなくなったのは、優のせいじゃないのに、優が傷ついた顔をしたので、心が、ずきんと傷んだ。
(
友里は、もう戻れない、好きなものだけに囲まれていた頃の自分に嫉妬した。片想いのような気持ちになった。
あの頃より、ずっと優のことが好きなのは、自分のほうなのに!
「優ちゃん、キスしよう」
怖くなって、友里は優のそばに戻った。甘い空気に戻れば、想いが通じる気がした。ジャケットをそばにポイと投げて、優の頬を優しく包んだ。
突然、腕をつかまれた友里は、バランスを崩し、そのまま、優の胸に飛び込むかたちで支えられる。
──唇を奪われた。
「いた……!」
痛みに離れようとするのを悟られたせいか、強く抱き締められて離れられない。こんなに荒々しく、掻き抱かれたのは、はじめてだった。制服のボタンがひとつ、はじけ飛んだ。先程までの優しいキスではなく、触れている唇が熱い。
「……っ!」
ドンと、優の細くて薄いが、大きな体を殴るように押して、友里は呼吸をして、唇を押さえると、優を見つめた。黒い瞳は光がなくなり、友里を悲しげに睨んでいる。睫の影は深く深く落ちて、青白い顔が、ちがう人に見えた。
優の姿が変わっても愛せると、豪語した自分を思い出した。
「ごめん……」
優はそれだけ言うと、スッと立ち上がって、友里をその場に残して、行ってしまった。
友里は、ずるずると体を下ろして、座り直すと、落ちたジャンパースカートの肩を直すこともせず、両手で唇を覆うように体を丸めた。
「なん…で…?」
泣きたくても泣けなくて、嬉しいはずのはじめてのキスの余韻も、優の「ごめん」の意味も、わけもわからず、ただ床に座り込んでいた。
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