第85話 バレエ


 約束した日曜日、高岡朱織は上機嫌で友里との待ち合わせに現れた。

 友里はクローデットとのアレコレを高岡に話しながら、感謝を告げる。特に、アルバムを見ながら、昔話を聞こうという点は、高岡の案だったので、その点についてお礼を言った。

「昔馴染みは、優しい思い出に包まれて、話して仲良くなっちゃうものなのよ」

 高岡はお手柄を褒められて、ジャージ姿の友里にニコニコと話をした。

 優のアルバムは、優しい思い出ばかりではなかった。クローデットが、優を支えていたのは本当だったし、友里は今もきっとくすぶっているだろう優の傷を、どう触ればいいか全くわかっていなかった。

 小学生の頃の友里と、今の友里の差別・区別を優本人にはないと思っているし、友里だけが感じてしまうことだから、自分の考え方を変えようと思った。

 優の言った「わたし以外に好きなものを見つけてほしい」を、実行しようと思った。まずは、ずっと逃げていたバレエに飛び込んでみる。


「ところで今日は駒井優こなかったのね」

「あああ…うん、お勉強するかな!って思って」

「…駒井優とは、どこまでいってるの?」

 高岡は、ぼかしつつもズバリと聞いた。

「どこまでって……」


 クローデットの諸々で、なあなあになっていたが、友里は優に胸をまさぐられたことを、思い出した。完全に、意識していた。優の手のひらを見ては思い出して、二人きりになることをほんの少しだけ避けてた。あの日、クローデットが部屋に入ってこなかったら、完全にそういう流れになってしまっても、おかしくなかったと思っていた。

(うううう、ほんとわたし、はしたない……!!!)

 あれからも、何度か軽いくちづけはしているので、友里は恋人同士の実感をひしひしと感じていたが、やはり恥ずかしくてそういう流れになるたびに避けてしまっている。

(高校を卒業したら、優ちゃんを頂こう…そうよ、それがいちばんだよ)


「…いいわ!」

 高岡は百面相の友里にパンと手を打った。質問の答えを聞かずとも答えられた気がして、会話を中断した。


「それよりも、ねえ、友里の部屋って、なにもないんでしょ」

「……え!」


 はじたない考え事をまとめていた友里に、浮かれたように高岡が突然超能力を発揮して言うので、必要以上に驚いてしまう友里。


「練習に邪魔だからよね」


 友里のなにもない部屋は、ダンスの練習に邪魔だから、ずっとなにもなかった。朱織の部屋のガラス張りのなにもない部屋と酷似していた。朱織は、やっぱりねという顔で、スッと手をあげるとステップを踏んだ。


「わかるわよ、そんなの!恥ずかしがることじゃないって友里も言ってたでしょう?」


 以前自分のバレエの指を指摘されたお返しだろうか?友里はなんでもお見通しの高岡に、真っ赤になりながら、微笑んでしまう。


 (誰にも指摘されたことがなかったのは……)

 友里は、自分が高岡の所作に気付いたように、普段からそれらを出さないよう、ずっと気を付けていた。ずっと、絶対に出さないと決めていた。あの怪我で失ったバレエだけの人生に、未練があると思われたくなかった。

 うかつだから、優や高岡にも、ばれてしまったと思っていたが、もしかしたら、友里の傷心に触れないで、見守っていてくれたのかもしれないと思う。守られていた自分に気付いて、友里は、ふうとため息を落とした。


「だから、決意してくれて嬉しい!やっとふたりで踊れるのね!」

「きっとがっかりするとおもうんだけどね〜」

 友里は諦めたように、笑った。

「バカね、ブランクありまくりのあなたを支えるって何年誓ってるとおもってるの?大人から始めるバレエなんて、考えただけでも足首が痛くて震えるわ」


 高岡が、ニヤリと笑った。



 あれだけ拒んでいた羽田バレエスクールに、するりと入ることができた。友里を、先生も、葛城も、笑顔と涙で迎えた。覚えていてくれて驚く。

「ずっといたような気がするのよ」

 羽田先生が、子どもの頃と変わらない見た目で言う。元プリンシパルは年取らない説……柔らかく友里が見つめると、羽田先生は、しかし冷酷に笑った。

「レオタードはもってきた?柔軟から行くわよ」

「ないです、ジャージは着てきました」

「かしてあげる!」

「でもわたし、背中が」

「なんでも羽織んなさい!」

 黒い薄い網のカーディガンが飛んでくる。バーレッスンすらままならない、トゥシューズも履けない友里だったが、楽しく踊って、汗だくになって、最後は床に倒れこんで、心のそこから笑った。


