第21話 王子ではなくスパイです。

 高岡朱織の朝は早い。

 5時に起床。30分の有酸素運動。脂質少なめ食物繊維多めの朝食。部屋の一角を全面ガラスにしてバーを設置しただけの自室で、クラシックバレエの基本レッスンを一時間、6時半に軽くシャワーを浴びて、7時に学校へ向かう。

 今までは、そのまま吹奏楽部に行っていたけれど、──退部したので、40分は遅く家を出ることができるが──、空いてる電車に乗った。


「おはよう」

 有名なバレエ団に入りながら、朱織の通うバレエスクールの先生を1年前から兼任してくれている、葛城先生に会う。

「先生、私、明日から、この電車に乗らないかもしれません」

 この一言が言いたくて、この電車に乗った。月曜日のこの時間だけ、葛城先生が、いつも同じ車両で待っていてくれるから、朱織は、葛城先生と待ち合わせをしているかのような気分だった。直接言われたわけではないけど、葛城先生の性格を考えたら、きっとそうなのだろう。

「そっかあ、残念!早朝会議疲れを癒すお花だったのに~、まあスクールで会えるもんね、そっちで待ってるわ」

 葛城先生はにっこりとほほ笑む。普通に会社員として働き、バレエ団で活躍、スクール講師もして、わりといそがしそうなその葛城の人生に、朱織は憧れていた。スクールではほとんど話せないのでこの電車の15分がとても好きだった。


「早くバレエばかりの人生になりたいです」

「朱織ちゃんったら、高校生になったばかりで、何を言ってるの」


 葛城先生は、にっこり微笑む。

「バレエばっかりかあ……そうなればいいんだけど……」

 葛城先生がため息で呟いた。25歳の人生は色々ある。けれど、高校生には全く理解できなかった。


「そういえば!荒井友里ちゃんとあえた?この間ばったり、駅前で会っちゃって」

「あー……──逢えませんでした」

 朱織はその場限りのウソをついた。友里が、葛城と連絡を取っていれば、すぐにばれるのに、どうして口をついてしまうのか、下唇を噛んで下を向いた。


「そっかそっか、バレエやってた友里ちゃんとは、変わってたかぁ」

 朱織のウソを全部くんで、葛城先生はそう言った。「”バレエを習っていた友里には”逢えなかった」という意味に取ってくれたのだ。


「……──そうです、ごめんなさい」

「やだ、あやまらなくていいよ~、朱織ちゃんのことは、わかってるつもりですからね!って再会して1年だけどさ!!」

「先生は、わたしの事すぐ気づいてくれたじゃないですか!…友里なんか、全く気付かなくて……──あんなに変わってるなんて」

 朱織はロングストレートの髪を揺らして、激昂した。

「変わってたかな?なんにでも一生懸命で、笑顔が素敵な子だったよ。」

 葛城先生は、普通の態度で答えてくれる。朱織は、すぐ感情を露にしてしまうしゃべり方を反省して、己の言葉を閉じこめるようにうつむいて、気持ちを整えた。葛城先生は朱織が話し出すのを待ってくれる。指導者としてではなくそういう性格らしい。


 タタンタタン、タタン。線路の上を走る音が通り過ぎる。

 朱織は、友里がなにも変わってないことも、怪我をした後、明るく生きていたことも。朱織だけが、友里もきっと苦しみを抱えていると思い込んでいたことも。全部わかっていた。


「──朱織ちゃんは負けん気が強くて、でもバレエが大好きで!私、2人のバレエが今でも大好き。2人でオーロラ姫を踊るんだ!って言って競い合ってた時、ダブルキャストにしましょう!って先生たちと、ほとんど決定してたんだから。でも怪我で友里ちゃんがやめて、私も、すぐにこの県を出てしまったから……」

 葛城先生はやり残した宿題を前にした時のように、遠くをみた。そんな先生をみて、朱織は瞬きを一つして、視線を落とした。

「きっと友里は喪失感と傷の後遺症で、悩んで、バレエに戻ってきたいと思いながら迷ったりしてるのかなあって。であえたら、友里の苦しみを半分持ってあげようって、思ってたんです」

「うん…、ずっと言ってたね」

「そしたら、全然、笑えるほど元気で…バレエなんかすっかり忘れて、──私のことにも気付かなくて、──それはまあ、いいんですけど──怪我させた女と、仲良くしてたんです」


「あー…」

 葛城先生は、(女?)と思った。

「その女がまた、厚顔無恥で…!人面獣心の人でなしなんですよ…!!!」

「うんうんそっかそっか」


 葛城先生は1年前、再会した時から朱織が友里とのことを思い出として語るのではなく、昨日あったことのように話していたことを危惧していた。朱織がバレエへのやる気を取り戻すまでかなりの時間を要したことや、友里が、バレエに戻ってきたときに支えてあげるくらいになってないと!なんて言葉を使ってしまったことは、朱織と友里の関係に難しい溝を掘ってしまったと憂慮していた。

 友里、朱織と離れている時も成長していることに気付いて、関係が変化していたらいいなと思っていた。新しい二人の関係が聞けて、心の底から喜んでいた。──まさか、学校で友里を虐める首謀者をやってたとは、葛城先生は気付いていない。もうイジメてはいないのだが。


「友里が元気だったら、私、なにもすることないじゃないですか──だから…」

(憎まれ口をたたいてしまうのかもしれません、そんなかたちでもいいから、友里と関わりたいのかも)いいかけて、朱織はその言葉を飲み込んだ。


(でも、駒井優のような、浅ましい気持ちはないのよ)