 恐れていた、焦燥にかられてしまうのではないかと言う心配は、全くなかった。ただ楽しくて、時間を忘れるだけだった。

 足や手の、指先の冷たい部分に炎が宿るようだった。

「先生こんにちは!」

 小さな子達が、羽田バレエスクールの白いドアを開き、カランと軽快なベルの音がした。先生と高岡達はスクールの前の時間に、友里に付き添ってくれていた。

「高岡先生!新しい先生ですか?」

 友里を、薔薇色のほほの未来のバレエダンサーたちが見つめる。

「そうよ!」

 先生方が勝手に言うので、友里は慌てて否定の手を振ったが、未来のバレエダンサーたちは、かわいく微笑んで、手を挙げて喜んでくれた。


「あと1年もすれば、トゥシューズが履けそうね。いつでも来なさいね、腰の肉が落ちるわよ!」

 羽田先生はパンと友里の落ちた腰を叩いてそう言う。また笑う。


「ありがとうございました!」

 頭を大きく下げて、友里は大好きなレッスン場をあとにした。


 着替えるために更衣室を借りた友里は、シャワールームへはいる。肩からふくらはぎ辺りまでが隠れるような軽い仕切りがついた個室が4つ並んでいる。子どもの頃からは改装されてた。昔は壁がグレーのコンクリート張りで、少し怖かったのに、今は全体がベージュ色で、明るい雰囲気だ。隣の高岡の顔がみえる。ふたりはからだの汗を流し、レオタードを軽く手洗いしながら、会話をする。

「たのしかったでしょう」

 高岡は晴れ晴れとした気持ちで友里に言った。


「うん、いますぐ優ちゃんにはなしたいことばっか!!」

「また駒井優か」高岡は唸る。



「もしもまたやりたくなったら、ちゃんと大人のスクールに入りなおすから!」

 友里が笑顔でいうので、高岡は驚いた顔をむけた。

「なによそれ、もう先生たちも、友里のために大人向けの時間、作ったのよ」

「ええ?!」

「今日が、スクール1日目!もう年末で、ここからはイベントが目白押しだから、スクールはお休みだけど、友里は来年からのお試し生徒1号よ。1か月無料」

「えええ」

 友里は、あまりのありがたさに、泣けてきてしまった。あとで料金のことなどキチンと話さなければと思った。

「やっぱり好きだったでしょ」

「うん……」

 言いかけたところで、高岡がコンコンとシャワールームの壁を叩いた。『この後自主練していこっ』と壁越しに話し掛ける、子どもの頃の姿がダブった。


「好きだからこそ。駒井優のために、始める事じゃないわよ、これは」


 友里は、心の底から、自分にはもう、プロになる道は進めないと自覚した。今も背中が燃えるように痛かった。普段の、動画などで練習するものと全く違った。高岡には、あっさりとした軽めの遊びにしか思っていない行為なのに、実力差がありすぎると、尊敬してしまう。きっと高岡もそれに気付いている。


「はあい、先生!」

 優のためにと思っていた自分を恥じた。好きだからただ、なんの目的もなく踊る、そんな風に決めてもよかったのかと改めて逃げていた時間を思った。

 さしあたって、買うものなどをシャワールームでわいわい話していく。


「──ねえ、高岡ちゃんみたいな素敵なダンサーに、おもわれて嬉しかった。わたしを、待っててくれてありがとう、ごめんね」


 楽しい空気を壊すのはわかっていたが、友里はぜったいに言わなければいけない言葉を高岡に告げた。


「ごめんなんて…!」

「だって、もっと先に行けたのに、わたしのせいで」

「行けなかったの、わたしだって友里がいなければ。ふたりだから、どこまでも高みにいけるとおもったんだもの」

 ボロボロと涙がこぼれてしまって、高岡は「ごめんなさい泣くつもりはないのよ」とあわててタオルで拭いた。


「びっくりしただけなのよね」

「……そーよ、よくわかったわね」

「幼馴染みなので」

「ふふ」


 ふたりは笑い合って、友里の怪我によって止まったままだった、ふたりの時間がようやく動き出した気がした。

 いつもの時間に来るはずの友里が来なかったあの日、高岡は先生から友里が怪我をしたと聞いた。それから次の日曜日も、次の日曜も、友里は来なかった。一か月後、友里の親が退団の連絡をして、ひと目も逢わないまま、高岡との縁を切ってしまったのだ。白い扉を、友里が開ける日を待っていた。


「ありがとう、また──よろしくね」


 高岡は、待っていた友里がそこにいて、きちんとお別れが出来て、そしてまた再会できた気がして、嬉しかった。

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