「そうかなあ」


 葛城は長い首をかしげて、そういう。

「元気だったら、スクールの時のように仲良くしたらいいじゃない」

「え?」

「元気同士!荷物なんか持ち合わない!!仲良し!に戻ったらいいんじゃない?」


 リュックを背負ったようなポージングで先生がいうものだから、仲良く山登りをする友達同士の、いらすとやさんの絵が浮かんで、朱織はくすっと笑ってしまう。

 先生の降りる駅がやってきて、朱織が迷っている間に先生は手を振って降りてしまった。「ファイト」と書かれたバレエダンサーがグラン・バットマンをしているスタンプが送られていた。「大きく・打つ」という意味の、高く足を蹴り上げるそのポージングに、朱織は勇気づけられた。




「ふうん、先生の前では素直なんだね」



 後ろから、低音で甘い女の声がして、朱織はビクッとした。思わず見ていたスマホを落としそうになる。


「駒井優…」

 毒々しい声で、振り向くと10センチ以上、上にある小さい美しい顔を睨んだ。朱織と同じジャンパースカートに身を包んでいるくせに、王子然としている駒井優は、ふわっと華麗に微笑んだ。今まで周囲の視線など全く向いてこなかったのに、駒井優がそばに来たとたんに周りからわあっと視線を向けられる。針のむしろのようだ。


「ついに先輩すらつけなくなったか…高岡ちゃん」

「どこから聞いてたの!」

「何も聞いてないよ」

 優はキラキラした笑顔で言った。

「嘘よ、あんたこっちの電車じゃないじゃない!!!友里と同じ地区ってことは反対でしょ!?私のこと付け回して、なにか弱みを握ろうとしてんの!?」


 優は朱織の審美眼に関心した。

 もしかしてこの子こそ、優の全てをわかってくれる子かもしれない。

 わかってほしくて、人と関わるわけではないので、わかるからなんだという感じだが。いっそ友里のようになにもわからなくても、ふわふわした空気を持てればそれでいいなと思う。


「友里ちゃんと仲良くしたら?ってとこからかな」

 優はほとんど全部聞いていたというのに、一番肝心な所だけ口に出した。


「ほんっときもちわるい!王子とかじゃなくて、スパイじゃん、汚いほうの!」

「スパイにキレイも汚いもあるのかなあ?」

「しらない!!あんたが汚いって話!!」


 電車の中なので、最大限の大きな声しか出せないが、朱織は全身で”きらい!”をぶつけてくる。駒井優は少しもたのしくなってこなくて、うーんと唸った。

 今まで人になぜか意味もなく好かれてばかりだから、友里を怪我させた自分の罪悪感を殴って来る相手に、ちょっとは楽しいと思えるのかな、と頭の端でおもっていた。しかしこの嫌いは、朱織が友里を好きだから向けられている嫌いだと思えば思う程、心が冷えていく。友里がいつでも元気でいてくれるから、優の罪悪感を、責めてくれる人がこの世にはいない。自分しかいない。いっそのこと、殺してほしいくらいなのに。──友里のために、その気持ちに蓋をする。


「高岡さん、先週もいたんだ、わたし。この電車に」

「え」

「気付かなかったでしょ、今日だってそうすることできたけど、どうして話しかけたか、わかる?」

「知らないわよ…いやがらせでしょ?あんたと話すると私、女たちからすごい質問攻めに合うんだから…他の女とも当たり障りない話をしなさいよ!友里以外に話しかけないとか、その顔で、気持ち悪いのよ」

 優が耳打ちをするような形でそばに寄るので、虫のように「よらないで!!」と叫ばれた。

 優は誰とも愉快に話をしている。クラスの子にも、友里の友達にも、積極的に話しかけている。なぜかというと、キャーキャー言われてワーワー周りで女の子たちが自分について話をしているので、逆に話しかけられることが難しい。話しかけないとクラスの誰とも話ができないからだ。


「じゃあいまは、高岡さんが、わたしが話しかける2人目の女の子ってことになってるんだ?」

 内緒話のように優が、朱織に耳打ちすると、周りから(きゃ)と声が漏れるのが聞こえた。朱織はこの後の諸々を想像して、ぞッとして、優をグイっと向こう側に押しやった。すると電車が揺れ、優に助けてもらう形で抱き着いてしまった。


「ねえ、わたしと仲良くなろうよ」


 優は小声でそう言ってみる。高岡朱織は、全身の毛を逆立ててパクパクと優を指さしながら、赤い顔になって青い顔になった。

「だれが!あんたなんかと!!!!!」

 思わずカバンで、優の胸を叩いた。

「よし、まずは吹奏楽部に復帰だ!」

 叩かれても優は気にも止めなかった。

「いやよ!」

「いこういこう!」

「はなして!!!」

 ニコニコ顔の優に引きずられるようにして、朱織は学校まで運ばれた。いつかの逆だった。



 優が女子を拉致った、という噂は、学校に到着した友里の耳にすぐに届いた。

 友里は、「は?」と言ってスマホを眺めた。「高岡ちゃんと仲良くなった」という画像付きの優のメッセージを見て、もう一度「は?」と言った。


 写真の中で、朱織は嫌そうな顔をして、優が後ろから抱きしめるような形で自撮りをしている。


「こんな写真…!私も撮ったことないのに…!!!!」

 絶叫がこだました。

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